菅井汲の版画

海の見える森美術館では、7月21日(日)まで「生誕100年記念 菅井汲 —あくなき挑戦者—」展を開催しています。

本展覧会は、パリを拠点に活動した日本人画家・菅井汲の版画作品にスポットをあて、同館所蔵のコレクション約100点を展示するものです。今回は、それらを4つの時期—渡仏初期の日本的主題を取り入れた繊細なタッチの作品、1960年代の明快な色彩で幾何学的な形を描いたダイナミックな抽象作品、1970年代のほぼ円と直線のみで構成される規格化されたモチーフを主体にした作品、晩年の「S」字シリーズ−に分けて章を構成しています。

菅井汲については当館のホームページの展覧会紹介ページをご覧ください。
http://www.umam.jp/exhibition20190525.html

今回は菅井汲と版画のことについて紹介したいと思います。

菅井汲は1952年の渡仏から1996年に亡くなるまで、大型の油彩やアクリル画に制作の主体を置いていましたが、その一方で数多くの版画作品を手がけていました。その数は400点以上に及び、版画は彼の画業を語る上で無視できないものとなっています。

彼と版画の出会いは1955年のことで、当時契約していたクラヴァン画廊の勧めで《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》という作品のリトグラフを制作したのが最初といわれています。その背景には、前年(1954年)に同画廊で開かれた個展が大きな反響を呼び、彼が忽ち売れっ子の画家となったことで、彼の作品に対する需要が高まり、供給が追いつかなくなったことがあったようです。

UMAM赤い鬼 海の見える杜美術館 
《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》 1955年 リトグラフ

そのようなきっかけで始めた版画ですが、結果的に彼は亡くなるまでの40年以上にわたりその制作に携わることとなりました。菅井は版画について「版画の魅力はスピード感である」と語っており、タブロー(絵画)や立体作品と違って気軽に制作に取りかかれ、自分の自由で無責任な思いつきを比較的短時間で実現できるものとして、版画の制作に力を注いでいました。彼は版画の個展を頻繁に行い、国際版画展にも何度も出品していました。そして彼の版画はそれらの国際展で受賞を重ねるなど高い評価を得ていました。需要を満たすための苦肉の策として制作を始めた版画ですが、菅井の考えをそのまま表現するには最も適したメディアであったのでしょう。

いよいよ明日開幕

暖かい日が続くようになりました。

気がつけば、長期休館に入り約1ヵ月半が経ちました。

ついについに待ちに待った春期特別展、

「幸若舞曲と絵画 -武将が愛した英雄(ヒーロー)たち- 」が、

明日3月2日(土)に開幕いたします!

常設展の香水瓶展示室も作品を替えておりますので、

「以前も見たよ」という方も、ぜひぜひお楽しみにお待ちください。

20190225 幸若バナーA.N

季刊誌「Promenade Vol.28」情報

12月に入り、寒さも本格的になってまいりました。

杜の遊歩道では、黄色だったタイワンフウが燃え上がるように紅く染まり、

空と美しいコントラストを作り上げています。

紅葉はまだしばらくお楽しみいただけそうです。

20181205 タイワンフウ

2018113001

 

また、現在開催中の企画展「西山翠嶂~知られざる京都画壇の巨匠~」も

早いもので折り返しへと差し掛かっております。

さて、このたび、当館発行の季刊誌「Promenade Vol.28」冬号が完成いたしました。

現在の香水瓶展示室や、西山翠嶂展の魅力をご紹介する

凝縮された1枚となっております。

PromenadeVol.28-1

PromenadeVol.28-2

A.N

2019年春の特別展「幸若舞曲と絵画―武将が愛した英雄たち」の予告です①

2019年3月2日から開催される、春季特別展「幸若舞曲と絵画―武将が愛した英雄たち」にむけて、目下準備を進めています。

展覧会タイトルの「幸若舞曲(こうわかぶきょく)」という言葉、ご存知の方は少ないかもしれません。幸若舞曲とは、南北朝時代に始まり、室町時代から江戸時代初期にかけて流行した芸能で、幸若舞(こうわかまい)とも呼ばれます。源平合戦のエピソードや、源義経を主人公とした「判官(ほうがん)物」、曽我兄弟の仇討の顛末を伝える「曽我物」など、平安時代末〜鎌倉時代初の武将の活躍を語る演目が多く、戦国武将たちにも大いに愛好されました。織田信長の幸若好きはよく知られていますし、豊臣秀吉も信長に続いて幸若大夫(たゆう。幸若の語り手)に知行を与えています。江戸時代に入ると能とともに幕府の式楽(幕府の儀式に用いられる音楽や舞踊)に採用されるなど、当時の武士たちのたしなみのひとつでした。名称には「舞」とありますが、動きよりもむしろ、面白い物語を良い声で歌うところに妙味があったようです。残念ながらその人気はやがて衰え、幕末には一度途絶えてしまいます(現在は福岡県のみやま市で幸若舞保存会によって復興され、国の指定重要無形民俗文化財に指定されています)。そのためか、現代の我々にとっては、能や歌舞伎、浄瑠璃など他の芸能に比べて馴染みのないものになってしまいました。

展覧会では幸若舞曲の演目を主題に描かれた屏風や絵巻・絵本の作品をご覧頂きます。特に江戸時代初期、17世紀に多くの作例があり、いかにこの主題が人気だったかを伺わせます。

ブログでは、展覧会の公開に先立って幸若舞曲の内容や作品の見どころを書いていきますので、ご興味持っていただけたらうれしいです。とはいえ、幸若舞曲と言われてもあまりピンと来ない方が大多数だと思います。まず今回は幸若舞曲を少しだけ身近に感じて頂ければと思い、信長の幸若舞曲愛好を伝えるエピソードをご紹介します。

永禄三年(1560)、信長は大軍を率いた今川義元を相手に劣勢に立たされます。5月19日明け方、さらに二つの砦が落とされたという報に接した信長は、「人間五十年、化天(げてん)のうちをくらぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり」と、「敦盛(あつもり)」の一節を舞った後、ただちに寡兵を率いて出陣します。桶狭間の戦い直前のこの有名なエピソードは『信長公記』(1600年頃成立。信長の入京から本能寺の変までの出来事を記述)に記されています。司馬遼太郎の『国盗り物語』がとりあげ、また、市川雷蔵主演「若き日の信長」(1959年)や、黒澤明監督「影武者」(1980年)などの映画で映像化されました。テレビの時代劇や大河ドラマにもこの場面はよく登場しますので、ご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。

さて、これらの映画やドラマで信長を演じる俳優さんたちは、ほぼ決まってこの一節を能の仕舞のように謡い舞うのですが、実はこの有名な一節、能ではなく、幸若舞曲なのです。

能にも、幸若舞曲にも、源平合戦で命を落とした悲劇の若武者、敦盛について語る「敦盛」という曲があります。

敦盛を呼び止める直実 《平家物語扇面画帖》(海の見える杜美術館所蔵)より

敦盛を呼び止める直実 《平家物語扇面画帖》 江戸時代・17世紀(海の見える杜美術館所蔵)より

一の谷の合戦に敗れた平家の敦盛はひとり逃げ遅れます。これを源氏の武将、熊谷直実(くまがいなおざね)が呼び止めて討ち取ろうとしますが、敦盛が自分の息子と同じ年の若者であることを知り、助けたくなるのです。しかしここで平家の武者を助けては自分が裏切り者と謗られてしまうというジレンマの中で、涙をのんで敦盛を殺し、直実はこの出来事を機に出家します。能も幸若も粗筋は同じですが、直実が出家を決意した時の台詞「人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり、一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか」、つまり信長が口にした一節は、能の「敦盛」には存在せず、幸若舞曲の「敦盛」からとったものです。

高野山で出家を遂げる直実

高野山で出家を遂げる直実 《舞の本絵本》のうち「敦盛・下」 江戸時代・17世紀(海の見える杜美術館所蔵)

義元の大軍に挑むその直前にこの一節をうたった信長の心情はどのようなものであったのか、思わず想像してしまいますね。同時に幸若舞曲の節がいかに信長の身に馴染んだものであったのかが伺えます。他にも、徳川家康を安土に迎えた際に信長が幸若と能を上演させたという記録や、または家康自身が戦場に大夫を同行させた記録が残るなど、幸若舞曲は戦国武将たちのごく身近にあったようです。大夫に上演させてそれを楽しんだり、あるいは自身が折にふれて口ずさんだりしながら、命を散らす古の英雄たちの境遇に、明日をも知れぬ戦いのさなかにある自分たちを重ねていたのでしょうか。

幸若舞曲は芸能として成熟する中で演目の数を絞り、特に人気のあった36曲の演目が、江戸時代寛永年間(1624〜1645)に『舞の本』として挿絵入りで出版されます。この版本をもとに、大変豪華な絵巻や絵本が作られました。当館所蔵の《舞の本絵本》や、アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリィ等が所蔵する《舞の本絵巻》、日本大学図書館所蔵の《幸若舞曲集》などがそれにあたります。これらはいずれも松平家などの大名家が発注、所蔵したものと考えられています。戦国時代が終わり、江戸の世も落ち着きを見せ始めた時期、大名たちは武士としての自分たちのアイデンティティの証として、古の英雄の活躍を語り、往年の戦国武将たちに愛された幸若舞曲を、絵巻や絵本のかたちで手元に置きたかったのでしょう。

展覧会では幸若舞曲の世界を、絵を通して楽しんでいただければと思っています。今後のブログでも、面白い物語や、特に見ごたえのある作品などご紹介していきます。

谷川ゆき

【2019年春期特別展 幸若舞曲と絵画—武将が愛した英雄たち】

■期  間 2019年3月2日(土) 〜 5月12日(日)

■開館時間 10:00-17:00 (入館は16:30まで)

■休  日 月曜日、4月30日(火)、5月7日(火) ※ただし4月29日(月・祝)、5月6日(月・祝)は開館

■入  料 一般¥1,000 高・大学生¥500 中学生以下無料 *障がい者手帳などをお持ちの方は半額。*介添えの方は1名無料。20名以上の団体は各200円引き。

■主  催 海の見える杜美術館

■会  場 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡701)

■後  援:広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

西山翠嶂展のみどころ その1

こんにちは、ご無沙汰しております。

 

10月27日より西山翠嶂展が始まり、はや1ヶ月が経とうとしております。

西山翠嶂とは、京都・伏見に生まれ、竹内栖鳳に弟子入りし絵画を学んだ日本画家です。展覧会で入賞を重ね、画家としての確固とした地位を築き、京都市立美術工芸学校および同絵画専門学校の校長や官展の審査員などの要職を務めたほか、多くの弟子を育てた近代の京都画壇において重要な画家です。

ただ、「知られざる京都画壇の巨匠」というサブタイトルをつけさせていただいたことからもおわかりになるように、彼の師・竹内栖鳳や、土田麦僊ら彼の弟弟子たちと比較してみても、もっともっとこれから知られていくべき画家です。

 

さて、今回の展覧会は、その知る人ぞ知る京都画壇の巨匠、西山翠嶂が描いた名品の数々をご覧いただけるまたとない機会です。

展覧会で、翠嶂という画家の魅力を知っていただきたいと思っておりますので、遅ればせではございますが、このブログでも展覧会について、翠嶂についてご紹介していきたいと思います。

 

 

 

まず、この展覧会の大きな見どころとしまして、「大下絵」があります。

5.採桑 大下絵

《採桑 大下絵》 1914年(大正3)頃

 

落梅

《落梅 大下絵》 1918年(大正7)頃

 

これらは、文部省美術展覧会(通称・文展)に出品した作品のための大下絵(原寸大の画稿)です。ただ、《採桑》も、《落梅》も、完成作品がどこに所蔵されているのか、今も現存しているのかどうかが分かっておりません。ですので、現在、西山翠嶂という画家を知る上でこれらの画稿はきわめて貴重な資料となっています。

 

下絵といえども、翠嶂作品の持つ豊かな詩情は充分に味わっていただけることと存じます。特に女性の腕やほほの線の美しさなど、ぜひゆっくりご覧いただいきたいです。

 

実は私が翠嶂という画家をとりあげてみたいと思ったきっかけは、これら下絵を見たことに始まりました。「ああ、こんなみずみずしい素晴らしい作品を描いた画家がいたのか」と、数年前に思い、多くの方にこの画家の魅力を知っていただきたいと思い、展覧会の準備をすすめてきました。

 

このたびの展覧会のため、財団紙守さまに修復を行っていただきましたので、上の写真よりもさらにきれいになってごらんいただけるようになっております!

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作品保護のため、照明は少し暗めではありますが、たくさんの作品をゆっくりご覧いただけるように展示しております。この展覧会で一人でも多くの方に翠嶂作品の魅力を知っていただければ幸いです。

 

 

森下麻衣子

西南戦争浮世絵《隆盛冥府大改革》

海の見える杜美術館では、10月14日(日)まで「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷(せご)どん-」を開催しております。今回はその出品作品の中から、西郷隆盛が地獄で大暴れする《隆盛冥府大改革》という作品を紹介します。

《隆盛冥府大改革》 海の見える杜美術館 UMAM
鈴木年基画《隆盛冥府大改革》 大判錦絵三枚続 明治10年12月7日届出

画面の中央では、西郷が左手で鬼の首を掴み、右手で閻魔大王を殴り倒しています。その傍らでは桐野利秋が2体の鬼を締め上げています。また、画面の左奥に目を移すと、薩摩兵士たちが逃げ惑う鬼を追い回している様子が見えます。狼狽する閻魔大王らとは対照的に、西郷を始めとする薩摩軍は猛々しく描かれています。

詞書には、1877年9月24日の城山において、兵を集めた西郷が冥府へ攻め入り、閻魔大王を打ち倒し冥府の王になった旨が書かれています。この作品は、西南戦争終結から2か月余りを経て制作されましたが、詞書の内容が、実際に巷で流れた風説をもとに書かれているのか、制作者の想像で書かれているのかは不明です。西郷が生きている間に果たすことができなかった改革を、せめてあの世で果たさせてあげたいという世間の彼に対する同情が、この作品を生んだのかもしれません。

大内直輝

残すところあと1ヵ月

9月も半ばに入り、過ごしやすい季節になってきました。

今展覧会、「西南戦争浮世絵展」は10月14日(日)までということで、

気がつくと展示期間の折り返しを過ぎ、残すところあと1ヵ月となりました。

今回は受付・総務を務める私の目線から

可愛らしいと思った作品を少しだけご紹介させていただきます。 attachment03

299.〔「征韓論」から「御船戦争」まで12場面〕大判錦絵 届出日記載なし

attachment01 307.大新ぱん鹿児島暴徒人名集 大短冊判錦絵 届出日記載なし

 

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一マスがこんなに小さくても、一つひとつ細かく色鮮やかに描かれており、

思わず見入ってしまいました(ちなみにこちらは西郷隆盛)。

海の見える杜美術館では、Instagramを毎日更新しております。

作品の中からお客様のお気に入りの作品をぜひ教えてくださいませ。

お客様のお気に入りが採用されるかもしれません…

お時間のある時に覗いてみてはいかがでしょうか。

A.N

西南戦争の双六

海の見える杜美術館では、10月14日(日)まで展覧会「西南戦争浮世絵 ­さようなら、西郷(せご)どん­」を開催しております。今回はその出品作品の中から、西南戦争を題材とした絵双六(絵入りの双六)を紹介します。

2018-002-01-3 296 鹿児島鎮定双六 及び 封筒-1

歌川国貞(3代)画《鹿児嶋鎮定双六》 1877年(明治10)10月27日届出

 

江戸時代に子供の正月遊びとして普及し始めた絵双六は、明治時代になって玩具として本格的に定着し、様々な種類のものが世に出ました。

絵双六には、振り出しから上がりまで順々に進んでいく「回り双六(廻り双六)」と、各区画に移動先が示してあり、振ったさいの目によって絵の中を飛び移っていく「飛び双六」の2種類があります。今回紹介する《鹿児嶋鎮定双六》は、そのうち「飛び双六」にあたり、振り出しの「征韓論」から上がりの「天盃」まで西南戦争の下記の14の場面が描かれています。「征韓論」以外はすべて1877年(明治10)の出来事です。

 

征韓論…1873年(明治6)、西郷隆盛が政府の参議を辞職し、鹿児島へ帰るきっかけとなった論争。

弾薬… 薩摩が所有していた武器弾薬を、1月末から2月初頭にかけて官軍と旧薩摩藩 士が奪い合った事件(弾薬掠奪事件)。

軍議… 2月5日、西郷と薩摩兵士たちが、軍議を行い、全軍出兵して東京へ向かうことを決めた。

田原坂…3月4日から20日にかけて、熊本城を目指す薩軍と、城を守る官軍が田原坂で大激戦し官軍勝利した戦い。

女隊… 薩軍の女性が部隊を編成し、官軍相手に奮戦した(史実ではない)。

抜刀隊…士族で編成された政府の抜刀隊が、薩軍と戦闘した。彼らの中には薩摩出身者も多く参加していた。

朝男山…相撲取りの朝男山市五郎と弟子たちが、畳で銃弾を防いだ(史実ではない)。

高千穂…熊本を追われた薩軍は、高千穂の山の麓で官軍を食い止めた。

人吉… 薩軍は熊本から人吉に本営を移し、官軍は6月1日に人吉を攻め落とした。

佐土原…宮崎佐土原の島津啓次郎が薩軍佐土原隊を結成し奮戦した。7月31日に佐土

原は陥落した。

延岡… 8月14日、宮崎の延岡に集まった薩軍を官軍が総攻撃し、占領した。

降参… 8月16日、西郷は解軍の指令を出し、薩軍から降参する者が相次いだ。

城山… 9月1日、西郷は残りの兵と鹿児島の城山に入り、9月24日、官軍が総攻撃をかけ薩軍は全滅、西郷は切腹した。

天盃… 官軍の勝利に貢献した人が集められ、天皇から直接酒盃を賜った(史

実ではない)。

 

この中には「女隊」や「朝男山」など、史実とはみなされていないものも含まれますが、「征韓論」や「弾薬」、「田原坂」や「城山」など、西南戦争に関係する主要な出来事や激戦地が描かれ、この1枚を通して戦争の勃発から終焉までを辿ることができます。

当館所蔵の西南戦争の双六は本作のみですが、管見の限り、他にも楊洲周延画《鹿児島鎮静双録》(江戸東京博物館所蔵、明治10年届出)、月岡芳年画《鹿児嶋凱陣双六》(個人所蔵、明治10年12月17日届出)、月岡芳年画《鹿児島平定寿語禄》(個人所蔵、明治10年12月7日届出)の3点の存在を確認しています。これらはいずれも画題に、「鎮定」、「鎮静」、「凱陣」、「平定」とあり、天盃を頂戴する場面を上がりとしていることから、その制作には官軍の勝利を祝う意図が込められていたと考えられています(註1)。西南戦争を題材とした双六について、他にどのようなものがあるかは今後も探していきたいと思っています。

戦争が終わって間もない時期に、西南戦争が双六のような子供の遊び道具に取り入れられたことはとても興味深いです。

 

西南戦争浮世絵展では、展示室を出たところに、本作を使った双六コーナーが設けられています。

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「征韓論」から振り始め、「降参」もしくは「城山」を通って、そこから「天盃」で上がるのが通常ルートですが、序盤の「女隊」を通ると、最短3回で上がることができます。

鹿児嶋鎮定双六 海の見える杜美術館 UMAM - コピー (2)

当時の子供たちが夢中になった双六遊びを体験してみてはいかがでしょうか。

 

大内直輝

 

註1 大庭卓也・生住昌大「西南戦争-戦争と、その広がり-」 久留米大学文学部 2014年 67、68ページ

西南戦争 女軍隊の活躍

女軍隊は史実としては確認できないのですが、西南戦争浮世絵には、女軍隊の活躍を描いたものが数多く存在し、そのうちの大部分は錦絵新聞として発行されています。

20180818 230 鹿児嶋征討紀聞
230.楊洲周延《鹿児嶋征討紀聞》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

20180818 228 薩州鹿児嶋征討記之内 賊徒之女隊勇戦之図
228.月岡芳年《薩州鹿児島征討記之内 賊徒之女隊勇戦之図》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

20180818 232 鹿児島戦争記聞
232.楊洲周延《鹿児嶋戦争記聞》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

230番(※)には、鹿児嶋の錦江湾で官軍の軍艦を攻撃する女性たちが描かれています。228番は桜吹雪の中で、232番はヤマツツジが咲き乱れる中で薩摩の女性兵士たちが薙刀を振るって官軍と戦っています。

現在開催中の展覧会「西南戦争浮世絵 ―さようなら、西郷どん―」で展示しています。(10月14日まで)

※番号は、このたびの展覧会に合わせて発行された「資料集 西南戦争浮世絵」2018と連動しています。

さち

西南戦争 官軍、降参を呼びかける

20180814西南戦争官軍広告 UMAM
「官軍に降参する者はころざず 明治十年六月 官軍先鋒本営」

6月1日、薩軍の本営がおかれた人吉が陥落しました。その後にまかれたビラのようです。

現在開催中の「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷どん-」に出品されています。およそ100点ある出品作品中、本作品(ビラ)は唯一、実際の戦争に利用されたリアルな歴史史料として異彩を放っています。

 

そして今、ウッドワン美術館で開催中の「アートの世界を探検しよう!~鑑賞入門第10弾~」にて、同館所蔵の高橋由一《官軍が火を人吉に放つ図》が展示されています。

20180814 高橋由一《官軍が火を人吉に放つ図》 (1)
高橋由一 《官軍が火を人吉に放つ図》 1877(明治10)年 油彩・カンヴァス ウッドワン美術館蔵

当館で展示している西南戦争浮世絵は、絵師が現地を見ずに想像で描いたものですが、この作品は、官軍が人吉に陣取る薩軍を追い込む場面を、実際に現地を取材したスケッチを元に描いたようです。このような絵はとても珍しいのではないでしょうか。ウッドワン美術館は当館から車でおよそ1時間、山深くとても涼しい場所にありますので、ぜひご一緒にお楽しみください。

さち

青木隆幸