展覧会の一枚 《妙法蓮華経 巻第五(鳥下絵装飾経)》 平安時代 11世紀

仏教の経典は「法身舎利(ほっしんしゃり)」と呼ばれることがあります。これは、経典は釈迦の教えを書き記したものであるから、舎利(釈迦の骨)にも等しい価値を持つものである、という意味です。
こうした考えにより、経典は仏そのものと同等の存在であると見なされ、崇拝の対象となりました。そして経典が崇拝の対象となるならば、経はそれにふさわしいかたちでなければならないということで、美しい意匠が施された写経が数多く制作されました。こうした経を、「装飾経」と呼び習わします。
とりわけ平安時代に天台宗により幅広い階層に広まった経典である『妙法蓮華経(法華経)』は、仏道にまつわる造形活動を「作善(さぜん)」、つまり仏教の善行のひとつとして説いていることから、時の貴族たちの間では、きらびやかに飾り立てられた『法華経』を作って供養することが、一種のステータスシンボルにもなっていました。
今回ご紹介する《妙法蓮華経 巻第五》は、こうした歴史的な背景のなかで作られた装飾経のひとつです。

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栖鳳 荒れ狂う海をみる

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風濤(ふうとう) 1918(大正7)年ごろ 当館蔵

重い雲に閉ざされた空の下、壁のようにそそり立つ荒波の上を、一羽の鶴が烈風にひるまず翼をひろげて飛んでいます。

画面左下部には、大きく隆起する海面が垣間見せる深い青、わずかな陽光に透かされて輝く波の緑、そして波に巻き上げられる海砂を表す金を、うねる動きそのままにダイナミックな筆遣いで描き、そこに真っ白な絵具を散らして、そのもっとも印象的な瞬間を劇的にとどめています。一方、画面右半部に目を向けると、中央から放射線状に広がる波頂が崩れ落ちながら、この絵と対峙する鑑賞者の眼前へと迫り、まるでアニメーション映画が1コマずつそのすがたを変えていくような躍動感に満ちあふれています。部分的には意味を持たない色とかたちが、全体を通して見ると、ひとつの画面の中に静と動がせめぎ合い、またたく間にその姿を変える荒海を表現するのに欠くことのできない要素へと変貌しています。

このような、抽象的ともいえる細部描写を圧倒的なリアリズムへと昇華させる表現は、対象の本質をつかむため、飽くことなく観察し続けた者しか達成し得ない境地ではないでしょうか。栖鳳はことあるごとに観察を繰り返したはずです。

この作品を制作した13年ほど後の話ですが、竹内栖鳳が荒波を観察したときの逸話が残されています。

「(1931(昭和6)年ごろの)冬、沼津の海岸に四五日滞在していると、急に大しけが始まって、海岸はごうごうと怒涛が巻き崩れた。すると先生(栖鳳)はその怒涛を見るという。見ると言ったって、老人には無理な芸当で、念のため筆者(栖鳳の長男竹内逸)は海岸へ出てみたが、風は強く、寒さは激しく、砂は散り、しぶきが飛ぶ。だがどうしても父は海岸へ出るという。仕方ないから、父の体にドテラを着せ、頭から耳へずぼりと帽子をかぶせ、眼には水中眼鏡をかけ、口と鼻とは日本手拭で巻き、さらに合羽をどっさり買ってきて、頭から腰のあたりまで包み、それを両腕もろとも帯やひもでからめ上げてしまった。まあ案山子かミイラのような姿で、それを筆者と女中との二人で海岸へ押し出していった。だが困ったことには、あまりの強風で、老人は後ろへ倒れそうになる。そこで二人は支柱のように後ろから肩と腰とを押している。そうなればむしろ老人は平気だが、二人は防寒も防水も防砂もやっていない。しかもそれが10分か15分なら我慢するが、30分以上もじっと逆巻く怒涛を見ている・・・」

(竹内逸「湯河原対話」『栖鳳閑話』所収、改造社、1936年、頁63〜64。転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。)

 

「風濤(ふうとう)」は、11月1日から開催の『生誕150年記念 竹内栖鳳』展に出品いたします。

さち

青木隆幸

「生誕150年記念 竹内栖鳳」特設ページはこちら

展覧会の1枚《鹿島立御影図》

6月7日より始まった「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」展は、前期と後期に分かれ、ほぼ全作品を展示替えいたします。 現在行われている前期展示で、特にご覧いただきたい作品が、今回ご紹介する《鹿島立御影図》です。
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展覧会の一枚《鞍馬寺縁起絵模本》

6月7日より開催の次回展「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」には、日本各地に見られる信仰の様子を表した作品が数多く出品されます。
こうしたなかには、山岳信仰と関わりのある作品がいくつも見られます。

霊山(れいざん)と称される山岳の多くは、外来の宗教である仏教と、在地の神を崇拝する神道とが複雑に混じり合うことで、独自の宗教空間を形成していました。
本展覧会の前期に展示いたします《鞍馬寺縁起絵模本(くらまでらえんぎえもほん)》は、そうした山岳信仰の場のなかで生まれた作品です。

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展覧会の一枚 《蘭亭曲水図》塩川文麟

だんだんと暖かくなってきましたね。

遊歩道では桃が花盛りとなってきましたが、美術館に展示してある作品にも、桃の花が咲いているものがあります。
《蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)》がそれです。

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展覧会の一枚 《林和靖》植中直斎

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冬の終わりに咲く梅は、寒さに負けずに春の訪れを知らせる花として、古くから好まれてきました。

日本と中国には、梅の花にちなんだ有名人がそれぞれいます。

日本で梅といえば、天神さまの呼び名で知られる菅原道真です。
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伝 土佐光信《渡唐天神図》(部分)※今回の展覧会では展示されていません

上に挙げた天神さまは、梅を持っていますね。

この梅は「飛梅(とびうめ)」といい、道真が太宰府に左遷された時、彼を慕ってそのもとまで飛んでいった屋敷の梅だといわれています。
今でも天神さまをお祀りする天満宮が、梅の名所になっているのは、このためです。

そして、中国の梅にちなんだ有名人が、今回取り上げる林和靖(りんなせい)です。

林和靖は宋時代の詩人で、西暦967年に生まれ、1028年にこの世を去りました。

ちなみに「和靖」とは諡号(しごう)(死後に贈られる名)で、本名は林()といいます。

この林和靖さん、かなりの変わり者で、才能はあるのに仕官しようとせず、結婚せず、街で人と接することもなく、中国南部の名所である西湖(せいこ)のほとりの山奥にこもって暮らしていました。
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屋敷で本を片手にうたた寝しているのが、林和靖さんです。

今だとニートとか引きこもりとかいわれるような人ですが、そんな彼がこよなく好んだものが、梅と鶴です。
彼は、「梅が妻、鶴が子供」というほど梅と鶴を愛し、一緒に過ごしました。
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彼が妻と子供と呼んだ、梅と鶴が描かれています。

こうした逸話のために、後の時代では鶴と梅が、林和靖や、彼が暮らした西湖を象徴するものとなったのです。

彼が詠んだ中で最も有名なのが、梅をうたったこの2句です。

疎影横斜水清浅(梅の枝のまばらな影が 清く浅い水に斜めに横たわり)
暗香浮動月黄昏(梅の香りが どこからともなく漂い たそがれに月が浮かぶ)

かすかながらうっとりさせられる梅の花の香りを、見事に表現した句といえます。

ちなみに、今回展示される中にはもうひとつ、林和靖にちなんでいるのかもしれない作品があります。

それが金城一国斎(三代)の作った、《白梅・菊に蜂画硯箱》です。
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この硯箱に表された花、なんか変だと思いませんか?
梅は初春に咲く花ですが、一方秋の花の菊も咲いています。
同じ季節に咲くはずのないふたつの花が、なぜひとつに収まっているのでしょうか?

あくまで推測ですが、これも中国の詩人と関係あるのかもしれません。

中国では菊・蓮・梅・蘭の4種の花を、「四愛」と呼びます。

なぜ四愛というのかといえば、これらが中国の詩人に愛された花だからです。
梅は、先ほど述べたとおり林和靖に愛され、そして菊は、陶淵明という詩人に深く好まれた花でした。
もしかしたらこの硯箱の作者である金城一国斎は、梅と花を硯箱に表すことで、はるか昔にこれらの花を愛でた詩人たちに、オマージュを捧げたのかもしれません。
あるいは、この硯箱を使う人に、これで林和靖や陶淵明のようなすばらしい詩を書くように、と激励しているのかもしれませんね。

 

田中伝