「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展、後期展示開催中です

10月に入ってようやく涼しくなり、杜の遊歩道の木々も少しずつ色づいてきました。

秋といえば行楽のシーズン、紅葉狩りや秋の味覚を味わいにお出かけになる方も多いのではないでしょうか。

今年のように猛暑が続くとなかなか四季を感じることが難しくなってしまいますが、四季のある日本では、古来より、季節や時の移ろいが多くの芸術作品で表現されてきました。絵画作品にも、春といえば梅や桜、夏は涼が感じられる滝や川の流れ、秋は鮮やかに色づいた紅葉、冬は雪を頂いた山といった季節を表すモチーフが数多く見うけられます。

現在開催中の「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展でも、秋を感じられる作品がいくつか展示されています。

今回はその中でも、本展覧会が初公開となる《西行物語絵巻》をご紹介します。

《西行物語絵巻》は平安時代末期の著名な歌人、西行(1118-1190)の和歌やエピソードをまとめた『西行物語』(13世紀中頃成立)を絵巻に仕立てたものです。《西行物語絵巻》は3系統に大別できますが、本作品は明応9年(1500)に原本が制作されたとされる采女本(うねめぼん)の系統に連なる江戸時代の作品です。

采女本には各地の名所歌枕の景色とそれらを連想させる景物が主として描かれており、西行の行状だけでなく、古来より詠み継がれてきた歌枕への関心が見てとれます。

西行に関する物語は謡曲『西行桜』『遊行桜』『江口』の題材にもなり、江戸時代には多くの采女本系《西行物語絵巻》が作られました。

各地の名所歌枕に西行にまつわるエピソードが残っていることからも、旅に出かけることが困難であった時代に歌枕を訪ね歩く西行は、歌詠みたちだけでなく多くの人々の憧れだったことがうかがえます。

《西行物語絵巻》(部分・猿沢池)2巻のうち巻下、江戸時代

こちらは、奈良の興福寺に参詣した西行が猿沢池のほとりで、この池にかつて身を投げた采女(うねめ、奈良時代の天皇に仕えた女官)の悲恋を思い出し和歌を詠んだ場面です。

水辺には笠を被った旅姿の西行が風に吹かれながらたたずんでいます。

画面手前には鮮やかに色づいた紅葉の木、向こう側にはきょろりとした目元が愛らしい鹿が5頭描かれています。

鹿の毛並みは丁寧に描かれ、紅葉の葉はその色づきの移ろいを朱線の濃淡や色の塗り方をかえて表現されており、絵師の細やかな気配りが感じられます。

実は、詞書にも、西行がこの場面で詠んだ歌にも、鹿や紅葉という文言はありません。

藤原氏の氏神である春日神の使いである鹿は、神仏習合思想のもと、同じく藤原氏の氏寺である興福寺、そして奈良を表すモチーフとして本作品には描かれています。

また、繁殖期の秋に鳴く牡鹿は、恋しい人を想う恋心とともに万葉集の時代から歌に詠まれ、秋を示すモチーフとして表現されてきました。当初は萩などの秋草とともに歌に詠まれることが多かった鹿は、時代が下がるにつれて、同じく秋を示す紅葉との取り合わせが定着し、本作品でも紅葉が描き添えられているのではないかと考えられます。

本作品の実直な筆遣いによる薄墨の線や、さっと刷かれた淡い色彩による空間や山水の表現には、平明ながらも西行の和歌が持つもの悲しさがよく表れており、しみじみとした味わいがあります。

西行の和歌とともにご鑑賞いただければと思います。

《西行物語絵巻》(部分・伊勢)2巻のうち巻下、江戸時代

この他にも、小松均《石廊崎》や池田遙邨《佐夜中山之富嶽》《深耶馬渓》《ぐるりとまはって枯山》など、秋の訪れを感じさせてくれる作品をご覧いただけます。

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展は10月22日(日)までです。

うみもりテラスからの日本三景・安芸の宮島の眺めとともに、美術館での紅葉狩りをぜひお楽しみください。

芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー、開催中です

現在、海の見える杜美術館では「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展を開催しています。

本展は、古来より芸術家たちのインスピレーションの源であった「旅」に注目します。彼らは各地の名所旧跡を旅して様々な風物に接し、旅先での体験を自身の作品制作に活かしてきました。その様相を当館のコレクションでたどっていきます。

今回は江戸時代の巻子作品、与謝蕪村の《奥の細道画巻》をご紹介します。

俳聖・松尾芭蕉(1644~1694)の名著、俳諧紀行文『おくのほそ道』を、絵師であり俳諧師でもある与謝蕪村(1716~1784)が全文を巻子に書き写し、いくつかの場面に絵をつけるという趣向の作品です。

蕪村といえば、京都を代表する絵師の一人であり、また俳諧の宗匠としてもよく知られた存在です。絵と俳諧の両方を極めて、両者を融合させた「俳画芸術」を完成させたことが知られています。

本作が作られたのは安永7年(1778)頃ですが、この時期(18世紀後半頃)は、俳句を詠む俳諧師たちの間で、芭蕉の俳諧芸術を復興させようという運動が大いに盛り上がっている時期でした。蕪村も俳諧宗匠として蕉風復興運動を積極的に盛り上げていて、奥の細道をテーマにした制作もその一環といえます。

当館所蔵作品の他に、京都国立博物館に2点、逸翁美術館に1点、同様の巻子が現存しており、山形県美術館には屏風形式の作品も伝わっています。蕪村自身が「是等は最早愚老生涯の大業」と自負しており、芭蕉を顕彰する大仕事だという意欲がうかがえます。


与謝蕪村《奥の細道画巻》(部分・那須野)
1巻 江戸時代、安永7年(1778)(会期中巻替あり・前期)

さて、こちらは巻子の前半部分、江戸を出発した芭蕉と曾良が、那須野(現在の栃木県北部)にある黒羽というところを訪れた場面です。二人がある村で馬を借りたところ、村の幼い子供たちが二人、馬のあとをついてきたそうです。

なんとも愛らしい様子の二人は兄妹のように見えます。
何かの遊びの途中だったのか、棒きれを持った少年と、その後ろを一生懸命追いかける少女。
少女は「かさね」という名前でした。
名前までもが可憐な彼女の様子を感慨深く思い、曾良が有名な句を詠んでいます。

かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名(な)成(なる)べし 
(かさねとはとても可愛らしい名前だが、花に例えるなら花びらを八重に重ねた八重撫子だろう)

蕪村は本作の制作にあたり、このエピソードを『おくのほそ道』に取り上げた芭蕉の感動を最大限に汲み取って、幼い子供たちの可愛らしい無邪気な様子を丁寧に描いています。芭蕉が残した名文学を、いかに解釈して、詩と書と画で表現するか。俳画芸術の完成者として知られた蕪村の力量が光ります。

《奥の細道画巻》は全長18メートルを超える長大な巻子で、残念ながら当館展示室のケース内では全てを一度に展示することができません。(一番長いケースで14メートルはあるのですが、それでも足りません)
そのため、会期中に巻替えを行い、9月24日(日)までは画巻の前半部分、9月26日(火)からは後半部分をご覧いただけます。

ぜひ巻頭から巻末までお見逃しなくご覧ください。

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2」から続く

第5章 新しい時代の風景を描く

昔ながらの吉祥の図様と並んで、新時代の流行も引札に取り入れられてきました。汽車や自動車、飛行機など、当時の人たちが初めて目にする新しい乗り物が行き交う風景や、郵便、電話といった新たな通信手段や、または西洋楽器を弾く、犬を飼う、列車で旅行するなどの最先端の生活文化が、活気ある様子で引札に描かれます。今のようにテレビもインターネットもない時代、とりわけ情報がいきわたりにくい地域で生活する人々にとって、引札は都市の流行を知るためのメディアでもありました。色鮮やかに描かれた目を驚かすような新時代の文化に人々は心躍らせたことでしょう。そしてそれは富や発展を感じさせるものでもあったことでしょう。
当時の人々が憧れた新時代の生活の様子をお楽しみください。

第4展示室1

第4展示室1

5-01 汽車 船 松 "あきなひ はんえい" 明治三十三年一九〇〇頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-01
汽車 船 松 “あきなひ はんえい”
明治三十三年一九〇〇頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-01 画面右奥の港の方からこちらに向かって勢いよく汽車が走ってきます。大量の荷物や人を輸送する近代の乗物は繁栄の象徴でもあったのでしょう。松の根元に立てられた行先標には「あきなひ(商い)」「はんえい(繁栄)」の文字があります。

5-02 女性 電車 市街風景 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02
女性 電車 市街風景
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02 明治二十八年、京都で日本初の電車が走り、その後、各都市に広まりました。この引札には電車の走る都会と、装った女性が描かれています。これを配布した木村商店の意図としては、都会に赴く際のよそ行きのおしゃれには当店の小間物を、といったところでしょうか。

5-03 自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-03
自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-03 富士山を背景に、東宮御所、気球、飛行機、自動車が描かれています。当時の多くの人々が憧れを抱いていたであろう、近代的な生活です。この引札が配られた姫路の人々の目にとっても、新年を寿ぐにふさわしい希望に満ちた光景に映ったことでしょう。

5-04 七福神 飛行機 日の出 富士 明治末~大正初期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04
七福神 飛行機 日の出 富士
明治末~大正初期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04 夜明けの富士を背景に、七福神が飛行機に乗って天高く舞い上っています。恵比寿大黒が搭乗しているのは、初めてドーバー海峡を横断した飛行機としても知られるブレリオ機、その上の箱形の機体は日本でも購入され初の試験飛行にも使われたアンリ・ファルマン機をモデルにしているようです。

5-05 幻灯機 母子 松梅 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-05
幻灯機 母子 松梅
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-05 明治二十年代に幻灯機、今でいうところのスライド映写機がブームになり、所有する家もあらわれました。このころは電球ではなくオイルランプで照らしていました。引札を配る際には白地の部分に字が入れられ、幻灯機に映る店の名前をみんなで見ているという場面になります。

5-06 電話 恵比寿大黒 "福人銀行…" 明治二十六年(一八九三)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-06
電話 恵比寿大黒 “福人銀行…”
明治二十六年(一八九三)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-06 この絵の電話機はガワ―ベル電話機といい、日本で使用された電話の中では最も古い型のひとつです。引札に書かれた通話内容を読んでみると、当時は「もしもし」ではなく「おいおい」「はいはい」と呼びかけていることがわかります。

5-07 電話 女性 恵比寿 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07
電話 女性 恵比寿
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07 明治時代は電話が各家庭まで普及していなかったので、郵便局に設けられた電話所で、呼び出してもらって通話をしていました。なお、この絵の電話機は明治二十九年に登場したデルビル磁石式壁掛電話機です。

5-08 往復葉書 郵便差出箱 民衆 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-08
往復葉書 郵便差出箱 民衆
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-08 郵便は新しい時代を象徴する制度のひとつでした。国民への普及は早く、また各商店にとっても荷物の発送など欠かすことのできないサービスとなりました。本作品のように、利便性を兼ねて郵便料金早見表の付いた引札がつくられました。

5-09 郵便局 郵便車両 郵便差出箱 "大勉強…" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09
郵便局 郵便車両 郵便差出箱 “大勉強…”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09 赤色に制定される明治四十一年まで、このような黒色のポストが使われていました。右側の赤色の車は小包郵便物配達用函車です。筆文字で、荷造り具一式を販売している中西幸次郎とあります。この絵にぴったりの商店ですね。

5-10 五十嵐 豊岳 新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 "勉強家…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

5-10
五十嵐 豊岳
新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 “勉強家…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

5-10 明治時代のはじめより、文明開化の流れに乗り、新聞が多数創刊されました。この引札では、店主と思しき人物が新聞に乗って飛んでいます。添えられた字は「勉強家の親玉」「新聞にのせて世界中広告」。絵は、これと同じ意味のことを表しているのでしょう。

5-11 女性 紙 筆 牡丹 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-11
女性 紙 筆 牡丹
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-11 「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」は江戸時代から使われている美人を形容する言葉です。大輪の牡丹と一緒に描かれた五人の美人は目に鮮やかな服をまとっています。左端の女性が筆を持っており、商店の名前を書き入れる係と見られます。このような引札はおそらく呉服店などに重宝されたことでしょう。

5-12 女性 バイオリン 楽譜 君が代 明治四十年(一九〇七)頃 平版(クロモ石版 石版転写) 古島竹次郎 版

5-12
女性 バイオリン 楽譜 君が代
明治四十年(一九〇七)頃
平版(クロモ石版 石版転写)
古島竹次郎 版

5-12 明治期は「ヴァイオリンを弾く女学生」がとても文化的でハイカラな存在としてとらえられていました。明治三十三年には国内で大量生産が始まりピアノほど高価でないため、ハイカラであると同時に、ピアノよりも親しみやすい楽器だったようです。

 

5-13 母子 犬 狆 明治末~大正 平版(クロモ石版 石版転写)

5-13
母子 犬 狆
明治末~大正
平版(クロモ石版 石版転写)

5-13 女性が子供を脇にして狆を抱いています。狆は江戸時代に将軍や大名や一部の裕福な商人が愛玩した超高級犬でした。明治時代も高級犬に違いはありませんが、もう少しハードルが下がり富裕層の間で流行しました。

5-14 結納品 女性 盃 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-14
結納品 女性 盃
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-14 江戸時代に公家や武家、裕福な商家が行っていた結納・結婚式が、明治時代になって庶民の間でも行われるようになりました。結納品の引札まで作られたということは、当時それだけ庶民に浸透したという証でもあるでしょう。

5-15 母子 旅客手荷物運搬人 駅 船  明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

5-15
母子 旅客手荷物運搬人 駅 船
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

5-15 美しく着飾った親子連れが駅構内を歩いています。この引札が配られたころは鉄道旅行が人気でした。赤い帽子をかぶって荷物を運ぶ青年は「赤帽」と呼ばれるポーターです。明治三十年から主要な駅の構内で営業しました。

5-16 金森 観陽 相撲 古今横綱一覧 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-16
金森 観陽
相撲 古今横綱一覧
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-16 相撲好きにはたまらない一枚だったでしょう。相撲の祖の戦いから、各力士の名取り組み、そして古今横綱一覧まで相撲尽くしになっています。なお、相撲は天下泰平・子孫繁栄などを願う神事と密接につながっています。

5-17 広瀬 春孝 子供 野球 競舟 桜 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-17
広瀬 春孝
子供 野球 競舟 桜
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-17 カッターレースや野球などのスポーツ競技が始まったのも明治時代です。新しいものは何でも次々と引札に描いていきました。新しい物事それこそが新年を寿ぐ題材でもあったのです。

5-18 日の出 船 鷹 "版権登録" 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18
日の出 船 鷹 “版権登録”
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18 日清戦争の時、日本海軍の旗艦・高千穂のマストに鷹が舞い降りたという逸話があります。この鷹は神武東征の際に現れた金鵄に見立てられ、様々な詩が詠まれました。戦争になると、戦勝を願って縁起を担ぐ引札が描かれました。

5-19 陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19
陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19 戦時中は士気を鼓舞するプロパガンダ的な要素が見られる引札が発行されました。この引札は糸屋が使用しています。糸を使った軍服が画面を埋め尽くしています。

第6章 描かれた商いの風景

引札には、農業・漁業などの産業や、また、米店・乾物店・酒店などの食料品店、呉服・履物などの衣料品店ほか、多種多様な店舗の様子が描かれています。いうまでもなく、これは引札を配っている店の仕事を見た人に覚えてもらうためであり、新年に配るにふさわしく、店は大いに繁盛し、来店客も幸せいっぱいな様子に描かれています。例えば足袋屋の引札では、足袋の製造から販売までおこなわれている店の様子がにぎにぎしく描かれています。この引札を買った足袋屋は余白に新年の挨拶と店の名前を太々と書いてなじみの顧客に渡したのです。
当時の商いの情景と余白に記された商店の情報を合わせてお楽しみください。

第4展示室2

第4展示室2

6-01 漁 一本釣 日の出 "鰹大漁之真景" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-01
漁 一本釣 日の出 “鰹大漁之真景”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-01 カツオの一本釣りの様子です。手前の船左側の漁師が鰹を寄せる小魚を撒き、その両隣で糸を垂らし、船中央には漁師が釣った鰹を抱いて、それを横の漁師がたらいに入れようと待ち構えています。細かくスケッチをしています。

6-02 米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02
米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02 掛かる小旗には「極上」「大勉強」「大安売」の文字。大量に積み上げられた米を次々と俵に詰めている米屋の光景は豪勢です。この引札を使ったのは各国(各地域)の白米を販売する大阪の(丸虎)上條西支店です。

6-03 青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-03
青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-03 「万青物乾物商」の暖簾がかかっています。描かれているのは野菜・果物・キノコ類です。大黒が抱えるのは豊作を暗示する二股大根。恵比寿は株(カブ)があがるようにと蕪(カブ)を高く捧げています。

6-04 乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島徳次郎 版

6-04
乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島徳次郎 版

6-04 乾物類と卵の組み合わせの引札が多いです。乾物店はおそらくこの頃は卵を一緒に販売していたのでしょう。左側に記された商店の紹介文を読んでみると、ここでは乾物以外に野菜果物(青物)や雑貨(荒物)や紙も販売しています。

6-05 酒造 七福神 唐子 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05
酒造 七福神 唐子
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05 七福神が酒を造っています。酒造りは、それぞれの酒蔵で秘伝ともいえる独特の製法で作られていましたが、明治政府は酒造検査制度を整備して、各製法をすべて検査して門外不出であった酒造法を明らかにしたそうです。

6-06 醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか 明治三十五年一九〇二頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-06
醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか
明治三十五年一九〇二頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-06 酢・醤油・味噌といった調味料を販売している店の様子です。樽や瓶に詰めて販売している様子が描かれています。ただし、これはあくまで絵空事ですのでご注意を。画面の左半分をしめるこんな大きな樽は店頭にはありません。

6-07 茶園 製茶 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-07
茶園 製茶
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-07 製茶の様子が描かれています。左上には茶摘みの場面が、右下には焙炉の上で茶葉を両手で交互にでんぐり返しながら揉む「でんぐり」と呼ばれる手揉みの製法が描かれています。手前左の甕には「玉露」の文字が見えます。

6-08 茶舗 店内の様子 女性 色紙 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-08
茶舗 店内の様子 女性 色紙
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-08 茶舗の店内が描かれています。棚の甕には茶の名前、若緑・相生・玉露・正喜撰・川柳が、袱紗をさばく女性の横の色紙には、「宇治は茶ところ 茶はこゝの店 のんで香もあるあじもある 利休」が添えられています。

6-09 菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 "砂糖菓子…" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09
菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 “砂糖菓子…”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09 明治時代になって外国のお菓子が売り出されました。暖簾に「和洋砂糖御菓子」と記されています。あとに続く「掛物」は砂糖掛け菓子の総称です。贈答品にはお菓子と印象付けるかのように女性が熨斗付きの菓子箱を持っています。

6-10 「一水」款 酪農 幼児 哺乳瓶 花 明治四十一年(一九〇八)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10
「一水」款
酪農 幼児 哺乳瓶 花
明治四十一年(一九〇八)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10 江戸時代まで乳製品はなじみのない食品でした。明治時代になって乳製品ガイドが徐々に出版されるようになり、牛乳は母乳の代用品や滋養品として普及するようになりました。牧場も増え、この絵のような哺乳瓶が製造されました。

6-11 肥料店  店頭 肥料 女性 米の収穫 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11
肥料店 店頭 肥料 女性 米の収穫
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11 江戸時代の日本の肥料は田畑の近隣でできる有機質肥料が中心でしたが、明治時代になって化学肥料が推奨され、各地に肥料を販売する店が出来ました。袋に見える硫曹は明治三十年から製造された過リン酸石灰肥料です。

6-12 薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12
薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12 薪炭店は今、キャンプブームもあって活気があるようですが、明治時代はそもそも生活に使うの主な燃料が薪と炭でしたので、薪炭店は地域になくてはならない大切な店でした。そしてこの絵にあるように馬は大切な運搬手段でした。

6-13 油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13
油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13 江戸時代の明かりは行灯や灯明でした。明治時代に石油ランプが急速に普及しました。明るさが十倍以上あったことや、灯油価格が菜種油の半値ということもあったようです。なお、一般家庭に電灯がともるのは明治末期です。

6-14 鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-14
鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-14 鍛冶屋を描いた引札は珍しく、あまり見られません。一番左の人物がふいごで火を強くし、その右の人物は金属を鍛錬しています。床には出来た農具が並べられ、右上に農具を使った仕事ぶりが描かれています。

6-15 諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 "万金物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15
諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 “万金物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15 右上には鍛冶の神事。中上の金物商の看板には「万金物商」。看板の通り描かれているのは思いつく限りの金物類です。この引札を配ったのは金物全般を取り扱う今北商店。どんな金物でも揃えますという意気込みが感じられます。

6-16 足袋屋 店内 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16
足袋屋 店内
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16 右下の職人が重ねた生地の上に型紙をおいて特殊な刃物で裁断し、その左側の職人は針で縫い合わせています。足袋の製造から販売まで賑わう様子が描かれています。相変わらず御引立てくださいとの言葉が添えられています。

6-17 履物屋 店の様子 女性 "流行履物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17
履物屋 店の様子 女性 “流行履物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17 暖簾には流行履物商の文字が染め抜かれていて、店内には草履、げた、鼻緒が店いっぱいに陳列されています。流行は履物商の引札によく使われる言葉です。「当世流行」(今のはやり)という言葉もよく使われていました。

6-18 栄松斎 中嶋政七 店頭風景 "万傘提灯仕入所…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-18
栄松斎
中嶋政七 店頭風景 “万傘提灯仕入所…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-18 建物中央入口の左の柱に郵便受箱がありますが、これは珍しいです。郵便受箱は昭和時代になって普及したとい言われています。路上に広げた傘には大と小の月の暦が記されています。現在使われているグレゴリオ暦が導入される前の和暦では、三十日ある月を大、二十九日の月を小として、カレンダーとしていました。

6-19 養蚕 蚕棚 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-19
養蚕 蚕棚
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-19 大河ドラマ『青天を衝け』でも紹介された通り、養蚕は当時の日本の重要な産業です。中央の女性は卵からかえった蚕を蚕卵紙から蚕座へ移しています。右側の蚕棚の上で蚕が育っています。引札を配ったのは「万糸物商 堀糸店」。

6-20 染屋 染と洗張の様子 女性 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-20
染屋 染と洗張の様子 女性
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-20 染・洗い・湯のし・洗張、染物所が請け負う各仕事の様子が描かれています。この引札を配布した万染物所 谷川亀太郎の店では印伴天・のれん・風呂敷・黒紋付などの染や洗張・ゆのし、その他いろいろ請け負ったようです。

6-21 広瀬 春孝 呉服店 反物 女性 "現金かけ値なし…" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21
広瀬 春孝
呉服店 反物 女性 “現金かけ値なし…”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21 反物を滝に見立てて店頭ディスプレイをしています。暖簾に書かれた字は「ごふく(呉服 絹織物) ふともの(太物 衣服にする布地) 唐端物(中国の布地)商」。柱には「現金かけ値なし正札付」と安売り低価販売をうたっています。

6-22 洗濯屋 店の様子 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22
洗濯屋 店の様子
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22 洋服が出回ると、洗濯サービスができました。この引札には「和洋せんだく(洗濯)所 並ニ悉皆湯のし(すべてアイロンかけ) 商号あらいや」とあります。「あらいや」では和服の洗張や湯のし、洋服の洗濯アイロンかけをしたようです。

6-23 尾竹 国一 小間物屋 店の様子 母子 "内外小間物商" 明治三十五年(一九〇二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-23
尾竹 国一
小間物屋 店の様子 母子 “内外小間物商”
明治三十五年(一九〇二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-23 小間物というジャンルの店がありました。日用品・化粧品などこまごましたものを売る店です。引札に描かれた品々、商店名に添えられた商品名「和洋小間物 洋傘類 化粧品 各種卸小売 各国時計 たばこ」のとおりです。

6-24 化粧品 手袋 女性 鏡 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24
化粧品 手袋 女性 鏡
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24 前の引札で紹介した小間物を、装う姿を紹介します。明治期は政府の西洋化推進の影響もあり、服装や化粧が洋風化し、香水も急速に普及したと言います。このように洋風の装いを描いた引札も洋装普及に貢献したかもしれません。

6-25 煙草店 店頭 看板 日の出 "天狗巻煙草…" 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-25
煙草店 店頭 看板 日の出 “天狗巻煙草…”
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-25 西洋化はタバコのような嗜好品にも及びました。看板にかかっているのは当時人気の銘柄です。右のカメヲはアメリカからの輸入品で、天狗巻煙草とヒーローは国産です。主な喫煙スタイルがキセルから西洋式の紙巻に変わりました。

6-26 茶店 店頭風景 桜 提灯 "祝繁栄 迎花客" 明治三十二年(一八九九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-26
茶店 店頭風景 桜 提灯 “祝繁栄 迎花客”
明治三十二年(一八九九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-26 茶店の机には酒と思しき瓶が並んでいます。店先の女性は花見客に向って手招きしています。店の行灯には「迎花客」の文字があります。花客とは、花見客のほかひいきの客、お得意様という意味もあります。茶店の引札も比較的珍しいものです。

第7章 不動の吉祥キャラクター

引札には七福神・福助・お多福を始めとした数々の福の神が描かれています。中でも恵比寿と大黒は圧倒的な人気を誇っていて、当館所蔵の引札のなかでは4枚に1枚は恵比寿か大黒がどこかに登場しています。気球に乗ったり、花見をしたり、時には帽子の上にチョンと乗っていたりと、まるで隠れキャラのような描かれ方まで。福の神はとにかく仲がよさそうに描かれていてほほえましく、明治時代も終わりごろになると、神様というより親しみやすいキャラクターとして描かれたようです。
人々に愛された福の神の姿をご覧ください。

第4展示室3

第4展示室3

7-01 「寳斎」款 恵比寿 大黒 盃 "春興福神□戯"  明治十四年(一八八一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 中村小兵衛 版

7-01
「寳斎」款
恵比寿 大黒 盃 “春興福神□戯”
明治十四年(一八八一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
中村小兵衛 版

7-01 まず恵比寿・大黒の見分け方を説明します。恵比寿は釣り竿・鯛・柏紋・頭に折烏帽子または手拭、大黒は大きな白い袋・打出の小槌・米俵・ネズミ・頭に頭巾。これらのいずれかの特徴を持っています。どうぞ見分けてみてください。

7-02 「寳斎」款 恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 "春遊三福神末広" 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

7-02
「寳斎」款
恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 “春遊三福神末広”
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

7-02 万歳は祝福芸のひとつで、正月に家々の座敷や玄関前で新年を寿ぐ祝言を述べ、小鼓を打ち舞を舞うものです。舞う福禄寿の後ろで恵比寿が傘をさしています。傘は下の方が開いているので末広がりで縁起が良いとされています。

7-03 太田 節次 恵比寿 大黒 お金 "宝福神 金 万 両"  明治二十四年(一八九一) 平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色 太田節次 版

7-03
太田 節次
恵比寿 大黒 お金 “宝福神 金 万 両”
明治二十四年(一八九一)
平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色
太田節次 版

7-03 釣竿を持ち鯛を抱える左の恵比寿は海の幸、米俵に座り打出の小槌振る大黒は山の幸を与えてくれる神様です。そのどちらにも恵まれ豊かになるようにと二人並んだ絵が喜ばれました。中央のネズミはお札の束を持っています。

7-04 恵比寿 大黒 三番叟 明治二十五年(一八九二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-04
恵比寿 大黒 三番叟
明治二十五年(一八九二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-04 三番叟は新年・新築・こけら落としなど事の初めに舞われます。諸説ありますが、鈴を振り大地を踏み鳴らすしぐさが、種をまき地を鎮めることに通じているとか。たしかにこの絵も鈴を振り地を踏み鎮めているのは地の神の大黒です。

7-05 恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-05
恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-05 明治二十年頃から、引札の印刷方法が凸版から平版に移行します。絵の表現も足元に影を描くなど西洋的な表現を取り入れたりしました。ただ、どんなに西洋の技術が導入されても恵比寿大黒はかわらず描き続けられました。

7-06 恵比寿 大黒 お金 金庫 明治二十九年(一八九六)頃 平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06
恵比寿 大黒 お金 金庫
明治二十九年(一八九六)頃
平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06 恵比寿 大黒などの福の神は、江戸時代と変わらず描き続けられるのですが、一緒に描かれる物は時代に合わせて変化していきます。この引札ではこれまで描かれていた蔵が金庫に、小判がお札に変化しています。

7-07 尾竹 国一 恵比寿 大黒 気球 日の出 富士 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-07
尾竹 国一
恵比寿 大黒 気球 日の出 富士
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-07 気球は明治十年代に日本に登場し、明治二十三年にスペンサーが各地で興行した時はそのことが歌舞伎になるほど評判になりました。明治三十年代は気球からビラをまいたり垂れ幕を垂らしたり、都会で目にする機会が増えました。

7-08 尾竹 国一 小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-08
尾竹 国一
小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-08 シルクハットをかぶった大黒が掲げた手の先に赤白帽子を手にした恵比寿がいます。どちらも広告屋の姿のひとつです。このお店の宣伝をしているのですね。小さな気づきですが、傘の柄が十二支の寅・卯・辰・戌になっています。

7-09 尾形 国一 恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-09
尾形 国一
恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-09 広告屋と思われる人物の手の上に、硯を捧げ持つ大黒と、店の名前を揮毫しようと筆を構える恵比寿がいます。ここに記される店は商品をリーズナブルに提供してくれると、袖口にいる福助の扇子に記されています。

7-10 恵比寿 大黒 汽車 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-10
恵比寿 大黒 汽車 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-10 左側に店の名前や営業品目が書かれて引札は完成します。もしこの引札に店名が書かれていれば、恵比寿は筆を休めているのでちょうど書き終わったという演出になっていたことでしょう。それにしてもなんと自由で奇抜な絵でしょうか。打出の小槌の中から汽車が走り出てきています。

7-11 恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ "福来" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-11
恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ “福来”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-11 恵比寿と大黒が裾をたくし上げた振り袖姿の少女と子捕ろ子捕ろをしています。その遊びは連なった先頭の人が親となって、後ろに続く子を鬼から守るというものです。日本スポーツ協会の公式ホームページなどで紹介されています。

7-12 恵比寿 大黒 日の出 猪目 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-12
恵比寿 大黒 日の出 猪目
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-12 日の出を象徴するかのような赤い色。この形は何なのでしょうか。日本には古来からハートの形をした猪目という吉祥模様があります。心臓を表すハート形は明治時代からありますが、恋や愛を象徴するのは大正時代からのようです。

7-13 大黒 お金 大福帳 算盤 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-13
大黒 お金 大福帳 算盤
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-13 左側に大福帳が描かれています。この表紙に太々と店の名前を書いて配ることになります。画面いっぱいに打出の小槌を持つ大黒と大福帳と算盤とお金を大きく描いて、すがすがしいまでに金儲けを願った引札です。

7-14 「如泉」款 恵比寿 福笹 日の出 "勉強の…繁栄" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-14
「如泉」款
恵比寿 福笹 日の出 “勉強の…繁栄”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-14 日の出を背景に恵比寿が福笹を担いでいます。この福笹は商人えびすともいわれる新春のえびす講(十日戎・廿日戎)で頒布された、縁起物を結び付けた竹の枝でしょう。色紙には「勉強の店に福来る」と記されています。

7-15 広瀬 春孝 七福神 お金 金採掘 "七福神 新機器ヲ以テ…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-15
広瀬 春孝
七福神 お金 金採掘 “七福神 新機器ヲ以テ…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-15 右上の文字は「七福神 新機器ヲ以テ 金礦採掘ス」七福神が最新鋭の機械を使って金を採掘しています。福禄寿は大きな機械を操作していて、弁財天は何やら火花を散らしています。恵比寿と大黒は利益の計算に大忙しです。

7-16 七福神 来迎 日の出 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-16
七福神 来迎 日の出
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-16 日の出を背に、七福神が金雲をたなびかせて天からやってきました。引札に七福神が描かれるときは、地上で働いていたり遊んでいたりと人間味豊かに描かれることが多いのですが、ここでは神聖が大切にされています。

7-17 見立七福神 観梅 "にこにこと…" 明治三十四年(一九〇一) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-17
見立七福神 観梅 “にこにこと…”
明治三十四年(一九〇一)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-17 右上の句は「にこ〳〵と 七福人の 梅見かな」。七福神に仮装して梅見を楽しんでいる人たちのようです。右側坊主頭で羽織に扇紋は布袋、その右の口ひげを蓄えた人は毘沙門天。一群の先頭の打出の小槌紋の人は大黒でしょう。

7-18 尾竹 国一 七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-18
尾竹 国一
七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-18 七福神はとにかく仲が良いようです。どの引札にも楽しく一緒に過ごす様子が描かれています。この引札には、恵比寿を驚かせようと屏風の隙間に隠れていたほかの六神が突然顔を出したところが描かれています。

7-19 列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-19
列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-19 恵比寿が列車のホームでタバコを売っています。帽子がちょっと折烏帽子っぽくなっています。お金を出そうとしているのは大黒、その後ろから毘沙門天が手を伸ばしています。網棚には布袋の扇や大黒の小槌が載っています。

7-20 七福神 観梅 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-20
七福神 観梅
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-20 洋装の七福神が歩いてきます。先頭のコート姿は柏紋が入っているので恵比寿です。その後ろの弁財天はファーマフラーを首に巻いて手はマフ。一番右の大黒天は英国から入った流行のチェック柄を身につけステッキを持っています。

7-21 広瀬 春孝 福助 モーニングコート "大勉強 広告" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-21
広瀬 春孝
福助 モーニングコート “大勉強 広告”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-21 髷を下ろして髪型を七三分けにし、和服を脱いでモーニングコートに身を包んだ五人の福助が並んでいます。最後尾には赤い旗が掲げられています。結構な迫力です。当時の人たちはこの絵をどのような感情で眺めたのでしょう。

7-22 小間物 象 福助 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-22
小間物 象 福助
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-22 幸運を招く福助が扇子を指し棒にして小間物を売り込んでいます。その後ろでは白象がスリッパをはいて帽子をかぶり懐中時計の首輪をつけて、長い鼻で上手に傘をさしてアコーディオンを弾いています。ものすごい迫力です。

7-23 お多福 枡 箕笊 "士農工商 み入よく…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23
お多福 枡 箕笊 “士農工商 み入よく…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23 右上に「士農工商 み入よく 福が入升」と書かれています。その文意の通り、竹で編んだ箕の中に、士農工商に関するいろいろな宝が沢山のお金と一緒によく入っています。升にはお多福が入っています。

7-24 広田 春盛 福助 お多福 扇 牡丹 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-24
広田 春盛
福助 お多福 扇 牡丹
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-24 福助とお多福の正体が誰なのか、はっきりとはわかりません。この絵はふくよかだったとされるお多福と、小柄だったと伝えられる福助をデフォルメして、楽しげな雰囲気で描いています。富貴と末広がりを象徴する牡丹と扇が添えられています。

7-25 三島 文顕 猩々 盃の船 甕 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-25
三島 文顕
猩々 盃の船 甕
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-25 猩々が登場する能は人気の演目です。素直な心を持ったお酒売が、猩々から酌めども尽きない酒の泉が湧く壷をもらって栄えるという祝言の趣きある話です。猩々はチャーミングな振る舞いも相まって愛されたキャラクターです。

展覧会出口

展覧会出口

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 4(引札の豆知識ほか)」に続きます。

青木隆幸

「大坂屋清兵衛(大清)」の引札

羽前米沢粡町の大坂屋清兵衛の引札があります。
商っている商品は小間物と書籍のようです。

2021-003-16「萬小間物書肆舗(丸に太)羽前米澤粡町 大坂屋清兵衛」

明治時代の羽前米澤粡町(あらまち)は、現在の山形県米沢市中央3・4・5丁目の間の粡町通りを中心とした地域です。

中村清治編『粡町史』(粡町協和会 1942)には、粡町には1000年を超える歴史があり、米沢のなかで最も繁栄した商家町であったことが記されています。また、その町史には大坂屋清兵衛についての記述もあり、まず文化8年(1811)の地図の粡町上通り西側の清兵衛の表記、そして弘化3年(1847)、明治12年(1879)、昭和16年 (1931)の地図において、小間物屋の大坂屋清兵衛(中村清兵衛)から始まり、金物商 大清 中村清兵衛として同地で発展しながら敷地を拡大していることがわかります。また、明治11年(1878)に洋灯(ランプ)を始めて米沢に移入して販売した人物としても紹介されています。そのランプを一目見ようと近隣からたくさんの人たちが大坂屋清兵衛の店に集まったそうです。(同書114頁)

ここまでこの引札に記された「大坂屋清兵衛」のことを追ってまいりましたが、調べて見ましたら、山形県米沢市でNo1の配管資材、建設資材のプロショップとして現在も同地で株式会社 大清として営業されていることがわかりました。元禄元年(1688)創業以来、今年で実に333年になる老舗中の老舗です。

この引札は、今からおよそ140年前、小間物屋から次第に事業を拡大し、洋灯(ランプ)の販売を誰よりも先駆けて米沢で販売を始めたころ、年の瀬に配布して店の宣伝に努めたものです。その後も事業を伸張させ、現代まで続いていることに思いをいたすと、とても感慨深いものがあります。

恐れながら14代目当主 中村友彦氏にご連絡差し上げ、この引札が間違いなく同社配布のものであることをご確認いただき、また諸事ご教示いただきますとともに、諸資料のご提供と使用許可をいただきました。

現在は同地に大きなビルが建ち、中には資料室も設けられています。現社屋 資料室1 資料室2 資料室店舗復元1 明治史料1明治史料2

この引札は、今日から開催する以下の展覧会に出品いたします。
株式会社 大清の140年前のチラシをぜひ直接ご覧ください。

【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

 

 

ちなみに、この引札の1年違いの見本が残されています 。明治15年の略暦と見本番号と代金「ヌ印 壱円七十銭」が添えられているので、少し考えてみますと、明治15年の貨幣価値は、白米10キロ82銭 、日雇い労働者の日当22銭 ですから、仮に1円を現在の貨幣価値5,000~10,000円ぐらいとするなら、ここに記された価格は100枚当たりの金額なので1枚当たりおよそ85~170円ということになります。大阪屋清兵衛はこの引札の見本を見て、購入を決め、空欄に自分の店の名前を印刷してなじみのお客様に配布したのです。

引札明治15年

 

青木隆幸

美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―、好評開催中です

現在海の見える杜美術館では現在、「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」展を開催しております。

本展は、2020年春に開催した「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」のアンコール展です。昨年は、他館の所蔵品もお借りしての充実した展示だったのですが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため会期のほとんどが休館となりました。今回は、昨年お借りした作品がない代わりに、当館の所蔵品を新たに加えての展示になっています。

 

その新たに加わった作品のひとつが、北野以悦(きたの・いえつ)の作品《舞妓》。

3 (3)

北野以悦《舞妓》(前期展示)

乱れなく結い上げた髪と白いうなじのコントラストが美しい舞妓の姿です。第四章「少女と美人画」でご紹介しております。

 

描いたのは北野以悦(1902-1971)。北野、という苗字でピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、大阪の美人画の名手・北野恒富の息子にあたる画家です。

幼い頃は北野恒富に絵画の基礎を習い、恒富の塾展・白耀社展にも出品。京都市立絵画専門学校別科を卒業したのち、竹内栖鳳の弟子で京都の画家である西山翠嶂に師事、帝展や新文展を舞台に活躍しました。当館の2018年の西山翠嶂展でも、門人の一人としてこの作品も展示したので、その時にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

こうしたプロフィールから、大阪や京都を中心に活動していた画家だと思っていたのですが、実は、晩年は広島・尾道に住んでいたとのことです。1952年頃、同じ翠嶂門下の画家で親友の川上拙以の紹介で尾道に転居、生口島の耕三寺の仏像などの彩色、寺の門の修復、襖絵や扉絵などを手掛けました。尾道に住居兼アトリエを借り、そこが終の棲家となりました。耕三寺博物館は今でも、《琉歌》(第11回帝展)などをはじめ、以悦の作品や画稿をご所蔵とのことです(「特別展北野以悦・北野恒富・島成園―一族が描く美しき日本画―」展覧会図録、朝日町立ふるさと美術館発行、2017年)。

 

以悦が描いた作品の一点、《舞妓》は前期10月3日(日)までの展示となります。

 

10月5日からはそのほかにも展示の一部が入れ替えとなります。

後期の作品も、後日ご紹介させていただきます。

 

 

森下麻衣子

 

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札(続々)

田川旅館提供 明治28年-2
1.たがわ龍泉閣蔵

田川旅館提供 明治40年代-3
2.たがわ龍泉閣蔵

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館
3.海の見える杜美術館蔵

今回は、田川五三郎の引札を3枚並べて、特に文字の部分を比較して、語ってみたいと思います。

それではまず、以下に1.2.3番それぞれの引札の文字情報を書き出してみます。

添付情報
1. 明治28年略暦
2. 辰口鉱泉効能書
3. 辰口鉱泉効能書

住所・店名
1. 石川県能美郡辰口鉱泉所 御定宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
2. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
3. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎

挨拶文(/は改行)
1. 恭奉賀新年/併而閣台之萬福を禱る/布説旧年中は毎々御愛顧を/蒙り奉源謝候尚本年も倍旧の/御引立を以て御入湯之節は不相替/御投宿之程伏て奉希上候 敬白
2.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白
3.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白

絵はそれぞれに異なるのですが、3点とも文章はとても似通っています。そして2と3は、文言、書体や行間、それから字の並び具合までまったく同じです。

田川旅館提供 明治40年代-部分2017-002-11部分
             2              3

ここで考えなければならないのは、このふたつは同じ版木を使用したものなのか、それともそっくりに彫りなおした版木を使用しているのか。ということです。これがはっきりすれば、引札の制作順序がわかります。

よく観察してみると、どちらも恭の字の4画目の右側が欠けています。新しく彫りなおすのならきちんと修正するでしょう。また、下の写真を見ればわかる通り、文字を彫るときに、文字の周りをしっかり深く彫るべきところを、浅く彫ってしまったために文字の周りに黒い色がついてしまっています。この黒色がほとんど同じ場所についています。これらから考えると、2,3ふたつの引札の文字は、彫りなおした版木ではなく、まったく同じ版木を使ったものといえるでしょう。そして、それぞれの版木の傷み具合を考えると、3の方が痛みが激しいので、3の方が2よりも1年後あるいは何年も後の引札の印刷に使われたと考えるのが妥当でしょう。

田川旅館提供 明治40年代-部分22017-002-11部分2
         2           3

それではこの3枚の引札から、田川五三郎の引札の使用の歴史について考えてみます。

宿屋の田川五三郎は、明治28年の正月には大切なお客様へ年始の御挨拶に引札を使っていました。

明治28年頃は暦(カレンダー)付の引札を配りましたが、いつの頃からかその添える情報は暦から別の物に替わり、明治40年頃には辰口鉱泉効能書を添付するようになりました。

絵柄は毎年新しいデザインに替えたようですが、宿屋の名前や住所、そして新年のご挨拶文が彫られた版木は何年も同じ物を使っていて、ひどく傷んだ時に新しく彫りなおし、同時に文章を当世風に改めたようです。

このような引札を用いた新年の御挨拶は、飛行船や飛行機が流行していた明治45年頃までは続けていたことが確認できます。

この後のことは判然としません。現たがわ龍泉閣様に確認しますと、古い資料はあまり残っていないそうです。

ただ言えることは、明治時代、新年を迎えるごとに引札をお得意様に配っていた鉱泉宿の田川五三郎は、幾つもの困難を乗り越えて1400年の歴史ある辰口鉱泉の源泉を守り継ぎ、今はたがわ龍泉閣として隆盛を極めているということです。

画像は使用許可期限のため削除いたしました。
北陸中日新聞社編『老舗のおかみ 金沢・加賀・能登』中日新聞社 2003北陸中日新聞提供
たがわ龍泉閣様ご提供

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

大内直輝

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館

日の出の富士を背景にして、七福神が飛行を楽しんでいます。富士山と太陽の場所そして遠方に見える岩肌からすると、ここは湘南の海岸なのだろうかと想像が膨らんできます。

気球・飛行船・プロペラ機が飛んでいます。恵比寿が操縦している飛行機はブレリオをベースにしているようにも見えますね。詳しくは5月18日投稿の「引札 空を飛ぶ七福神」を参考にしていただきたいのですが、1910(明治43)年12月、日本人による動力付き飛行機でのフライトが成功し、翌1911(明治44)年には海外から多くの飛行家がやってきて全国各地で⾶⾏会が開催され、志賀直哉や石川啄木らが飛行機を題材にした文章や詩をつくるなど、この頃日本では飛行機のブームが起きました。この引札には制作年代が記されていないのですが、引札には流行の風俗が描かれたことを思えば、1911-12(明治44-45)年頃に作られたものなのかもしれません。

この引札は、おめでたい図柄で満ちています。日の出・富士・鶴・旺盛な交易を暗示する各種の船・空高く飛ぶ飛行機・七福神、もう少し詳しく見てみると、恵比寿が操縦している飛行機は、胴体が算盤・翼は百億円札・尾翼は江戸時代のお金にまつわる分銅金の形をしています。また、翼の紙幣の上部には「日本帝国万歳号」、四方に「福」の字が記され、中央の数字「百億円」の下には朱印で「寿」、紙幣の番号は753(いろいろな伝承がある吉祥の数字)、そして透かしには大黒の顔が入っていて、どこまでも商売繁盛と幸せを寿ぐ機体となっています。
引札 田川五三郎 恵比寿の飛行機

また、この引札には辰口鉱泉の効能書が、添付されています。いろいろな病気が治りそうですね。当時の人々はこのような表記を参考にして療養に訪れたのかもしれません。
辰口温泉効能書

この引札をお得意様に配ったのは、「石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿 田川五三郎」。明治32年10月30日の北国新聞の番付(※1)には、加越能三州(※2)の宿屋の前頭として堂々の最上段に名前が記されています。また辰口という地域では筆頭の宿屋とわかります。

北國新聞番付

この引札は、その大人気の宿屋「田川五三郎」が年の瀬あるいは新年に、お得意様に配ったものです。

引札の挨拶文にはこのように記されています。(/は改行)
「恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白」
簡単に訳してみると
「恭賀新年 あわせてあなたの万福をお祈りいたします。旧年中はご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。本年もご入浴の節は変わらず当宿へお越しくださいますよう切に願っております。 敬白」
という感じでしょうか。

なお、「鉱泉御宿 田川五三郎」は、辰口温泉「たがわ龍泉閣」として現在も営業がつづいています。

辰口温泉は開湯1400年の歴史ある名湯で、現在のたがわ龍泉閣には田んぼの真ん中から湧き出た源泉を利用している北陸最大級の混浴露天”田んぼの湯”ほかいくつもの湯があるうえ、温泉には今も昔と変わらない効能があるようです。(以下たがわ龍泉閣HPより)
温泉:辰口温泉
泉質:塩化物泉
効能:神経痛リュウマチ/外傷骨折火傷/痔/婦人病/病後回復ストレス解消/運動機能障害/関節痛/筋肉痛/五十肩/消化器/神経痛/創傷/打ち身/動脈硬化/冷え性など

この引札をいただいたお客様の気分になって、訪ねてみてはいかがでしょうか。体調が回復し、日頃のストレスも発散して爽快な気分になることは間違いないと思います。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 「たがわ龍泉閣」様よりご提供いただきました。
※2. 加賀(石川県南部)、越中(富山県)、能登(石川県北部)3国にまたがる前田氏の旧所領

青木隆幸

「日の又」の引札

日の又商店引札 海の見える杜美術館蔵-4

旭日 金雲 金箔散らしを背景に、中央に鼓・扇・そして正月など特別な時に演じられる祝福をもたらす『翁』に使用する肉色尉の面が重なり、面と鼓の間には菊の花が添えられています。右上の重ね色紙には、新年を寿ぐ句が認められ、新春の家を飾るにふさわしい おめでたい引札となっています。

引札の文字情報を下に記します。

右上 重ね色紙:
御代之春 尾上の松を かざりけり 若葉

引札本文:
数百年前の創業にして製作の経験最多し
伏見は材料手間賃安く運搬最も便利
薄利多売
各國産漆器卸小賣
たんす 長持 嫁入道具 製作販賣
伏見大坂町御ひいきのたんすや
日の又

右下隅 引札 落款:
白文方印 弌舟

左端 印刷年月日と印刷所名:
明治四十二年七月十日印刷仝年八月卅日発行
印刷兼發行者
大阪市東区京橋壱丁目廿九番地
平民古島徳次郎

以上の絵の内容と文字情報から、この引札は、大阪伏見のタンス屋「日の又」が、明治42年の年末に、ひいきの顧客に配布したものとわかります。

「日の又」は、現在の 「株式会社 日の又商店 (家具ステージ日の又)」です。同社は室町時代末期の永禄年間(1558-70)に創業し、安土桃山時代には伏見城に漆器調度品を製造納入しお抱えとなって以来 伏見の地で営業をつづけ、現在は当主17代目となり、総合インテリア家具販売店として盛業です。

この引札が配られていたころの「日の又」です。

日の又店舗

明治の終わり13代目当主のころの店舗で、店先は床机を持ち上げると中に収納できるようになっています。店の奥に並んでいる鏡が見えます。

株式会社 日の又商店蔵

こちらは江戸時代初期から日の又に伝来する漆を調合する大きなお椀です。直径90㎝もあります。引札に書かれた「数百年前の創業にして製作の経験最多し」「各國産漆器卸小賣」といった文を裏付ける品です。椀の底には「野の虫も ちからくらぶる 浮世かな」の句に添えてカマキリとバッタと思しき虫が描かれています。

本稿を作成するにあたり、株式会社 日の又商店 代表取締役 日の又 第17代当主の辻貞好様には、本引札が株式会社 日の又商店の物であることをご確認いただくとともに、ここに掲示しました明治時代の店の写真や江戸時代から伝来する漆を調合する椀の写真など貴重な資料をご提供いただきました。謹んで感謝申し上げます。

 

追記
引札右下隅の印章の弌舟は、浅田一舟のことと思われますが、断定するにはもう少し検証が必要です。しかし浅田一舟については浮世絵関係の事典にも、近年の研究書でも生没年等を含めほとんど記述がない(※1)ので、検証するためにはまだ情報が不足しています。

ところで、管見の限り浅田一舟研究に下の参照が見あたらないため、抜粋してここに紹介いたします。

岩本一成「浅田一舟君」
「浅田一舟君は明治5年、大阪市南区大宝寺町に生まれ、師匠は鈴木雷斎と武内桂舟に学んで風俗画家として特技をもっておられた。(中略)私の知っているのは大阪の特産物として相当の生産高を持っていた引札、団扇の意匠図案に長じ、版下に麗妙なる筆致とその彩色に至っては第一人者であった。(中略)
日露戦争後(中略)世間より別途に取り扱われていた挿絵画家といわれし人々、尾竹国一、北野恒富、金森観陽および小生等発起人となり研究団体として春秋会を組織しまして(中略)研究方法の協議、展覧会開催等の目標に毎日(ママ)2・3回集合し、仮装写生会、古実研究、講演会等を催し破壊に建設に活動したものです。これが画壇覚醒の先鋒となり今日の大阪画壇の基礎となったもので、会員30余名を有し第1回展覧会を大阪書籍俱楽部事務所楼上で開きました。島成園君が当時わずか14歳で観山ばりの小野小町を出品したことを覚えております。
門下生に島一水(中略)、その他上田海舟(紫水と改む)等々あり(中略)
大正9年10月18日49歳で没し、墓所は天王寺区椎寺町天瑞寺にあります。」
(※2)

このほかこの絵を描いたのと同じ年の明治42年に出版された『日本書画評価表』(石塚猪男 1909)(※3) では一舟の一幅の掛け軸の価格が20円と評価されています。なお参考までに申しますと、明治40年の公務員の初任給は50円です(※4)。

 

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 山田奈々子 増補改訂『木版口絵総覧』(文生書院 2016)はメジャーではない画家が多数網羅された貴重な書籍なのでたびたび参考にさせていただいているのですが、浅田一舟については「生没年不詳 舟がつく画家は竹内桂舟の弟子と見てよいと思う。」という表記にとどまっている。

※2. 『上方』138号 上方郷土研究会 1942 253頁 (適宜現代仮名遣い、当用漢字に改めた。)

※3. 東京文化財研究所 HOME>明治大正期書画家番付データベース>日本書画評価表_807006 URL :https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807006.html
所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)

※4. 『続・値段の 明治 大正 昭和風俗史』朝日新聞社1981 159頁

青木隆幸