うみもり香水瓶コレクション 29  イギリスの牧歌的風景

こんにちは。現在、海の見える杜美術館では、「誘惑する風景 近代日本画探索」と題した、当館所蔵の風景画を一堂に会した近代日本画展を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも風景の描かれた香水瓶を展示しています。

例えば、バラの花束とともに、イギリスの田園風景が描かれた上画像の作品です。この風景部分をよく見てみますと……👇

青々と茂った大樹のそびえる田園で、牧人が家畜の群れを連れて歩いていく、のどかな情景が描かれています。反対側にも同様に、牧歌的な風景が👇。

 こちらは水の流れる草原で、牛や羊、そして牧人までもが憩っています。茜色に染まり始めた彼方の空や、牧人の後ろ姿からは、一日の仕事がまもなく終わろうとする、のんびりと穏やかな雰囲気がよく伝わってきます。

しかしながら、風景のこの素朴さとは対照的に、本作品全体のデザインは極めて典雅です。例えば、高貴な群青色の下地に描かれた白と金の模様、繊細な彫金がなされた金色に輝く金属部分、全体を覆う艶やかなエナメル。とりわけ、風景画や花束の図を縁取る窓の流麗な曲線ときたら! こうしたすべてが、宮殿や城館の華やかな室内装飾を彷彿させます。実際、本作品は室内の小型の円形テーブルの上に飾られて使われました。ロココ様式と新古典主義の混在した18世紀後半のお屋敷のインテリアに調和するように作られたものであったのです。

しかしなぜこの香りの容器は化粧台の上ではなく、小型円形テーブルの上におかれていたのでしょう? その理由は、本作品が単なる香水瓶ではなく、ボンボニエール〔菓子器〕を兼ねていたからです。往時には、本作品の上部には香水が、下部にはドロップが収められました。ですので、瓶中央の蓋を開けてドロップを、蓋の上部のキャップを開けて香水を楽しむことができたのです。と、言葉で説明しても、今一つわかりづらいと思いますので、一目瞭然たる画像をご覧くださいませ👇

こちらは、本作品と同じ構造をした1760年頃のイギリス、サウス・スタフォードシャー、ビルストンの作品です。こうした構造の容器が作られたのには、実は当時の衛生観念が深く関係しています。

18世紀は、王侯貴族や上流階級の間で衛生観念が変化し、発達した世紀でもあります。それ以前は、入浴によって伝染病に感染する疑いがあるとみなされていたため、湯あみは極力控えられていました。王は公共のサウナの閉鎖を命じ、教会も公序良俗ために入浴を禁じました。今日ではにわかに信じられないことですが、当時、風呂は体液の調子を乱すものとも、また湯あみで開いた毛穴から感染しやすくなるとも考えられていたのです。したがって、医者たちは頻繁に体を洗うことに反対していました。以前、このブログでも取り上げた1655年ロンドンの腺ペストや、フランスにおける最後のペストとされる1720年のマルセイユの大ペストなど、当時の感染症の猛威に鑑みますと、感染から少しでも逃れたいとの切実な思いがそうした考えを信じさせたことも頷けます。ただ興味深いことに、水自体は危険極まりないものとされた一方で、そこにひとたび香りを付け加えた芳香水となると、あらあら不思議、どうした訳か、むしろ身体を守ってくれるよい効果をもたらすものとされました。芳香が瘴気を遠ざけるという考えが、あらゆる場面に浸透していたのですね。ですので、小瓶に詰めた芳香水が水代わりとなって体を清めてくれるので、入浴して体を洗わないことが問題視されることは長らくありませんでした。

しかし、そのような考えが変化していくのが、まさに本作品が作られた18世紀です。17世紀末にはペストが収束していったイギリスでは、衛生を第一とする観念がフランスに先駆けて普及します。それにともない、入浴も見直されるようになりました。なんでもサウナ風呂まで登場し(もれなく毛穴が開いてしまいそうです!)、町中のあちこちにその施設が作られたといわれています。イギリスのこの影響を受けて、フランスもペストが落ち着いたルイ15世の治世下には、入浴をし体を洗う習慣が富裕層の間で復活しました。それでもまだ、お湯は警戒されていたため、当初は水風呂のみであったというのですから、入浴といえば、きれいさっぱり諸々洗い流して、温かいお風呂でほっと一息♨という私の想像とは、いささか異なるものであったようです。

翻って本作品は、衛生観念が口の中にも及んでいたことを教えてくれます。というのも、このボンボニエールに収められたのは、甘いお菓子としてのドロップではなく、あくまでも口腔衛生を保つための香り付きドロップであったことがわかっているからです。当時は、円卓に本作品のようなボンボニエールを飾ることが、エレガントなたしなみとされていました。

それにしても、一体どのような香りのついたドロップだったのでしょう――。たしかな資料がないために特定に至りませんが、あれこれ想像するのも楽しいものです。18世紀は香りの趣味にも大きな変化が起こった世紀だからです。

入浴習慣をやめていた時代に重用されたのは、体臭をごまかすための動物由来の強い香りでした。しかし18世紀には、それがより軽やかなフローラル・ノートへと変化します。さらに、非常に手間のかかっていたシトラス油の抽出にも、圧搾器という画期的な道具が考案されて、シトラス・ノートがオーデコロンにも使われるようになりました。つまり、18世紀は、むせるような香りから、優しく爽やかな香りへと移り変わっていった世紀なのです。

そして、より瑞々しい香りを存分に味わえる、のどかな自然のなかでの散策も流行しました。当時は、散策時に長く垂れたドレスの後裾が汚れないように、ポケットのなかから後裾を上げ下げできる、専用のドレスが登場したほどです。美しい野辺の風景や花々が両面に描かれた本作品も、そうした時代背景をよく表しています。

また、企画展「誘惑する風景 近代日本画探索」に合わせて、風景画という観点から本作品を見ると、興味深い時期の作品であることがわかります。

日本においては、中国より伝わった山水画が古くから数多く描かれてきたため、少々意外なことですが、フランスやイギリスにおいて自然を主題とした風景画が独立したジャンルとして確立されるのは、近代になってからです。それ以前は、主題ではなく背景として描かれるのみでした。もちろんオランダでは風景画が制作され人気を博していましたが、他の地域では歴史画〔キリスト教や神話が主題〕を頂点とする伝統的な絵画のヒエラルキーのなかにおいて、下位のジャンルとみなされていたのです。

しかし、本作品の制作された少し前にあたる1750年代後半のイギリスにおいて思想家のエドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』を著します。そこでは、自然が崇高なものとみなされました。それは、絵画の主題を考える上で、非常に新しい考え方でした。そして以後100年以上にわたって、自然のあるがままの姿を主題に据えた作品への関心が高まっていき、やがては19世紀のカンスタブルやターナーや、「牧歌的風景画」にも価値を認めたフランスのヴァランシエンヌや、コローといった風景画の巨匠たちに引き継がれていくのです。

本作品は、そうした風景画の黎明期の作品です。ぜひ企画展と合わせて、香水瓶展示室にて、イギリスの牧歌的風景もお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

■ 企画展示室情報: 誘惑する風景 ―近代日本画探索― – 広島 海の見える杜美術館 ■

[会期]2024年10月12日(土)〜12月8日(日)
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し10/ 14、11/4は開館)、 10/15(火)、11/5(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料
*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

うみもり香水瓶コレクション 28  食材をモティーフにした香水瓶

こんにちは。前回は「チューリップに蝶」と「サクランボに鳥」が表現された作品をご紹介しましたが、今回は「エンドウマメに小鳥」が組み合わされた作品等をご紹介します。こちらは、ただいま企画展示室で行われている、飲食をテーマにした展覧会「美酒佳肴 ――絵で味わう美きもの――」に合わせて、香水瓶展示室に陳列している作品です。

 正直なところ、本作品は展示室で陳列する際に、いささか苦労します。というのも、形状がエンドウマメそっくりに作られているため、そもそも直立する形をしていないからです。そのため、裏側からしっかりと支える専用の台などを駆使して陳列しています。しかし、この香水瓶らしからぬ形状ゆえに、遊び心が刺激され、愛着が湧く作品といえます。可愛い上に、機知に富んでいて楽しいのです!

 例えば、下部に顕著に見られる、丸い膨らみ。表面のこの凹凸は、いかにも莢のなかに丸くふっくらとしたマメがあるかのような、巧みな表現です。

↑ この部分です!©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかも、ただ単に実物に似せるのではなく、エンドウマメの愛らしい花を描き、周囲を丹念に彫った金で縁取るという、優美で気品ある仕上げがなされています。さらに栓には、純白の小鳥を配して、「マメをついばむ鳥」という物語性まで付け加えられています。

 この小鳥は、イギリスの名窯、チェルシー磁器工房が手掛けています。つまり本作品の洗練された愛らしさは、金細工、エナメル〔七宝〕細工、磁器という構成要素全てにおける、卓越した質によるところも大きいのです。

 また主題が、フランスで「緑色のきれいな真珠」とも称されるエンドウマメであることも、本作品が品格を感じさせる理由でしょう。かのルイ14世(1638-1715)は、エンドウマメを愛し、このマメの流行を引き起こしました。当時は、料理はもちろんのこと、ドレスなどの衣服にエンドウマメの図柄が用いられました。従って、18世紀半ばにイギリスで製作された本作品は、おそらくこの流行の影響を受けていると思われます。

 エンドウマメの歴史は古く、すでに1万年前から存在していたともいわれています。少なくとも古代エジプトや古代ギリシャには、食用とされた記録があり、世界最古の農作物のひとつと考えられています。中世まではエンドウマメを乾燥させて食べていましたが、以後は様々な状態で使われるようになったことで、世界各地の美味しい料理の食材となっています。思いつくままに挙げてみても、ポタージュにサラダにお肉料理の付け合わせに、あるいは中華料理にも欠かせない存在ですね。

 日本ならではのエンドウマメの使い方といえば、甘党の私としては、うぐいす餡や甘納豆が真っ先に浮かびます。日本における本格的なエンドウマメの栽培は、明治以降のようですが、既に9~10世紀には遣唐使によって中国から伝わったことがわかっています。

 このようにエンドウマメが古今東西で愛されているのは、やはり風味豊かでとろけるような味ゆえのことでしょう。エンドウマメ特有の味のまろやかさを、本作品は繊細な色彩と流麗な花模様、そして精緻な金細工によって余すところなく表現しています。

 さて香水瓶展示室では、松かさをかたどったこちらの作品も展示しています👇

 アール・ヌーヴォーを代表する芸術家であり宝飾品製造者のリュシアン・ガイヤール(Lucien Gaillard 1861-1942)が手掛けた作品です。栓にはプレス成形した松かさが、曇りガラスの瓶にはガラスと茶色パチネで立体感を出した松かさの帯飾りが施されています。詩情をたたえた美しさとでもいうのでしょうか、この静かな佇まいに、いつもはっと息をのみます。

 ところで、古代の香りについて調べる際に、私は古代ギリシャの名著、ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides)の『薬物誌』をしばしば紐解きます。1世紀に書かれた本書には、松かさについても詳しい記述があります。それによると、きれいにした松かさを食べたり、干しブドウ酒とキュウリの種とともに服用したりすると、膀胱や腎臓の周囲の疝痛を和らげる、とか、新鮮な松かさを丸ごと粉砕して干しブドウ酒で煮たものを毎日同量摂取すると、慢性の咳に効果がある等々、様々な効能が記されています。

 ただいくら効き目があるとはいえ、今の時代に、洗った松かさをバリバリと召し上がられる方(想像するだけで、ちょっとおののきます)は稀有と存じます。しかし、松かさのなかの松の実でしたら、はるかに身近な存在ですね。ジェノヴェーゼに錦松梅にと、洋の東西を問わず数々の料理で日頃口にする食材です。ディオスコリデスはこの松の実に関しても、体を温める作用や、咳や胸部の疾患への効能を詳述しています。

 本作品は、食欲すらも一瞬忘れそうな静謐な香水瓶ではありますが、滋味深い松の実の造形ゆえに、飲食がテーマとなればやはり欠かすことのできない作品です。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回のエンドウマメに関する記述には、フランスの友人で文化ジャーナリストのジャン=リュック・トゥラ=ブレイス(Jean-Luc Toula-Breysse)の著作、Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses を参照しました。本書には、丁寧で読みやすい日本語訳も出版されています 👇

Photo ©Yoshiko Okamura

 「エンドウ」や「塩」をはじめとする、本書に収録された食材の特徴や調理法、使われ方や逸話は、世界の歴史や多様な文化についての理解を深めてくれるものです。博覧強記のジャン=リュックでなければ決して完成しえなかった大著です。

邦訳:ジャン=リュック・トゥラ=ブレイス『イラストで見る 世界の食材文化誌百科』土居佳代子訳、原書房、2019年12月。

原書:Jean-Luc Toula-Breysse, Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses, Arthaud, Paris, 2017.

「美酒佳肴」展、引き続き好評開催中です

9月9日の重陽の節句も過ぎたというのに、まだまだ真夏と同じ暑さが続く日々に驚かされます。

以前よりも秋が短くなった昨今ですが、巷にはイチジクや葡萄、梨など、晩夏から秋の果物が出回っていますね。

9月17日は中秋の名月(旧暦8月15日の十五夜)。

お月見には月見だんごが思い浮かびますが、この時期に穫れる里芋などの芋類がよくお供えされたため、中秋の名月は「芋名月」とも呼ばれます。

秋に河川敷で芋煮会をする東北・山形出身の私の実家でも、毎年中秋の名月には里芋がお供えされていたのを思い出します。

ちなみに旧暦9月13日の十三夜は、「栗名月」や「豆名月」と呼ばれます。芋名月と同じように、この頃に穫れる栗や豆がお供えされたため名付けられたそうです。

(余談ですが、私の実家では十三夜には栗がお供えされていました。)

十三夜は、秋が深まり涼しくなって空気が澄むため月がよりきれいに見えるともいわれ、満月よりも少しだけ欠けた月の方が趣深いと、こちらも名月として名高いものです。

   

さて、展覧会の会期も残すところあと10日ほどとなりました。

先日、果物を描いた中国版画作品や、魚を描いた歌川広重や大野麥風の版画作品の展示替えを行いました。また新たに展示された作品もご堪能ください。

左より 歌川広重《縞鯛・あいなめに南天》天保(1830~44)後期頃 海の見える杜美術館
      《かながしら・木の葉鰈に笹》天保3~4年(1832~33)頃 海の見える杜美術館
 大野麥風《大日本魚類画集 第4輯第2回「アイナメ」》昭和15年(1940)10月 海の見える杜美術館                      

また、当館の竹内栖鳳コレクションをご紹介する「竹内栖鳳展示室」では、「栖鳳作品に見る食の文化」をテーマに、栖鳳が絵付けした鉢や茶碗、猪口などのほか、食に関する作品を併せて展示しています。

スケッチ帖や習作として描かれた魚や野菜を描いた作品からは、栖鳳の鋭敏な感性が感じられます。栖鳳が日常目にしたのであろう身近な食材が、何気なくさらりと描かれています。京都の料亭「亀政」の長男として生まれた栖鳳は、幼いころから食文化に親しんできたのでしょうね。

栖鳳が絵付けをした猪口
左より《酒猪口 虎》《酒猪口 鰹》《酒猪口 鶴》大正8年(1919) 海の見える杜美術館
竹内栖鳳《習作》制作年代不詳 海の見える杜美術館

「美酒佳肴」展は9月23日(月・休)までです。

秋晴れの空のもと、遊歩道の散策が、少しずつ気持ちの良い季節になってきました。うみもりテラスからの眺めも、空気が澄んできてまた格別です。ぜひ展覧会とあわせてお楽しみください。

次回展「誘惑する風景―近代日本画探索―」が10月12日から開催予定です

今年の夏は夏好きにとってもなかなか手ごわい暑さで、秋の訪れを待ち遠しく思う今日この頃です。

少し先の展覧会のお知らせですが、海の見える杜美術館では10月12日から、冬季企画として「誘惑する風景―近代日本画探索―」展を開催いたします。当館が所蔵する近代作品の中から、風景を描いた作品をご紹介する企画…の予定です。

風景画、というと、どこが描かれているのか、そこに何があるのかを見るのも楽しみの一つですが、今回の展覧会では「なぜその風景がその時代に描かれたのか」という点も考えてみたいと思っています。

高橋史光 《室の津》1931年(昭和6)頃

今回の展覧会でも、近代の画家たちの力作が並ぶ予定です。是非ご覧いただきたい作品がいくつもありますが、高橋史光の《室の津》もそのうちの1点です。

高橋史光(1897~1970)は帝展を舞台に活躍した京都の日本画家で、この作品は兵庫県室津を描いたものと考えらえる作品です。これは第12回帝展に同画家が出品した《室の津》と同じ題材、同じ図様の作品です。明るい色彩と緻密な描写、細やかに描かれた女性たちの生活の様子や花々など、見ていて飽きない魅力的な作品です。

本作品はじめ、当館が所蔵する近代の風景画作品の数々をご紹介する予定です。現在の展示「美酒佳肴―絵で味わう美きもの―」もご好評いただいておりますが、次回展もよろしくお願いいたします。

※高橋史光画伯の作品について、現在著作権保護期間中ではありますが、今回、文化財の公開の目的のもと、本ブログ記事に掲載させていただきました。高橋史光画伯の著作権継承者の方は、お手数ではありますが、当館(mail:info@umam.jp ℡:0829563221)までご連絡くださいますようお願いいたします。

「美酒佳肴」展、開催中です!

まだまだ暑い日が続きますが、立秋を迎え、暦の上ではもう秋ですね。

秋と言えば芸術鑑賞に、秋の味覚。

現在、海の見える杜美術館では、そんな秋にご覧いただきたい「美酒佳肴―絵で味わう美(うま)きもの―」展が開催中です。

本展では、飲食という観点から、絵画作品にみられる風俗表現、動植物表現をご覧いただきます。当館所蔵の日本絵画コレクション、中国版画コレクションに加え、近年新出の長沢芦雪作品も初出陳しています。どうぞこの機会にご覧ください。

展覧会ブックレット(税込み550円)も販売中です

展覧会は9月23日(月・休)までです。

人々が美酒と旬の佳肴を味わい、人生を謳歌する様子を作品とともにお楽しみください。

「百花百鳥」展、開催中です!

蒸し暑い日々が続き、梅雨明けを待ち遠しく思っている毎日です。

海の見える杜美術館で開催中の「百花百鳥」展は、会期が残すところあと5日となりました。

美術館1Fのおすすめフォトスポットです

本展では、江戸時代から明治、大正時代にかけて制作されたさまざまな花鳥版画作品を展示しています。ここでは、歌川広重、幸野楳嶺、小原古邨の作品の展示風景を少しだけご紹介します。

第2章 広重花鳥版画の世界 より

浮世絵における花鳥版画のジャンルは、江戸時代の天保年間(1830~1844)初期に浮世絵師の歌川広重の活躍によって確立しました。

広重の花鳥版画は、四季の草花や樹木にさまざまな鳥を組み合わせ、漢詩などの詩文を書き添えた格調高いもので、膨大な数の作品が制作されています。

四季の情緒を日々の生活にもたらす広重の花鳥版画は大小さまざまな判型でつくられ、当時の人々に広く愛されていたようです。

第3章 幸野楳嶺が残したもの より

明治の京都画壇を代表する幸野楳嶺は、鳥を描くのを得意とした画家です。

本展では楳嶺が描いた数多くの画譜や、一枚摺りの多色木版画《楳嶺花鳥画譜》(明治16年)に加え、今回の出品作中唯一の肉筆画作品である《百鳥図》(明治22年)も展示しています。

《百鳥図》は画面中央のツルをはじめ全55種類の鳥が一幅に所狭しと描かれた面白い作品です。どのような鳥が、どのように描かれているのか、展示室内のパネルと共にぜひチェックしてみてください。

第5章 小原古邨の花鳥版画 より

小原古邨は、明治30年代から大正・昭和期にかけて詩情豊かな花鳥版画を制作しました。当時から海外市場を念頭において制作・販売されたため、専ら欧米諸国で愛されてきました。

近年は国内でも研究が進み、展覧会等でも徐々に紹介されるようになってきた画家です。

伝統的な彫摺技術を用いながらも、海外の顧客を意識して制作された古邨の作品は、繊細な色調の濃淡で巧みに花鳥が表現されています。

木版技術の粋を集めた古邨の花鳥版画作品をぜひご堪能ください。

また、当館の竹内栖鳳コレクションをご紹介する「栖鳳展示室」では、「栖鳳が描く花と鳥」をテーマに併設展示を行っています。 涼やかな青柳にとまる白鷺を描いた《柳鷺図》や、風雨に翻弄されながら飛ぶ烏を描いた六曲一双屛風の《白雨烏》など、栖鳳が描いた花と鳥の作品をご覧いただけます。

竹内栖鳳《柳鷺図》1917年 海の見える杜美術館蔵

「百花百鳥」展は7月15日(月・祝)までです。

13日(土)13時半からは、本展最後の展示解説も実施します。この機会にぜひ、海の見える杜美術館が誇るうるわしき花鳥版画の世界をお楽しみください。

うみもり香水瓶コレクション27   香水瓶の花鳥表現

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1758年頃、軟質磁器、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1758, Soft paste porcelain, gilt metal, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 歌川広重 《牡丹に蝶》横大判、天保3-4年 (1832-33)頃、丸屋甚八、海の見える杜美術館 

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 」と題した、当館が所蔵する近世から近代にかけての花鳥版画を集めた展覧会を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも花鳥表現による香水瓶を展示しています。

 例えば、企画展出品作の歌川広重《牡丹に蝶》にならって、「チューリップに蝶」と称したくなる上の画像の作品。こちらは、18世紀半ばのイギリス、チェルシー磁器工房による作品です。ヨーロッパでは、こうした花に誘われた蝶の表現が、香りの優雅さを造形で伝えるために使われました。たしかに本作品も、磁器の鮮やかな色調もあいまって、気品ある瑞々しい花の香りが漂ってくるかのような作品です。

 ところで、抽象表現、具象表現、細密表現等々、世には様々な表現がありますが、この「花鳥表現」に私は、理屈抜きでとても惹かれます。静かな展示室でその表現に行き合うと、動植物のかすかな息遣いをふいに耳にした気がして、立ち止まらずにはいられません。そしてしばし作品を見つめていると、自分自身の呼吸も穏やかに整っていくのを感じます。それゆえ、私にとっては平穏さをもっとも味わえる表現の一つです。

 そのため、この度、香水瓶と花鳥版画を組み合わせることを(香水瓶展示室のある1階と企画展示室の2-3階と、展示室自体は離れていますが)、個人的に非常に楽しんでいます! とりわけ当館は、浮世絵における花鳥画のジャンルを確立した歌川広重の国内最大規模の花鳥版画コレクションを有します。ですので、いわば傑作ぞろいの展示室となっているため、好奇心が刺激され、日欧の花鳥表現をあれこれ比較してみたくなるのです。

 冒頭の「チューリップに蝶」に限らず、もともと自然に基づくテーマを好むイギリスでは、香水瓶にも多くの花鳥表現が見られます。とくに18世紀は、動植物をかたどった繊細な色調の磁器製香水瓶が、盛んに製造されました。

 こちらの作品は、桜の木の上でサクランボをついばむ鳥を表現したチェルシー磁器工房のセント・ボトルです。

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1755-58年、軟質磁器、金、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, 1755-58, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかしながら、どうしても気になってしまうのは、この鳥の種類です。オウムに似た色鮮やかな尾長の鳥で、南国を思わせますね。体長もかなりありそうです。一体、どのような鳥なのでしょう?

 多くの国民が春の風物詩として桜を愛するこの日本では、町でも野でも山でも、至る所で桜を目にする機会に恵まれます。当館の庭にも、全国から移植された10種類以上の桜の木があり、日ごろから馴染み深い樹木といえばやはり桜が真っ先に浮かびます。これほど桜に親しみながらも、私はいまだかつて、桜の木にこのような南国風の大きな鳥が憩っているのを目にしたことはありません。本作品の制作地イギリスも、日本より北に位置しますので、同様と思います。つまり、改めてじっくりと見てみると、桜と鳥のこの組み合わせは、とても奇異なのです! そして、ここにこそ、日本の花鳥版画における表現との違いがあるといえるでしょう。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima  思いのほか、食いしん坊です(笑)。

 江戸時代中期以降の日本の花鳥版画は、八代将軍徳川吉宗が推奨した本草学や、博物学の成果を取り入れながら発展しました。ゆえに、丹念な自然観察に基づく表現が多く見られます。それに対し、ヨーロッパの18世紀の磁器の花鳥表現には、写生を逸脱した、幻想的な表現がしばしば登場します。もちろん、イギリスが属するヨーロッパには、古代ギリシャに始まる博物学の伝統がありますので、その正確な自然観察が、とくにルネサンス以降の芸樹作品に大いに活かされてきました。しかし、こと磁器の図柄、とりわけ18世紀のものとなると、そこにあえて幻想的なアレンジをすることが好まれたのです。以前このブログで取り上げたマイセン磁器の図柄に、なんとも奇想天外な想像上の生き物が描かれていたことと同じですね。現実世界ではお目にかかれない動植物やその組み合わせによって、異国情緒あふれる想像上の楽園が表現されているのです。従って本作品は、そのような当時の人々の夢見た世界を今に伝える《セント・ボトル》です。

 では最後に、現代の花鳥表現をご紹介いたします。今回出品したのは、ラリック社の2003年の限定エディションの香水瓶です。

ラリック社、香水瓶《バタフライ》2003年限定エディション、2003年、透明クリスタル、海の見える杜美術館 LALIQUE, BUTTERFLY FLACON, France, 2003,Transparent crystal , Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 本作品では、2匹の蝶が、ダリアの花の蜜を吸う様子がかたどられています。本作品が見事なのは、本体のクリスタルの透明部分と半透明部分を交差させることで、ダリアの花のボリューム感や立体感を強調している点です。しかも本作品では、クリスタルから透ける香水が、あたかも蝶が懸命に吸う芳醇な密そのもののように見える機知に富んだデザインとなっています。

 ぜひ企画展と合わせて、香水瓶の様々な花鳥表現もお楽しみくださいませ。

 ところで本展示に先立って、新たに収蔵された香水瓶の写真撮影を行いました。撮影をご担当下さったのは、前回同様、東京のエス・アンド・ティ・フォト S&T PHOTOの大塚敏幸氏と尾見重治氏です。

 香水瓶は立体物ですので、ちょっとした角度やライティングで作品の表情が一変します。多種多様な道具を駆使しながら、作品の質がもっともよく表れた瞬間を絶妙に捉えて、次々と写真に収めていかれる様に、ひたすら感服いたしました!

両氏による写真に支えられて、今後も香水瓶の魅力をお伝えしていきたいと思います。

岡村嘉子(特任学芸員)

展覧会情報: 百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 

[会期]2024年6月1日(土)〜2024年7月15日(月・祝) [開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで) [休館日]月曜日(ただし7月15日(月・祝)は開館)

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めました。その矢先にパリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、種々の香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 25  古代エジプトの開口の儀式セット

こんにちは。各地から桜の開花の便りが届き始めた今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

海の見える杜美術館の香水瓶展示室は、いつご来館頂いても香りの歴史が俯瞰できるように、古代エジプトから現代までの様々な香りの容器を多数、年代順に陳列しています。

香水瓶展示室の古代エジプト時代のケース

この春、当館所蔵の最古の作品を収めた古代エジプト時代のケースに、新収蔵品の《開口の儀式セット》が加わりましたので、この機会にご紹介いたします!

こちらの作品です👇

《開口の儀式セット》エジプト、古王国時代(第5-6王朝、紀元前2500-2200年)石灰岩、アラバスター、珪岩アルトン・エドワード・ミルズ(1882-1970)旧蔵、海の見える杜美術館蔵。RITUAL SET for the Opening of the Mouth, Egypt, OLD KINGDOM, 5TH-6TH DYNASTY, C. 2500-2200 B.C. Alabaster, limestone, quartzite, Provenance: Alton Edward MILLS collection, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 石灰岩のプレートの上に、儀式で用いられる道具が整然と収められています。それにしても、このタイトル。「開口の儀式」のセットとは、なにやら謎めいていませんか。この儀式は、口に対してだけではなく、目にも行われたために、しばしば「開口・開眼の儀式」と呼ばれています。では一体、誰もしくは何の目や口を開ける儀式だったのでしょうか?――それは死者であり、より詳しく言うとミイラにされた死者、またときに死者を模した彫像でした。つまり開口の儀式とは、死者の埋葬前に行われる葬祭にまつわる儀式のひとつだったのですね。そのなかでもとくに重視された儀式であったと言われています。そのようなわけで、本作品も古王国時代第5―6王朝と推定される墓から発見されたものです。

 興味深いことに、古代エジプトでは、適切な手順を踏んでこの儀式を行えば、たとえ死後であっても現世と同様に食事をし、話し、見て聞くことができると考えられていました。要は、閉じていた口や目がぱっちり開いて、耳や鼻も機能し、命の再生が可能となるとされたのです。ですので、誰かが亡くなるとその子孫は、それを実現させようと、死者に対して「開口の儀式」を神官たちとともに行いました。

この儀式の始まりは古く、かつ長く行われたものでした。少なくとも先王朝時代のナガダ期(紀元前3800-3100年頃)には既に行われ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-30年頃)まで続けられたと推測されています。その間、ゆうに約3000年間も行われた可能性があるのですね。このことからも、いかにエジプト人にとって、欠くべからざる儀式であったかがわかります! ナガダ期の文書がのこされていないために、詳細は不明であるものの、先端が魚の尻尾の形をした当時の儀式用ナイフが、儀式の痕跡としてあります。

本作品の制作時期は、先王朝時代に次ぐ古王国時代。この時代には文書において儀式についての言及が見られます。第4王朝のクフ王の時代の文書『開口についての小冊子』には、ミイラではなく死者の彫像に対して行われたと書かれていますし、第5王朝に建造された最古のピラミッドとして名高い、かのサッカラのウナス王のピラミッド(第5王朝)にも、玄室の壁面に書かれたピラミッド・テキストにこの儀式が言及されています。ただ残念なのは、当時の言及は、続く中王国時代のコフィン・テキストにおける言及と同様に、いずれも部分的であるため、儀式の全体像を把握することが困難です。そのため、本作品の制作時期における開口の儀式について知ろうとしても、後世の研究者たちが、新王国時代の文書と図像をもとに推測したものの域を出ないのが現状です。

 さて、香りの歴史を考える上で、この儀式が見逃せないのは、様々な香りが用いられた儀式であったからです。以前のブログ(第18回 香水散歩)で、ミイラづくりには香りが不可欠であったとご紹介しましたが、香りの使用に長けたエジプト人は、完成したミイラや、死者の彫像、さらにはそれに捧げる供物に対しても香りを使っていました。

開口の儀式は、清めや、生贄や開口・開眼の道具の提示、そして献酒をはじめとする全75の段階で構成されています。その各段階をひとつずつ丁寧に辿っていきますと、要所要所で香りが重要な役割を担っていたことがわかります。

例えば、死者の彫像やミイラを開口する下準備としてなされる清めでは、様々な種類の水で清められた後に、セム神官〔葬祭を司る神官〕が玉状にしたテレバントの樹液を持ち、彫像やミイラの周りを4周します。ここではテレバントの香りを彫像やミイラに提示することが、さらなる清めとなったのです。また下準備の仕上げには別の香りが焚かれて、彫像やミイラに香り付けがなされました。

 儀式の各段階には、上エジプトと下エジプトそれぞれに向けた儀式がありました。そのうち下エジプトのための儀式では、甘い香りの樹脂を燻蒸した煙が使われました。それは、香煙で頭部を包むとエネルギーが得られると考えられていたからです。

 またミイラや彫像に香りを直接塗ることも重視されました。セム神官は香油や香膏の塗布を行いました。この儀式の最中には、セム神官とは別の神官たちが、セム神官の行為の効果を高めるための朗誦を行っていたと考えられています。面白いことにその朗唱の文句には、眼や顔に美顔料が塗られたという言及もあります。命の再生を願う開口の儀式であるだけに、目や口、鼻、耳など感覚が集中する顔への働きかけが大切だったのですね。

ちなみに、ここで使われた香料は、現在判明しているだけでも、古王国時代には7種類、新王国時代以降には10種類もあったとされています。ただし各成分の詳細は判明していません。というのも、たとえ同じ香りの成分であっても、当時は儀式に応じて名称を変化させていたために、今日では使用香料の特定が難しいのです。しかもこの段階に関する画像も存在しておらず、いまだ謎に包まれた部分も多くあります。

 儀式では他にも、アムシールという長い柄のついた香炉を手に、ミイラや死者の彫像の周りを巡りながら香をくゆらせたり、供物等に香りを付けたりと、命を再生させるために、香りが様々に用いられました。発掘調査と考古学研究が進んで、いつの日か、この儀式で使用された香りがより詳しく判明することを願わずにはいられません。

 さて本作品に話を戻しますと、サイズは23×15.8㎝と意外と小さいものです。いわばミニチュアサイズですね。ミイラや彫像の口や目を開くために使われた儀式用ナイフも全長約14㎝で、思いのほか細いものです。

この儀式用ナイフですが、下の画像でわかる通り、魚の尻尾の形をした先端が、全く鋭利ではありません👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

それは、ナイフとはいえ、この儀式においては実際に刃で口や目に切り込みを入れていたわけではなかったからです。余談ですが、私はこの事実を知って、非常に安堵しました! というのも、ミイラとなった死者の開口や開眼に使われたナイフと聞いて、外科手術でメスが使われる場面を即座に想像し、恐怖で震えていたもので(笑)。儀式では、この魚の尻尾の形のナイフ〔ペシュ=ケシュ・ナイフ〕の他にも手斧なども使われましたが、もちろん血が滴るようなことは行われず、単にそれらをミイラや彫像に提示したり、それらでミイラの目や口に触れたり――きっと優しく撫でる感じでしょう……そうであって欲しいです!!――していたようです。

最後にナイフの両脇に置かれた清めと塗布の容器をよく見てみますと、あらあら不思議。容器は、単に容器の形をしているだけで、水や香膏を入れる穴がほとんどありません! この画像のような、上部にごく浅いくぼみがあるだけです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

これは、これらの道具が開口の儀式の象徴的役割を果たしているにすぎなかったからです。実際には別途用意された水差しや香炉やカップ等で、清めや香油等の塗布がなされたと考えられています。このミニチュアサイズの開口の儀式セットと形状が酷似したものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(古王国時代第5-6王朝のもの)やロンドンの大英博物館(第6王朝のもの)にも所蔵されています。ですので、当館所蔵の作品との比較なども今後行っていきたいと思っています。

さて、当館の《開口の儀式セット》は、スイスで暮らしたイギリス人で、著名なエジプト美術コレクターのアルトン・エドワード・ミルズ氏(1882-1970)の旧蔵品です。彼は20代のときに木綿会社の仕事をきっかけにエジプトに移住して以来、エジプト学に魅せられ、エジプト美術の一大コレクションを築いた人物でした。

当館の庭いっぱいに桜が咲き誇り、自然の旺盛な生命力を実感できるこの季節、ぜひ香水瓶展示室にて、命の再生への願いを香りに込めた古代エジプト人に思いを馳せて頂けたら幸いです。

岡村嘉子(特任学芸員)

松永商舗

当館は2000点を超える引札を収蔵し、2021年には展覧会引札 新年を寿ぐ吉祥のちらしを開催いたしました。引札を配布された会社の中には現在も続く老舗があり、開催時にはその関係の方々から貴重なお話をいただき、展覧会やブログの記事に反映いたしました。

このたび、当館所蔵の松永商鋪様の引札のブログ記事をご覧になられた松永家のお身内の方からご連絡いただき、いろいろなことをご教示いただきました。展覧会後ではありますが、あまりにもそのお話が興味深かったため不躾にも原稿をお願いし、ご快諾いただきましたので、ここに松永商鋪様の記録を掲載させていただきます。

ご関係の方しか知りえない貴重なお話が記されていますので、ぜひご一読ください。

青木隆幸

「松永商鋪について」

猿橋敏雄

引札を発行していた京都の松永商鋪は家内の実家です。
店は20年前程に廃業し、現在は蔵を除き家屋は残っていません。
そのため家内が祖母や母親、叔母などから聞いていた話をもとに現存していたときの店の概要と店を取り巻く周りの状況について書き留めてみました。

(店の概要)
店は京都市下京区松原通麩屋町東入る石不動之町にあり松原通に南面していました。

松原通は平安京の五条通にあたり、東にまっすぐ行くと清水寺にいたります。
その途中、鴨川にかかる松原橋が弁慶と牛若丸が戦ったという伝説のある五条の橋になります。

創業は文化元年(1804年)頃で主に太物を扱う呉服商を営んでいました。
最盛期には奉公人が20人ほどいてそれなりの店だったようで何人かの奉公人に暖簾分けもしたようです。
奉公人の食事は質素なもので、朝はお粥と漬物、夜はそれに船場汁(サバなどの魚と大根などの野菜を煮たもの)などが出た程度のものでした。  

(大丸と新選組)
幕末期、家内の店の東隣り、松原通御幸町東入には大丸呉服店(今の大丸デパート)がありました。
家内の店は屋号を西丸と称して大丸と張り合っていました。
明治になって下京で電話を引いたのも自分の店が1番早いと自慢していたそうです。

また、この松原通は新選組や見廻り組の巡回路でした。
新選組は大丸松原店であのダンダラ模様の制服を作ったようで、そのためか家内の先祖は新選組を壬生浪と呼び嫌っていたようです。

(家のつくり)
家のつくりは典型的な京町家、いわゆる鰻の寝床と呼ばれる間口が狭く、南北に細長い二階建ての家で店を構えていた本宅と普通の町家の別宅が二軒並んで建っていました。

もともとは表に面する店と奥の住居用の建物が別棟で、玄関棟でつながるいわゆる表屋造の建物のようでした。
その一部が幕末の蛤御門の変で起きたどんどん焼きで焼けたため、焼けた家を本宅に改築し、焼け残った家を別宅としたようです。
現在、それを裏付けるものは何も残っていないのですが、奉公人が20人も同じ家の二階に暮らしていたとのことですのでその可能性は高いのではと思っています。
残念ながら今はどちらも残っておらず、蔵だけが現存しております。 

参考までに当時の間取りを私どもの記憶を頼りに再現してみました。

本宅は、入口側から店の間、台所の間、奥の間、奥庭、奥庭の奥に蔵と続き、奥の間から伸びる細長い廊下の横には五右衛門風呂、廁があり、踏石があって奥庭に出れるようになっていました。

部屋の横には通り庭と呼ばれる細長い土間が入口から奥まで通り抜けられるように作られ、その途中におくどさん(かまど)と炊事場があり、その上部には火袋が設けられて吹抜けになっていました。
そのため暑い京都の夏でも風がとおり涼しかったことを覚えています。

また庭には、井戸があり庭木の水やりなどに使っていました。庭木は、槙、ナンテン、センリョウ、マンリョウ、ダイダイなど縁起の良いものが植えれ、灯籠、手水鉢、踏石などが配置されていました。

別宅は、表は店の作りではありませんでしたが坪庭のある典型的な京町家の作りで本宅に比べ小振りなものとなっていました。
本宅と別宅は店の間から行き来できるようになっていました。

(氏子区域について)
店の前の松原通は、祇園さん(八坂神社)と稲荷さん(伏見稲荷大社)の氏子の境になり、北側が祇園さん、南側が稲荷さんの氏子区域でした。
店は北側にありましたので松永家は祇園さんの氏子でした。

(祇園祭と稲荷祭)
祇園さんの祭礼の祇園祭は日本三大祭に数えられ山鉾巡行が有名ですが、かって山鉾は松原通を東から西に巡行していました。
あの狭い松原通を大きな山鉾が巡行するので鉾の屋根に乗る人が町家の屋根や瓦を鉾がぶつからないよう足でけっていたらしく、そのため町家の屋根や瓦に度々被害が及んだようです。
それでも祭のときは店に幕を張り、家宝を店前に飾るなどしていました。
幼い家内は店の二階から山鉾巡行を見物し、厄除けの粽を直接鉾に乗った人から手渡してもらったことを今でも覚えています。

また、稲荷祭のときは山鉾巡行とは逆に神輿が西から東へと練り歩きましたが、左右に振れる荒々しい神輿でよく家屋の一部を壊されたそうです。しかし神事のため誰も文句は言わなかったようです。

(季節ごとの営み)
[お正月]
座敷を正月用にしつらえ、家族全員で新年のあいさつを交わしお祝膳をいただきました。
お雑煮は丸餅に頭芋、大根を入れ白味噌仕立てにしたもので、頭芋は小分けにして正月三が日で食べきるようにしていました。
おくどさん(かまど)にも正月飾りをし、鏡餅をお供えしました。

[桃の節句]
桃の節句には、江戸期から伝えられていた古い雛人形が飾られていましたが、京都では向かって左手にお雛様、右手にお内裏様が飾られていました。

[夏の建具替え]
6月になると、障子や襖を取り払い、葦戸をかけ、網代を敷き詰め少しでも涼しくなるように工夫していました。

[地蔵盆]
8月の終わりには、近所の明王院不動寺(松原不動)で子供たちが楽しみにしていた地蔵盆が行われ、お菓子をいただいたり数珠回しなどをしたりしていました。

[秋の建具替え]
10月には、雪見障子や襖を入れ、段通を敷き詰めて底冷えのする冬に備えました。

[大晦日のをけら詣り]
をけら詣りは、祇園さんの大晦日の風物詩で除夜祭の後、「をけら灯籠」に灯された「をけら火」を火縄(吉兆縄)に点し、火を消さないように縄をくるくると回しながら店に持ち帰り、無病息災を祈願して神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種としていました。燃え残った火縄は火伏せ(火難除け)のお守りとして台所に祀っていました。

以上