第20回香水散歩 パリ装飾美術館 エルザ・スキャパレリ展

スキャパレリ展へと導く階段。岡村嘉子撮影、2022年。

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。今回は久々に海を越えた香水散歩をいたしました。日本からパリへの夜間飛行は、ロシア上空を避けてタジキスタンあたりを通過していくと思いきや、飛行中にふと目覚めて現在地を確認すると、なんとグリーンランド上空。思いもよらぬ東回りの航路の果てに辿り着いた約1年ぶりのパリで、真っ先に足を運んだのは、パリ装飾美術館でのエルザ・スキャパレリ(1890-1973)の大回顧展「ショッキング! エルザ・スキャパレリの超現実主義世界」です。

一時はシャネルと人気を二分した、ファッション・デザイナーのスキャパレリは、香水においても画期的な作品を生み出しました。その代表作の多くが海杜にも所蔵されているため、既にブログで度々ご紹介してまいりましたが、それでもなお、再びスキャパレリをテーマに取り上げなくてはならないほどに、パリ装飾美術館での展覧会は素晴らしいものでした。

この展覧会では、彼女を象徴する色のショッキング・ピンクのように、遊び心に溢れ、エネルギッシュで大胆な彼女のデザインが、所狭しと展示されていました。その数、約520点! それには服はもちろんのこと、小物類やデザイン画、室内装飾、香水瓶と彼女の偉業を語るには欠かせない作品が詰まっています。しかも、ドレスひとつをとっても、小さなボタンにまで、彼女の革新的精神が込められているので、大変見応えのある展覧会だったのです。

 展覧会は8つのテーマで構成されていましたが、今回はそのうち、特に印象深かった3つのテーマについて取り上げたいと思います。

 ひとつ目は、コレクションのデザイン画をテーマにした展示です。床から天井までの壁だけでは足らずに、床にまでびっしりと埋め尽くされた、デザイン画の複製展示です。こちらです👇

目を凝らしていくと、複製の中に、オリジナルのデザイン画も含まれていまので、宝探しのような気分を味わえるのですが、この展示で最も忘れがたい展示は、何よりもこちらの手袋の展示です!!☟

スリラー映画よろしく、壁から手袋を着けた腕がニョキニョキ、ぬうっ、だらーんっと突き出ているのです。しかも画像の通り、手先の動きがやけに表情豊かです。

横から見ると、このような感じです☟

さらに、展示されている手袋も、スキャパレリのデザインを特徴づける、奇抜さ満載!「ガオー!!」👇

かつて手袋は香りを沁み込まして使用されていたので、香水史において手袋は重要な存在です(それについては、このブログ〔第7回香水散歩〕でも以前、ご紹介しましたね!)。そのようなわけで、これまでにも数々の手袋の展示を各地で私は見て参りましたが、今回のような、つい顔が綻びてしまうほど、面白い展示は初めてです!

紳士からの視線を意識して、か弱いふりをしたり、はたまた取り澄ましたりするだけの女性ではもはやない、狂乱の時代1920年代を経験した新たな時代のおおらかでユーモア溢れる女性像が、小物においても表現されているのですね。スキャパレリの主な顧客であった上流階級の女性たちが率先して、優雅さの質を変えていったことがよく伝わる展示でした。

 印象に残る2番目のテーマは、「綺羅星のごとく居並ぶ前衛芸術家たち」です。展示室全体で、最も広い空間を占めていたのがこのテーマでした。例えば、うみもり香水瓶コレクションで取り上げた《太陽王》〔うみもり香水瓶コレクション21〕をデザインした、サルヴァドール・ダリにあてられた大きな展示室は、共同制作の服飾やオブジェだけでなく、写真をはじめ二人の深い信頼関係を伝える数多くの資料が展示されていて、見応えがありました。《太陽王》とはこちらの左の画像ですね👇

左:スキャパレリ社《太陽王》1946年頃透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

右:スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

他にも上の右の画像の香水瓶《ショッキング》〔うみもり香水瓶コレクション13〕をデザインしたレオノール・フィニによる絵画や、ジャン・コクトーのデッサンを転写した上着や、彫刻家アルベルト・ジャコメッティによるデザインのボタンが使用されたシックなツーピース等、スキャパレリとのコラボの事実が既によく知られている芸術家から、さほど知られていない芸術家まで、様々な顔ぶれが登場するので、歩を進める度に胸が躍らずにはいられませんでした。さすが20年ぶりの大回顧展だけあって、前回の展覧会では紹介されていなかった新たな事実が、数多く提示されています!

印象深い3つ目のテーマである「パリ・ヴァンドーム広場のブティック」も、同時代の芸術家たちに関します。1935年にオープンしたヴァンドーム広場のブティックの内装の再現展示では、ジャン=ミシェル・フランクやジャコメッティ、ラウル・デュフィなど多くの芸術家の仕事を見出すことができました。

ところでジャン=ミシェル・フランク(1895-1941)は、アール・デコ期に高級素材を用いたシンプルな家具を制作し、上流階級の間で人気を博しながら、20世紀前半を生きたユダヤ人ゆえに(彼はあのアンネ・フランクのいとこに当たります)時代に翻弄され、活動期間が短く終わってしまったため、同時代の他のデザイナーに比べると、あいにくいまだ知名度に劣るかもしれません。しかし彼の名は、ジャコメッティ研究(ちなみに私の修論のテーマはジャコメッティでした)のなかでは、度々登場する名でもあります。二人の接点は、ジャコメッティがシュルレアリスム・グループから離れて、戦後のいわゆるジャコメッティ・スタイルを生み出すための独自の探究をしている期間に生じました。ジャコメッティは生活のために、家具デザイナーだった弟ディエゴとともにフランクに協力して、室内装飾のデザイン・制作を手掛けていたのです。今回のスキャパレリ展では、まさにジャコメッティの探究期間の仕事を見る貴重な機会であったことも、真っ先にこの展覧会へ足を運んだ理由のひとつでした。

この展覧会では、フランクがブティックの地階に設けた、「鳥かご」ならぬ巨大な「香水かご」も再現されていました。

当時、金彩された竹と金属でできた「香水かご」のなかに収められたのは、香水と化粧品。記録写真によると、香水かごの片側は、広場に面した大きな窓の側に設けられているので、ショウ・ウィンドウの機能も備えていたことがわかります。再現展示では残念なことに、かごの上部が省略されていますが、実際は、鳥かごを模して、吊り下げ用の把手がついていたので、当時はさらに魅力的であったと想像されます。

香水かごを背後にして据えられた展示台の上には、ドーム型のケースに入った色とりどりの香水瓶がずらりと陳列されています。とくにこの展示台の周囲は、来館者が途切れることはありませんでした👇

それはきっと一つ一つの香水瓶の形の楽しさが、人を惹きつけるからでしょう。なにしろスキャパレリの香水瓶といえば、このようなデザインが目白押しなのですから。👇

左:スキャパレリ社《スリーピング》1938年透明クリスタル、赤色クリスタル、金 デザイン:フェルナン・ゲリ=コラ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SLEEPING– 1938, Design by Fernand GUERY- COLAS, Made by Baccarat ©Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 
右:スキャパレリ社《スポーツ》1952年、緑色ガラス、金、エナメル  製造:サン=ゴバン・デジョンケール社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SPORT – 1952, Made by Saint-Gobain Desjonquère © Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 スキャパレリ以後の香水瓶の変遷を見ても、スキャパレリほどの奇抜なアイデアに溢れ、それと一体化した機知に富む香水名を持ち、それでいながら高級素材によって上質さや優雅さを保っている香水瓶は、なかなか見当たりません。そのような意味で、スキャパレリ自身が、香水史において燦然と輝く大きな星の一つであったことを、この展覧会で改めて認識させられます。彼女の活動拠点であったパリならではの充実した回顧展を見て、香水散歩の楽しさを再確認いたしました。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―Part Ⅱ 開催中です

ご無沙汰しております。この間、学生時代の後輩に会った際、「最近あまりブログを書いていないのではないか?」と指摘されました。反省しきりです。

11月3日より、展覧会「引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―PartⅡ」が開催中です。当館の引札は昨年の展覧会でもご紹介したのですが、まだまだご紹介しきれなかった作品もあり、今年も開催となりました。

引札は、明治から大正にかけて隆盛した、広告のための印刷物で、商店が年末年始にお得意様に配布したものを、特に「正月用引札」と言っています。年末年始にふさわしく、おめでたいモチーフが画面に描かれています。当時の幸せを呼び込むと考えられたもの、あるいは人々の幸せのありかたがそこにあると言えるでしょう。

前回同様、今回も「かわいい」「おもしろい」という声を来館の皆様からいただいておりますが、意外な作品が好評で、担当としても驚いております。

田口 年信《大黒 家族 お金 床の間》1899年(明治32)頃

掛け軸に描かれた大黒が持つ打出の小槌から、お金がどんどん湧いてきています。真ん中の男性はそれを三方で受け、右側のお嬢さんはこぼれたお金をかき集めています。

ここに表されているのは、「お金があったらいいな~」という素直な気持ちではないでしょうか。

美術館では多くの場合、画家の誰かが作った立派な芸術を鑑賞して、なにを表現しているのかを読み取る、というなかなか大変な作業をしてしまいがちですが(それは私に限ったことではないでしょう)これら引札を見てまず受け取るのは、「長寿!富!商売繁盛!家庭円満最高!」という、非常に簡単なメッセ―ジです。

こうした絵画は共感できる部分も多いですし、この率直さがいっそ気持ちよいということで、美術に親しんだ人にとっても新鮮に思えて好評なのかもしれませんね。

《七福神 飛行機 気球 富士》明治時代末~大正時代初期

宝船に乗ってやってくる姿が定番の七福神も、引札の世界ではお札の羽の飛行機でやってきます。率直に、神様が富(それも紙幣というかたちで)をもたらしてくれることを願っている絵です。

ちなみに今回、すべての作品に解説がついているわけではありませんが、作品の情報を書いたキャプションにちょっとした一言を添えています。何かを解説していると思いきや、私の感想がほとんどです。ぜひ見てみてくださいね。

《瓶酒 グラス 恵比寿 大黒》1907年(明治40)頃

全部こんなギラギラした欲望を描いた絵画なの、疲れるわと思われるかもしれませんが、こんなチルい絵画も展示しております。こちらはスタッフに好評の作品です。恵比寿さんたちがお酒を手にしながら談笑しています。こんな時間を明治の人たちも持っていたんでしょうか。

展覧会は12月25日までです。引札の世界をぜひのぞいていただければ幸いです。

森下麻衣子

うみもり香水瓶コレクション20 18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション19 動物主題の香水瓶 2

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回に引き続き今回も、当館企画展示室で開催中の「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展にちなみ、愛らしい動物をかたどった、とっておきの香水瓶の数々をご紹介いたします!

 前回は、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社とクリスタル・メーカー、バカラ社の渾身の作たる、1910年代の香水「トゥジュール・フィデール」の香水瓶をご紹介しました。当館の所蔵作品には、忠犬パグ公とつい呼びたくなる、この愛らしい小型犬パグを主題とした香水瓶が他にもあり、なかでも18世紀のイギリスの磁器製香水瓶は必見なのです。新旧並べてみると……

左:《パグ》イギリス、セント・ジェイムズ、1750-1755年、海の見える杜美術館©海の見える杜美術館、CARLIN, England Saint James, Ca.1750-1755, enamel,or, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY, CHIEN FLACON WITH ITS CASE Design by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 おお、同じポーズです! パグが体現する忠誠心や愛くるしさを表現するには、王道のポーズなのですね。

 さて、磁器製のパグ犬の香水瓶を見ると、柔らかそうな毛並みが、ベージュ色のグラデーションで見事に再現されています。この繊細さや色調は、当時のイギリスが採用した軟質磁器の特徴のひとつです。

 磁器製造に関して、ヨーロッパの他国に後れをとっていたイギリスが、最初の陶磁器窯を誕生させたのは、1743年頃のこと。ロンドンのチェルシー窯でした。そして、2番目に登場したボウ窯が、1748年に磁器の成分配合を開発すると、いくつもの新たな陶磁器窯がそれに続きました。本作品を製造したセント・ジェイムズ窯もその一つです。本作品の制作年を見てみますと、1750-1755年です。つまり、ボウ窯の開発から、わずか2年後なのです。当時のイギリスでの磁器興隆の勢いが、よくうかがえますね。

 セント・ジェイムズ窯が製造したパグの香水瓶は、人気が高く、またこの窯が1760年に活動を止めたこともあって作品数が少ないため、数多くの模造品が出回っています。その点でも、ぜひ展示室で実物が放つ完成度をご覧頂きたい作品です。

 さて、動物といえば、夏の庭に棲息する昆虫類も忘れられない存在ですね。続いては、この夏の香水瓶展示室に並ぶ、昆虫をモティーフとする2点の香水瓶をご紹介します。

ロジェ・ガレ社 香水瓶《シガリア》、デザイン:ルネ・ラリック、1910年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:ルネ・ラリック社、海の見える杜美術館, ROGER&GALLET, CIGALIA FLACON WITH ITS CASE Design by René Lalique 1910, Transparent glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 まずは、きっと皆様がその声を日々耳にしておられるであろうセミです。日本の夏の風物詩であるセミは、フランス南部、プロヴァンス地方の代表的な生き物でもあり、幸運の象徴として古くから親しまれています。

目を閉じて、日本のセミの鳴き声を想像すると、決まって、夏の蒸し暑さ(ときに茹だるような……)も一緒に思い起こされるのは、きっと私だけではないでしょう。ところがフランスで耳にしたセミの鳴き声となると、心地よい暖かさと乾いた空気が思い出されるのです。そのような違いがあるなかで、ヴァカンスをこよなく愛するフランスの人々にとってのセミは、夏のひたすら楽しい思い出とともにあるものなのです。

ルネ・ラリックは、その明るく穏やかなイメージを、瓶の四隅で4匹のセミが羽を広げて休む香水瓶に込めました。彼がデザインした、木製の専用箱も、ぜひご覧くださいませ。

昆虫主題の2点目は、テントウムシです。

デピノワ・エ・フィス社 香水瓶《テントウムシ》、デザイン:モーリス・デピノワ、1918年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:デピノワ・エ・フィス社、1918年頃、海の見える杜美術館, DEPINOIX&FILS COCCINELLES FLACON WITH ITS CASE Design by Maurice DEPINOIX 1918, Transparent glass, enamel,Brown patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 テントウムシは、太陽に向かって羽ばたくことから、洋の東西を問わず、様々な幸運のイメージと結びついています。本作品では、すらりとした瓶によって、羽を広げたテントウムシが天高く力いっぱいに飛んでいく様子が強調されています。瓶の持ち主が、新たな挑戦をする際のお守りになってくれそうな香水瓶ですね。

 動物たちが、活発に活動する夏。美術館の庭園と展示室で、生を謳歌する愛すべき小さな生き物たちの様子をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション18 動物主題の香水瓶1

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展が開催中です。展示室に揃った表情豊かな動物たちに刺激を受けて、このブログでも愛らしい動物をかたどった当館所蔵のとっておきの香水瓶を、数回にわたってご紹介いたします!

まずは、企画展のチラシにも登場する、私たちの生活にとても身近な犬と猫から見ていきましょう。

 犬をテーマとした香水瓶として、真っ先に思い浮かぶのは、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社の、こちらの香水瓶ではないでしょうか。

ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY,CHIEN FLACON WITH ITS CASEDesign by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 クッションの上におとなしくちょこんと座り、つぶらな瞳で飼い主を見つめる、この愛らしい小型犬パグの香水瓶です。クッションを琥珀色に染める香水の名は、「トゥジュール・フィデール」。つまり「いつも忠実な」という意味のフランス語です。この名を知ると、日本では涙なしでは語れない忠犬ハチ公の姿とこのパグが重なってしまって、さらに忘れがたくなりますね。なにしろハチ公は、飼い主の死後、10年もその帰りを駅で待ってくれていたのですよ……(涙)。その忠誠たるやいかに!

 さて、かようにも香水名と形態がぴったりと合った香水瓶も、意外と珍しいものです。このデザインを手がけたのは、ルネ・ラリックのある時期の右腕としても知られる、ジョルジュ・ドゥレーム(1859-1932)という、アール・ヌーヴォー様式の宝飾品を得意とした彫金師でした。彼は、1890年から約20年間にわたり、ルネ・ラリックの工房の彫金師長として、約20名もの弟子をまとめながら、ラリックの構想通りの作品を次々と製作しました。ドゥレームの類まれな技術の高さは、当時の高名な宝飾家アンリ・ヴェヴェールからも「たがねの達人」と称されたほどです。

 ドゥレームは、1908年に自身のブティックをパリの一等地ロワイヤル通りに構えると、それまでのアール・ヌーヴォー様式から、よりシンプルな、ほとんどアール・デコに近いデザインを先駆的に行うようになりました。本作品は、そのような最中の1912年頃の作品です。そのためでしょうか、装飾を廃した正四角形の本体だけではなく、香水瓶のケースにもその形状や図柄に、アール・デコの兆しをみることができます。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 本作品は、パグが単に可愛らしいだけではなく、アール・ヌーヴォーからアール・デコへの早い時期での移行が見られる、フランスのデザイン史上、意義深い作品なのですね。

ところで、この香水瓶は、製造を担ったバカラ社にとっても、新境地を開いた作品でした。というのも、この作品以前のバカラ社は、「ザ・瓶!」といった感の、ワインを入れる小型カラフのような古典的形状の香水瓶を製造し続けていました。例えばこの作品です👇

L.T.ピヴェール社《香水瓶 カラフォン》デザイン:バカラ社 1908年、製造:バカラ社 1912年、透明クリスタル、金属に金メッキ、海の見える杜美術館、L.T.PIVER, CARAFON FLACON WITH ITS CASE – Design by Les Cristalleries de BACCARAT – 1908, Transparent crystal, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

しかし、ひとたびこの「トゥジュール・フィデール」で、遊び心に溢れた香水瓶を製造すると、その後に手掛けるデザインを一新させたのです。「トゥジュール・フィデール」以後のバカラ社製香水瓶には、ゲラン社の名香「シャンゼリゼ」を収めた亀甲型の香水瓶や、「シャリマー」のコウモリ型香水瓶など、透明クリスタルの特長を活かした個性的な香水瓶デザインに、枚挙にいとまがありません。その始まりが、このドルセー社のパグだったのです。

 さて、次は19世紀末のイギリスで作られた猫の香水瓶を見てみましょう。こちらも前述の犬と同様、香水瓶の栓部分にその姿があります。

《指輪付きセント・ボトル》イギリス、1890 年頃、白色ガラス、金、ターコイズ、海の見える杜美術館、SCENT BOTTLE WITH RING -C.1890 White glass, gold,turquoises, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

精巧な彫金細工が施された栓の頂きに鎮座する金色に輝く猫。さきほどの忠犬パグ公とはうって変わって、眼前の獲物をじっと見つめ、今にも捕らえようとしている緊張感みなぎる姿です。それは、盛り上がった背中や眼差しだけではなく、尻尾やピンと立てた耳によく表れているとの、大の猫好きの友人の言葉を聞いて、ジョルジュ・デュレームと同時代の、イギリスの金銀細工師の観察眼と卓越した技術力を私は再認識しました。

さて、本作品は、2本のチェーンの先の指輪も目をひくことでしょう。写真では少し分かりづらいのですが、ターコイズが等間隔に嵌め込まれた上品な指輪が付いています。このような指輪付き香水瓶は、しばしば夜会の折に使用されたものです。

19世紀のレディたちは、夜会で失神を起こすことが度々ありました。その原因は、ドレスの下に着用したコルセット。ウェストをより細く見せるために行った締め付けが、強すぎたためです。補正下着のおかげで気を失うとは、現代からすれば、愉快な失敗談のひとつのようですが、か弱いことも女性の美徳とされた時代には、失神もまたレディらしい行為のひとつでした。そのため、多くの女性たちはコルセットを着用し続け、体調不良を起こし続けたのです。

さて、失神時に活躍したのが、気付け薬です。レディたちは、それを小瓶に詰めて、来たるべき失神のために肌身離さず持ち歩きました。

ところで、当時の気付け薬には香りがついていました。良い香りを嗅いで意識を取り戻したのです。そのため、名だたる香水製造会社が気付け薬をこぞって製造していました。例えば、このブログで度々登場する、ゲラン社やウビガン社ピヴェール社も、19世紀末まで気付け薬を販売していたことは、あまり知られていないことかもしれません。

当時の気付け薬は、購入後に、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでしたので、高い技術を誇る金銀細工師や宝石細工師や、高級宝飾品会社が美しい容器を生み出したのです。本作品も、そのようなひとつです。

小指の爪にも満たないほどの極めてこの小さな猫は、素敵な宵を過ごすためのお守りのような、秘密の同伴者であったのかもしれません。かつての持ち主は、このエレガントな容器を指に巻き付けながら、優雅なドレスを纏って、夜会をさぞかし楽しんだことでしょう。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回ご紹介した犬と猫の香水瓶は、2022年8月28日まで、香水瓶展示室の夏期展示に出品しています。ぜひ実物を展示室にてご覧くださいませ。

うみもり香水瓶コレクション17 《アリュバロス 兜を被った頭部》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の「平家物語絵 修羅と鎮魂の絵画」に合わせて、フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》(うみもり香水瓶コレクション16)とともに、古の兵士つながりで、こちらの作品を公開しています👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《アリュバロス 兜を被った頭部》ロドス島(?) ナウクラティス(?)、紀元前6世紀初頭、テラコッタ、彩色、海の見える杜美術館、ARYBALLOS TETE CASQUEE, – Greece,Rodhes(?),Naucratis(?),Early VIth century BC., Terracotta, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

こちらは、紀元前6世紀初頭にギリシャでつくられた香油入れです。

陶器の製造がさかんであった古代ギリシャには、様々な器の形が存在しました。その形それぞれに名称があり、本作品名に付された「アリュバロス」も、まさに器形を表す言葉です。この一言で、細い首を持った球形または球状の小瓶のことを表しています。

そういえば、以前、ブログの「香水散歩」でご紹介したオランダ・ライデン国立考古博物館 の古代ギリシャ展示室の作品や、それに合わせてお目に掛けた海杜所蔵の作品も、アリュバロスでしたね!

こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《アリュバロス 兜を被った頭部》ギリシャ、コリントス、紀元前6世紀、テラコッタ、海の見える杜美術館 ARYBALLOS Greece,Corinth,VIth century BC., Terracotta, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 アリュバロスには、上の画像のように絵付けされたものが数多く存在する中で、今回の出品作は、まるで彫刻のように、兜をつけた青年の頭部がかたどられた珍しい形をしています。

 兜の額部分に施された繊細な植物文様の線刻に目を見張りますが、なによりも強い印象を残すのは、目を中心としたこの顔立ちです。そこには、つい「これぞギリシャ人!」と言いたくなるような要素が詰まっています。

例えば、まずはこの鼻。いわゆる「ギリシャ鼻」と呼ばれる、鼻梁の高さを誇る鼻は、額から鼻の先にかけて一直線に、次第に高くなっています。斜め横から見ると、鼻が直角三角形のようであることやその高さが顕著ですね!

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

そして、この美しい鼻よりもさらに印象的であるが、深く刻まれた大きな両目でしょう。このようなアーモンド形をした目は、当時のギリシャ彫刻の特徴でもありました。それゆえ本作品は、手のひらにちょこんと乗るほどの、7cmに満たない小さな容器でありながら、ギリシャ彫刻の美を味わわせてくれるのです。

ところで、本作品の製造地はエーゲ海のロドス島か、あるいは古代エジプトのギリシャ人都市ナウクラティスか、いまだ特定されていません。

ロドス島は、ギリシャ陶器の一大産地の一つであり、紀元前7世紀以来、数多くの香水瓶を製造しては、近隣諸国へ輸出していました。そのため、近東やエジプト等で見つかった香料入れにも、ロドス島で製造されたものが数多く含まれています。そのことから、ロドス島が製造地であることは十分考えられるでしょう。

では、ナウクラティスはいかがでしょうか。ナウクラティスは、紀元前7世紀以来、ナイル川のカノポス分流西岸にて栄えたギリシャ人交易都市です。この地もまた、窯業も盛んであったと考えられています。そのためでしょうか、この地に残るギリシャの神々を祀る神殿跡の付近では、多くの陶器が発見されています。

もし本作品がナウクラティスで製造されたとすると、ロドス島とは全く異なる想像を与えてくれるのが面白いところです。世界最古の歴史書である、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著作『歴史』には、嵐で難破しナイル川デルタ付近に流れ着いたギリシャ人の海賊が、エジプト第26王朝のファラオ、プサムテク1世(治世:紀元前664-610年頃)を守るために、傭兵となって勝利に貢献したことが記されています。その報酬として、エジプトにギリシャ人のための土地が与えられたのをきっかけに、傭兵らの子孫の時代になっても、ファラオとの関係が続き、やがて他の地にも定住が許されるようになったとされています。ナウクラティスもそのひとつです。

そのような歴史を踏まえて、この作品の前に立つと、ナウクラティスに生きたギリシャ人の先祖である、古のギリシャ人傭兵の存在に思いを馳せずにいられません。

もしかしたら古代の人々のなかに、先祖を思う心を込めてこの形の香油入れを持った人がいたのでしょうか――はるか遠い古の出来事は、すべてが解明されていないからこそ、自由な想像の余地が残されているのです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション16 フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。海の見える杜美術館が収蔵する香水瓶の制作年代は、古代エジプトの先王朝時代に当たるナカダⅡ期(紀元前3700-3250年)から今日までの約5700年間に及びます。この悠久の歴史のなかで生まれた香水瓶を、一つ一つ調査するなかで、もっとも面白いことのひとつは、ある時代の人間が、はるか遠い祖先の時代の様式を再び採用していることです。つまり、いわゆるリヴァイバルですね。

リヴァイバルが起こった地域や時代は様々ですが、そこには、先人の知恵に学び、新たな活力にしようとする温故知新の意を見ることができます。

そこで今回は、そのような温故知新の香水瓶をご紹介いたします。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》1840年頃、透明クリスタル、銀、金属に銀メッキ、 海の見える杜美術館France, FROMENT MEURICE attribued to, PERFUME FLACON -C.1840 Transparent crystal, silver, silvered metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

1840年頃のフランスで制作されたこの香水瓶は、過去のいつの時代を主題としているかおわかりになりますか?

それを解くカギはいくつかありますが、最も分かりやすい部分は、香水瓶のボトル中央部分に添えられた人物像の服装でしょう。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

右の人物は、往年の大ヒット映画『おかしなおかしな訪問者』に登場する騎士のような、時代がかった甲冑を身に着けているのがわかります。左の人物はゆったりとしたドレスを纏っています。ただしこれだけでは、時代を断定しづらいので、同様に人物像が配された香水瓶の反対の面を見てみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

こちらはさきの女性の服装よりも、多くを語ってくれますね! 右の男性は、中世におけるステイタス・シンボルであったマントを纏っていますし、左の女性は、特徴のある帽子をかぶり、体の線を強調した、優美なプリーツのある丈長のドレスを着ています。その服装から、中世の人物が表されているのがわかります。実際、先行研究のなかでも、ここで表現されているのは、騎士と城主夫人と考えられているのです。

反対側の面です。 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
反対側の面です。
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

また、この香水瓶の制作年代に鑑みても、中世の、とりわけゴシック時代に思いを馳せて制作されたものと推定できます。もともと、19世紀は世紀を通じて、過去の様式を次々と復活させる歴史主義が西欧を席巻した時代でもありました。そのため、ゴシック様式のみならず、古代ギリシャ・ローマの芸術を模した新古典主義もあれば、ロマネスク様式やルネサンス様式、さらにはバロック様式もあり、一見しただけでは一体いつの時代のものかわからないような紛らわしい(←正直な感想)建造物や装飾品、また絵画・彫刻が新たにつくられました。この現象の背景については、またの機会に詳述するとして、香水瓶の制作年である1840年頃のヨーロッパに注目すると、それはゴシック・リヴァイバルが興隆していた時期に当たるのです

例えば、火事で焼失したロンドンの国会議事堂の再建案が当初のルネサンス様式からゴシック様式に変更して再建されるのもこの時期のことですし、文学ではそれに先立つ前世紀後半から19世紀初頭にかけて、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』等のゴシック小説や、ゴシック様式の大聖堂の偉大さを説いたシャトーブリアンの『キリスト教精髄』など、枚挙にいとまがありません。

さらに、それらと平行して、パリのノートル・ダム大聖堂等、フランス有数の歴史的建造物の修復や調査が数多く行われ始めたことで、その力学的正しさが解明され、過去の遺物の再評価につながったことも見逃せない同時代の出来事でしょう。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

ところで、当時の中世への関心の高まりを、2019年にパリ市立プティ・パレ美術館で開催された「ロマン主義時代のパリ、1815-1848年」展は、とてもよく伝えてくれるものでした。何人ものパリの友人から熱心に勧められて足を運んだのですが、数度の革命を経ながら、近代的なパリの礎が築かれていくこの時代に、パリジャンがある種の誇りや強い愛着を抱いていることを、改めて知ることとなりました。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

会場内は、パリを散策するかのように、ルーヴルやカルティエ=ラタンなど、名所ごとに当時を再現した展示で構成されていました。そのなかでも15世紀のパリを舞台としたヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ドゥ・パリ』(1831年)で始まるノートル・ダム大聖堂の展示室は、ゴシックの大聖堂の装飾を模した椅子や置時計、中世の甲冑姿のブロンズ像などが展示され、この時代における中世への熱をよく表したものでした。

この展示の意義深さは、ユゴーが小説の執筆に先立つ1825年から既に、革命等によって無残な姿となった歴史的建造物の崩壊を食い止めようと呼びかけていたことや、『カルメン』の著者、プロスペル・メリメのフランス歴史的記念物監督官としての歴史的建造物保護の活動を紹介したことでしょう。つまり、この時代の中世への熱は、単なる理想化された過去への憧れのみではなく、何もしなければ消え去ってしまう遺物を後世に残そうという使命感をも伴うものであったのです。温故知新は、古きものが現存してこそ叶うものです。新たなものを作り出すときの知恵の宝庫を自らの世代で失わせまじとした、当時の文学者たちの高邁な精神と行動に胸が熱くなります🔥。

実は、香水瓶の作者と考えられる人物も、時代を彩った文学者らと近しい関係にありました。現段階では断定に至っていないため、「帰属」と付していますが、フロマン=ムーリスとは、フランソワ=デジレ・フロマン=ムーリス(1801-1855)という、第1回ロンドン万国博覧会(1851年)をはじめ、数々の舞台で最高賞を受賞し、当時のヨーロッパ全域にその名をとどろかせた、金銀細工師・宝飾デザイナーです。彼が得意としたのは、まさに本作品のような中世趣味の作品でした。当時の知識人の関心にかなう主題に加えて、彫刻の修業もした彼の作品は、極めて精巧な彫がなされているため、バルザックやテオフィル・ゴーティエといった作家たちや王侯貴族が作品を求めました。

フロマン=ムーリスが個人のために手掛けた作品は現在、ルーヴル美術館やオルセー美術館、パリ市立バルザックの家等に収蔵されており、聖体顕示台や聖遺物箱など、教会のために制作した作品は、マドレーヌ寺院をはじめとする教会にそのまま保存されています。それらを見る度に、その技術の高さに圧倒されます。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《セント・ボトル》18世紀、イギリス、陶器、海の見える杜美術館

ところで、この香水瓶の様式は、トルバドゥール様式ともいわれます。トルバドゥールとは、中世の騎士物語や恋愛詩、武勲詩を、楽器を奏でながら詠った吟遊詩人のこと。様式名は、彼らの調べで蘇る世界が表現されているがゆえのことでしょう。

現在、海の見える杜美術館は冬季休館中ですが、春の開館に向けて、相澤正彦氏を監修に迎えた企画展「平家物語絵展 修羅と鎮魂の絵画」の準備の真最中です。そのせいでしょうか、私には、トルバドゥールが琵琶法師に、中世の騎士や十字軍兵士が平家公達に重なってしまうのです。そのようなわけで、「平家物語絵」展開催期間中の香水瓶展示室では、今回の香水瓶や、トルバドゥールを連想させる音楽家をかたどった作品(上画像)等を出品する予定です。企画展に合わせて、ぜひ香水瓶展示室もご覧下さいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

 

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2」から続く

第5章 新しい時代の風景を描く

昔ながらの吉祥の図様と並んで、新時代の流行も引札に取り入れられてきました。汽車や自動車、飛行機など、当時の人たちが初めて目にする新しい乗り物が行き交う風景や、郵便、電話といった新たな通信手段や、または西洋楽器を弾く、犬を飼う、列車で旅行するなどの最先端の生活文化が、活気ある様子で引札に描かれます。今のようにテレビもインターネットもない時代、とりわけ情報がいきわたりにくい地域で生活する人々にとって、引札は都市の流行を知るためのメディアでもありました。色鮮やかに描かれた目を驚かすような新時代の文化に人々は心躍らせたことでしょう。そしてそれは富や発展を感じさせるものでもあったことでしょう。
当時の人々が憧れた新時代の生活の様子をお楽しみください。

第4展示室1

第4展示室1

5-01 汽車 船 松 "あきなひ はんえい" 明治三十三年一九〇〇頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-01
汽車 船 松 “あきなひ はんえい”
明治三十三年一九〇〇頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-01 画面右奥の港の方からこちらに向かって勢いよく汽車が走ってきます。大量の荷物や人を輸送する近代の乗物は繁栄の象徴でもあったのでしょう。松の根元に立てられた行先標には「あきなひ(商い)」「はんえい(繁栄)」の文字があります。

5-02 女性 電車 市街風景 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02
女性 電車 市街風景
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02 明治二十八年、京都で日本初の電車が走り、その後、各都市に広まりました。この引札には電車の走る都会と、装った女性が描かれています。これを配布した木村商店の意図としては、都会に赴く際のよそ行きのおしゃれには当店の小間物を、といったところでしょうか。

5-03 自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-03
自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-03 富士山を背景に、東宮御所、気球、飛行機、自動車が描かれています。当時の多くの人々が憧れを抱いていたであろう、近代的な生活です。この引札が配られた姫路の人々の目にとっても、新年を寿ぐにふさわしい希望に満ちた光景に映ったことでしょう。

5-04 七福神 飛行機 日の出 富士 明治末~大正初期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04
七福神 飛行機 日の出 富士
明治末~大正初期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04 夜明けの富士を背景に、七福神が飛行機に乗って天高く舞い上っています。恵比寿大黒が搭乗しているのは、初めてドーバー海峡を横断した飛行機としても知られるブレリオ機、その上の箱形の機体は日本でも購入され初の試験飛行にも使われたアンリ・ファルマン機をモデルにしているようです。

5-05 幻灯機 母子 松梅 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-05
幻灯機 母子 松梅
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-05 明治二十年代に幻灯機、今でいうところのスライド映写機がブームになり、所有する家もあらわれました。このころは電球ではなくオイルランプで照らしていました。引札を配る際には白地の部分に字が入れられ、幻灯機に映る店の名前をみんなで見ているという場面になります。

5-06 電話 恵比寿大黒 "福人銀行…" 明治二十六年(一八九三)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-06
電話 恵比寿大黒 “福人銀行…”
明治二十六年(一八九三)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-06 この絵の電話機はガワ―ベル電話機といい、日本で使用された電話の中では最も古い型のひとつです。引札に書かれた通話内容を読んでみると、当時は「もしもし」ではなく「おいおい」「はいはい」と呼びかけていることがわかります。

5-07 電話 女性 恵比寿 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07
電話 女性 恵比寿
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07 明治時代は電話が各家庭まで普及していなかったので、郵便局に設けられた電話所で、呼び出してもらって通話をしていました。なお、この絵の電話機は明治二十九年に登場したデルビル磁石式壁掛電話機です。

5-08 往復葉書 郵便差出箱 民衆 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-08
往復葉書 郵便差出箱 民衆
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-08 郵便は新しい時代を象徴する制度のひとつでした。国民への普及は早く、また各商店にとっても荷物の発送など欠かすことのできないサービスとなりました。本作品のように、利便性を兼ねて郵便料金早見表の付いた引札がつくられました。

5-09 郵便局 郵便車両 郵便差出箱 "大勉強…" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09
郵便局 郵便車両 郵便差出箱 “大勉強…”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09 赤色に制定される明治四十一年まで、このような黒色のポストが使われていました。右側の赤色の車は小包郵便物配達用函車です。筆文字で、荷造り具一式を販売している中西幸次郎とあります。この絵にぴったりの商店ですね。

5-10 五十嵐 豊岳 新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 "勉強家…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

5-10
五十嵐 豊岳
新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 “勉強家…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

5-10 明治時代のはじめより、文明開化の流れに乗り、新聞が多数創刊されました。この引札では、店主と思しき人物が新聞に乗って飛んでいます。添えられた字は「勉強家の親玉」「新聞にのせて世界中広告」。絵は、これと同じ意味のことを表しているのでしょう。

5-11 女性 紙 筆 牡丹 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-11
女性 紙 筆 牡丹
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-11 「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」は江戸時代から使われている美人を形容する言葉です。大輪の牡丹と一緒に描かれた五人の美人は目に鮮やかな服をまとっています。左端の女性が筆を持っており、商店の名前を書き入れる係と見られます。このような引札はおそらく呉服店などに重宝されたことでしょう。

5-12 女性 バイオリン 楽譜 君が代 明治四十年(一九〇七)頃 平版(クロモ石版 石版転写) 古島竹次郎 版

5-12
女性 バイオリン 楽譜 君が代
明治四十年(一九〇七)頃
平版(クロモ石版 石版転写)
古島竹次郎 版

5-12 明治期は「ヴァイオリンを弾く女学生」がとても文化的でハイカラな存在としてとらえられていました。明治三十三年には国内で大量生産が始まりピアノほど高価でないため、ハイカラであると同時に、ピアノよりも親しみやすい楽器だったようです。

 

5-13 母子 犬 狆 明治末~大正 平版(クロモ石版 石版転写)

5-13
母子 犬 狆
明治末~大正
平版(クロモ石版 石版転写)

5-13 女性が子供を脇にして狆を抱いています。狆は江戸時代に将軍や大名や一部の裕福な商人が愛玩した超高級犬でした。明治時代も高級犬に違いはありませんが、もう少しハードルが下がり富裕層の間で流行しました。

5-14 結納品 女性 盃 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-14
結納品 女性 盃
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-14 江戸時代に公家や武家、裕福な商家が行っていた結納・結婚式が、明治時代になって庶民の間でも行われるようになりました。結納品の引札まで作られたということは、当時それだけ庶民に浸透したという証でもあるでしょう。

5-15 母子 旅客手荷物運搬人 駅 船  明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

5-15
母子 旅客手荷物運搬人 駅 船
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

5-15 美しく着飾った親子連れが駅構内を歩いています。この引札が配られたころは鉄道旅行が人気でした。赤い帽子をかぶって荷物を運ぶ青年は「赤帽」と呼ばれるポーターです。明治三十年から主要な駅の構内で営業しました。

5-16 金森 観陽 相撲 古今横綱一覧 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-16
金森 観陽
相撲 古今横綱一覧
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-16 相撲好きにはたまらない一枚だったでしょう。相撲の祖の戦いから、各力士の名取り組み、そして古今横綱一覧まで相撲尽くしになっています。なお、相撲は天下泰平・子孫繁栄などを願う神事と密接につながっています。

5-17 広瀬 春孝 子供 野球 競舟 桜 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-17
広瀬 春孝
子供 野球 競舟 桜
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-17 カッターレースや野球などのスポーツ競技が始まったのも明治時代です。新しいものは何でも次々と引札に描いていきました。新しい物事それこそが新年を寿ぐ題材でもあったのです。

5-18 日の出 船 鷹 "版権登録" 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18
日の出 船 鷹 “版権登録”
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18 日清戦争の時、日本海軍の旗艦・高千穂のマストに鷹が舞い降りたという逸話があります。この鷹は神武東征の際に現れた金鵄に見立てられ、様々な詩が詠まれました。戦争になると、戦勝を願って縁起を担ぐ引札が描かれました。

5-19 陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19
陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19 戦時中は士気を鼓舞するプロパガンダ的な要素が見られる引札が発行されました。この引札は糸屋が使用しています。糸を使った軍服が画面を埋め尽くしています。

第6章 描かれた商いの風景

引札には、農業・漁業などの産業や、また、米店・乾物店・酒店などの食料品店、呉服・履物などの衣料品店ほか、多種多様な店舗の様子が描かれています。いうまでもなく、これは引札を配っている店の仕事を見た人に覚えてもらうためであり、新年に配るにふさわしく、店は大いに繁盛し、来店客も幸せいっぱいな様子に描かれています。例えば足袋屋の引札では、足袋の製造から販売までおこなわれている店の様子がにぎにぎしく描かれています。この引札を買った足袋屋は余白に新年の挨拶と店の名前を太々と書いてなじみの顧客に渡したのです。
当時の商いの情景と余白に記された商店の情報を合わせてお楽しみください。

第4展示室2

第4展示室2

6-01 漁 一本釣 日の出 "鰹大漁之真景" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-01
漁 一本釣 日の出 “鰹大漁之真景”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-01 カツオの一本釣りの様子です。手前の船左側の漁師が鰹を寄せる小魚を撒き、その両隣で糸を垂らし、船中央には漁師が釣った鰹を抱いて、それを横の漁師がたらいに入れようと待ち構えています。細かくスケッチをしています。

6-02 米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02
米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02 掛かる小旗には「極上」「大勉強」「大安売」の文字。大量に積み上げられた米を次々と俵に詰めている米屋の光景は豪勢です。この引札を使ったのは各国(各地域)の白米を販売する大阪の(丸虎)上條西支店です。

6-03 青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-03
青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-03 「万青物乾物商」の暖簾がかかっています。描かれているのは野菜・果物・キノコ類です。大黒が抱えるのは豊作を暗示する二股大根。恵比寿は株(カブ)があがるようにと蕪(カブ)を高く捧げています。

6-04 乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島徳次郎 版

6-04
乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島徳次郎 版

6-04 乾物類と卵の組み合わせの引札が多いです。乾物店はおそらくこの頃は卵を一緒に販売していたのでしょう。左側に記された商店の紹介文を読んでみると、ここでは乾物以外に野菜果物(青物)や雑貨(荒物)や紙も販売しています。

6-05 酒造 七福神 唐子 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05
酒造 七福神 唐子
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05 七福神が酒を造っています。酒造りは、それぞれの酒蔵で秘伝ともいえる独特の製法で作られていましたが、明治政府は酒造検査制度を整備して、各製法をすべて検査して門外不出であった酒造法を明らかにしたそうです。

6-06 醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか 明治三十五年一九〇二頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-06
醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか
明治三十五年一九〇二頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-06 酢・醤油・味噌といった調味料を販売している店の様子です。樽や瓶に詰めて販売している様子が描かれています。ただし、これはあくまで絵空事ですのでご注意を。画面の左半分をしめるこんな大きな樽は店頭にはありません。

6-07 茶園 製茶 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-07
茶園 製茶
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-07 製茶の様子が描かれています。左上には茶摘みの場面が、右下には焙炉の上で茶葉を両手で交互にでんぐり返しながら揉む「でんぐり」と呼ばれる手揉みの製法が描かれています。手前左の甕には「玉露」の文字が見えます。

6-08 茶舗 店内の様子 女性 色紙 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-08
茶舗 店内の様子 女性 色紙
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-08 茶舗の店内が描かれています。棚の甕には茶の名前、若緑・相生・玉露・正喜撰・川柳が、袱紗をさばく女性の横の色紙には、「宇治は茶ところ 茶はこゝの店 のんで香もあるあじもある 利休」が添えられています。

6-09 菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 "砂糖菓子…" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09
菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 “砂糖菓子…”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09 明治時代になって外国のお菓子が売り出されました。暖簾に「和洋砂糖御菓子」と記されています。あとに続く「掛物」は砂糖掛け菓子の総称です。贈答品にはお菓子と印象付けるかのように女性が熨斗付きの菓子箱を持っています。

6-10 「一水」款 酪農 幼児 哺乳瓶 花 明治四十一年(一九〇八)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10
「一水」款
酪農 幼児 哺乳瓶 花
明治四十一年(一九〇八)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10 江戸時代まで乳製品はなじみのない食品でした。明治時代になって乳製品ガイドが徐々に出版されるようになり、牛乳は母乳の代用品や滋養品として普及するようになりました。牧場も増え、この絵のような哺乳瓶が製造されました。

6-11 肥料店  店頭 肥料 女性 米の収穫 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11
肥料店 店頭 肥料 女性 米の収穫
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11 江戸時代の日本の肥料は田畑の近隣でできる有機質肥料が中心でしたが、明治時代になって化学肥料が推奨され、各地に肥料を販売する店が出来ました。袋に見える硫曹は明治三十年から製造された過リン酸石灰肥料です。

6-12 薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12
薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12 薪炭店は今、キャンプブームもあって活気があるようですが、明治時代はそもそも生活に使うの主な燃料が薪と炭でしたので、薪炭店は地域になくてはならない大切な店でした。そしてこの絵にあるように馬は大切な運搬手段でした。

6-13 油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13
油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13 江戸時代の明かりは行灯や灯明でした。明治時代に石油ランプが急速に普及しました。明るさが十倍以上あったことや、灯油価格が菜種油の半値ということもあったようです。なお、一般家庭に電灯がともるのは明治末期です。

6-14 鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-14
鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-14 鍛冶屋を描いた引札は珍しく、あまり見られません。一番左の人物がふいごで火を強くし、その右の人物は金属を鍛錬しています。床には出来た農具が並べられ、右上に農具を使った仕事ぶりが描かれています。

6-15 諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 "万金物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15
諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 “万金物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15 右上には鍛冶の神事。中上の金物商の看板には「万金物商」。看板の通り描かれているのは思いつく限りの金物類です。この引札を配ったのは金物全般を取り扱う今北商店。どんな金物でも揃えますという意気込みが感じられます。

6-16 足袋屋 店内 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16
足袋屋 店内
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16 右下の職人が重ねた生地の上に型紙をおいて特殊な刃物で裁断し、その左側の職人は針で縫い合わせています。足袋の製造から販売まで賑わう様子が描かれています。相変わらず御引立てくださいとの言葉が添えられています。

6-17 履物屋 店の様子 女性 "流行履物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17
履物屋 店の様子 女性 “流行履物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17 暖簾には流行履物商の文字が染め抜かれていて、店内には草履、げた、鼻緒が店いっぱいに陳列されています。流行は履物商の引札によく使われる言葉です。「当世流行」(今のはやり)という言葉もよく使われていました。

6-18 栄松斎 中嶋政七 店頭風景 "万傘提灯仕入所…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-18
栄松斎
中嶋政七 店頭風景 “万傘提灯仕入所…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-18 建物中央入口の左の柱に郵便受箱がありますが、これは珍しいです。郵便受箱は昭和時代になって普及したとい言われています。路上に広げた傘には大と小の月の暦が記されています。現在使われているグレゴリオ暦が導入される前の和暦では、三十日ある月を大、二十九日の月を小として、カレンダーとしていました。

6-19 養蚕 蚕棚 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-19
養蚕 蚕棚
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-19 大河ドラマ『青天を衝け』でも紹介された通り、養蚕は当時の日本の重要な産業です。中央の女性は卵からかえった蚕を蚕卵紙から蚕座へ移しています。右側の蚕棚の上で蚕が育っています。引札を配ったのは「万糸物商 堀糸店」。

6-20 染屋 染と洗張の様子 女性 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-20
染屋 染と洗張の様子 女性
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-20 染・洗い・湯のし・洗張、染物所が請け負う各仕事の様子が描かれています。この引札を配布した万染物所 谷川亀太郎の店では印伴天・のれん・風呂敷・黒紋付などの染や洗張・ゆのし、その他いろいろ請け負ったようです。

6-21 広瀬 春孝 呉服店 反物 女性 "現金かけ値なし…" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21
広瀬 春孝
呉服店 反物 女性 “現金かけ値なし…”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21 反物を滝に見立てて店頭ディスプレイをしています。暖簾に書かれた字は「ごふく(呉服 絹織物) ふともの(太物 衣服にする布地) 唐端物(中国の布地)商」。柱には「現金かけ値なし正札付」と安売り低価販売をうたっています。

6-22 洗濯屋 店の様子 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22
洗濯屋 店の様子
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22 洋服が出回ると、洗濯サービスができました。この引札には「和洋せんだく(洗濯)所 並ニ悉皆湯のし(すべてアイロンかけ) 商号あらいや」とあります。「あらいや」では和服の洗張や湯のし、洋服の洗濯アイロンかけをしたようです。

6-23 尾竹 国一 小間物屋 店の様子 母子 "内外小間物商" 明治三十五年(一九〇二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-23
尾竹 国一
小間物屋 店の様子 母子 “内外小間物商”
明治三十五年(一九〇二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-23 小間物というジャンルの店がありました。日用品・化粧品などこまごましたものを売る店です。引札に描かれた品々、商店名に添えられた商品名「和洋小間物 洋傘類 化粧品 各種卸小売 各国時計 たばこ」のとおりです。

6-24 化粧品 手袋 女性 鏡 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24
化粧品 手袋 女性 鏡
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24 前の引札で紹介した小間物を、装う姿を紹介します。明治期は政府の西洋化推進の影響もあり、服装や化粧が洋風化し、香水も急速に普及したと言います。このように洋風の装いを描いた引札も洋装普及に貢献したかもしれません。

6-25 煙草店 店頭 看板 日の出 "天狗巻煙草…" 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-25
煙草店 店頭 看板 日の出 “天狗巻煙草…”
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-25 西洋化はタバコのような嗜好品にも及びました。看板にかかっているのは当時人気の銘柄です。右のカメヲはアメリカからの輸入品で、天狗巻煙草とヒーローは国産です。主な喫煙スタイルがキセルから西洋式の紙巻に変わりました。

6-26 茶店 店頭風景 桜 提灯 "祝繁栄 迎花客" 明治三十二年(一八九九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-26
茶店 店頭風景 桜 提灯 “祝繁栄 迎花客”
明治三十二年(一八九九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-26 茶店の机には酒と思しき瓶が並んでいます。店先の女性は花見客に向って手招きしています。店の行灯には「迎花客」の文字があります。花客とは、花見客のほかひいきの客、お得意様という意味もあります。茶店の引札も比較的珍しいものです。

第7章 不動の吉祥キャラクター

引札には七福神・福助・お多福を始めとした数々の福の神が描かれています。中でも恵比寿と大黒は圧倒的な人気を誇っていて、当館所蔵の引札のなかでは4枚に1枚は恵比寿か大黒がどこかに登場しています。気球に乗ったり、花見をしたり、時には帽子の上にチョンと乗っていたりと、まるで隠れキャラのような描かれ方まで。福の神はとにかく仲がよさそうに描かれていてほほえましく、明治時代も終わりごろになると、神様というより親しみやすいキャラクターとして描かれたようです。
人々に愛された福の神の姿をご覧ください。

第4展示室3

第4展示室3

7-01 「寳斎」款 恵比寿 大黒 盃 "春興福神□戯"  明治十四年(一八八一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 中村小兵衛 版

7-01
「寳斎」款
恵比寿 大黒 盃 “春興福神□戯”
明治十四年(一八八一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
中村小兵衛 版

7-01 まず恵比寿・大黒の見分け方を説明します。恵比寿は釣り竿・鯛・柏紋・頭に折烏帽子または手拭、大黒は大きな白い袋・打出の小槌・米俵・ネズミ・頭に頭巾。これらのいずれかの特徴を持っています。どうぞ見分けてみてください。

7-02 「寳斎」款 恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 "春遊三福神末広" 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

7-02
「寳斎」款
恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 “春遊三福神末広”
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

7-02 万歳は祝福芸のひとつで、正月に家々の座敷や玄関前で新年を寿ぐ祝言を述べ、小鼓を打ち舞を舞うものです。舞う福禄寿の後ろで恵比寿が傘をさしています。傘は下の方が開いているので末広がりで縁起が良いとされています。

7-03 太田 節次 恵比寿 大黒 お金 "宝福神 金 万 両"  明治二十四年(一八九一) 平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色 太田節次 版

7-03
太田 節次
恵比寿 大黒 お金 “宝福神 金 万 両”
明治二十四年(一八九一)
平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色
太田節次 版

7-03 釣竿を持ち鯛を抱える左の恵比寿は海の幸、米俵に座り打出の小槌振る大黒は山の幸を与えてくれる神様です。そのどちらにも恵まれ豊かになるようにと二人並んだ絵が喜ばれました。中央のネズミはお札の束を持っています。

7-04 恵比寿 大黒 三番叟 明治二十五年(一八九二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-04
恵比寿 大黒 三番叟
明治二十五年(一八九二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-04 三番叟は新年・新築・こけら落としなど事の初めに舞われます。諸説ありますが、鈴を振り大地を踏み鳴らすしぐさが、種をまき地を鎮めることに通じているとか。たしかにこの絵も鈴を振り地を踏み鎮めているのは地の神の大黒です。

7-05 恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-05
恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-05 明治二十年頃から、引札の印刷方法が凸版から平版に移行します。絵の表現も足元に影を描くなど西洋的な表現を取り入れたりしました。ただ、どんなに西洋の技術が導入されても恵比寿大黒はかわらず描き続けられました。

7-06 恵比寿 大黒 お金 金庫 明治二十九年(一八九六)頃 平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06
恵比寿 大黒 お金 金庫
明治二十九年(一八九六)頃
平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06 恵比寿 大黒などの福の神は、江戸時代と変わらず描き続けられるのですが、一緒に描かれる物は時代に合わせて変化していきます。この引札ではこれまで描かれていた蔵が金庫に、小判がお札に変化しています。

7-07 尾竹 国一 恵比寿 大黒 気球 日の出 富士 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-07
尾竹 国一
恵比寿 大黒 気球 日の出 富士
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-07 気球は明治十年代に日本に登場し、明治二十三年にスペンサーが各地で興行した時はそのことが歌舞伎になるほど評判になりました。明治三十年代は気球からビラをまいたり垂れ幕を垂らしたり、都会で目にする機会が増えました。

7-08 尾竹 国一 小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-08
尾竹 国一
小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-08 シルクハットをかぶった大黒が掲げた手の先に赤白帽子を手にした恵比寿がいます。どちらも広告屋の姿のひとつです。このお店の宣伝をしているのですね。小さな気づきですが、傘の柄が十二支の寅・卯・辰・戌になっています。

7-09 尾形 国一 恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-09
尾形 国一
恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-09 広告屋と思われる人物の手の上に、硯を捧げ持つ大黒と、店の名前を揮毫しようと筆を構える恵比寿がいます。ここに記される店は商品をリーズナブルに提供してくれると、袖口にいる福助の扇子に記されています。

7-10 恵比寿 大黒 汽車 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-10
恵比寿 大黒 汽車 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-10 左側に店の名前や営業品目が書かれて引札は完成します。もしこの引札に店名が書かれていれば、恵比寿は筆を休めているのでちょうど書き終わったという演出になっていたことでしょう。それにしてもなんと自由で奇抜な絵でしょうか。打出の小槌の中から汽車が走り出てきています。

7-11 恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ "福来" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-11
恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ “福来”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-11 恵比寿と大黒が裾をたくし上げた振り袖姿の少女と子捕ろ子捕ろをしています。その遊びは連なった先頭の人が親となって、後ろに続く子を鬼から守るというものです。日本スポーツ協会の公式ホームページなどで紹介されています。

7-12 恵比寿 大黒 日の出 猪目 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-12
恵比寿 大黒 日の出 猪目
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-12 日の出を象徴するかのような赤い色。この形は何なのでしょうか。日本には古来からハートの形をした猪目という吉祥模様があります。心臓を表すハート形は明治時代からありますが、恋や愛を象徴するのは大正時代からのようです。

7-13 大黒 お金 大福帳 算盤 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-13
大黒 お金 大福帳 算盤
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-13 左側に大福帳が描かれています。この表紙に太々と店の名前を書いて配ることになります。画面いっぱいに打出の小槌を持つ大黒と大福帳と算盤とお金を大きく描いて、すがすがしいまでに金儲けを願った引札です。

7-14 「如泉」款 恵比寿 福笹 日の出 "勉強の…繁栄" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-14
「如泉」款
恵比寿 福笹 日の出 “勉強の…繁栄”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-14 日の出を背景に恵比寿が福笹を担いでいます。この福笹は商人えびすともいわれる新春のえびす講(十日戎・廿日戎)で頒布された、縁起物を結び付けた竹の枝でしょう。色紙には「勉強の店に福来る」と記されています。

7-15 広瀬 春孝 七福神 お金 金採掘 "七福神 新機器ヲ以テ…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-15
広瀬 春孝
七福神 お金 金採掘 “七福神 新機器ヲ以テ…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-15 右上の文字は「七福神 新機器ヲ以テ 金礦採掘ス」七福神が最新鋭の機械を使って金を採掘しています。福禄寿は大きな機械を操作していて、弁財天は何やら火花を散らしています。恵比寿と大黒は利益の計算に大忙しです。

7-16 七福神 来迎 日の出 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-16
七福神 来迎 日の出
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-16 日の出を背に、七福神が金雲をたなびかせて天からやってきました。引札に七福神が描かれるときは、地上で働いていたり遊んでいたりと人間味豊かに描かれることが多いのですが、ここでは神聖が大切にされています。

7-17 見立七福神 観梅 "にこにこと…" 明治三十四年(一九〇一) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-17
見立七福神 観梅 “にこにこと…”
明治三十四年(一九〇一)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-17 右上の句は「にこ〳〵と 七福人の 梅見かな」。七福神に仮装して梅見を楽しんでいる人たちのようです。右側坊主頭で羽織に扇紋は布袋、その右の口ひげを蓄えた人は毘沙門天。一群の先頭の打出の小槌紋の人は大黒でしょう。

7-18 尾竹 国一 七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-18
尾竹 国一
七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-18 七福神はとにかく仲が良いようです。どの引札にも楽しく一緒に過ごす様子が描かれています。この引札には、恵比寿を驚かせようと屏風の隙間に隠れていたほかの六神が突然顔を出したところが描かれています。

7-19 列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-19
列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-19 恵比寿が列車のホームでタバコを売っています。帽子がちょっと折烏帽子っぽくなっています。お金を出そうとしているのは大黒、その後ろから毘沙門天が手を伸ばしています。網棚には布袋の扇や大黒の小槌が載っています。

7-20 七福神 観梅 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-20
七福神 観梅
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-20 洋装の七福神が歩いてきます。先頭のコート姿は柏紋が入っているので恵比寿です。その後ろの弁財天はファーマフラーを首に巻いて手はマフ。一番右の大黒天は英国から入った流行のチェック柄を身につけステッキを持っています。

7-21 広瀬 春孝 福助 モーニングコート "大勉強 広告" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-21
広瀬 春孝
福助 モーニングコート “大勉強 広告”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-21 髷を下ろして髪型を七三分けにし、和服を脱いでモーニングコートに身を包んだ五人の福助が並んでいます。最後尾には赤い旗が掲げられています。結構な迫力です。当時の人たちはこの絵をどのような感情で眺めたのでしょう。

7-22 小間物 象 福助 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-22
小間物 象 福助
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-22 幸運を招く福助が扇子を指し棒にして小間物を売り込んでいます。その後ろでは白象がスリッパをはいて帽子をかぶり懐中時計の首輪をつけて、長い鼻で上手に傘をさしてアコーディオンを弾いています。ものすごい迫力です。

7-23 お多福 枡 箕笊 "士農工商 み入よく…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23
お多福 枡 箕笊 “士農工商 み入よく…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23 右上に「士農工商 み入よく 福が入升」と書かれています。その文意の通り、竹で編んだ箕の中に、士農工商に関するいろいろな宝が沢山のお金と一緒によく入っています。升にはお多福が入っています。

7-24 広田 春盛 福助 お多福 扇 牡丹 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-24
広田 春盛
福助 お多福 扇 牡丹
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-24 福助とお多福の正体が誰なのか、はっきりとはわかりません。この絵はふくよかだったとされるお多福と、小柄だったと伝えられる福助をデフォルメして、楽しげな雰囲気で描いています。富貴と末広がりを象徴する牡丹と扇が添えられています。

7-25 三島 文顕 猩々 盃の船 甕 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-25
三島 文顕
猩々 盃の船 甕
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-25 猩々が登場する能は人気の演目です。素直な心を持ったお酒売が、猩々から酌めども尽きない酒の泉が湧く壷をもらって栄えるという祝言の趣きある話です。猩々はチャーミングな振る舞いも相まって愛されたキャラクターです。

展覧会出口

展覧会出口

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 4(引札の豆知識ほか)」に続きます。

青木隆幸

うみもり香水瓶コレクション15 ランバン社《モリス広告塔》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の、明治・大正・昭和時代のちらしを紹介する「引札-新年を寿ぐ吉祥のちらし―」展に合わせて、フランスの広告塔をかたどったランバン社《モリス広告塔》を展示しています。

「モリス広告塔」という名だけでは、いかなるものか想像しづらいものですが、画像を見れば一目瞭然、パリの街角でおなじみの、あの広告塔のことです!

こちらです👇

画像1

ランバン社、香水瓶《モリス広告塔》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年頃(?)、陶器、紙、 海の見える杜美術館LANVIN, COLONNE MORRIS FLACON Design by Guillaume Gillet -C.1950? Earthenware,Paper, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

この「モリス広告塔」は、1868年に登場して以来、パリのあちらこちらの街頭に普及した、ポスターを掲示するための特別な円柱です。コンサートや演劇等の催しを道行く人に知らせるこの広告塔は、今日に至るまでパリジャンに愛され、この都市を象徴するオブジェのひとつとなっています。また異国から訪問する私のような者でも、パリの空港から市内に入り目的地へと着くまでのあいだ、車の窓からいくつもの広告塔を見るとはなしに見ていると、活気ある愛しのパリに再びやってきたのだという実感が次第にこみ上げてくるものです。モリス広告塔は、文化イベントの最新情報を提供する以上に、唯一無二のパリのエッセンスそのものを見る者に伝えてくれるのかもしれません。

ただ、あまりに町のあちこちにありすぎて、ついありがたみが薄れてしまい(モリス広告塔よ、ごめんなさい!)広告塔だけを撮影したことはないのですが、この度、実際の様子をお伝えしようと、過去の画像データから写真を探していると、偶然小さく写り込んだものを見つけました!こちらです👇

画像2岡村嘉子撮影、2009年

見つけるのは名作絵本『ウォーリーをさがせ!』並みに難易度が高いですが、おわかりになりましたか? 地下鉄入り口の美しい欄干とモザイクを撮影していたので、右奥にモリス広告塔があったとは我ながら気付かなかったのですが、奥へと延びる狭い通りの入り口右側に、しっかりとあるではないですか! 広告塔の拡大写真と、ランバン社の香水瓶を並べてみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その類似がよくわかりますね!

ランバン社の本作品は、終戦後まもなくファッションデザイナー、ジャンヌ・ランバンによって発表されました。柱の表面には、「アルページュ」や「マイ・シン(私の罪)」など、2021年7月のブログでも取り上げた、戦前の明るい時代を彩った、ランバン社歴代の香水のポスターが貼られています。ジャンヌ・ランバン母子が描かれたランバン社のマークのポスターも中央にありますね。

ポスターの雨除けの役目を果たす上部のはりだし部分には、香水瓶に収められた男性用香水「オー・ド・ランバン」の文字が刻まれています。この香水もまた、1933年からあるものですが、香水瓶のデザインをパリの街角の象徴に一新することで、ユーモアに満ち活気あふれる戦後のパリを広く印象づけることとなったのです。

さて、この大胆なデザインの改変を行ったのは、後年、フランスの近代建築を代表する建築家として名を馳せたギョーム・ジレです。

私は、香水瓶をデザインするまでのジレの人生を思うと、この香水瓶が放つ、平穏で明るいパリの雰囲気にことのほか圧倒されます。というのも、そこにはパリからも親しい人々からも、そしてそれらが放つ香りからも遠く離れた地で、捕虜として過ごした暗い年月のなか、再会を強く夢見たものが投影されているように思えるからです。

ジレは、パリ近郊、フォンテーヌ=シャアリのジャックマール=アンドレ美術館の学芸員の父と、アカデミー・フランセーズ会員を代々輩出した家系出身の母のもと、常に芸術が身近にある家庭環境のなかで育ちました。そのため、長じた彼が芸術の道へ進んだのは当然のことであったでしょう。彼は国立エコール・デ・ボザールで絵画を学び、その一方で1937年、国家試験合格の建築家となると、同年に開催されたパリ万国博覧会でブラジルとウルグアイをはじめとするパヴィリオンの建設に参加します。このように若き芸術家として順風満帆に歩み始めるのですが、時代は刻一刻と避けがたい戦争の影が色濃くなっていく頃のこと。活躍の矢先の1939年に彼は動員され、翌1940年にはナンシーで捕らえられて、ドイツ軍の捕虜となってしまうのです。こうして1945年に解放されるまでの約5年間、彼はドイツで捕虜生活を送りました。

ジレは収容所での日々の中、画家・装飾家として自分の出来得る限りのことをしています。例えば、現在も収容所のあった地に残る、学生時代からの友人ルネ・クーロンとともに手掛けた、いわゆる「フランス人の礼拝堂」です。それは、収容所の質素な屋根裏の壁に「キリストの受難」や「ピエタ」等のキリスト教主題のフレスコ画を描いたものでした。同礼拝堂の壁には、クーロンによるフランスの聖人たちが描かれたフランスの地図もありました。明るい色合いで描かれた天使や聖人が見守るこのささやかな祈りの空間が、どれほど多くの捕虜たちの心を慰め、また故郷への思いを募らせたことでしょう。

そのような苦難の日々を経て、ようやく戻ったパリおよび、次いで滞在したローマにて、ジレはかつての日常を取り戻し、解放後の自由を謳歌します。

そのなかで、彼はジャンヌ・ランバンの娘であるポリニャック伯爵夫人と親しくなり、戦後のランバン社の香水の広告をいくつも手掛けています。そのいずれもがこの香水瓶同様、明るく楽しい雰囲気に満ちているのです。例えばこちらです👇

画像4

ランバン社 広告《ランバンの香水》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年、印刷、 海の見える杜美術館 LANVIN, ADVERTISEMENT Design by Guillaume Gillet -C.1950 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社の戦前のアール・デコ・デザインを知る者としては、香水名すら正面に明記されていない、1925年を代表する黒と金のシンプルかつ優美な球形香水瓶からの、サーカスの愉快な面々が体現する香水へのデザインの変化に驚きつつも、その大胆なユーモアについ笑みが浮かんでしまいます。なんといっても、名香「アルページュ」の名は、陽気なお猿さんが手にする日傘の柄として描かれていますし、これまた一時代を築いた「マイ・シン(私の罪)」は、なんとヒョウ柄パンツ姿にスキンヘッドのいかついレスラーの胸板に直接記されているのです!

左:ランバン社《球形香水瓶、マイ・シン(私の罪)》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ランバン社 広告《ランバンの香水》部分、 LANVIN, ADVERTISEMENT  ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

戦争の苦難の年月の反動のように、そこかしこで笑みが生まれるこの雰囲気こそ、ジレに限らず彼と同時代の多くの人々の様々な思いや願いを代弁するものではないでしょうか。1950年前後のランバン社の香水瓶と広告は、心身に多くの傷を負いながらも、平穏な世界を目指して前へ進もうとする無数の人々の存在を克明に伝えてくれるものであると私には思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

画像7

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「アルページュ」の日傘を持つお猿さんの顔にも笑みが!