竹内栖鳳没後73年 戦後70年

竹内栖鳳は1942(昭和17)年8月23日に没しました。

その後、時代は戦局悪化の一途をたどり、翌1943(昭和18)年には学徒出陣が始まります。

美術の世界も時局の流れに従い、同じく1943年に『日本美術及工芸統制協会』と『日本美術報国会』の二つの組織に集約されて、徹底的に管理されていきます。国家は、ナチスドイツの文化統制にならって、芸術を権力でねじ伏せ、隷属させるつもりだったのでしょうか。

海杜の所蔵する『日本美術及工芸統制協会』関係資料には、常軌を逸した美術界の生々しい記録が含まれています。単に美術史上の資料にとどまらず、この歴史を二度と繰り返してはならないと警鐘を発している史料でもあります。

 

所蔵史料より

20150830 竹内栖鳳没後73年 戦後70年 日本美術及工芸統制協会資料 (2)

1) 一八企局第三四三〇号

 

20150830 竹内栖鳳没後73年 戦後70年 日本美術及工芸統制協会資料 (1)

2) 美報美統会報

 

 

海杜の所蔵品を中心とした『生誕150年記念 竹内栖鳳』巡回展が、明日8月30日(日曜日)、いよいよ最終館の小杉放菴記念日光美術館で最終日を迎えます。一人でも多くの方がご来館され、美術の醍醐味を満喫していただいて、平和の再認識につながることを願ってやみません。

 

さち

青木隆幸

 

 

1)一八企局第三四三〇号

「一八企局第三四三〇号

昭和十八年十月十八日

商工省企業局長 豊田雅孝

 

社団法人日本美術及工芸統制協会

会長 吉野信次殿

 

日本美術及工芸統制協会支部結成に関する件

今般美術品及技術保存を要する工芸品に対する統制の完遂を期するため貴会支部設置方に関し別紙の通各地方長官宛通牒致候に付ては之が趣旨篤と御諒承の上支部結成に万全の措置相成度此段及通牒候也」

 

 

2)美報美統会報

「美報美統会報

創刊の辞

美報会長 横山大観

 

ここに『美報美統会報』第一号を発刊した 物みな挙げて戦争にささげられる秋 用紙の不充分なのは当然であって、むしろこれを発行し得たことは極みない皇恩の有難さを思はねばならない。思ふに会報は会員相互の親睦、連絡、報告の機関だけに止まらず広く大東亜戦下わが芸学人の活動を伝へて恥なく、これを後世に残して悔なき底の覚悟を以て運営されねばならない。形は小さくとも、そこに現下芸学人の雄渾な魂が溌剌と反映していなければならない、それにはまづ芸学人自体が全魂全霊を以て、各自の芸道に打込むべきである。わが前線勇猛の将兵は真に命を的に戦っている。我等芸学人も亦命がけでなければならない。いやしくも資材のふそくなどかこつべき秋ではない。かの宋の絵画は僅か色紙大の小幅でよく唐の眼の文化に対し高き心の文化を樹てたではないか、一本の筆、一丁の墨があれば紙障子を剥がしても、気韻生動の作は生まれようし鑿と槌があれば廃木に不朽の名品も刻まれよう。 (中略)

未曽有の国難に際会して、今こそ全生命力を傾けて己が本然の使命と戦ふ。真に日本的芸道の開拓につとめよう。それが芸学人の真の報国の大道である。会報の創刊を祝して所懐を述べる次第である。」

『美報美統会報』第一号所収、社団法人日本美術及工芸統制協会、昭和19年6月15日、頁1

 

(以上転載にあたり文字を適宜あらためました)

愛すべき名機たち

開館以来、平面の作品は、すべて自分たちで撮影しています。
図録やポスター、チラシの原稿となる写真も含めてすべてです。
そこでは、海杜の大切なスタッフとして、フィルムカメラが活躍してきました。

時代の流れと共に、フィルムの生産が次々と終わりを迎え、今ではデジタル撮影が主流となりました。

決してオーバーな数字ではなく、あわせて何十万カットも撮影してきたアナログの名機たちが、しばし休息の時をむかえたようです。


左から
ニコンF2   フィルムサイズ35ミリ
マミヤRB  フィルムサイズ6×7センチ
トヨビュー  フィルムサイズ4×5インチ
ジナー    フィルムサイズ8×10インチ

これまで撮影した画像は、高精細デジタル化を行い、今後も大切に使用します。
そしてすべてのフィルムは、美術品の大切な記録として、将来にわたって保存されます。

カメラの皆さん、
長いあいだ、本当にありがとうございました。

うみひこ

歌川広重『絵本手引草』とフクジュソウ(福寿草)

「東海道五十三次」などを描いた浮世絵師として知られる歌川広重(1797-1858)は、絵を描く楽しさを多くの人に伝えるために、絵の入門書を出版しています。今回紹介する『絵本手引草』はこうした本のひとつです。

20150310フクジュソウ広重

歌川広重『絵本手引草』初編 嘉永二年(1849)頃 海の見える杜美術館蔵

序文で広重が「画家をめざす子供たちが、本格的に絵を習うまえの手引きになることを願って作りました」と語っているとおり、草花をはじめ、鳥や魚まで、さまざまな描き方で掲載されています。

この本の冒頭には、春を告げる花である福寿草が、3種類の描法で紹介されています。最初に紹介されるのは、「写真」によって描かれた福寿草です。「写真」とは現代の「フォトグラフィー」ではなく、「ありのままに描く」という意味です。つづいては「草筆」で描いたもの。「草筆」とは、着彩を抑えてさっと描くものです。最後はごく簡略な描き方である「極草画」で、筆の穂全体を使って、花びらひとつずつ黄色か薄墨で描いたらいい、と描き方の指南も添えられています。

さて、このフクジュソウは現在、杜の遊歩道の梅林でも見ることができます。
20150310フクジュソウ (2)

つぎつぎと新しいつぼみもでています。
20150310フクジュソウ (1)

思わず絵筆をとって描いてみたくなりますね。
20150310フクジュソウ

もりひこ

栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く

当館が所蔵する竹内栖鳳家伝来の資料の中には200枚以上の鹿の写真が含まれております。これらを参考にして、鹿の名作が生み出されたことは、以前から指摘されていました。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (2)

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (1)

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (3)

しかし、栖鳳が写真のみならず、更なる新技術も駆使して絵画制作にのぞんでいた可能性を示す資料が、最近発見されたのです。

栖鳳の作品には、「夏鹿」と題された作品が2点あります。ひとつは現在MOA美術館が所蔵しています。もうひとつの所在は残念ながら現在不明ですが、その画像は光村推古書院刊行『竹内栖鳳』(1981年)で確認できます(頁224〜226)。両作はほぼ同じ図様で、六曲一双屏風の右隻には緩やかな動きの鹿の群れが様々な姿態で描きわけられ、左隻には高く跳躍する鹿の一瞬の姿が描かれています。

右隻は、これまで語られてきたように、写真とスケッチを併用して、集まる鹿の様子を表情豊かにまとめ上げたと思われます。それは、残されている写真やスケッチ、大下絵からもうかがい知ることができます。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (4)

鹿の取材をする竹内栖鳳(左から2人目) と 写真家の岡本東洋(右端)

 

問題は、左隻に描かれた、高く跳躍している鹿の姿です。

私は、きっとどこかにこの姿に似た鹿の写真あるはずだと推測して探していたのですが、これに類するものは、1枚も出てきませんでした。しかしこうした資料の調査過程で、非常に興味深いものが見つかったのです。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (5)

上に掲載したものは、鹿の写真を納める封筒です。この封筒には、「鹿 昭和八年十月二十八日 奈良ニ於撮影 三十三枚」と、撮影の日付、撮影地、枚数が記載されていますが、最後に「別ニ活動写真撮影」という文言が書かれています。つまり栖鳳は、写真だけでなく、活動写真、つまり動画も撮影していたのです。

今まで栖鳳の絵画制作を考える際には、写真資料との対照しか考えられていませんでした。しかし、左隻の鹿の姿は写真だけではなく、活動写真の存在をも含めて探索する必要があるのかもしれません。跳躍する鹿の一瞬の動きは、動画の方にこそ、その様子が収められていた可能性があるのではないでしょうか。
残念ながらこの活動写真は現在失われてしまっており、この推測を立証する手だてはありません。しかし、栖鳳が絵画制作において活動写真も用いていたことだけは、まぎれもない事実なのです。

ところで栖鳳はなぜこうした最新技術を積極的に取り入れたのでしょうか。
ひとつに、栖鳳の先達である京都の画家たちからの影響があったのかもしれません。栖鳳の師である幸野楳嶺や、久保田米僊といった画家たちはすでに絵画制作において写真を活用していました。また、更にその師にあたる江戸時代後期の画家円山応挙は、「眼鏡画」という、西洋絵画の線遠近法を取り入れた当時目新しかったジャンルに取り組んでいます。先師から脈々と引き継がれる進取の気鋭が、栖鳳にも受け継がれていたと考えるのはいたって自然です。活動写真という当時の最新技術によって写し出された映像を見て、その躍動感を絵画にどのように取り込もうかと興奮している栖鳳の姿が目に浮かぶようです。

「夏鹿」は、動画の出現によって新たに切り開かれた絵画表現を示す、先駆的な作品であるのかもしれません。今後の更なる研究が期待される、新たな資料の発見となりました。

さち

青木隆幸
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「一生一硯」新資料追記

2014年6月22日ブログ 「一生一硯」に、以下の資料を追記いたしました。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。
私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。
その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。
その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。
その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」

『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4
(転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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栖鳳の絵、受け取りを拒否される!

UMI167
竹内栖鳳「猛虎図」1897(明治30) 海の見える杜美術館蔵

鋭い眼差しで前を見据える一頭の虎。毛を逆立て、牙をむき、前脚をあげ、今にも飛びかからんばかり。この作品を目にする人は、どのような困難があろうとも克服して良い結果がもたらされるという、吉祥画のようにも思えます。

作品を納める箱の裏に、牧野克次(註1)が1916年(大正5)に記した面白いエピソードが残されています。

20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (2)20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (3)
蓋表  蓋裏

そもそもこの絵は、濱尾新(註2)の文部大臣就任(1897年11月)を祝って、中澤岩太(註3)が濱尾に贈呈したものでした。ところが濱尾は一見して怒ってこう言ったのです。
「この虎の絵には尾が描かれていない。つまり私の仕事は首尾一貫しないとでもいうのか?!」
言いがかりをつけられた中澤は、この作品を巻いて持ち帰りました。
面目を失った中澤が、この絵の処遇を中川小十郎(註4)に相談したところ、中川が、自分はちょうど家を建てて絵が足りないところなので譲ってほしい、と持ちかけてきました。中澤は喜んでこの作品を譲りました。
その後のある日、中川が自分を尋ねてきた天龍寺管長の高木龍淵(註5)と歓談する中でたまたまこの話に及ぶと、龍淵は憤慨して、
「知識のないものはこの絵の意図するところがわからないのだ。仏典にもある『霊亀尾を曳く』の誡語を題して引導を与えてやる。霊亀は砂の上を歩いた足跡を消そうとして尾を動かす。だがこれによって尻尾の跡が上からついてしまうことを、わかっておらん。無尾はかえって有尾に勝っているという意味である。」
といい、この絵に賛を記したのです。

この「猛虎図」に関するエピソードは以上のとおりなのですが、この話をふまえると、とても興味深いことがわかってきます。実は栖鳳、この絵と良く似た「尻尾のある」虎の絵を描いているのです。この作品を「猛虎図」と比較すると、下の空間をやや広く取り、そこに尾を描いています。ただし画面からはみ出た虎の下半身を想像すると、尾は描かれるような場所にあるはずなく、取って付けたような印象があります。更にこの作品には、濱尾が文部大臣に就任した直前にあたる『丁酉(1897年)冬十月』の款記がわざわざ添えられているのです。もし

かすると、作品を突っ返された中澤が竹内栖鳳に相談し、尻尾のある作品を描いてもらって改めて濱尾に贈呈した、という、箱裏には語られることのなかった別のエピソードが、あったのかもしれません(原田平作『竹内栖鳳』光村推古書院 1981 図版番号13)。

 

(註1)牧野克次(1864-1942)
洋画家。明治34年、関西美術会の創立に参加。明治35年、京都高等工芸助教授。

(註2)濱尾新(1849-1925)
政治家。文部大臣、東京帝国大学総長、内大臣、貴族院議員、枢密院議長などを歴任。

(註3)中澤岩太(1858-1943)
帝国大学教授、京都帝大理工科大学初代学長、京都高等工芸(現京都工芸繊維大)校長などを歴任。

(註4)中川小十郎(1866-1944)
文部官僚。京都法政学校(現立命館大)を創設。西園寺首相秘書官、台湾銀行頭取、などを歴任。

(註5)高木龍淵(1842-1918)
臨済宗天龍寺派管長。神戸市に徳光院をひらく。室号を耕雲軒、晩年休耕と号する。

 

蓋表釈文
棲鳳猛虎図龍淵管長賛 天平牧野克題匧

蓋裏釈文
往年濱尾新氏ノ文部大臣ニ任セラルゝヤ 中澤岩太氏恭シク棲鳳筆猛虎図ヲ贈ル蓋曽約ヲ果ス也 濱尾氏一見悦ハズ且怒テ曰ク 此画虎尾ヲ欠ク 盖シ吾功業ノ首尾全ウセサルヲ諷スル者歟ト 巻テ之ヲ郤ク 中澤氏甚タ面目ヲ失シ悄然携帰テ之ヲ当時ノ大学書記官中川小十郎氏ニ告ゲ以テ画ノ処置ヲ謀ル 中川氏曰ク 予新ニ家ヲ構ヘ画幅ニ乏シ請之ヲ購ン 中澤氏大ニ喜ビ之ヲ与フ 是此幅也 某日天龍寺管長龍淵師中川氏ヲ訪ヒ 談偶及之 師大ニ罵テ曰ク無識ノ輩画意ヲ知ラズ 悤霊亀尾ヲ曳クノ誡語ヲ題シ引導ヲ与フ 霊亀尾ヲ曳クノ事 仏書ニ在リ 霊亀ナル者ハ沙上匍匐ノ足跡ヲ隠サント欲シ 歩々尾ヲ動カシテ之ヲ消ス 伺イ知ラン尾ヲ以テ地ヲ捺ルノ痕歴然タルコトヲ 無尾却テ有尾ニ勝ルノ意也  大正五年六月為中川先生識 天平牧野克
(釈文の旧字は適宜筆者が改めた)

さち

青木隆幸

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岡本東洋と竹内栖鳳  ― 写真の裏に記された撮影データ ―

岡本東洋(1891‐1969)は、昭和のはじめごろ京都を中心に活動した写真家で、横山大観や川合玉堂など数多くの画家に作画用の資料として写真を提供したことが知られています。(参考文献1)
竹内栖鳳とは、写真家として独立したかなり早い時期から栖鳳がこの世を去る直前まで間断なく交流が続いています。

竹内栖鳳は無類の調査好きで、描く対象は自らの目で観察するだけではなく、写真も駆使してその姿を細部まで把握しようとします。写真記録を依頼する岡本東洋へも、自らがスケッチを行うのと同じように、執拗な撮影、そして取材した日時や場所など撮影データの控えを求めていました。

ここに、竹内栖鳳家伝来の写真史料より、日頃紹介されることのない、写真を封入している袋や、写真の裏側を紹介いたします。撮影者、撮影場所、撮影日時が記録されていることをご確認ください。

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (2)

岡本東洋撮影 冨士五景の中の一枚       海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (3)

同写真の裏に書かれた撮影場所と日時        海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (1)

同写真が入っていた封筒                  海の見える杜美術館蔵

 

多くの画家の資料は散逸し、今となっては岡本東洋と画家との関係をはっきりと確認できるのは当館の収蔵する竹内栖鳳関係資料だけと言われています(参考文献2)。

参考文献
1、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012
2、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012、頁106

付記
当館所蔵の竹内栖鳳関係資料の多くは『資料集 竹内栖鳳のすべてVol.1~3』(王舍城美術寳物館、1987~89)、『館蔵選』(王舍城美術寳物館、1991)に掲載されています。(王舍城美術寳物館は当館の旧称です)

さち

青木隆幸

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栖鳳、歌舞伎役者になる!!

竹内栖鳳夫妻のコスプレ画像が残されています。

栖鳳は、ただ着替えて遊んだのではなく、役になり切ることが作画のヒントになるはずだからやってみようと思い立った、というのですが、いかがでしょうか。コスプレをした時の状況が京都日出新聞に掲載されていますので、その記事に写真をさし込んで紹介いたします。また、この写真を目にした田中日佐夫(1932 – 2009)氏の見解もあわせて紹介いたします。

 

栖鳳さんはこれまで「紙治」を二度ばかり描いたことがあったそうだ。しかしどうも自分の気に入った製作が出来ない。いっそ成駒屋(中村鴈治郎)がやるようにすっかり扮装をしたら紙治の気分になれるかもしれない。その気分が味わい得たら必ず会心の作物が出来なければならぬ、とかねがね一度は自分自身が紙治の扮装をして、あの近松の戯曲のように、はた成駒屋の舞台のような甘い、柔らかい、そして悲しく艶々しい雰囲気へ自分自身を心ゆくばかりひたしてみたいと期していたそうであった。今度の顔見世に成駒屋に逢うて、今年こそぜひとも実現させたいというから脂はすっかりのってしまい、それは面白いとここに相談は一決して22日にいよいよ栖鳳丈の初舞台と本決まりになったわけである。本宅の方では来訪の人が絶えないから、まだ披露はしてないが嵯峨の別荘霞中庵でコッソリと一日を思う存分面白く遊ぼうの計画、もとより粋画伯のこととて嫌がる奥さんをまあまあ一期の思い出にこそと、役を収めてしまう。「恥かしうて出来ませんと申しましたがどうあってもやれと言われましたのでとうとうこんなことになってしまいました」ときまり悪げの嬌態は一層若く美しくみられる。さあこう決まれば同じ事なら一役では物足りない。治兵衛と重次郎との栖鳳さんの注文、奥さんは申すまでもない小春と初菊、それも月並みの衣裳やかつらでは気に入らぬ。成駒屋のをそのまま使いたいとあって俄かに番頭の喜助ドンが大阪へ走って万端残らず取り揃えて帰るとかつらを合わすやら身に合して衣裳の縫い直し、おかげで成駒屋の床山と衣裳方は前晩は一睡もできない。当日は朝寝を以てなる成駒屋もここにレコードを破って8時に起きる。9時過ぎには福助と自動車で嵯峨野の別荘へ乗り込むという破天荒、お昼頃からそろそろ扮装にかかる。栖鳳さんの顔は成駒屋がつくる。奥さんの方は福助が、承って箱登羅が万事世話役

 

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かつらの髪を結い上げる竹内栖鳳と、わきに控える中村雁治郎 海の見える杜美術館蔵

という格で、床山や衣裳方は「えらい騒動だす」とあまりの大がかりな仕組みにたまげている。かつらから衣裳まで成駒屋のを身に合わせて直したもので出来上がるといつもの栖鳳さんではなくてやはり紙屋の治兵衛さんらしい。

 

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竹内栖鳳扮する「紙屋治兵衛」 海の見える杜美術館蔵

 

「頭は合したときは痛かったが今日は痛い事ありまへん、顔は少々引っ張ります」と含み綿をして言いにくそうだ。しばらくする と奥様の小春が出来た。かつら付きの良いお顔でまったくもってお美しい事だ。「先生、奥さんに惚れたらいきまへんぜ」と成駒屋がからかう。栖鳳さん嫌がって奥さんを見てニタリ。「今向うの煮売屋で・・・・・」と揚幕を見た形、「河庄方」と舞台を見やった形、奥さんはまず立見とあってバックの前へ立ったが「ちょっと褄の取りようを教えておくれやす」と愛嬌をまく、

 

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竹内栖鳳夫人 奈美扮する「紀の国屋小春」 海の見える杜美術館蔵

すかさず箱登羅が「出たての妓衆さんだから」と半畳を入れる。いろいろの型で一人一人の撮影がすむと、今度ははなれの茅屋で一緒の撮影、小春の長煙管の持ちように雁治郎も福助も余程工夫したがどうも気に入らぬ。座布団へかけておいてみたがまだ情景が調わない。とうとう横にして前へおくことになるとその次は尼ケ崎となる。準備のあいだ成駒屋の妻女お仙さん、梅玉夫婦、魁車、芝雀、長三郎、梅玉老の孫の牧治郎も加わって自動車で乗り込む。これより先に世話方格の先斗町山愛の女将をはじめ祇甲の美濃今からはおしげ、静子、染松等が繰込んでいることとてにわかに賑やかになる。重次郎は裃と鎧両方だ。「私は今度かつらを手に取って見ましたがなかなか美術的にできているのに感心しました。しかし舞台と違って、こうしてみると生え際が不自然ですな」前髪姿の栖鳳さんの声は莫迦に優しい。小春の時にしとやかに艶であった奥さんは初菊に至っていよいよ本役でゆかしい御姫様ぶりである。

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-06-029-01

竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

成駒屋のお仙さんがつくづくと眺めつつ「私も一ぺんこんなことして貰いとうおますな」とかたわらに立っている雁治郎に言う。御大黙って笑うていると芝雀が「違いないこうして写すとよろしな」とお仙さんのかたわらへ行って握り拳を頭の上へやって叩く真似をする。魁車や福助が賛成して大笑い。彩管とっては思うがままに描き出されるほどの栖鳳さんだけに、素人とはいいながら一度成駒屋が格好をしてみせるとすぐにお手本通りのスタイルが出来上がる、奥さんとてもなかなか器用なものでめっぽう形がよい。むしろ画伯以上のお手際であるのにはいずれも驚かされた。

 

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-51-002-001-2

竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

お仙さんや高砂家のお君さんは「私どもが扮装するのはいつでもできる仕事ですが、奥さんなどはホンマに一生一代どすな」と女は女連れ、話は弾む。「実は写真は皆さんがお越しになるまでに写してしまうつもりどしたが、時間が取れてえらいところを見られました。芝雀さんやらこんな姿をおめにかけるのはほんとに恥ずかしおすわ」と本役の京家を見やる。「イエどういたしまして、この肩から帯へかけてのやわらかみはどうしてもご婦人でないといけまへん。私どもはいくら気をつけてもやはりあきまへん」と魁車を見返る。

「ほんとに肩から胸、帯際へかけての線は女形ではとても駄目だす。さっき何ともなしに庭の飛び石の上に立ってござるのを横から拝見してつくづくやわらかい格好に感心してました。昔の女形やないと今のではあきまへんな」と芝雀へ渡す。「今の役者は何でもやりますさかい、自然あかんことになりますな」とはしなくも女形論というような話に実が入る。こんな風に別荘の一日はまことに賑やかに暮れて写真撮影の終わったのは6時ころであった。

「粋画伯の年忘」『京都日出新聞』、日出新聞社、大正5年12月24日
(平野重光編『栖鳳芸談』京都新聞社、1994年、頁327 – 330に再録)
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

 

 

栖鳳が歌舞伎の役どころに扮して写真をとり、それを大小いろいろに焼きつけたものを、今も方々で見る。そういうところから考えると、栖鳳自身相当の変身願望があった人なのではないかなどと思わざるをえないのだが、それはともかく、栖鳳という近代画人がいろいろな歌舞音曲のたぐいに親しみ、人並み以上にそれに打ち込んでいたことは、近代芸能誌の問題としても興味深い事であろう。そのことが栖鳳の絵画創造の上にどのように作用していたかということを論じることは至難きわまることであるが、もしかしたら、天才栖鳳の、激情を秘めてともすればバランスをくずしそうになる人格や意識の流れは、この遊芸などによってあやうくバランスをとりながら、ゆたかに余裕のある心の世界を保っていたのかもしれないともわたしは思うのである。

田中日佐夫『竹内栖鳳』、岩波書店、1988年、頁288

さち

青木隆幸

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中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
初代中村雁治郎(1860-1935、成駒屋)は、地方回りの下積みから花形役者に上りつめた歌舞伎役者で「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と戯れ唄になるほど、その人気は大変なものでした。

芸に対する姿勢は貪欲で、絶えず研究を怠らず、酒が飲めない鴈治郎が酒乱の役を務めることになったときは、酒好きの役者を自宅に招いて酒をたらふくふるまって、大暴れするさまを観察し、その姿を舞台で再現して喝采を浴びた有名な逸話も残っています。

芸の道に真摯に取り組む姿勢や、社会を巻き込む人気ぶりは、竹内栖鳳ととてもよく似ています。異なる世界で生きる二人が気のおけない付き合いをしていたのは、きっと心の奥深くまで通じ合うものがあったからではないでしょうか。

ここでは、雁治郎と栖鳳がたびたび繰り広げた大宴会に関する記録に、当館所蔵の写真を添えてその交流ぶりを感じていただきたいと思います。飾りつけに工夫を凝らした会場で、栖軍・雁軍に分かれて様々なゲームを行い、豪華賞品があたる大掛かりな遊びです。「代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」など、盛り上げるための様々な仕掛けもありました。

それでは、二人の粋な遊びっぷりをご覧ください。

 

(栖鳳が語る大宴会の思い出)

話は期せずして顔見世興行に入り、今は昔、栖鳳君の御池の画室で、興行後の余興が例年行われたことに及ぶ。(竹内栖鳳)君は言う。
そのころ、成駒屋は顔見世に出演すべく汽車に乗ると、まず胸を打つのは、当の興行よりは御池の余興には、何を演じようか、何か変わった趣向もがな、とその事にばかり思いふけったそうで、それほど、この余興には力を入れてくれました。
ある時のこと、二十四孝の狐火の所作を、人形で見せてくれましたが、なかなか堂に入ったものでした。それは雁治郎が役者になる前、はじめは人形使いになろうと稽古したことがあるそうで、あのくらいの人になると、何をしてもソツはありませぬ。
また、ある時幸四郎が「汐汲み」を舞ってくれましたが、これも見事でした。その外、様々の俳優が思い思いの趣向を凝らして余興をしてくれましたので、この会合は年一年盛んになり、窓から外へ桟敷までして、大入満員、それでも入りきれぬほどの盛会でしたが、何分にも電気がゴウゴウと音を立てて鳴りだし、危険この上もなく、もし火事でも出して、近所合壁へご迷惑をかけるようなことになってはと心配して、四・五年前から、フッツリやめました。(掲載文献1)

 

(栖鳳の弟子が語る大宴会の思い出)

山本(紅雲) 素人顔見世をやっていましたな。先生の一番広い画室で、顔見世興行が終わった翌日に、大阪の中村雁治郎さんの一党だけ呼んでみんな芝居するんです。長いこと続けてやっていましたな。
池田(遙邨) ええ。魁車優がお夏狂乱を踊ったのですが、あの目が醒めるような派手な舞台衣装はいまでも目に浮かぶようです。
山本 芝居が終わったあとの余興に、おもりをつけた風船をうちわであおいで飛ばして、鳥居をくぐらせ、景品の名をしるした紙に風船が落ちた人には栖鳳先生の絵があたるというお遊びもあったのです。(写真1)
池田 扇子を投げる『投扇遊び』もやりましたな。栖鳳先生はそういう遊びが好きでしたね。(写真2)   (掲載文献2)

 

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (7)
写真1 大正(1912‐1926)前期
風船を煽いで鳥居をくぐらせて、商品を当てるゲーム。

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写真2 第1回大会、明治36年(1903)頃
投扇興(とうせんきょう) 台にたてられた的に向かって扇を投げて、倒れた形で得点を競う。

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写真2(部分)
竹内栖鳳のドヤ顔

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写真2(部分)
柱にかかる、余興のルール
「・・・・・
一、競技中は座席を立去るべからず
一、栖軍競技に優勝し商品受領の場合、若し雁軍の代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」

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写真3 大正(1912‐1926)前期
だるま競争

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写真4 大正(1912‐1926)後期
パチンコゲーム

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写真5 第1回大会、明治36年(1903)頃
ゲーム大会後の集合写真

掲載文献1
・「歳晩閑談(二) 竹内栖鳳画伯と語る」、『京都日出新聞』所収、日出新聞社、昭和4年12月20日
・平野重光編『栖鳳芸談』、京都新聞社、1994年、第9章「竹内栖鳳/芸事に遊ぶ」頁331
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

掲載文献2
「美を語る9竹内栖鳳、師・竹内栖鳳の魅力とその作品、鼎談 池田遙邨(日本画家) 山本紅雲(日本画家) 田中日佐夫(美術評論家)」『アート・トップ』No.96 12・1月号所収、芸術新聞社、1986年12月1日発行 頁69

 

11月1日から開催の「竹内栖鳳」展には、竹内栖鳳と中村雁治郎一派が合作した作品を展示します。その絵を見るときには、この心温まる交流があったことを思い出してください。

さち

青木隆幸

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栖鳳 荒れ狂う海をみる

UMI115
風濤(ふうとう) 1918(大正7)年ごろ 当館蔵

重い雲に閉ざされた空の下、壁のようにそそり立つ荒波の上を、一羽の鶴が烈風にひるまず翼をひろげて飛んでいます。

画面左下部には、大きく隆起する海面が垣間見せる深い青、わずかな陽光に透かされて輝く波の緑、そして波に巻き上げられる海砂を表す金を、うねる動きそのままにダイナミックな筆遣いで描き、そこに真っ白な絵具を散らして、そのもっとも印象的な瞬間を劇的にとどめています。一方、画面右半部に目を向けると、中央から放射線状に広がる波頂が崩れ落ちながら、この絵と対峙する鑑賞者の眼前へと迫り、まるでアニメーション映画が1コマずつそのすがたを変えていくような躍動感に満ちあふれています。部分的には意味を持たない色とかたちが、全体を通して見ると、ひとつの画面の中に静と動がせめぎ合い、またたく間にその姿を変える荒海を表現するのに欠くことのできない要素へと変貌しています。

このような、抽象的ともいえる細部描写を圧倒的なリアリズムへと昇華させる表現は、対象の本質をつかむため、飽くことなく観察し続けた者しか達成し得ない境地ではないでしょうか。栖鳳はことあるごとに観察を繰り返したはずです。

この作品を制作した13年ほど後の話ですが、竹内栖鳳が荒波を観察したときの逸話が残されています。

「(1931(昭和6)年ごろの)冬、沼津の海岸に四五日滞在していると、急に大しけが始まって、海岸はごうごうと怒涛が巻き崩れた。すると先生(栖鳳)はその怒涛を見るという。見ると言ったって、老人には無理な芸当で、念のため筆者(栖鳳の長男竹内逸)は海岸へ出てみたが、風は強く、寒さは激しく、砂は散り、しぶきが飛ぶ。だがどうしても父は海岸へ出るという。仕方ないから、父の体にドテラを着せ、頭から耳へずぼりと帽子をかぶせ、眼には水中眼鏡をかけ、口と鼻とは日本手拭で巻き、さらに合羽をどっさり買ってきて、頭から腰のあたりまで包み、それを両腕もろとも帯やひもでからめ上げてしまった。まあ案山子かミイラのような姿で、それを筆者と女中との二人で海岸へ押し出していった。だが困ったことには、あまりの強風で、老人は後ろへ倒れそうになる。そこで二人は支柱のように後ろから肩と腰とを押している。そうなればむしろ老人は平気だが、二人は防寒も防水も防砂もやっていない。しかもそれが10分か15分なら我慢するが、30分以上もじっと逆巻く怒涛を見ている・・・」

(竹内逸「湯河原対話」『栖鳳閑話』所収、改造社、1936年、頁63〜64。転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。)

 

「風濤(ふうとう)」は、11月1日から開催の『生誕150年記念 竹内栖鳳』展に出品いたします。

さち

青木隆幸

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