竹内栖鳳 山本春挙 合作《薔薇と蝶》

明治34年(1901)6月4日、京都市勧業課長大沢芳太郎の家に勧業課書記の岩垣雄次郎、そして洋画家の伊藤快彦と桜井忠剛が集まり、京都大阪の洋画家が結集した団体「関西美術会」を組織することを決めました。それからわずか2週間足らずの6月16日、中沢岩太、大沢芳太郎、金子錦二、桜井忠剛、伊藤快彦、田村宗立、松本硯生、牧野克次、松原三五郎、岩垣雄次郎らが集まって発会式を行い(村上文芽「絵画振興史」『京都日出新聞』1919年8月22日)、この記念すべき発会式の余興としておこなわれた席上揮毫で、日本画家の竹内栖鳳と山本春挙が合作で油彩画の薔薇と蝶を描いて列席の洋画家を驚かせたそうです。(島田康寛「京都の日本画 近代の揺籃」 京都新聞社 1991)

当館には、竹内栖鳳と山本春挙が描いた薔薇と蝶の作品が保管されています。

本作品は油絵の具で描かれており、また裏面には、竹内栖鳳と山元春挙が伊藤快彦宅を訪問したときに描いたことが記されています。

「蝶 竹内栖鳳筆
バラ 山本春挙筆
合作 伊藤快彦宅来訪の砌」

なお、伊藤快彦の孫伊藤快忠氏に筆者が直接たずねたところ、裏面の字は伊藤快彦本人の筆によるもので間違いないとのことでした。

「伊藤快彦宅来訪の砌」は何を意味しているのでしょうか。本作は「席上揮毫」の時に描かれたものなのか、もう少し検討が必要かもしれません。

いずれにしても、日本画家竹内栖鳳と山本春挙は油彩画を熱心に研究していたことは間違いありません。竹内栖鳳は、この関西美術会第1回展覧会に油彩画《スエズ景色》を出品しています。

竹内栖鳳《スエズ景色》油彩画1901

ところで、栖鳳の師、幸野楳嶺もまた油彩画を描いていた記録を見ておきましょう。

美術評論家の豊田豊氏は竹内栖鳳の談話としてこのように記録しています。

「師幸野楳嶺が洋画に手を着けたことは事実であって、現にその洋画の遺品が嵯峨の楳嶺碑の建てられてある箇所に保置されていたのであるが、数年前の火災はその保存の堂を焼却し去り同時に楳嶺翁の希類の遺作品をも、一片の灰となって飛散させてしまった。その作品は西洋人の娘を描いた肖像画で、その顔の長い描き方に特徴が見出された。楳嶺翁をはじめ、幾多の日本画家が、当時の洋画熱に麻痺され、同時に生存のための余儀ない必然のために拙いパレットの技に焦ったことは、今から思えばかなり異変な現象であった。」(豊田豊「洋畫今昔記―明治、大正洋畫界異聞録―」『美之国』3巻6号1927年8月)―適宜常用漢字に改めました。

幕末から明治、欧化政策の只中に翻弄された画家たち。そして明治から大正、昭和へと、日本が国際社会の中で自歩を築き、東洋を主張する時代に生きた画家たち。それぞれが残した作品もさることながら、西洋画に対峙する姿勢にも興味がつきません。

そしてまた、知られざる画家の学習の軌跡からも目が離せません。幸野楳嶺が運営していた私塾の資料「倭 第十九号之内 第一号 寿像肖像類」には、このようなスケッチが遺されています。

海の見える杜美術館 幸野楳嶺資料 幸野私塾印 UMAM 

さち

青木隆幸

幸野楳嶺《鳳凰図》明治20年(1887)の草稿

海の見える杜美術館は、粉本類も収蔵しています。

これは、幸野楳嶺が、弟子の竹内栖鳳の独立開業を祝して制作した《鳳凰図》明治20年(1887)の草稿です。


幸野楳嶺《鳴鳳之図》明治20年(1887)(鳳凰之図 草稿)

20180122粉本 幸野楳嶺《鳴鳳之図》 (鳳凰之図 草稿) 2- (2)
裏には「花四十五号 鳴鳳之図 丁亥九月草稿」と書かれています

2018年3月17日より、オープニング記念特別展『香水瓶の至宝』と同時に、このたび新らしく設けられた竹内栖鳳展示室で開催する『知られざる竹内栖鳳 – 初公開作品を中心に』に出品します。お楽しみに!


幸野楳嶺《鳳凰図》明治20年(1887)

本作品も、もちろん出品されます。

さち

青木隆幸

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二重の虹

リニューアルオープンに向けて白熱した討論中
「虹が出てるよ」とスタッフの声がして
みんなで東の空を眺めました。

1月17日夕方 海の見える杜美術館 玄関前より

 

 

 

 

 

 

鮮やかな二重の虹がかかっていました。

しとしとと降り続いていた雨もいつの間にか上がっていて
さわやかな空気が肌に触れました。

リニューアルオープン特別展『香水瓶の至宝~祈りとメッセージ~』
無事に開催できますように。

さち

 

 

 

竹内栖鳳と寺崎広業 広業没後に完成した合作《竹梅図》

1910(明治43)年4月、寺崎広業は、薬舗津村順天堂の主人津村氏から頼まれて、六曲一双屏風《竹梅図》を揮毫しました。

左隻右隻

広業はその後横山大観、山岡米華と一緒におよそ2か月のあいだ中華民国を外遊し、帰国後すぐに第4回文展の審査委員として出品作品の制作に取り掛かり、中国を題材にした3作品《夏の一日》《長江の朝》《長城の夕》を出品しました。展覧会には横山大観も中国旅行に取材した作品を出品し、「広業は筆路の円熟をもって、大観は着想の奇抜をもって、場中の双璧をなしている」と評されました。※1

そのように充実した日々を過ごした年の暮、放浪の画家ともいわれる広業が新橋の料亭「花月」に滞在中、津村氏と会食の機会があり、その中で、津村氏:(今年描いてもらった《竹梅図》は)「竹梅ばかりでは淋しいので、何か小鳥でも描き添えてほしい」。広業:「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という会話があったようです。※2

その会話が実現しないまま10年の月日が過ぎた1919(大正8)年2月、53歳の若さで広業が世を去り、津村氏には「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という言葉が遺言のように残されることになりました。

広業が世を去って13年後の1932(昭和7)年新春、栖鳳が昨冬来、近くの湯河原に湯治中との情報を得た津村氏は、すぐさま行動に移り栖鳳に揮毫を懇望しました。

その年の春4月17日、目黒町の貴族院議員津村重舍邸を訪ねて《竹梅図》を確認した栖鳳は、会心の笑みとともに「ホゝ明るい気持ちのええ図やなあ」「一つ描きまホう」と言ったと記録されています。※2

栖鳳は翌4月18日昼過ぎに津村邸を再訪し《竹梅図》に合作を試みます。4時間かけて、左半双の竹林に雀を3羽、右半双の老梅に鶺鴒1羽放ち、「栖鳳同作」と落款を広業の横に添えました。広業が揮毫して実に24年を経て《竹梅図》は完成しました。

左隻

右隻

栖鳳と広業はいずれも人気作家で「売れっ子は、東の広業、西の栖鳳」といわれるほどだったようです。栖鳳の豪遊ぶりは新聞をいつもにぎわしていましたし、広業は1912(大正元)年に購入して改築した小石川関口町の大邸宅や、翌年7月にしつらえた長野県下高井郡上林温泉の別荘「養神山房」などを見ると、そのような風聞にも首肯できます。

栖鳳と広業は西と東に分かれて活動していたので交流の足跡は多く残されていませんが、当館にはこのほか栖鳳が「獅子」を、広業が「文殊」を描いた双幅《獅子文殊図》も残されていて、関係の一端を垣間見ることができます。

獅子文殊図 栖鳳 獅子 umam獅子文殊図 広業 獅子 umam 2

これらの作品は、本年3月17日のリニューアルオープン展覧会『香水瓶の至宝~祈りとメッセージ~』の開催時に、このたび新設した竹内栖鳳専用の展示室で同時開催『知られざる竹内栖鳳 -初公開作品を中心に-』に出品いたします。いずれの作品も初公開となる記念すべき展覧会です。東西人気作家の交流の証をご覧ください。

※1中川忠順『東京毎日新聞』1910(明治43)年10月24日
※2斎田素州「栖鳳、広業の合作 24年ぶりに此程完成す」『塔影』8巻6号1932年)

さち

青木隆幸

歌川広重 東海道五十三次封筒

歌川広重の浮世絵の連作『東海道五十三次』は、制作当時からとても人気があり、世界的に有名ないわゆる保永堂版をはじめとして、たくさんのシリーズが作られました。その種類は30種類を超え、中にはいまだに全容が確認できない『東海道五十三次』もあります。三井高陽氏が「広重の絵封筒」(『浮世絵芸術』27号、1970年11月)のなかで、五十三次揃っていたかどうかわかりませんが、と断りつつ示された「五十三次 吉原」封筒もその一つでした。

三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月
「五十三次 吉原」
三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月より転載

当館に、歌川広重の東海道五十三次の封筒の貼交ぜ帖が所蔵されていて、この中に、三井高陽氏が示された「五十三次 吉原」が含まれていました。

貼交ぜ帖に添付されている封筒は順に次の通りです。(文末画像参照)

東海道五十三次封筒           一立齋 廣重筆
日本橋
品川
川崎
神奈川
程か谷
戸塚
藤澤
五十三次 封筒  立斎筆
平塚
大礒
小田原
箱根
三嶋
沼津

東海道五十三次 続画封筒 一立斎中はし□ぐ 丸喜軒□
吉原
蒲原
中居
興津
江尻
府中
鞠子
五十三次封筒 立斎筆
岡部
藤枝
嶋田
金谷
日阪
懸川
袋井
五十三次 封筒 立斎筆
見付
浜松
舞阪
荒井
白須賀
二川
吉田
五十三次続画封筒 廣重筆
御油
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒
鳴海

桑名
四日市
石薬師
庄野
立斎筆 五十三次封筒 東海道
亀山

坂の下
土山
石部
水口
草津
大津

淀川

これで広重の東海道五十三次封筒の全容が明らかになったかと期待したのですが、東海道を描いた封筒が、はじめ7枚ずつなのに、最後は11枚、10枚と添付されていることや、水口宿、石部宿の順序が逆になっていることが気になります。この貼交ぜ帖は発行された当時の状況を正しく反映していない可能性があることを慎重に考慮しなくてはならないようです。

しかし、揃っているのかわからないとされていた歌川広重の東海道五十三次封筒について、いろいろなことが明らかになりました。東海道五十三次の封筒は間違いなく発行されていたという事実。表題と広重の落款が入った封筒を入れるための包みと思われるものが少なくとも7種類はあること。その包みの1枚に丸喜軒と記されていること。各地の名産名勝を縦長の画面に配していること。色彩を淡くおさえ、中央には宛名を書くための空間を配慮するほか、随所に封筒ならではの工夫を凝らしたデザインになっていること。そして落款の書体から制作が広重晩年の1853年頃と推定されることなどです。

以上のことから、歌川広重の東海道五十三次封筒は、1853年頃、丸喜軒という版元で、東海道の53宿と起点の日本橋、終点の京、そして淀川を加えた56枚が企画され、8枚セットにして7回(※1)に分けて順次販売、あるいは配布された(※2)のではないかと考えてみました。

さち

青木隆幸

※1 ほかに封筒の包みがもう一つ存在していた場合は7枚セットにして8回になる
※2 先の「広重の絵封筒」のなかで、筆者の先祖の話として、財閥の三井家では昔、東京は榛原(はいばら)、京都は金光堂(きんかどう)というところで封筒を特別に誂えたことが記されており、私製の配布物の可能性を排除できない

 

海の見える杜美術館蔵 歌川広重 東海道五十三次封筒
歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (1) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (2) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (3) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (4) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (5) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (6) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (7) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (8) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (9) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (10) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (11) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (12) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (13) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (14) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (15) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (16) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (17) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (18)

浅野秀剛著『浮世絵細見』講談社 2017

浅野秀剛著『浮世絵細見』(講談社、2017)が刊行されました。

この本には、「調べることに興味がある人のために」浮世絵に関する諸々の問題について、著者の浅野秀剛氏によって「経緯を含めた研究成果を、論文でない形で、分かり易く提示」されています。(本書p.301参照)

「調べることに興味がある」私は、引き込まれるように一気に読み進みました。とにかく面白い。日ごろ疑問に思っていた浮世絵に対するあれこれが、心地よく解きほぐされていきました。おすすめの一冊です。

しかし私はその興奮とは裏腹に、本書に記された広く深い知見に吸い込まれていく中で、自らの浅薄な知識が「分かり易く」浮き彫りとなり、あやうく気を失いかけそうにもなりました・・・。(おっと気を取り直して)

著者いわく「その過程はなるほどと思われるものもあれば、ちょっと違うなあ、そこは不足なのでは、と思うところもあるだろう。そう思っていただけるとすれば、本書の目的は半ば以上果たされたと考えている」(同p.302)ということなので、1か所だけ指摘を、いやそんなおこがましいことはできません、自白をさせてください。

広重花鳥画所蔵館のブログとして、ここは正直にお伝えしておきたいと思います。当館では研究のために歌川広重が作成した花鳥を主題とする作品のデータベースを独自に作成しておりますが、その中にはボストン美術館の618件、ロードアイランド・デザイン学校付属美術館の354件、そしてホノルル美術館の280件の所蔵品が含まれています。ここでは詳しい花鳥画の計上方法を述べませんが、それぞれのHP上に公開されている所蔵品情報をご覧いただければ(かなりの労力を要しますが)、以上のことはほぼご確認いただけると思います。そして海の見える杜美術館は190件を所蔵(大部分は文化遺産オンラインにて公開しています)しているので、「広重の花鳥画のコレクションで最も大きなものは、アメリカのロードアイランド・デザイン学校付属美術館が所蔵するロックフェラー・コレクションであり、それに次ぐのが広島県にある、海の見える杜美術館のコレクションである(ボストン美術館などにも相当数所蔵されていると思われるが未調査の為、詳細には言及しない)。」(同p.42)の個所について、異を唱えなくてはなりません。

「未調査のため詳細には言及しない」とはいえ、Web上では、少なくとも「広重の花鳥画のコレクションで最も大きなもの」はボストン美術館にあり、海の見える杜美術館のコレクションは、さらにロードアイランド・デザイン学校付属美術館、ホノルル美術館に次ぐ4番目の規模であることが確認できるのです。

浅野氏からは常々、研究をきちんとした形で発表するようにと厳しく(温かく?)声をかけていただいています。いまにも「このようなことはブログで発表するのではなくて・・・」という声が聞こえてきそうですが、今日のところはご容赦ください・・・。

ではここで、私の大好きな広重花鳥画の一つをご紹介させていただきます。

月に松上の木菟
中短冊版37.6×12.6
天保3(1832)年頃

三日月の 船遊山して みゝつくの 耳に入たき 松風の琴  八陣亭(花押)
廣重筆 白文瓢箪印幽斎

海の見える杜美術館蔵

 

同じ主版の作品がボストン美術館に2点(MFA impressions: 21.7943, 21.7944)、ハーバード大学美術館(Object Number: 1933.4.301)、ブルックリン美術館(Accession Number: 39.578)にそれぞれ1点所蔵されていて、Web上で確認することができます。ぜひ摺りの違いなども比較して、合わせてお楽しみください。

 

さち

水墨の風―長谷川等伯と雪舟 出光美術館

とても素敵な展覧会でした。

重要文化財を含む見ごたえある名品もさることながら、随所で輝きを放っている優品の数々。モノクロの世界でありながら、色彩がないという不自然さを感じさせることなく、何かを描写する水墨画の奥深い魅力を堪能し、牧谿作『叭々鳥図』には、しばし見入ってしまいました。

学芸員が所蔵品に愛情こめて、丁寧に向き合い出品作品を選択した足跡も感じられ、あわせ含めて心地よい時間を過ごすことができました。

おすすめの展覧会です。(2017年 7月17日(月・祝)まで開催)
水墨の風―長谷川等伯と雪舟 出光美術館

さち

 

二条城行幸図 (洛中洛外図) 屏風


二条城行幸図 屏風 右隻 UMAM右隻

二条城行幸図 屏風 左隻 UMAM左隻

寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸が描かれた、金色にきらめく豪華な屏風です。

屏風全体には、京都の町並みと周りの風景が描かれています。そしてその中段に一直線、左側の屏風には、二条城を出て後水尾天皇を迎えに御所をたずねる三代将軍家光の一行が、
二条城行幸図 屏風 左隻2

右側の屏風には、御所を出て二条城に向かう後水尾天皇一行が、二条城行幸図 屏風 右隻2 UMAM

見物する群衆や沿道警備の武士も一緒に臨場感豊かに描かれています。
二条城行幸図 屏風 左隻3 UMAM

おそらくこの屏風のどこかに登場していると思われる人物、土御門 泰重(つちみかど やすしげ)の日記に当時の様子を見てみましょう。

9月4日 晴れ 行幸の用意。身に付けるものや道具を点検した。今日太刀がとどいた。樋螺鈿蒔絵梨地(ひらでんまきえなしじ)だ。

9月5日 晴れ 中山元親(なかやまもとちか)のところへ行って場所を借りてきた。行幸を見物する人たちのためだ。夜になって雨が降り始めた。深夜には大雨になった。明日の行幸はどうなるのだろう。用意は大体終わった。夜12時頃就寝。20170601二条城行幸図 屏風 右隻3

9月6日 日の出前まで大雨だったが、晴れてよかった。先発隊が出た。その後に中宮(天皇の妃)が出発した。将軍が迎えに参内した。鳳輦(天皇が乗る駕籠)を紫宸殿の庇によせ、鳳輦にお移りになられた。華やかなる行幸、民衆が群れをなした。(適宜抜粋して現代語に訳した)
二条城行幸図 屏風 右隻4

実在の人物の日記を読んであらためて絵を眺めると、絵空事のようだった屏風絵が、記録映像のように現実感を伴って見えてきます。

この日の高揚した様子を再現するのに、画家が苦心したのは京都の市街や名所、1300人以上の人々を描き込む労力だけではありません。左側の屏風は堀川沿いを北に向かう行列を、
二条城行幸図 屏風 左隻4 UMAM

右側の屏風は堀川へ向けて西に向かう行列を描いていて、二条城行幸図 屏風 右隻5 UMAM

左右の屏風を直角になるように並べると、堀川の橋で曲がる列が立体的に正しく再現されるように工夫されているのです。二条城行幸図 屏風 一双

徳川家康が戦国時代に区切りを告げた後、二代将軍秀忠は娘の和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ、天皇家と姻戚関係になります。その後将軍職を家光に譲り穏便に世代交代を済ませ、次に天皇を徳川の城、二条城に招いて歓待したのです。天皇家と徳川家の和平を決定的に内外に示したこの二条城行幸によって、完全に戦国の世に終わりを告げることができたのかもしれません。そのような観点からは、この屏風はとても記念碑的な作品として輝いていますし、また、この屏風は藤堂家伝来と言われていて、徳川和子入内の立て役者であり、後水尾天皇を迎えるための二条城改修工事の基本設計を担当した藤堂高虎との関係性にも興味がつきません。

なお この原稿は当館の季刊誌『プロムナード』Vol.22 2017年夏号に掲載されています

さち

青木隆幸

蘇州版画 西洋劇場図

2016年11月1日から12月10日まで、中国江蘇省蘇州市の蘇州美術館で開催された「蘇州桃花塢木版年画特展」に《西洋劇場図》が出品されていました。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)

西洋劇場図 『支那古版画図録』美術研究所編 美術懇話会 1932年 図27

その昔、黒田源次氏、岡田伊三次郎氏らが協力して収集し、そして矢代幸雄氏らの尽力を経て、現在の東京文化財研究所の前身、美術研究所の開所記念展覧会「故岡田伊三次郎氏蒐集支那版画(姑蘇板)陳列」(1931(昭和6)年11月1~3日)で展観された作品です。1932(昭和7)年3月に刊行された美術研究所編輯美術研究資料第一輯 支那古版画図録 図版27番に掲載されています。

この書籍はコロタイプ印刷なので、近頃よく見る印刷のような網点がなく、とても細かいところまで良く見えます。ですからルーペを使って何度も何度もそれこそ穴が開くほど繰り返し見てきました。なぜなら、西洋の遠近法、陰影法が建築物などをはじめ、ここまで正確に用いられている、そしてなにより人物の顔、肉体などが西洋人そのものに表現されている、現段階では唯一無二ともいえる作品だからです。また、中国人が西洋的な版画を制作したときに賛に記すことが多い「倣西洋画筆法」などと書かれていないことを併せて考えたときに、これまで論じられることのなかった、西洋人が蘇州版画の作画に直接かかわった可能性をも感じさせられる作品だったからです。(『支那古版画図録』では「ヴェネチア派の劇プルチネラに関する書籍の挿絵を模したもの」と指摘している)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(2)建築

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(4)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(3)

この作品以降、中国風に変化した数々の作品が生み出されていきます。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)20161221中国版画 阿房宮図UMAM (1)
西洋劇場図        阿房宮図(海の見える杜美術館蔵)

《西洋劇場図》は現在、縁あって遼寧省博物館の所蔵品となっています。歴史に埋もれていた作品が公開されて、本当に良かったと思います。

なお、コレクター岡田伊三次郎氏について、あまり知られていませんが、氏の中国版画収集の経緯などが、三隅貞吉「岡田伊三次郎さんを偲ぶ2」(『日本美術工芸』245号、1959年2月)に記録されています。そのなかで岡田氏は「私は、自分の趣味の赴くままに、あれこれと色々のものを蒐集して来たが、結局は支那の古版画を集めにこの世に出て来たようなものだった」と述懐していたことが記されています。氏の尽力に敬意を表します。

さち

青木隆幸

関連記事:中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

真田丸 大坂冬の陣図

海の見える杜美術館は、「大坂冬の陣」の布陣図を所蔵しています。

20161119大坂冬の陣図(仮称)UMAM (1)

大坂城の敷地の右下に四角く飛び出ているところに「さなたとり出」(真田砦)と書かれています。ここがあの真田丸なのでしょう。そのすぐ下には、「将軍様」と書かれ四角く囲まれた城があります。真田信繁(幸村)が徳川本隊の真正面に対峙しているのが分かります。

NHK大河ドラマ「真田丸」は冬の陣の真っただ中です。冬の陣に参加した武将たちが見たかもしれない布陣図を眺めながら、ぜひお楽しみください。

なお、《大坂冬の陣図》(仮称)は、いつ、だれが、何のために作ったのかわかっていません。
一枚刷りの冬の陣図は、ほかに《大坂城之図》(江戸東京博物館蔵)が知られていますが、比較すると、絵の感じも真田の軍勢の数も異なります。当館の《大坂冬の陣図》は冬の陣のその年に刊行された「大坂物かたり」(慶長19年(1614)成簣堂文庫蔵)の巻末に付された布陣図と、かなり似ています。

さち

青木隆幸