日本では、ナンテンが「難転」(難を転じて福となす)に通じることから、身の安全を願って武具に添えたり、火事除けとして庭に植えたりと、古くから幸せを願ういろいろな場面で大切にされてきました。今でもお正月によく見かけるとおり、吉祥を願う飾りとして欠かせない植物となっています。
杜の遊歩道には沢山のナンテンが生えています。
奥の方に白い実のナンテンが見えます。
もりひこ
美術館は長期休館に入りましたが、杜の遊歩道はひき続きお楽しみいただくことが出来ます。
それではお正月に向けて、縁起の良い木を紹介します。
「十両」のヤブコウジは、『万葉集』や『源氏物語』などに「山橘(ヤマタチバナ)」の名前で登場する、古くから親しまれてきた植物です。また「千両」は、「仙蓼菓(センリョウカ)」「仙糧(センリョウ)」「仙霊草(センリョウソウ)」などと呼ばれて大切にされていました。
これらの名称の由来について、江戸時代、カラタチバナ(「百両」)が、「百両金」と呼ばれるほどの異常な高値をつけたことから派生して、その他の常緑で冬に赤い実をつける植物も、その名称や大小、果実の量などによってお金にちなんだ名称が割り振られたとの説もありますが、はっきりとしたことはわかっていません。
なお、センリョウだけがセンリョウ科の植物で、他はヤブコウジ科(最近の分類ではサクラソウ科)の植物です。
梅林の先の小路に生えています。
もりひこ
特別展「生誕150年記念 竹内栖鳳」展は、12月14日(日)をもちまして無事閉幕いたしました。県内外を問わず、たいへん多くの方々にご来場いただき、まことにありがとうございます。
ひと月半ばかりの決して長くはない会期ではございましたが、栖鳳の誕生日会や高階秀爾先生による記念講演会といったイベント、そして《スエズ景色》の旧蔵者に関する新知見が出てくるなど、さまざまな出来事がございました。
この展覧会を通じて、ひとりでも多くの方々に、栖鳳の魅力をお伝えすることができましたなら、大変うれしく思います。
本展はこの後、姫路市立美術館(会期:2015年2月7日〜3月29日)、碧南市藤井達吉現代美術館(会期:4月14日〜6月7日)、小杉放菴記念日光美術館(7月18日〜8月30日)に巡回いたします。展覧会をお見逃しになった方や、再びご覧になりたい方は、ぜひ足をお運びください。
なお、私ども 海の見える杜美術館 は、12月15日(月)より、耐震補強工事のため、休館いたしております。みなさまの前に再びお目見えするのはしばらく先になりますが、よりよい美術館となるべく励んでまいりますので、変わらぬご愛顧のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
「杜の遊歩道」は、休館中も変わらず四季折々の花々と彫刻作品をお楽しみいただけます。引き続き、遊歩道の豊かな自然をお楽しみください。
田中伝
杜の遊歩道も秋から冬の装いになりました。
ツバキの小路の近くには、赤い花びらで敷き詰められた小路があります。
12月14日まで、“幻の油絵”公開で話題の「生誕150年記念 竹内栖鳳」を開催しています。ぜひお越しください。
もりひこ
11月19日のブログで告知しておりましたとおり、ロビーコンサートを11月22日に開催いたしました!
よいお天気に恵まれ、多くのお客様にご参加いただきました。
今回演奏してくださったのは、デュオ旭爪姉妹のお二人です。
お姉さんの裕美子さんのピアノと、妹の千恵さんのヴァイオリンによる、息のあったアンサンブルで、現在開催中の竹内栖鳳展にぴったりなプログラムを演奏くださいました。
プログラムの中には、栖鳳と交流のあったヴァイオリニストであり作曲家の、フリッツ・クライスラー作曲「愛の悲しみ」「愛の喜び」もありました(2014年6月24日の投稿「クライスラーと栖鳳」をご参照ください)。
演奏の合間に、クライスラーと栖鳳の交流のエピソードや、栖鳳作品を見てセレクトした曲のお話もしてくださったので、ご参加くださったお客様には、美しい音色だけでなく、栖鳳の芸術世界をより深く楽しんでいただけるコンサートだったのではないでしょうか。
さらに、その日が竹内栖鳳の150回目の誕生日ということもあり、栖鳳の作品や資料の収集を続けてきた当館ならではの、栖鳳への愛をこめた誕生日イベントも。
デュオ旭爪姉妹のお二人による、格調高いハッピーバースデートゥーユーの後に…
栖鳳と同じ11月生まれのお客様に割っていただきました。
会場の皆様も温かい笑顔と拍手で栖鳳のお誕生日をお祝いくださり、和やかな雰囲気に。
皆様、本当にありがとうございました!
また、誕生日のお祝いの品として、ご参加いただいた方に、当館所蔵の栖鳳作品《小春》をモチーフにした金太郎飴をお持ち帰りいただきました。
この、なんとも味のある表情をご覧ください。栖鳳展のアイドル的存在《小春》が…なんだか面白くなりました。ちなみに、どこを切っても同じ図柄が出てくるという、組み飴の技術で作られています。
帰り際に、素敵なロビーコンサートだった、楽しかったとお声がけくださるお客様もおられました。スタッフとしても、とても楽しいイベントでした!栖鳳の誕生日を多くの方とお祝いできて、本当によかったです。
栖鳳展もちょうど半ば。25日からは、一部の作品を展示替えします。引き続き、多くの方に竹内栖鳳の作品をお楽しみいただきたいと思います。皆様のご来館をお待ちしております!
森下麻衣子
「生誕150年記念 竹内栖鳳」展は、おかげさまで開幕以来多くのお客様にお越しいただいております。
本日は、本展をさらにお楽しみいただけるイベントのご案内です。
2014年11月22日は、竹内栖鳳の150回目のお誕生日。
これを記念し、海の見える杜美術館ではロビーコンサートを開催いたします。
今回演奏してくださるのは、現在、世界文化遺産宮島観光大使としてご活躍中のデュオ 旭爪姉妹。
ピアノとバイオリンのアンサンブルで、素敵な曲の数々を披露してくださいます。
また、この記念すべき栖鳳の150回目のお誕生日をお祝いするため、コンサートにご参加くださった皆様へ、お祝いの品として小さなプレゼントもご用意しております。創設以来、栖鳳の作品や資料の収集に努めてきた当館ならではの、栖鳳への愛の詰まったユニークなイベントになる予定です。
11月22日のロビーコンサートにどうぞ足をお運びください。
皆様のご来館をお待ちしております!
森下麻衣子
竹内栖鳳が若かりし頃描いた12面の襖絵を展示するにあたり、当初の姿に近い展示をして、栖鳳の絵に囲まれ、そして、大勢の方にお越しいただく美術館としては異例かもしれませんが、襖を開けるという所作をもお客様にお楽しみいただきたいという思いから、この度の竹内栖鳳展で広間の再現を試みることになりました。
三方を囲む空間表現、そして、襖を開けても破たんしない、襖の重なりまで計算された構図の妙、何よりそのたたずまいをお楽しみいただけると幸いです。
この展示は、第二展示室(鳥の作品を集めた部屋)の先にあります。
12月14日まで、“幻の油絵”公開で話題の「生誕150年記念 竹内栖鳳」を開催しています。ぜひお越しください。
うみひこ
竹内栖鳳が描いた唯一の油絵《スエズ景色》については、11月5日のブログ記事で詳しくお伝えしました。この作品について、最近新知見が報告されました。
《スエズ景色》は、1901(明治34)年に開催された関西美術会第1回展に出品された後、このたびの展覧会まで、一般公開の記録が確認されていません。最初の展覧会に出品されてから、今回の展覧会に至るまでの113年の間、この絵はいったいどこにあったのでしょうか?
前の記事にも書いた通り、この絵のかつての所蔵者として挙がっているのは、柴田源七という人物です。柴田は、滋賀長浜の実業家で、芸術家のパトロンとしても名を馳せた人物です。彼が特に熱心に支援したのが栖鳳でした。
《スエズ景色》が柴田に所有されていたことの根拠は、1940(昭和15)年に柴田が記した「珍什の二作品」(『塔影』16巻11号)という文章によります。この文中で柴田は、自身が所有する栖鳳の作品の中でも特に珍しいものとして、この《スエズ景色》を挙げています。これにより、遅くとも1940年までには、柴田が本作を入手していたことが分かります。
また、本作に付属する箱蓋に書かれた由緒書きは、柴田によるものです。この由緒書きの年記は、本作が発表された翌年の1902年。おそらくこの時点でも、柴田が所有していた可能性が高いと考えられます。
《スエズ景色》の箱蓋(海の見える杜美術館蔵)。「壬寅(1902年)秋日」の年記が見えます。
こうした事実より、展覧会出品直後から1940年に至るまでのおよそ40年間、この作品はずっと柴田の手許にあったものと考えられてきました。しかし、こうした推測の再考を迫る新たな情報が、このたび提示されました。京都にある龍谷ミュージアムで開催中の「二楽荘と大谷探検隊」展に出品されている写真絵はがきに、《スエズ景色》ととてもよく似た絵が写っているのです。
この絵はがきは、大谷光瑞が建てた別荘・二楽荘の一室「印度室」を写したものです。
二楽荘「印度室」の写真絵はがき(1912〜13年 龍谷ミュージアム蔵)
この部屋の左側をよく見てください。壁にかかっている絵は、《スエズ景色》と似ています。
二楽荘「印度室」の壁に掛かっている絵。《スエズ景色》と似ています。
この二楽荘を建てた大谷光瑞は、浄土真宗本願寺派第22代門主(教団の長)です。彼はヨーロッパ留学の経験もあり、教団の近代化に取り組んだ、開明的な人物として知られます。また「大谷探検隊」の名で知られる、中央アジアの調査隊を組織し、仏跡の発掘調査をするなど、様々な文化活動を行いました。
光瑞は1908年、六甲山麓に、彼が懇意にする建築家・伊東忠太が設計した壮麗な別荘を建設します。これが二楽荘です。この別荘は、光瑞が抱える多額の負債や教団内のトラブルがもとで大谷が失脚したため、落成からわずか6年後の1914年に閉鎖しています。今回話題になっている二楽荘を撮影した絵はがきは、1912〜13年に撮影されたことがわかっています。
洋の東西を問わず、宗教権力は芸術の有力なパトロンです。京都の大きな寺社は、近代に至るまで芸術家の庇護者として、絶大な影響力を有していました。栖鳳は、東本願寺との間に特に強い結びつきを持っていたことが知られています。1885(明治18)年、若き日の栖鳳は、師の幸野楳嶺とともに、東本願寺法主の大谷光勝に従い、信州から北越にかけての巡歴に同行しています。
《北越探勝帖》(1886年 海の見える杜美術館)。栖鳳が大谷光勝に同行して北越を巡歴した際、各地の名勝を描いた画帖。
また後に栖鳳は、時の東本願寺法主大谷光演より、親鸞上人の650年遠忌にあたる1911年(明治44)に向けて整備が進められていた大師門堂の天井画制作の依頼もされています。この他、栖鳳が描いた数少ない人物画の代表作のひとつである《日稼》(1917年 個人蔵)は、東本願寺の庫裏(寺の台所)の様子を描いたものとされ、モデルとなった女性は信徒総代の娘であることが判明しています。
このように、栖鳳と東本願寺はつながりがあったことが指摘されていますが、仮に《スエズ景色》が光瑞の別荘にあったとするならば、栖鳳は光瑞が率いる西本願寺ともなんらかの関係のあった可能性が浮上してきます。
栖鳳と光瑞に個人的な関係があったのかどうかは、残された資料からは判然としません。しかし、栖鳳がパリ万博視察のため渡欧した時期、光瑞もヨーロッパに留学していたことからすれば、もしかしたら、現地で栖鳳と光瑞が対面するなどして、面識があったということも考えられます。
さて、果たしてこの写真に写っている絵は、栖鳳の描いた《スエズ景色》なのでしょうか? 本作を光瑞が所有していたと仮定すると、遅くとも1912〜13年までには柴田から光瑞へと所有が移り、更に遅くとも1940年までには、再び柴田の蔵に帰したということになります。しかし、この間の歴史の空白はあまりにも大きく、現時点では断定的な発言をすることはできません。ただし、《スエズ景色》の伝来に関して、今まで考えもしなかった角度からの光が当てられたことは間違いないでしょう。
《スエズ景色》は、当館にて12月14日まで展示されております。ご興味ある方はこちらと併せて、龍谷ミュージアムで11月30日まで開催されている「二楽荘と大谷探検隊」展も、ご覧になってください。
龍谷ミュージアム公式サイト:
http://museum.ryukoku.ac.jp
田中伝
ガマズミの実が熟しました。
どこまでも深紅の実が、
秋の山に鮮やかな点景となっています。
12月14日まで、“幻の油絵”公開で話題の「生誕150年記念 竹内栖鳳」を開催しています。ぜひお越しください。
もりひこ