竹内栖鳳展、閉幕いたしました。

特別展「生誕150年記念 竹内栖鳳」展は、12月14日(日)をもちまして無事閉幕いたしました。県内外を問わず、たいへん多くの方々にご来場いただき、まことにありがとうございます。

ひと月半ばかりの決して長くはない会期ではございましたが、栖鳳の誕生日会や高階秀爾先生による記念講演会といったイベント、そして《スエズ景色》の旧蔵者に関する新知見が出てくるなど、さまざまな出来事がございました。
この展覧会を通じて、ひとりでも多くの方々に、栖鳳の魅力をお伝えすることができましたなら、大変うれしく思います。

本展はこの後、姫路市立美術館(会期:2015年2月7日〜3月29日)、碧南市藤井達吉現代美術館(会期:4月14日〜6月7日)、小杉放菴記念日光美術館(7月18日〜8月30日)に巡回いたします。展覧会をお見逃しになった方や、再びご覧になりたい方は、ぜひ足をお運びください。

なお、私ども 海の見える杜美術館 は、12月15日(月)より、耐震補強工事のため、休館いたしております。みなさまの前に再びお目見えするのはしばらく先になりますが、よりよい美術館となるべく励んでまいりますので、変わらぬご愛顧のほど、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
「杜の遊歩道」は、休館中も変わらず四季折々の花々と彫刻作品をお楽しみいただけます。引き続き、遊歩道の豊かな自然をお楽しみください。

 

田中伝

《スエズ景色》は大谷光瑞が持っていた? 伝来に関する新たな知見

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竹内栖鳳《スエズ景色》(1901年 海の見える杜美術館蔵)

竹内栖鳳が描いた唯一の油絵《スエズ景色》については、11月5日のブログ記事で詳しくお伝えしました。この作品について、最近新知見が報告されました。

《スエズ景色》は、1901(明治34)年に開催された関西美術会第1回展に出品された後、このたびの展覧会まで、一般公開の記録が確認されていません。最初の展覧会に出品されてから、今回の展覧会に至るまでの113年の間、この絵はいったいどこにあったのでしょうか?

前の記事にも書いた通り、この絵のかつての所蔵者として挙がっているのは、柴田源七という人物です。柴田は、滋賀長浜の実業家で、芸術家のパトロンとしても名を馳せた人物です。彼が特に熱心に支援したのが栖鳳でした。

《スエズ景色》が柴田に所有されていたことの根拠は、1940(昭和15)年に柴田が記した「珍什の二作品」(『塔影』16巻11号)という文章によります。この文中で柴田は、自身が所有する栖鳳の作品の中でも特に珍しいものとして、この《スエズ景色》を挙げています。これにより、遅くとも1940年までには、柴田が本作を入手していたことが分かります。

また、本作に付属する箱蓋に書かれた由緒書きは、柴田によるものです。この由緒書きの年記は、本作が発表された翌年の1902年。おそらくこの時点でも、柴田が所有していた可能性が高いと考えられます。

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《スエズ景色》の箱蓋(海の見える杜美術館蔵)。「壬寅(1902年)秋日」の年記が見えます。

こうした事実より、展覧会出品直後から1940年に至るまでのおよそ40年間、この作品はずっと柴田の手許にあったものと考えられてきました。しかし、こうした推測の再考を迫る新たな情報が、このたび提示されました。京都にある龍谷ミュージアムで開催中の「二楽荘と大谷探検隊」展に出品されている写真絵はがきに、《スエズ景色》ととてもよく似た絵が写っているのです。

この絵はがきは、大谷光瑞が建てた別荘・二楽荘の一室「印度室」を写したものです。

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二楽荘「印度室」の写真絵はがき(1912〜13年 龍谷ミュージアム蔵)

この部屋の左側をよく見てください。壁にかかっている絵は、《スエズ景色》と似ています。

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二楽荘「印度室」の壁に掛かっている絵。《スエズ景色》と似ています。

この二楽荘を建てた大谷光瑞は、浄土真宗本願寺派第22代門主(教団の長)です。彼はヨーロッパ留学の経験もあり、教団の近代化に取り組んだ、開明的な人物として知られます。また「大谷探検隊」の名で知られる、中央アジアの調査隊を組織し、仏跡の発掘調査をするなど、様々な文化活動を行いました。

光瑞は1908年、六甲山麓に、彼が懇意にする建築家・伊東忠太が設計した壮麗な別荘を建設します。これが二楽荘です。この別荘は、光瑞が抱える多額の負債や教団内のトラブルがもとで大谷が失脚したため、落成からわずか6年後の1914年に閉鎖しています。今回話題になっている二楽荘を撮影した絵はがきは、1912〜13年に撮影されたことがわかっています。

洋の東西を問わず、宗教権力は芸術の有力なパトロンです。京都の大きな寺社は、近代に至るまで芸術家の庇護者として、絶大な影響力を有していました。栖鳳は、東本願寺との間に特に強い結びつきを持っていたことが知られています。1885(明治18)年、若き日の栖鳳は、師の幸野楳嶺とともに、東本願寺法主の大谷光勝に従い、信州から北越にかけての巡歴に同行しています。

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《北越探勝帖》(1886年 海の見える杜美術館)。栖鳳が大谷光勝に同行して北越を巡歴した際、各地の名勝を描いた画帖。

また後に栖鳳は、時の東本願寺法主大谷光演より、親鸞上人の650年遠忌にあたる1911年(明治44)に向けて整備が進められていた大師門堂の天井画制作の依頼もされています。この他、栖鳳が描いた数少ない人物画の代表作のひとつである《日稼》(1917年 個人蔵)は、東本願寺の庫裏(寺の台所)の様子を描いたものとされ、モデルとなった女性は信徒総代の娘であることが判明しています。

このように、栖鳳と東本願寺はつながりがあったことが指摘されていますが、仮に《スエズ景色》が光瑞の別荘にあったとするならば、栖鳳は光瑞が率いる西本願寺ともなんらかの関係のあった可能性が浮上してきます。

 

栖鳳と光瑞に個人的な関係があったのかどうかは、残された資料からは判然としません。しかし、栖鳳がパリ万博視察のため渡欧した時期、光瑞もヨーロッパに留学していたことからすれば、もしかしたら、現地で栖鳳と光瑞が対面するなどして、面識があったということも考えられます。

さて、果たしてこの写真に写っている絵は、栖鳳の描いた《スエズ景色》なのでしょうか? 本作を光瑞が所有していたと仮定すると、遅くとも1912〜13年までには柴田から光瑞へと所有が移り、更に遅くとも1940年までには、再び柴田の蔵に帰したということになります。しかし、この間の歴史の空白はあまりにも大きく、現時点では断定的な発言をすることはできません。ただし、《スエズ景色》の伝来に関して、今まで考えもしなかった角度からの光が当てられたことは間違いないでしょう。

《スエズ景色》は、当館にて12月14日まで展示されております。ご興味ある方はこちらと併せて、龍谷ミュージアムで11月30日まで開催されている「二楽荘と大谷探検隊」展も、ご覧になってください。

龍谷ミュージアム公式サイト:
http://museum.ryukoku.ac.jp

田中伝

展覧会の1枚 《スエズ景色》

11月1日、ついに「生誕150年記念 竹内栖鳳」展が開幕いたしました。
近代日本に大きな足跡を残した画家・竹内栖鳳の多彩な表現世界を、彼が描いたさまざまな作品からご覧いただける展覧会となっております。

本展には、今まで所在不明であった竹内栖鳳の作品の数々が出品されます。これら幻の逸品といえる作品の中でも、特に展覧会の目玉として取り上げられるのが、《スエズ景色》と題された作品です。

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まず驚かされるのが、この絵が油絵の作品であるということです。また描かれる主題も、画題からすればスエズ運河周辺の情景を描いたものとされており、なんとも異色です。竹内栖鳳に対する一般的なイメージは、瀟洒な絵を描いた日本画家というものでしょうが、この作品は、それとはかけ離れています。画面右下に記される落款(サイン)がなければ、本当に栖鳳がこの絵を描いたと信じることはできないでしょう。

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作品右下の落款。「辛丑(1901年)十一月 栖鳳写」とあります。

いったいこの作品は、どのような経緯で生まれたのでしょうか。

《スエズ景色》は、1901年(明治34)に描かれました。この前年、栖鳳はパリで開催されている万国博覧会を視察するため、およそ半年の間、ヨーロッパを巡る旅に出ました。栖鳳はこの旅の道中、スエズ運河を通っており、その様子を「紅海近傍は広漠たる沙土天に連り、亞刺比亞(アラビア)・亞弗利加(アフリカ)の間を通過せる蘇士(スエズ)の運河に入りて駱駝の遊べるを見る。又両岸は狭くして船を並べて通過することを許さず」と、家族に宛てた葉書に記しています。この時の経験が栖鳳にインスピレーションを与えたことは、想像するに難くはありません。

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ヨーロッパに向かう途中で栖鳳が家族に宛てた絵葉書(1900年9月12日 海の見える杜美術館)。スエズ運河を通ったことが記されています。

また、栖鳳がヨーロッパで収集した写真からの影響も、この作品について考える上で重要です。栖鳳はヨーロッパ視察の際、数多くの写真を買い集めましたが、この中に《スエズ景色》と非常に良く似た構図のものが存在するのです。栖鳳は写真を絵画制作における有用な資料と見なし、帰国後から積極的に活用しています。

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栖鳳が渡欧中に入手した写真。右下にはフランス語で「ナイル川とピラミッド」と書かれています。(海の見える杜美術館)

この作品は、1901年に京都で発会した洋画団体の関西美術会(後の関西美術院)に出品されました。栖鳳がヨーロッパから帰国したのが同年2月末ですから、帰国からわずかな期間でこの作品を描き上げたわけです。ヨーロッパ視察から帰ってきた栖鳳の興奮をみずみずしいままに凝縮した作品が、この《スエズ景色》である、ということができるでしょう。

この作品は、関西美術会出品後、栖鳳を支援していた実業家の柴田源七が所蔵していました。その後は展覧会に出品されることもなく、その所在も不明となっていましたが、近年当館の所蔵となり、このたびの公開となりました。

《スエズ景色》が実に113年ぶりの一般公開となる今回の展覧会を、お見逃しなきよう、ぜひ展覧会場に足をお運びください。

田中伝

展覧会の一枚 《那智参詣曼荼羅》

6月に開幕した「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」展も、8月より後期展に入りました。これにともない、大幅な展示替えもしております。
後期展示の作品のなかでまずご紹介いたしますのが、《那智参詣曼荼羅(なちさんけいまんだら)》です。

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この作品に描かれているのは、ユネスコの世界遺産にも認定された熊野三山のひとつ那智山(熊野那智大社)です。画面には、主神である那智権現(なちごんげん)が鎮座する社殿を中心に、那智山の寺社が描かれています。画中にはこうした宗教施設だけではなく、この地で行われる年中行事や歴史的出来事、そしてその信仰によるご利益なども、ぎっしりと描き込まれています。

ちょっとだけ描かれたものを見てみましょう。
画面右側に描かれるのが、那智滝(一の滝)です。日本一の落差(133メートル)を誇る直瀑のこの滝は、飛瀧神社(ひろうじんじゃ)のご神体として信仰を集めてきました。

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ちなみに、この滝の下方に3人の人物が描かれていますが、真ん中は、平安〜鎌倉時代の高僧として名高い文覚(もんがく)、そしてこの文覚の両脇にいるのが、不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)です。
文覚は那智滝に打たれる荒行をした際、生死の淵をさまよいますが、矜羯羅童子と制吒迦童子が救けたのだそうです。
画面には、こうした那智にまつわる逸話が描き込まれているのです。

《那智参詣曼荼羅》と称される絵は、この作品をはじめ、確認されるだけでも40点近く現存しています。こうした作品が数多く制作された理由は、これらが那智山への参詣を促すための手段であったためです。
中世には、那智への参詣や寄付を民衆に勧めるため、諸国をめぐる人々がいました。彼らが那智の様子や、その霊験(れいげん)を知らしめるために用いたのが、この《那智参詣曼荼羅》だったのです。

とはいえ、この作品が作られた中世は、庶民が旅へ出ることは極めて困難でした。おそらくこれを見たほとんどの人は、行きたくても実際の那智に足を踏み入れることはできなかったでしょう。
そうした人々の思いが託されたと考えられるものが、この絵のなかに描かれています。画面を見ると、あちらこちらに白装束の人々のすがたが目に入ります。

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これは、那智へ参拝に来た巡礼者だとも、また那智山が浄土と同一視されていたことから、浄土へと赴く死者の姿であるとも考えられています。
《那智参詣曼荼羅》を見た人々は、たとえ行くことはできずとも、絵の中の人に自身のすがたを重ね合わせ、那智(浄土)へと向かうことに思いを馳せたのでしょう。

 

田中 伝

 

展覧会の一枚 《許由巣父図》

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(2)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(1)

前期展示の終わりも間近に迫ってきました。
現在展示中の作品紹介として最後に取り上げるのは、
一見すると地味な、水墨の人物画です。

題名にある「許由巣父(きょゆう そうほ)」とは、
古代中国の伝説に登場する人物です。この作品では、
滝に手を当てているのが許由、牛を引いているのが巣父です。

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(4)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(3)
右が許由、左が巣父です

この絵はなにを描いたものなのでしょうか?
許由は滝のそばでなにをしているのでしょうか?

この絵のもととなったのは、こんなお話です。

大昔、中国は堯(ぎょう)という君主が治めていました。ある時堯は、ひとりの賢人が世にあることを知ります。それが許由です。堯は、許由に天下を譲ろうとします。
しかし許由はそれを断り、山に隠棲してしまいます。あきらめきれない堯は、許由を再び呼んで、またも全国を治めるようにいいます。許由はこれに対し、汚い言葉を聞いてしまったといって、耳を洗ったのです。

さて、この様子を見たのが巣父です。彼は牛に水を飲ませようとしていましたが、上流で許由が耳を洗っているのを見かけます。巣父が許由になにをしているのかと問うと、許由は、汚れた言葉を耳にしたので、耳を洗っているのだと答えます。巣父はこれを聞いて、「そんな汚れた耳を洗った水を、私の牛に飲ませるわけにはいかないな」といって去ってしまいました。

この逸話に示される許由と巣父は、世俗の栄達に惑わされない高潔な人物の象徴として、日本においても『徒然草』や『太平記』などの文学作品に記され、画題としても好まれました。このような画題の絵は、為政者が自身を戒めるものとされました。こうしたジャンルを「鑑戒画(かんかいが)」といいます。

この《許由巣父図》のなかでも最も著名といえるのが、安土城の障壁画でしょう。織田信長の事蹟を記した『信長公記』によると、安土城天守閣の第四重の八畳敷の間には、「きょゆう耳をあらへば、そうほ牛を牽き帰る所」が描かれていたそうです。

この障壁画を描いたのは、安土桃山時代を代表する画家狩野永徳(かのうえいとく)です。残念ながらこの絵は安土城の落城とともに焼失してしまいましたが、永徳が描いた別の《許由巣父図》が現在、東京国立博物館に所蔵されています。本作の画風は永徳よりもやや下る時代に描かれたと判断されますが、その図様はともによく似ています。

本作は、どこかの大名が自身を戒めるという建前で描かせたのでしょう。ただし注文主の心の奥にはもしかすると、この絵の主題とは裏腹に、天下布武をとなえた信長に対する意識があったのかもしれません。

田中伝

展覧会の一枚 《妙法蓮華経 巻第五(鳥下絵装飾経)》 平安時代 11世紀

仏教の経典は「法身舎利(ほっしんしゃり)」と呼ばれることがあります。これは、経典は釈迦の教えを書き記したものであるから、舎利(釈迦の骨)にも等しい価値を持つものである、という意味です。
こうした考えにより、経典は仏そのものと同等の存在であると見なされ、崇拝の対象となりました。そして経典が崇拝の対象となるならば、経はそれにふさわしいかたちでなければならないということで、美しい意匠が施された写経が数多く制作されました。こうした経を、「装飾経」と呼び習わします。
とりわけ平安時代に天台宗により幅広い階層に広まった経典である『妙法蓮華経(法華経)』は、仏道にまつわる造形活動を「作善(さぜん)」、つまり仏教の善行のひとつとして説いていることから、時の貴族たちの間では、きらびやかに飾り立てられた『法華経』を作って供養することが、一種のステータスシンボルにもなっていました。
今回ご紹介する《妙法蓮華経 巻第五》は、こうした歴史的な背景のなかで作られた装飾経のひとつです。

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展覧会の1枚《鹿島立御影図》

6月7日より始まった「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」展は、前期と後期に分かれ、ほぼ全作品を展示替えいたします。 現在行われている前期展示で、特にご覧いただきたい作品が、今回ご紹介する《鹿島立御影図》です。
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展覧会の一枚《鞍馬寺縁起絵模本》

6月7日より開催の次回展「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」には、日本各地に見られる信仰の様子を表した作品が数多く出品されます。
こうしたなかには、山岳信仰と関わりのある作品がいくつも見られます。

霊山(れいざん)と称される山岳の多くは、外来の宗教である仏教と、在地の神を崇拝する神道とが複雑に混じり合うことで、独自の宗教空間を形成していました。
本展覧会の前期に展示いたします《鞍馬寺縁起絵模本(くらまでらえんぎえもほん)》は、そうした山岳信仰の場のなかで生まれた作品です。

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展覧会の一枚 《蘭亭曲水図》塩川文麟

だんだんと暖かくなってきましたね。

遊歩道では桃が花盛りとなってきましたが、美術館に展示してある作品にも、桃の花が咲いているものがあります。
《蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)》がそれです。

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