展覧会の一枚 《許由巣父図》

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(2)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(1)

前期展示の終わりも間近に迫ってきました。
現在展示中の作品紹介として最後に取り上げるのは、
一見すると地味な、水墨の人物画です。

題名にある「許由巣父(きょゆう そうほ)」とは、
古代中国の伝説に登場する人物です。この作品では、
滝に手を当てているのが許由、牛を引いているのが巣父です。

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(4)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(3)
右が許由、左が巣父です

この絵はなにを描いたものなのでしょうか?
許由は滝のそばでなにをしているのでしょうか?

この絵のもととなったのは、こんなお話です。

大昔、中国は堯(ぎょう)という君主が治めていました。ある時堯は、ひとりの賢人が世にあることを知ります。それが許由です。堯は、許由に天下を譲ろうとします。
しかし許由はそれを断り、山に隠棲してしまいます。あきらめきれない堯は、許由を再び呼んで、またも全国を治めるようにいいます。許由はこれに対し、汚い言葉を聞いてしまったといって、耳を洗ったのです。

さて、この様子を見たのが巣父です。彼は牛に水を飲ませようとしていましたが、上流で許由が耳を洗っているのを見かけます。巣父が許由になにをしているのかと問うと、許由は、汚れた言葉を耳にしたので、耳を洗っているのだと答えます。巣父はこれを聞いて、「そんな汚れた耳を洗った水を、私の牛に飲ませるわけにはいかないな」といって去ってしまいました。

この逸話に示される許由と巣父は、世俗の栄達に惑わされない高潔な人物の象徴として、日本においても『徒然草』や『太平記』などの文学作品に記され、画題としても好まれました。このような画題の絵は、為政者が自身を戒めるものとされました。こうしたジャンルを「鑑戒画(かんかいが)」といいます。

この《許由巣父図》のなかでも最も著名といえるのが、安土城の障壁画でしょう。織田信長の事蹟を記した『信長公記』によると、安土城天守閣の第四重の八畳敷の間には、「きょゆう耳をあらへば、そうほ牛を牽き帰る所」が描かれていたそうです。

この障壁画を描いたのは、安土桃山時代を代表する画家狩野永徳(かのうえいとく)です。残念ながらこの絵は安土城の落城とともに焼失してしまいましたが、永徳が描いた別の《許由巣父図》が現在、東京国立博物館に所蔵されています。本作の画風は永徳よりもやや下る時代に描かれたと判断されますが、その図様はともによく似ています。

本作は、どこかの大名が自身を戒めるという建前で描かせたのでしょう。ただし注文主の心の奥にはもしかすると、この絵の主題とは裏腹に、天下布武をとなえた信長に対する意識があったのかもしれません。

田中伝

ギャラリートークを開催いたしました!

7月19日土曜日、学芸員によるギャラリートークを開催いたしました。

直前に雷雨があったのでお集まりいただけるか不安だったのですが、雨もすぐ上がり、多くのお客様に参加していただくことができました。

20140719ギャラリートークを開催いたしました1
↑皆様、質問されたりメモを取られたり、とても熱心に聞いてくださいました。ありがとうございました!

20140719ギャラリートークを開催いたしました2
↑新兵器・タブレットを片手に、作品の細部を説明する学芸員の田中。

今回の展示は宗教美術、それも平安時代の装飾経や室町時代の神様や仏様の図像などの古いものが多いので、何が描かれているのか分からない、古い時代のことは難しくて少しハードルが高い…と感じられる方もおられるかもしれませんが、作品の背景にあった信仰や鑑賞ポイントなどの説明をお聞きになれば、きっとお楽しみいただけると思います。

本展のギャラリートークは、今後以下の通り開催いたします。
是非足をお運びください。

【当館学芸員によるギャラリートーク】
8月2日(土)、8月16日(土)、9月13日(土)、10月11日(土)
14:00から30分程度
会場:海の見える杜美術館展示室
定員:各回先着30名様
参加:無料(入館料別途必要)予約不要

皆様のご参加をお待ち申し上げます。

 

森下麻衣子

 

中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
初代中村雁治郎(1860-1935、成駒屋)は、地方回りの下積みから花形役者に上りつめた歌舞伎役者で「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と戯れ唄になるほど、その人気は大変なものでした。

芸に対する姿勢は貪欲で、絶えず研究を怠らず、酒が飲めない鴈治郎が酒乱の役を務めることになったときは、酒好きの役者を自宅に招いて酒をたらふくふるまって、大暴れするさまを観察し、その姿を舞台で再現して喝采を浴びた有名な逸話も残っています。

芸の道に真摯に取り組む姿勢や、社会を巻き込む人気ぶりは、竹内栖鳳ととてもよく似ています。異なる世界で生きる二人が気のおけない付き合いをしていたのは、きっと心の奥深くまで通じ合うものがあったからではないでしょうか。

ここでは、雁治郎と栖鳳がたびたび繰り広げた大宴会に関する記録に、当館所蔵の写真を添えてその交流ぶりを感じていただきたいと思います。飾りつけに工夫を凝らした会場で、栖軍・雁軍に分かれて様々なゲームを行い、豪華賞品があたる大掛かりな遊びです。「代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」など、盛り上げるための様々な仕掛けもありました。

それでは、二人の粋な遊びっぷりをご覧ください。

 

(栖鳳が語る大宴会の思い出)

話は期せずして顔見世興行に入り、今は昔、栖鳳君の御池の画室で、興行後の余興が例年行われたことに及ぶ。(竹内栖鳳)君は言う。
そのころ、成駒屋は顔見世に出演すべく汽車に乗ると、まず胸を打つのは、当の興行よりは御池の余興には、何を演じようか、何か変わった趣向もがな、とその事にばかり思いふけったそうで、それほど、この余興には力を入れてくれました。
ある時のこと、二十四孝の狐火の所作を、人形で見せてくれましたが、なかなか堂に入ったものでした。それは雁治郎が役者になる前、はじめは人形使いになろうと稽古したことがあるそうで、あのくらいの人になると、何をしてもソツはありませぬ。
また、ある時幸四郎が「汐汲み」を舞ってくれましたが、これも見事でした。その外、様々の俳優が思い思いの趣向を凝らして余興をしてくれましたので、この会合は年一年盛んになり、窓から外へ桟敷までして、大入満員、それでも入りきれぬほどの盛会でしたが、何分にも電気がゴウゴウと音を立てて鳴りだし、危険この上もなく、もし火事でも出して、近所合壁へご迷惑をかけるようなことになってはと心配して、四・五年前から、フッツリやめました。(掲載文献1)

 

(栖鳳の弟子が語る大宴会の思い出)

山本(紅雲) 素人顔見世をやっていましたな。先生の一番広い画室で、顔見世興行が終わった翌日に、大阪の中村雁治郎さんの一党だけ呼んでみんな芝居するんです。長いこと続けてやっていましたな。
池田(遙邨) ええ。魁車優がお夏狂乱を踊ったのですが、あの目が醒めるような派手な舞台衣装はいまでも目に浮かぶようです。
山本 芝居が終わったあとの余興に、おもりをつけた風船をうちわであおいで飛ばして、鳥居をくぐらせ、景品の名をしるした紙に風船が落ちた人には栖鳳先生の絵があたるというお遊びもあったのです。(写真1)
池田 扇子を投げる『投扇遊び』もやりましたな。栖鳳先生はそういう遊びが好きでしたね。(写真2)   (掲載文献2)

 

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (7)
写真1 大正(1912‐1926)前期
風船を煽いで鳥居をくぐらせて、商品を当てるゲーム。

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写真2 第1回大会、明治36年(1903)頃
投扇興(とうせんきょう) 台にたてられた的に向かって扇を投げて、倒れた形で得点を競う。

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写真2(部分)
竹内栖鳳のドヤ顔

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写真2(部分)
柱にかかる、余興のルール
「・・・・・
一、競技中は座席を立去るべからず
一、栖軍競技に優勝し商品受領の場合、若し雁軍の代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」

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写真3 大正(1912‐1926)前期
だるま競争

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写真4 大正(1912‐1926)後期
パチンコゲーム

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写真5 第1回大会、明治36年(1903)頃
ゲーム大会後の集合写真

掲載文献1
・「歳晩閑談(二) 竹内栖鳳画伯と語る」、『京都日出新聞』所収、日出新聞社、昭和4年12月20日
・平野重光編『栖鳳芸談』、京都新聞社、1994年、第9章「竹内栖鳳/芸事に遊ぶ」頁331
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

掲載文献2
「美を語る9竹内栖鳳、師・竹内栖鳳の魅力とその作品、鼎談 池田遙邨(日本画家) 山本紅雲(日本画家) 田中日佐夫(美術評論家)」『アート・トップ』No.96 12・1月号所収、芸術新聞社、1986年12月1日発行 頁69

 

11月1日から開催の「竹内栖鳳」展には、竹内栖鳳と中村雁治郎一派が合作した作品を展示します。その絵を見るときには、この心温まる交流があったことを思い出してください。

さち

青木隆幸

「生誕150年記念 竹内栖鳳」特設ページはこちら

竹内栖鳳展に向けて2

現在、11月1日から始まる竹内栖鳳展の展示案を考えている最中です。

以前のブログ記事(花と宴展プレ公開1 第一・二展示室花と宴展プレ公開2 第三・四展示室)でもご覧いただいたように、当館はいつも展示案を考える際に模型を使うのですが、栖鳳展のためにもりひこがさらに大きな模型を手作りしました!
この模型を囲みながら、どうやって作品を展示しようかとスタッフで話し合いをしています。

20140711竹内栖鳳展に向けて2 (2)

展示したい作品はたくさんあるけれど、見やすく安全に展示できなくてはなりません。何度も案を練り直しています。
もうここには展示できないのでは…と思えても、話し合いの中で、「壁を取り払えば大丈夫!」「ケースを作れば展示できる!」などなど、思いも寄らないアイデアが出てきます。
今後も検討を重ねて、栖鳳とその作品の魅力がいっぱい詰まった展示にしたいものです。

それにしてもこの模型よく出来ていますよ!実際の美術館の1/20の大きさです。

20140711竹内栖鳳展に向けて2 (1)
階段までバッチリ再現。

これに色を塗って、作品の模型を入れるのが楽しみです。雰囲気が出るように人間の模型も入れたらいいと思います。

森下麻衣子
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竹内栖鳳展チラシ発送

今年11月1日から開催する、生誕150年記念『竹内栖鳳』展のチラシが出来上がりました。

20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (1)20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (2)

ボランティアスタッフの力をおかりして、発送作業を行いました。

20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (3)

一人でも多く、皆様のお手元に届くことを願っています。

 

竹内栖鳳は、近代日本を代表する画家のひとりです。

詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.umam.jp/seiho/

うみひこ

展覧会の一枚 《妙法蓮華経 巻第五(鳥下絵装飾経)》 平安時代 11世紀

仏教の経典は「法身舎利(ほっしんしゃり)」と呼ばれることがあります。これは、経典は釈迦の教えを書き記したものであるから、舎利(釈迦の骨)にも等しい価値を持つものである、という意味です。
こうした考えにより、経典は仏そのものと同等の存在であると見なされ、崇拝の対象となりました。そして経典が崇拝の対象となるならば、経はそれにふさわしいかたちでなければならないということで、美しい意匠が施された写経が数多く制作されました。こうした経を、「装飾経」と呼び習わします。
とりわけ平安時代に天台宗により幅広い階層に広まった経典である『妙法蓮華経(法華経)』は、仏道にまつわる造形活動を「作善(さぜん)」、つまり仏教の善行のひとつとして説いていることから、時の貴族たちの間では、きらびやかに飾り立てられた『法華経』を作って供養することが、一種のステータスシンボルにもなっていました。
今回ご紹介する《妙法蓮華経 巻第五》は、こうした歴史的な背景のなかで作られた装飾経のひとつです。

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続きを読む(青色の日付あるいはContinue readingを押してください)

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栖鳳 荒れ狂う海をみる

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風濤(ふうとう) 1918(大正7)年ごろ 当館蔵

重い雲に閉ざされた空の下、壁のようにそそり立つ荒波の上を、一羽の鶴が烈風にひるまず翼をひろげて飛んでいます。

画面左下部には、大きく隆起する海面が垣間見せる深い青、わずかな陽光に透かされて輝く波の緑、そして波に巻き上げられる海砂を表す金を、うねる動きそのままにダイナミックな筆遣いで描き、そこに真っ白な絵具を散らして、そのもっとも印象的な瞬間を劇的にとどめています。一方、画面右半部に目を向けると、中央から放射線状に広がる波頂が崩れ落ちながら、この絵と対峙する鑑賞者の眼前へと迫り、まるでアニメーション映画が1コマずつそのすがたを変えていくような躍動感に満ちあふれています。部分的には意味を持たない色とかたちが、全体を通して見ると、ひとつの画面の中に静と動がせめぎ合い、またたく間にその姿を変える荒海を表現するのに欠くことのできない要素へと変貌しています。

このような、抽象的ともいえる細部描写を圧倒的なリアリズムへと昇華させる表現は、対象の本質をつかむため、飽くことなく観察し続けた者しか達成し得ない境地ではないでしょうか。栖鳳はことあるごとに観察を繰り返したはずです。

この作品を制作した13年ほど後の話ですが、竹内栖鳳が荒波を観察したときの逸話が残されています。

「(1931(昭和6)年ごろの)冬、沼津の海岸に四五日滞在していると、急に大しけが始まって、海岸はごうごうと怒涛が巻き崩れた。すると先生(栖鳳)はその怒涛を見るという。見ると言ったって、老人には無理な芸当で、念のため筆者(栖鳳の長男竹内逸)は海岸へ出てみたが、風は強く、寒さは激しく、砂は散り、しぶきが飛ぶ。だがどうしても父は海岸へ出るという。仕方ないから、父の体にドテラを着せ、頭から耳へずぼりと帽子をかぶせ、眼には水中眼鏡をかけ、口と鼻とは日本手拭で巻き、さらに合羽をどっさり買ってきて、頭から腰のあたりまで包み、それを両腕もろとも帯やひもでからめ上げてしまった。まあ案山子かミイラのような姿で、それを筆者と女中との二人で海岸へ押し出していった。だが困ったことには、あまりの強風で、老人は後ろへ倒れそうになる。そこで二人は支柱のように後ろから肩と腰とを押している。そうなればむしろ老人は平気だが、二人は防寒も防水も防砂もやっていない。しかもそれが10分か15分なら我慢するが、30分以上もじっと逆巻く怒涛を見ている・・・」

(竹内逸「湯河原対話」『栖鳳閑話』所収、改造社、1936年、頁63〜64。転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。)

 

「風濤(ふうとう)」は、11月1日から開催の『生誕150年記念 竹内栖鳳』展に出品いたします。

さち

青木隆幸

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新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

1933(昭和8)年5月、新渡戸稲造が京都に竹内栖鳳と佐伯理一郎を訪ね、瓢亭で会食した時の記念写真です。

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (7)後方左から佐伯、新渡戸、栖鳳

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

この3人はとても仲が良く、特に新渡戸は、著書で竹内栖鳳について章を割いて思い出を語っているほどです。-参考資料①

この写真について、会食を企画した新渡戸稲造の当時の状況から考えてみます。
1932(昭和7)年2月4日、講演先の四国松山で「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言したことが日本中で非難され、その2か月後に満州事変を起こした日本の国際社会孤立を防ぐためアメリカにわたって日本の立場を訴えるものの理解を得られず、翌1933年(昭和8年)3月27日、ついに日本は国際連盟脱退を表明。この写真はその2か月後の失意のどん底のなかで栖鳳を訪ね、いろいろな相談をしたときに撮影されたものです。-参考資料②

新渡戸は同年10月15日、日本代表団団長として出席した、カナダで開かれた太平洋問題調査会議を終えた直後にその地で帰らぬ人となりました。本能的に自分の余命を感じて長年交流を温めてきた京都の友を訪問し、この世の記念に写真に納まったのではないかと思えてなりません。

これらの写真は京都市丸太町寺町のサン写真館に依頼して作成されました。記念としてそれぞれの手元へ配られたようです。-参考資料③

以下 当館所蔵写真帳2点

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (4)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (5)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (6)

 

 

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (1)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (2)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (3)

 

参考資料

①新渡戸稲造著『偉人群像』(実業之日本社, 1931)頁363~ 文字は適宜当用漢字にあらためた。

第31章  竹内栖鳳画伯  神韻縹渺たる画人

明治40年ごろであった。わが輩が高等学校に奉職しているころ、毎日昼食を職員と共にする間、雑多な問題が話題に上がった中、最もしばしば話題となったのは絵画のことであった。

教授の中にはその道に通じた人が多かったのと、また解らぬ者さえ名画をほしい一念から、絵と画家がしばしば論ぜられた。

わが輩は絵画も解らず、また美術家の中には、殆ど知己なるものが皆無であったため、何事も事珍しく聞いておったが、ある日2,3人のいうことに、画家中ではおそらく人物としては、栖鳳の上に位するものがなかろう、と、この一言がわが輩の耳に異様に響いた。

何故なれば田舎武士に生まれたわが輩には、殊に生家では父親は美術に趣味もあったが、寧ろ実務の方に興味があって、祖父は殆どヤンキー的(ママ)な実際家であり、そのまた親たる曾祖父は軍学者であった関係上、絵画などは単なる慰み物で、これを商売にする絵描きの如きは、人物としては、コンマ以下の如く思い倣しておった。

しかしのみならず、美術家と称する人の風采を見ても、だらしなく締りなき態度であったから、栖鳳氏が高潔なる士であるとの言葉を聞いて急に日本絵画に注意を払う気分になった。展覧会でもあれば、従来全然怠っている審美的観賞を発揚せんとの心がけさえ起った。

その後数年ならずして京都に滞在中、友人の佐伯理一郎氏に竹内栖鳳という人は、京都の画家だそうだが、画家に似合わない人物と聞いたが「君知っているか」と、尋ねた所、同氏は殆ど極端なる言葉をつらねて栖鳳氏の技術と、人格を賞め讃えた。

その翌日であったと思うが、佐伯君が同伴して栖鳳氏を訪れた。一見して同氏の非凡なることを認めることが出来る。その非凡とは芸術に関することではなく(この点はわが輩にはわからぬから)、彼の容貌り(ママ)物のいい方、風采、すべて彼の性質を現す事柄がわが輩に異様な印象を与えた。

彼の言の如き頗る謙遜で、京都式に穏やかにしかも内容のある一言一句にさすが、名人の名を博するだけある。

 

②柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり』((株)銀の鈴社, 2012)頁208

「これから日本を、美術と文学を通じて外国に紹介しなければならない。そのためには、竹内画伯に聞いておかねばならないことがたくさんある」と何度も繰り返し、3人での会食を楽しみました。もしかしたら、政治的な交渉にすでに限界を感じ、日本の文化を通じて、日本の真価を世界に認めてもらおうと考えていたのかもしれません。

 

③左から佐伯、新渡戸、竹内の写真は、同志社大学同志社社史資料センターにも保存されていることが『新渡戸稲造ものがたり』に紹介されています。

さち

青木隆幸

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一生一硯

竹内栖鳳が生涯を通じて大切に使っていた硯です。 20140621一生一硯 (8)

栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。

20140621一生一硯 (1)

「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。   以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (12) 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (10)「一生一硯」掲載ページ   20140621一生一硯 (7) 「竹内栖鳳遺作展覧会目録」20140621一生一硯 (6)「竹内家出品」硯の部分   一生一硯収納箱 20140621一生一硯 (9) 「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」

この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。   以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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竹内禎子独唱会

当館の所蔵する竹内栖鳳資料の中の一枚です。
舞台左袖に「ソプラノ独唱 竹内・・・」の文字をかろうじて読む事が出来ました。

20140618竹内禎子独唱会

竹内栖鳳の家系で声楽にかかわる人物に、栖鳳の長男、逸三の妻「竹内禎子」がいます。

日本の洋楽、特に京都における声楽にとって重要な人物です。同志社女子大学ホームページや京都混声合唱団ホームページでその活動の一部を確認する事が出来ます。

「竹内禎子」の舞台で「独唱」と名の付く催事は、1930年(昭和5)11月10日または19日に京都市公会堂(岡崎公会堂)で行われた「竹内禎子夫人帰朝独唱会」が確認されましたので、この写真はその時のものの可能性があるのですが、当時の京都市公会堂の舞台写真との照合など基本調査がまだ終わっていないので確定ではありません。

ところで、京都混声合唱団のホームページには、1925(大正14)年に産声をあげた創立時の中心メンバーは「稲畑登美子、吉田恒三、柳兼子、近藤義次、竹内禎子、上村いさを(けい)、加藤榮(千恵)ほか」とあります。
稲畑登美子女史は、1877年(明治10)にフランスのリヨンに留学した稲畑産業株式会社創業者、稲畑勝太郎の妻です。竹内栖鳳が1900年(明治33)にリヨンに立ち寄るに際して交信はなかったのでしょうか。

その京都混声合唱団を後援する「京都音楽協会」顧問には、竹内栖鳳と山元春挙が名前を連ねていますが、京都の音楽界にどのようなかかわりを持っていたのでしょうか。

この一枚の写真が、いろいろなことに示唆を与えてくれました。

 

調査の過程で得た文献を1つ紹介します。
⦅ ⦆はさちによる注です。

「京都音楽史」編纂主任 吉田恒三 発行所 京都音楽協会  昭和17年6月28日発行

⦅p315~⦆
昭和3年 京都混声合唱団発表会に対する後援

この合唱団ははじめ同声会京都支部の会員が創意成立したもので柳兼子、竹内禎子など熱心なる支持者であった、その後会員も次第に多くなった、第一回の発表は昭和2年11月19日同志社チャペルであったのでこれは第二回で、本会(京都音楽協会)はこれを講演したのである。

曲目
1、       カヴァレリア ルスティカナ開幕の合唱       マスカニ作
2、 (イ)       逝ける女                                          ベンネケ
(ロ)  夜                                                     シューベルト
3、 (イ)       送別の歌                                          信時 潔
(ロ)  母の心                                              ブルッフ
4、 (イ)  帰雁                                                 ハウプトマン
(ロ)  鶯                                                     メンデルスゾーン
5、ドンファン                                                            モーツァルト
(二重唱  近藤義次 竹内禎子)
6、山の乙女の踊り(イゴル公より)                         ボロディン作
7、森の讃歌                                                               ブルッフ作
8、真の幸福への讃歌                                                 ヘンデル作
(二重唱  竹内禎子 柳兼子)
9、主よ御恵を 栄光神にあれ(第12彌撒⦅ミサ⦆)曲)           モーツァルト

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竹内禎子夫人帰朝独唱会 11月19日⦅ママ⦆於市公会堂
同夫人はさきに夫君逸三氏と共に欧米に遊び永くフランスに滞留声楽研究を重ねてこのほど帰朝、その第一声を同志社合唱団主催のもとに発足せらるるので本会はこれを後援した、ピアノはニコルスカヤ嬢であった。

曲目
第1部
1、       独唱
イ、楽園の美しき三羽烏(民謡)                          ラヴェル
ロ、ニコレット(民謡)                                   ラヴェル
ハ、歌を唄ひし追憶                                          アーン
ニ、風景                                                            アーン
ホ、五月                                                            アーン
2、   イ、マダム・バターフライより                   プッチニ
静かなる海に
ロ、ポエムより                                            プッチニ
人は私をミミと呼ぶ

第2部
1、       ピアノ・ソロ
イ、ガボットとヴァリエーション                         ラムデュ
ロ、円舞曲 第15番                                            ブラームス
ハ、スタッカー練習曲                                          ルビンシュタイン
2、独唱
イ、何処へ                                                        シューベルト
ロ、モムースのアリア                                       バッハ
ハ、すみれ                                                        スカラッティ
3、 イ、白銀の指輪                                                 シャミナード
ロ、歌劇 ヘロデ王より                                   マスネ
サロメの嘆き

京都楽団年表⦅ページ表記なし 竹内関係抜き書き⦆
大正6年11月                   ペツォルド夫人独演会  竹内夫人助奏
Agrand Benefit Concert. Petzold
主、三一教会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正10年12月7日          ペツォルド夫人、竹内禎子夫人音楽大演奏会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正11年4月21日          ショルツ氏・竹内夫人音楽演奏会
市公会堂

大正14年5月24日          ウエラ・オース嬢 竹内禎子夫人演奏会
鯖戸英郎氏 主、音楽同志会
市公会堂

大正15年6月4日            オルガン独奏会 竹内禎子女史助演
同志社

大正15年6月19日          セリスト・ストゥーピン氏演奏会 竹内禎子氏助演
市公会堂

昭和5年11月10日⦅ママ⦆              竹内禎子女史独唱会

⦅注意:本文と年表とで独唱会の日付が異なる⦆

さち

青木隆幸
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