ナラ(楢)、クヌギ(橡)、カエデ(楓)、タイワンフウ(台湾楓)、トウカエデ(唐楓)、イチョウ(銀杏)、いろいろなサクラ(桜)、カキノキ(柿木)、メグスリノキ(目薬木)etc. 紅葉する木々。
杜の遊歩道の色彩が、毎日まいにち変化しています。
もりひこ
ナラ(楢)、クヌギ(橡)、カエデ(楓)、タイワンフウ(台湾楓)、トウカエデ(唐楓)、イチョウ(銀杏)、いろいろなサクラ(桜)、カキノキ(柿木)、メグスリノキ(目薬木)etc. 紅葉する木々。
杜の遊歩道の色彩が、毎日まいにち変化しています。
もりひこ
遊歩道のイチョウ(銀杏)の紅葉が始まりました
目に鮮やかな黄色です
美術館に至る道もイチョウの紅葉
駐車場にもイチョウの紅葉
もりひこ
2016年10月17日のブログに記した、「道路開通記念碑」についてです。
ウィキペディアの「広島県道30号廿日市佐伯線」に登場していました。
「中世以来、津和野街道として発展。宮内村で西国街道から分岐して汐見坂峠(現在の明石峠)を越えて津田、友田、六日市を経て石州津和野の城下に至る。江戸時代には津和野藩主の参勤交代ルートであり、脇街道として整備された。
1891年(明治24年)- 津和野街道が県道として改修される。このときの記念碑が廿日市市宮内の御手洗川べりに残っている」
ここに記されている記念碑が、この「道路開通記念碑」です。せっかくなので、記念碑に彫られた文字をおこすことにしました。年月を経て読みづらい字は前後の文面から判断して読んだ個所もあります。気になるところは写真と見比べてください。写真をクリックすると拡大画面になります。
表
安藝國佐伯郡宮内村廣裹六里戸数五百人口貳阡四百其土
鹵砂肥饒其俗知方好義盖距廣島縣治西方凡四里達于石州
津和埜之要衝而與防州山代本郷路相通地方物産之出輸咸
由此通路以是人馬往來毎加頻数而路極険隘行路太苦明治
十五年村人相議略加修築稍得通車馬費用不支而中止以其
功不全屢毀傷人畜有志者謂運輸不便則産業不興殖産之本
在道路開通一人倡之衆僉和之廿一年九月請于宮以脩道之
事官使技師測地理自砂原至三和村畍中間経折出領及佛坂
而迂回于明石鑿塩見坂之險迂除曲折斫險爲痍填濕闢窄以
便於車馬運輸以廿三年十二月起工翌年七月告功竣其総費
金九千七百七拾八圓餘其三分二乃縣税支出之其他於村内
及郡中各町村醵出之其開鑿里数二里十四町廿四間此諸舊(彫は萑に旧)
道延長凡二十六町其新要地者七町二畝二歩毀家屋者八戸
於是乎畏途相夷無後危險災害之患行旅運搬共蒙幸福者其
幾許乎可謂事業一時而功名千古矣頃者村人相共謂立石録
姓名以不托之屬余作文以記之余嘉昭代之美擧叙其繄繫其
銘曰 變難成易 因民之義 公道如砥 就地之利
・・・・・・乃幸乃慶 險夷異地 厥力厥德 豈可不記
・・明治二十七年九月之吉日
・・・・平安 東海道人棉引泰撰文 小田甚作書之
裏
功勞者
イロハ順
西村七右衛門 堀内綱次郎 横山直助 吉岡峯次郎 高橋嘉六 高見峯吉 田中文作 田村榮之介 武田敏惠 大田和一郎 小田貫一 小田孫七 小倉大兵衛 福永喜三郎 藤岡利兵衛 河野直太朗 惠木保太郎 遠藤代次郎 柴田千太郎 正田榮人 瀬田德次郎 杉山重四郎 住田久藏 住田史郎 鈴木重老
側面
昭和十一年三月建之宮内村
備考
※「自砂原至三和村」
砂原は広島県廿日市市宮内砂原のことで、現在も地名として残っています。この石碑が立っている場所です。 三和村は、明治22年(1889年)、峠村、渡瀬村、松ヶ原村の三村が合併して発足し、昭和4年(1929年)友原村と合併して友和村となりその名称は使われなくなりました。(「佐伯郡」ウィキペディア)
※「開鑿里数二里十四町廿四間」
二里 7654.5m 十四町 1527.3m 二十四間 43.6m = 9,225.4m
旧砂原村のこの石碑が立っている場所から9.2キロ行くと廿日市市立友和小学校の前につきました。
※「平安 東海道人棉引泰」
綿引東海(1837-1915)
幕末明治の漢学者。天保8年(1837)常陸生。名は泰、字は天行、通称は泰助、東海と号す。原伍軒の門に学び、明治3年弘道館訓導を経て宮内省に出仕。大正4年没、年79.著書『烈士詩伝』『疑獄録』等がある。大正4年(1915)歿、79才(『日本人名大辞典』復刻版第一刷、平凡社、1979年)
※「小田 貫一」
1856年生まれ。安芸国佐伯郡宮内村(現廿日市市)出身。広島県会議員を経て宮内村村長、第2回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以後6回当選)。広島市長(第六代)。1909年没。(「小田貫一」ウィキペディア)
大野村⇔宮内村
街道が好きです - 里程標
街道が好きです - 道標(畑口橋交差点)
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もりひこ
ビワの花が咲き始めました
かぐわしい香りがあります
冬の間ひっそりと咲き続けて
夏に実を結びます
ビワは根も葉も花も実も薬用になる「大薬王樹」とも呼ばれています
梅林の上の泥だんご広場の横に植えられています
もりひこ
鮮やかな赤い花を見つけました
初めて見る花かと近寄ってみると
光に輝くクサギの実でした
もりひこ
私が通勤に使っている道の、電柱の陰に隠れた「里程標」が気になっています。
赤い矢印の先の石柱です
この通りの道幅は、大体4.5m、「里程標」の場所ほかところどころ約6m、写真のようにデコボコした形状になっています。江戸時代、西国街道に定められた二間半(約4.5m)の道幅が保たれているので、もしかしたらと思い江戸時代の古地図を参照してみると、西国街道はもう少し南側を走っていて、この道は当時もバイパスのような役割を果たしていたように見えました。
「里程標」の歴史は、明治20年代の宮内村県道改修工事(『廿日市町史 資料編Ⅴ』廿日市町1983)や、約400m東に建つ「道路開通記念碑」(明治27年記)などとあわせて考えてみる必要がありそうです。
「里程標」の下は地中に埋もれて読めない字がありますが、今から125年前、1891年に建立されたことは、わかりました。
右:明治廿四年五月建之 宮内
正面:距 廿日市里程標 壹
左:距 廣島里程元標 四里拾七丁廿四間(約17.6km)
ちなみに、廣島里程元標のあった場所(原爆ドームの近くです)から、現在の宮島街道を通ってここまでの距離は、google map の計測では16.5kmでした。
この「里程標」は、宮内交番の横の川沿いの道を西におよそ800m進んだところに建っています。
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