開花の時季は、ジャスミンのような甘い香りがあたりを包みます。
ちょうど展示替え中に咲きはじめ、今は花の終わりを迎えています。
枝葉を切ると発する悪臭を鬼よけとして、節分の時に扉に挟む地方があるといわれることもありますが、個人的には鬼よけ効果があるほどの臭気とは感じません。花から香る鮮烈な甘みを知ってしまうと、この木から受ける印象は花言葉の「慈しみ」「偏愛」、あるいは2月14日バレンタインデーの誕生花であることのほうがしっくりきました。
もりひこ
開花の時季は、ジャスミンのような甘い香りがあたりを包みます。
ちょうど展示替え中に咲きはじめ、今は花の終わりを迎えています。
枝葉を切ると発する悪臭を鬼よけとして、節分の時に扉に挟む地方があるといわれることもありますが、個人的には鬼よけ効果があるほどの臭気とは感じません。花から香る鮮烈な甘みを知ってしまうと、この木から受ける印象は花言葉の「慈しみ」「偏愛」、あるいは2月14日バレンタインデーの誕生花であることのほうがしっくりきました。
もりひこ
岩の隙間を押し広げて成長を続ける松
岩の小さな穴から花を咲かせるツツジ
アスファルトの下から芽を出すナツメ
遊歩道で繰り広げられる力強い営みに、
勇気をもらうことがあります。
もりひこ
この時季、あちらこちらで見る木です。生命力が旺盛で、下刈りの時にきられても、また力強く芽を出して花をいっぱい咲かせます。
木の材質は固く、腐れにくく、昔から釘の材料として使われてきました。美術館では掛軸や巻物を入れる箱に使われているのでおなじみです。
木釘の場所を丸で囲みました。
この軸箱はちょうど100年ぐらいたったものです。長二が作った箱のように、継ぎ目はピクリともゆるんでいません。
三遊亭圓朝作 名人長二 より
「・・・幾ら使っても百年も二百年も毀(こわ)れずに元のまんまで居るというのァ仕事に精神(たましい)を入れてするからの事だ、精神を入れるというのは外じゃァねえ、釘の削り塩梅(あんばい)から板の拵(あつら)え工合と釘の打ち様にあるんだ、それだから釘一本他人に削らせちゃァ自分の精神が入らねえ・・・」
底本「圓朝全集 巻の九」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1964(昭和39)年2月10日発行 青空文庫より転載
もりひこ
普段はまわりの木々に交じって目立ちませんが、花のように見える白い総包片(ソウホウヘン)が開くこの時期は、くっきりと居場所を知らせてくれます。高さが10メートル近くなる品種ですから、美術館の入り口では大きなモミジのその上から顔をのぞかせています。
緑の中にひらく白い模様がヤマボウシです。
「ヤマボウシ」漢字で書くと「山法師」。
花の姿をまるい頭と白頭巾に見立てたのだとか。
言われてみると、山法師の群れのようにも見えてきました。
深い緑の山間に、広がる白片が目に鮮やかです。
もりひこ
あちらこちらの日陰になるところや、ちょっとした隙間に群生しています。
「ドクダミ」の名称は濁点が多いうえ、「ドク」という音もあるのでこの清楚なイメージに結び付きにくいものです。
見た目の美しさよりも、昔の人たちにとっては体を整えてくれるその役割が大切だったのですね。「毒矯み」(ドクダミ)、「毒溜」(ドクダメ)、「十薬」(ジュウヤク)とも呼ばれて古くから人の健康に深くからかかわってきました。いまでも薬用として用いられているほか、健康飲料ドクダミ茶や、薬膳のレシピなどに重用されています。
追伸
撮影をしていると、テントウムシがやってきました。
ナナホシテントウ。作物に被害を与えるアブラムシとかハダニを食べるので、農作物や観葉植物を守る益虫として分類されています。
遊歩道を守るたいせつな一員です。
もりひこ
バラ園の入り口で、アツバキミガヨランが咲きはじめました。
この花の名前を漢字で書くと「厚葉君が代蘭」。明治時代に日本にやってきました。
一年じゅう青々とした肉厚の葉を茂らせ、長いあいだ花を咲かせる様子からこのようなおめでたい名前になったそうです。
背の高い花茎いっぱいに釣り鐘状の白花をつける姿がほんとうにあでやかです。
もりひこ
海の見える杜美術館から広島方面に向かう途中に村境の石柱がありました。
大野 宮内 村境
当館は旧大野村にあるのですが、大野村が宮内村と境を接していたのはこの場所であったのだと、静かに教えてくれました。
この石柱がある道は大昔からの由緒があり、江戸時代には五街道のひとつ西国街道として重要な役割を果たしていました。その時に定められた二間半(約4.5m)の道幅そのままに現在に至っています。そしてこの石柱の立つ場所は、紀元600年ごろの伝説がある大野四郎由来の四郎峠にあります。現在「エコセンターはつかいち」がある場所です。
日ごろ通いなれた道でしたが、この石柱にいざなわれて、清盛が、秀吉が、そして幕末維新の志士たちが駆けたであろう光景が日常の風景に重なってみえたような気がしました。
いつの時代に建てられたのか気になりますが、この石柱には日付の記述がありません。下限ははっきりしていて、大野村が大野町になる1950年(昭和25年)4月1日より前です。上限は両村の呼び名が江戸よりずっと前からあったのではっきりしませんが、風化の度合いなどからみて、明治22年の市町村施行時に村境を確定のために設けられたものでしょうか。皆さんはどうお考えになりますか。
街道が好きです - 里程標
街道が好きです - 道路開通記念碑
街道が好きです - 道標(畑口橋交差点)
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もりひこ
この時期は、雨の翌日に朝靄が立ちこめる時があります。
そのような日は、遊歩道の木々が靄あけのしずくに美しくおおわれます。
日がさすまでの、ほんのひと時の表情です。
もりひこ