第17回 香水散歩 読書推進期間 ポール・ポワレ

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(重い本の包みを持って歩いたグラース国際香水博物館付近の通り)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。「香水散歩」開始以来の変化のときが訪れました。これまで、ヨーロッパや日本の町を旅しながら香りに関して思うところや最新情報をお届けしてまいりましたが、世界的な新型コロナウィルスの蔓延により、その「旅」ができない状況になりました。

けれども、表題に掲げた「散歩」までできなくなったわけではありません。物理的に体を使った散歩はできないまでも、精神における散歩はこれまで通り続けられるのではないでしょうか。そのような思いを強めてくれるのが、読書や、DVD及びネットから配信される映画や音楽の鑑賞です。それらによって、私たちはあらゆる時代のあらゆる場所へ思いを馳せることができます。それは、美術館の所蔵作品についての知識を深めてくれたり、また美術館の所蔵品となる以前にその作品がどのような人物たちとともにあったかを伝えてくれたりします。

しかもそれらは、またいつか自由に出歩けるようになったら、この作品を見に行こう、この香りを嗅ぎに行こうという未来への希望を抱かせてくれるのです。世界は広く、素晴らしい宝物や尊い存在に満ちている―—そのように私が思わずにはいられなくなった書籍や映画を、この機会にご紹介していきたいと思います。

Pauke Poiret

「ポール・ポワレ クチュリエ・パフューマー」展図録 グラース国際香水博物館、2013年

今回ご紹介するのは、第6回と第7回「香水散歩」でもお馴染みの南フランスのグラース国際香水博物館で開催された、2013年の夏の展覧会の図録です。本書は、この博物館を訪問した際、ミュージアムショップで購入した大量の本のうちの一冊です。その日私は購入した本を1回では持ち帰れずに、ふうふう言いながらホテルと博物館を2往復することとなりました。なぜそんなにも大量に買ってしまったかというと、まもなくミュージアムショップの書籍コーナーを模様替えするとのことで、書籍の在庫セールをしていたのです!

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いずれの書籍も、他の都市やインターネットではなかなか見つけられない貴重なものばかり。これも何かのご縁と自分に言い聞かせて、気になるものはすべて買ってしまいました。大量のまとめ買いの常として、じっくりとそのすべてに目を通すことはなかなか叶いませんでしたが、外出が制限されたこの特別な大型連休期間のおかげで、ようやくそれができました。

本書は、20世紀前半に活躍したフランスのファッション・デザイナー、ポール・ポワレの香水分野における仕事を網羅的に紹介しています。世界の香水の一大産地、否、香水産業の首都たる威信をかけて、グラースの地で開かれる展覧会の図録に相応しく、ポワレの香水を様々な角度から取り上げた論文が豊富な資料と共に多数収録されています。驚いたことに論文執筆者の中には、「香水散歩」でも何度も取り上げている今日を代表する調香師ジャン=クロード・エレナも含まれています。そのため、今まで不明瞭であったところや、あまり語られることのなかった部分も明らかにしてくれる、大変充実した構成の一冊です。また、ポワレの革新性を伝えるために、ポワレ登場以前の香水産業の歴史が詳述されている点も、私としては嬉しいところです。

さて、ときに「革命児」とも呼ばれるポワレの革新性とはどのようなものであったのでしょうか。せっかくですから、海の見える杜美術館の所蔵作品とともにそれをお伝えしたいと思います。なにしろ、当館にはポワレが手掛けた香水分野の作品がいくつも所蔵されているのですから!

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ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)《ロジーヌ社》1911年、リトグラフ、海の見える杜美術館所蔵

ポワレの革命児ぶりを余すことなく伝えるのは、まずはこちらの作品でしょう。画面下部のフランス語は「ロジーヌ社」と書かれています。本作品は、イラストレーターのジョルジュ・ルパップの筆による、1911年にポワレが立ち上げた香水製造会社、ロジーヌ社のリトグラフです。シャネルしかり、ディオールしかり、服飾メゾンが香水を発表するという、現在ではごく当たり前のことも、当時にあってはまだ珍しいことでした。そのような中、ポワレは自分のドレスの仕上げには香水が欠かせないと、香水分野に積極的に乗り出して大成功をおさめたのです。

彼を成功に導いた要因の一つは、イメージ戦略ともいえる様々な試みです。ポワレは、贅を尽くした美しいドレスを提供するだけではなく、そのイメージを人々の心に深く刻ませようと努めました。そこで彼はとりわけ広報部門を重視します。そのために、様々な分野のアーティストたちを協力者として採用したのです。とりわけイラストレーターは重要な役割を担いました。ポワレのドレスを纏う女性たちのファッション・イラストを一冊の冊子にまとめて顧客たちに配ったのです。カタログの配布も、今日では名だたるメゾンで頻繁に行われていることですが、ポワレはその元祖であったと言われています。

このイラストを描いたルパップも、ポワレのイメージ戦略の重要な協力者の一人でした。ルパップは、ポワレのドレスを纏って、こんな夜会に出てみたい、こんな風にテニスをしてみたい等、具体性を持った夢を抱かせるイラストを次々と描きました。それらに加えて、自らの感情に忠実な女性の姿態――例えば、「倦怠」を主題に、物憂げにのびをする女性等――を描くことで、見る人の精神の奥深くにまで巧みに訴えました。彼のドレスを纏えば、自らの欲望や感情をより露わにできる新時代の自由な女性になれるのではないかと夢見させたのです。

さて次は、描かれた女性の装いを見てみましょう。ポワレは第10回「香水散歩」で登場したマリアーノ・フォルチュニとほぼ同時期に、女性のドレスのシルエットを激変させた一人です。それまでコルセットで締め付けられていた女性のウエストは、胸の下からゆったりとしたドレープが広がる彼のドレスによって解放されました。それには、フランス革命直後からナポレオン1世誕生までの間に流行した、ディレクトワール・スタイル〔新古典主義様式、1795-1803〕に着想を得たと言われています。なるほど本作品でも、ハイウエストですね。

さらに詳しく装いを見てみましょう。羽根飾りのついたターバンやハーレム・パンツ等の東洋の影響が色濃く出ていますが、これもまたポワレの仕事を特徴づけるものでした。これにはあるイメージソースがありました。それは、このリトグラフが世に出る1年前、パリではセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス〔ロシアバレエ団〕による演目「シェエラザード」が上演され、パリの人々を熱狂させていました。ほどなくして「シェエラザード」という名のナイトクラブが開店するほどの人気ぶりであったといわれています。

『千夜一夜物語』に想を得たこのバレエの舞台は、東洋の国ペルシアの王宮にあるハーレムでした。ポワレは、すかさずそのイメージを活かしたドレスを制作します。本作品の女性も、ハーレムに住まうオダリスク(女奴隷)とみなされています。描かれた場所が東洋であることは、部屋の設えからもわかります。彼女は西洋の生活では基本となる椅子には座らずに、色とりどりのたくさんのクッションに囲まれているのですから。

しかしここで一つの疑問が浮かびます。王の寵愛をもってしか生きられない女奴隷のオダリスクを、パリ上流階級の女性たちが憧れの対象としてみなしていたのでしょうか? どうやらそのようなわけではないようです。バレエ・リュスの演目「シェエラザード」に登場するオダリスクや王の妻は、19世紀にドラクロワやアングルが描いたハーレムの女性たちとは異なる性質を持っていました。20世紀の彼女たちは、男性の絶対支配に従うだけの女性ではもはやありませんでした。その姿が、当時のパリの上流階級の女性たちの目には、斬新で進歩的で魅力的なものに映ったようです。

ポワレが東洋のイメージを活用したのは、ドレスや広報物に留まりませんでした。彼は、この東洋的なドレスを人々に着せて、大祝宴を開きました。その祝宴の名は「千二夜物語」(洒落ていますね!)。 その際、彼は庭に、香水を振りまいて、魅惑的な匂いがたちこめる場を作り出しました。使用された香水は、「ニュイ・ペルザン」、フランス語で「ペルシアの夜」と名付けられた香りです。加えて帰り際には、招待客にこの香水瓶をお土産として渡しました。香水瓶の蓋をそっと開ければ、いつでも香りとともに、パーティの楽しかった時間が蘇ってくるのです。これほど深い印象を、しかも長く抱かせることはないでしょう。

このたった一枚のリトグラフは、彼のドレスも、彼を取り巻く芸術の協力者たちの顔ぶれも、独創的なパーティの演出や香水も、また当時のパリの流行をも物語ってくれるものなのですね。

最後にここでちょっとマメ知識です。ポワレの香水の会社名はなぜ他の服飾メゾンのようにブランド名ではないのでしょうか? 彼の香水会社名の「ロジーヌ」は、フランスの女性の名前ですが、これはポワレの長女の名前が冠せられています。拙宅の近所にもお嬢様の名がつけられたカフェやギャラリーがあり、その名がオーナーたちの子煩悩ぶりを伝えていて微笑ましくなりますが、ポワレもどうやらそのタイプだったようですね!

ロジーヌ社の香水瓶の制作を担っていたマルティーヌ工房やコラン工房のことは、いつかまたこちらでご紹介したいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

◇ 今月の香水瓶 ◇

バレエ「シェエラザード」の上演と同年にポワレが発表した香水「アラジン」が入れられた香水瓶です。本作品はマリオ・シモンとポワレによって1919年にデザインされました。この香水瓶からも、東洋への傾倒ぶりが見てとれますね。

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ポール・ポワレ(ロジーヌ社)香水瓶《アラジン》

デザイン:マリオ・シモンおよびポール・ポワレ、1919年、金属に銀メッキ、茶色パチネ、ベークライト、海の見える杜美術館所蔵

桜の花 ショウゲツ(松月)とウコン(鬱金)が満開です

杜の遊歩道のサクラの花は今、ショウゲツとウコンが満開です。

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ショウゲツ(松月)

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左がウコン(鬱金)、右がショウゲツ(松月)

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ウコンは数百品種あるサクラのうちでただひとつ、
黄色の花を咲かせるサクラといわれているそうです。

このほかカンザン(関山)やフゲンゾウ(普賢象)など八重咲のサクラが咲いています。

来年の春には、ぜひ直接ご覧いただきたいです。

もりひこ

作品紹介 《厳島八景画巻》より「大元桜花」

お花見のシーズンは過ぎましたが、前回の小野小町の衣の文様に続き、しつこく桜の話をさせてください。今回は、昨年開催した「厳島に遊ぶ—描かれた魅惑の聖地」展(11月23日〜12月29日)で展示した《厳島八景画巻》から、宮島の大元神社に咲く桜を描いた「大元桜花」の場面をご紹介します。

 

厳島の景観の見所ベスト8を選んだ「厳島八景」をご存知でしょうか。正徳4年(1717)、厳島の光明院の僧、恕信の依頼によって、京都の公家、冷泉為綱が八景を選定します。中国の景勝地、瀟湘八景に倣って選ばれた厳島の名勝は、「厳島明燈」「大元桜花」「瀧宮水蛍」「鑑池秋月」「谷原麋鹿」「御笠濱鋪雪」「有浦客船」「弥山神鴉」の8つ。それぞれに和歌、漢詩などの詩歌と挿絵を添えて、元文4年(1739)に版本『厳島八景』(全3冊)が刊行されています。

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

さて、この「厳島八景」の成立に関わった公家のひとりに、風早公長がいます。公長は冷泉為綱に八景の題の選定を依頼し、また、版本『厳島八景』(上冊)に、「有浦客船」の和歌、「八景和歌跋」、「八景詩跋」を寄せています。

ここでご紹介する《厳島八景画巻》は、この風早家ゆかりの作例です。版本上冊にある八景の和歌と挿絵、「八景和歌跋」から成り、その後に風早公長の孫、公雄の明和5年(1768)の署名、また、それに続いて明和7年に画工に写させた旨の奥書があります。おそらく公雄による明和5年の原本を、誰かが明和7年に写させたのだと思うのですが、残念ながらそれが誰なのかは分かりません。詳細は不明ながら、江戸時代の宮島と京都の公家文化の交流の一端を示す興味深い資料です。

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

さて、前置きが長くなりましたが、あとはのんびり「大元桜花」の場面で一足遅いお花見を...。

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

穏やかな海浜に面して鳥居があり、少し奥まって社が描かれます。春霞のかかる山容を背景に、木々と桜の花に囲まれてたたずむ大元神社の静謐な趣は、嚴島神社の壮麗な社殿とはまた違った感動を誘います。現在も大元神社を訪れると、このひっそりとした聖域の空気が、当時と変わらず漂っているように感じられます。

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景図巻》はページ数の都合で展覧会ブックレットに掲載できなかったこともあり、何かの機会にご紹介したいと思っていました。「厳島に遊ぶ」展は寒さが深まる中で展示の準備をしていたので、春はことさら待ち遠しく、桜の季節がきたら「大元桜花」をぜひ訪れてみたいと思っていたのです。しかし、残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で叶いませんでした。そんな今年の桜への未練も含めて、この機に一部をご覧頂きました。

来年は穏やかな春が訪れるよう願うばかりです。

 

谷川ゆき

 

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝

サクラ(桜) と ミモザ(アカシア) と ミツバツツジ(三葉躑躅)

2020年4月8日(金)の杜の遊歩道です

20200408撮影 サクラ (2)
ソメイヨシノが散り始め、シダレザクラがもうすぐ満開です

20200408撮影 サクラ (1)
いつもシャトルが通る道にはサクラの花びらが舞っていました


ツバキの小道には途切れることなく桜の花びらが降り注いでいました

20200408撮影 ミモザとサクラ
ミモザの花がサクラと競うように広がっていました

20200408撮影ミツバツツジ
ミツバツツジの花がそこかしこに咲いています

来年の春、ぜひお越しください

お待ちしています

もりひこ

第16回 香水散歩 フランス・リヨン
コンフリュアンス美物館 後編

アール・デコ様式のリヨン、クロワ=ルース劇場(アール・デコ様式のクロワ=ルース劇場、リヨン)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。前回の香水散歩で、リヨンのコンフリュアンス美術館前編を取り上げたのは3月初旬のこと。この約1か月のうちに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延によって、世界各地の、とりわけフランスの状況は著しく様変わりいたしました。外出禁止を求める大統領令が発せられ、通りに響くにぎやかな街の声をもはや聞くことはできません。私の大切な友人の家族もこのウィルスに感染しています。そのような状況から、前編とともに用意していた後編をそのまま発信する前に、ひと言添えさせて頂きたく存じます。

後編を改めて読み返してみると、わずか数か月前にリヨンで経験したことのすべてが、手の届かない遠い過去の物語のように感じ、いいようのない喪失感に襲われます。しかしながら、その一方で、希望さえ捨てずに正しくなすべきことをしていれば、いつかきっと、そう遠くない未来に、あのリヨンの活気ある姿が戻ってくると信じています。教育担当者が見守る中、好奇心溢れる子供たちでにぎわう美術館展示室、肩を寄せ合って座るような超満員の劇場、「ビズ」と呼ばれる互いの頬を寄せ合う挨拶、抱擁や握手、心から余裕のある微笑み、そのような人と人の触れ合いが、そこかしこに見受けられるリヨンの日常が戻るその日を夢見ながら、後編を発信させて頂きます。

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さて、コンフリュアンス美術館には4つの常設展示室がありますが、そのいずれにおいても、この世界の多様性に目を見張らずにはいられない、充実した展示となっています。なかでも最後の展示室、「永遠」展示室は、この美術館の姿勢が端的に表れているように感じました。

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「あの世のヴィジョン」なる副題のついた「永遠」展示室は、死んだらどうなるのかな?という、誰しも一度は抱くであろう素朴な疑問がテーマのひとつとなっています。

ここでは、アメリカ先住民の楯やペルーの女性ミイラ、アフリカのガボンの仮面や、穏やかな顔をしたクメールの17世紀の涅槃像等を通じて、様々な文化圏における死のとらえ方が紹介されています。古代エジプトのコーナーでは、棺に入ったトバスティスのミイラや、死者の臓器を入れるのに使われたカノポス容器やお化粧セットをはじめ、極めて珍しいエジプト先史時代ナガダ期のミイラも展示されていました。当時のミイラづくりには、香料の使用が考えられているので、「香りとあらば世界中のどこへでも!」の私としては食い入るようにして見てしまいました。

こうして展示を辿るに従い、それまで漠然と抱いていた「死」の忌むべきイメージが徐々に払しょくされていくから不思議です。

さらにこの展示室が印象深いのは、過去の遺物の展示だけでは終わらないところです。展示室の片隅に設置された視聴覚コーナーでは、現代社会における死について、今日の医師や弁護士、哲学者の見地を知ることができます。この展示からは、過去の事物を見つめるのは、単に過ぎ去った時代についての物知り博士やある専門分野のマニアを量産させるためではなく(それもとても大事ですが!)、あくまでも現代の様々な問題の解決の糸口を見つけるためであるという美術館の姿勢が伝わってまいります。つまり、見つめているのは、過去ではなく現在、あるいはその先の未来なのです。そう考えると、コープ・ヒンメルブラウの設計による、あの極めて未来的な造形の美術館建築にも、妙に合点がいくのです。

IMG_4589(近未来を彷彿させる「脱構築」空間。美術館上階の空中回廊。コープ・ヒンメルブラウ設計)

おそらくこの姿勢は、コンフリュアンス美術館の所蔵品の一部を蒐集した、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した実業家、エミール・ギメ(Emile Guimet 1836-1918)の考え方を継承したものと思われます。ギメは、第13回「香水散歩」でIMG_4474(頂相〔禅僧の肖像のこと〕や甲冑等が並ぶ日本展示コーナー)

さて、話をギメに戻しますと、リヨンとパリの2つのギメ美術館は、ある共通したギメの願いが込められたものでした。それは、非西洋の文物、とりわけ宗教に関する文物を一堂に集め、系統立てて陳列し、世界各地に存在する、叡知のつまった様々な考え方を多くの人に知らしめて、西洋で生じている社会問題の解決の手立てにしたいというものでした。つまり、彼が宗教に注目したのは、信仰のためではなく、世界各地の宗教が有する哲学にこそ関心があったからなのです。

古今東西の文化を、コンフリュアンス(合流、あるいは結集)させて、よりよい未来を作り出そうとするコンフリュアンス美術館の理念は、約150年も前からこの地に根付いていたのですね。

ところで、ギメはリヨンでもう一つの重要な試みをしています。それは、美術館に併設した東洋語学校の設立です。彼は、文物の紹介だけではなく、語学学習や人とのつながりを通じて、異文化間の相互理解が進むことを願いました。ときは1870年代後半、既にフランスには日本語の語学学校がありましたし、日本でもフランス語が学ばれていました。しかしながらそれは、いくつかの例外はあるにしても――特にフランス人の学ぶ日本語講座に関しては――、実地で使用されている言語との差が大いにあるものでした。彼はそのことを1876年の来日時、フランス人通訳者と日本人通訳者をともない、日本横断の旅路を辿るなかで知ることとなります。そこで彼は帰国後に、日本人通訳の青年たちを留学生兼語学教師としてリヨンに招き、日仏交流の懸け橋としたのです。

後の時代に多大なる影響を与えることとなったギメの数々の試みをつぶさに見ていくと、彼にとって、たった一度の日本旅行がどれほど大きなものであったのかと思い至ります。彼が日本にやってきた1876年(明治9年)当時は、急進的な廃仏毀釈はおさまっていたものの、江戸時代までの従来の価値観に基づく生活と、開国や大政奉還を経て誕生した明治政府のもと、近代化の相貌がそこかしこで混在する時代でした。例えばギメは、来日前に親しんでいた「江戸」という町の名すら跡形もなく消えて、「東京」という名にすり替わっていたことがすぐに理解できずに、当惑しています。

彼は帰国後、この激動の最中にある日本で目にしたものや耳にしたこと、それについて思うところを克明に記し、日本旅行記として出版しました。この著作は、今日に至るまで幾たびも復刊や翻訳がなされ、世界の多くの人々に親しまれています。

ギメ表紙書斎 書見台2(ともにエミール・ギメ『明治日本散策 東京・日光』初版。Emile Guimet, Promenades japonaises Tokio-Nikko, Editions G・Charpantier,1880.Coll.Yoshiko Okamura、 岡村嘉子蔵)

ところで、この著作が時代を超えて読み継がれているその理由のひとつは、なんといっても、ギメの深い見識と寛容な人柄を通じて活写される、明治初期の日本の市井の生活が、唯一無二のものであるからでしょう。とりわけ、所々に小気味よい語り口調を交えながら、ユーモアたっぷりに自分の失敗談や町の人々の様子、風俗を伝える記述には、父なる経営者として労働者や農民たちとも親しく交わったと伝えられる彼の気さくな人柄がよく表れています。身分や人種、文化を分け隔てせずに、温かいまなざしを等しく向けた彼の姿勢には、植民地政策が進められていた彼の生きた時代にあって、一服の清涼剤のようにも感じるのです。IMG_4601 copie(美術館内ブックストアにも、復刻版〔Editions A Proposア・プロポ社、2018年〕がしっかり揃っていました。が、しかし! 『吸血鬼』のお隣とは……!いやはや。)

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さて、リヨンの中洲の最南端にあるコンフリュアンス美術館を後にし、その夜私は、中州を北上して、町全体を見下ろす高い丘の上にあるクロワ=ルース劇場へと急ぎました。それは、長年の友人である演出家ロラン・フレシュレLaurent Fréchuretの新作、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』を原作とした「マルシアン・マルシエンヌ〔火星の男・火星の女の意味〕」の舞台を観るためです。タイトルからもお分かり頂ける通り、テーマは宇宙、しかも近未来です。リヨンでは、とうとう未来旅行までしてしまったのです!

80279698_2470086879933685_6053949333642936320_n(© Cyrille Cauvet. MARTIEN MARTIENNE d’après Ray Bradbury, mise en scène par Laurent Fréchuret, avec Claudine Charreyre,Mychel Lecoq. ロラン・フレシュレ演出『火星の男、火星の女』クロワ=ルース劇場、リヨン)

古代エジプト時代から近未来までも、日本や宇宙の文化も、旧情も新たな出会いも、そのすべてが小さな町の中にぎゅっと詰まっているリヨンがさらに愛おしく特別な町となりました。

岡村嘉子(クリザンテーム)

Remerciements 本記事執筆にあたり、画像等を提供頂きました演出家ロラン・フレシュレに心より御礼申し上げます。Je tiens à exprimer mes remerciements à Laurent Fréchuret, Metteur en scène qui est permis de réaliser cet article.

◇ 今月の香水瓶 ◇

フランス語で火星人の別名は「緑色の小さな人 le petit homme vert」。ロラン・フレシュレの舞台を観た後にそれを思うと、ルネ・ラリックが電線を保護する絶縁体から着想を得てデザインしたこの小さな香水瓶ですら、はるか遠い火星を想起させるから不思議です!FWC006ウォルト社、香水瓶《さよならは言わずに》デザイン:ルネ・ラリック、1929年3月29日、緑色ガラス、海の見える杜美術館蔵。WORTH,SANS ADIEU FLACON Design by René LALIQUE – 1929 March 29 ,Green glass, Umi-Mori Art Museum

 

モミジイチゴの花

久しぶりに、初めて紹介する花を発見しました

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モミジイチゴ(紅葉苺)の花です

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場内シャトルの沿道のはるか高いところに咲いていました

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すぐ横の川の中にも咲いていました

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モミジイチゴの花は下向きに咲きます

 

もりひこ