「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」展
2018年3月17日(土)から 開催です。
海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。
この作品の、高さは9 cm。素材は軟質磁器、金属に金メッキです。
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うみひこ
和歌山県立博物館で11月26日まで開催されていた特別展「道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−」展で、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》がパネル展示で紹介され、制作時期についての見解が示されましたのでご紹介いたします。
*展覧会については和歌山県立博物館のページを御覧ください。
http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/dojoji/frameset.htm
*見所を紹介した動画も。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=82&v=lwMXhLu9jlQ
「道成寺と日高川」展の見所のひとつは、修理を終えた和歌山県・天音山道成寺所蔵《道成寺縁起》(2巻、重要文化財)の全巻全場面が公開されたことです。この絵巻は室町時代後期、16世紀に描かれたもので、下巻巻末には、室町将軍足利義昭(1537〜97)の花押と、天正元年(1573)に義昭がこの絵巻を拝見し「日本無双之縁起」と賞したことが書かれた紙が貼り継がれています。物語のあらすじは次のとおりです。
熊野参詣の美しい僧が、宿を借りた家の女に見初められるが、修行中の身であったので嘘をついて立ち去る。その嘘に気づいた女は僧を追い、怒りのあまり徐々に蛇(絵巻には龍の姿で描かれます)に姿を変えていく。恐れて逃げる僧は日高川を渡って道成寺の鐘に逃げ込むが、ついには鐘に巻き付いた蛇に鐘ごと焼き尽くされてしまう。道成寺の僧たちは二人の法華経供養を行い、女は忉利天、僧は兜率天へのぼった。
これと同様の物語は、古くは平安時代、11世紀の仏教説話集『本朝法華験記』に見られ、古くから親しまれた物語でした。後に安珍・清姫の物語として人々に知られ、道成寺縁起または日高川草紙の名で絵巻として制作されると同時に、能や歌舞伎など芸能の題材ともなりました。
今回展示された道成寺所蔵《道成寺縁起》では、美男の僧に恋をした女性が取り乱し、傷つき、怒り、みるみるうちに形相を変えて毒蛇となっていく様子が、横に長く展開する絵巻ならではの画面に巧みに表現されています。道成寺では現在にいたるまで、観衆の前で絵巻を繰り広げ、口頭で物語を語り、仏の教えを説く絵解きが行われています。また、この絵解きに使われた室町本のコピーが多数伝えられています(道成寺のホームページに、わかりやすく絵巻を拝見できる「絵とき体験ページ」がありますので、ぜひご覧になってみてください)。
さて、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》2巻(以下、海杜本と呼びます)は、実はこの室町時代の道成寺所蔵《道成寺縁起》(以下、室町本と呼びます)と構図、人物の顔の表現、また詞書の書体や字配りにいたるまで、実にそっくりなのです。では海杜本は室町本とどのような関係にあるのでしょうか?
図1 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵
海杜本の料紙(詞書や絵がかかれた紙)は茶色を帯びて古そうに見え、一見すると室町本とさほど変わらない時期に制作されたようにも思えます。しかしよく見ると、絵の具が剥がれた箇所や、紙の折れ目から白い色が覗きます。どうも、新しい白い紙に古色をつけるため着色したようなのです。紙の状態などからは、海杜本は江戸時代に、オリジナル(原本)である室町本の忠実なコピー(模本)として制作された、と推測できます。
図2 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵
図3 《道成寺縁起絵巻》下巻部分 海の見える杜美術館所蔵
しかし、室町本と構図や図様がそっくりな一方で、見比べてみると違いもあります。
主な違いは色の使い方です。例えば室町本上巻に描かれる熊野詣の人々は、参詣者らしく白装束に身を包みますが、海杜本では上衣が緑色だったり、あるいは女性の参詣者の衣の下から赤い下着が覗いたり、色とりどりです。例えば図2の左端の男性も、室町本では全身白装束です。このことは、海杜本が室町本を直接見て写したものではないことを示すのかもしれません。例えば、室町本の忠実な白描(着色していない絵画)の模本をさらにコピーしたもので、その際に色がわからなかったから適宜補った、というような可能性も考えられます。
また、室町本下巻末にある義昭の花押と、義昭が絵巻を拝見した奥書も海杜本には見られません。海杜本を写した人物が、これらを故意に写さなかったのでしょうか?しかし室町将軍が見たというような、絵巻の価値に関わる重要なポイントを果たして見逃すでしょうか? 海杜本には目立った痛みがないため、実際に絵解きに使われたものではないようです。ではどういう目的で、誰が、いつ写したものなのでしょうか?謎は深まるばかりです。
今回、これらの謎を説くヒントのひとつである制作年代の目処を、和歌山県立博物館の大河内智之学芸員が示してくださいました(「資料解説」和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年)。大河内氏によれば、江戸時代も19世紀になると、道成寺縁起絵巻が江戸に取り寄せられることがあり、狩野晴川院養信ら狩野派の絵師が模写を行っています。江戸出開帳(寺院の宝物を他の地に運んで公開すること)も行われ、道成寺縁起絵巻の模写本流通の機会はそれなりにあったようで、海杜本も19世紀頃に写された模本の一例と考えられるとのことです。
江戸時代に写された海杜本は、その後明治から大正初期に活躍した政治家・歴史家・ジャーナリストであった、末松謙澄子爵(1855−1920)の所蔵となります。室町時代の人々が作った絵巻が、江戸時代に模写され、明治の子爵の手を経て、現代の我々がそれぞれの時代に思いを馳せる。絵巻の見事な絵や物語だけでなく、人の手によって伝えられる「物」として作品が帯びてきた歴史もまた興味深いものです。
*海杜本下巻を紹介した動画をご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=wAVrwV4y22I
会期終わり間際にやっと展示を見に行きましたので、展覧会後のご紹介になってしまったことが残念です…。展示は終わってしまいましたが、詳細な解説と論稿、多数の図版が掲載された充実した図録が発行されています。ご興味ある方はぜひお手にとってみてください。
和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年
谷川ゆき
当館の主要なコレクションである西南戦争錦絵の中から、薩摩軍兵士の妻子などで構成される女子隊が活躍する錦絵をご紹介します。
西南戦争は、明治10年(1877)に起きた西郷隆盛を首領とした薩摩軍(薩軍)と政府軍(官軍)との間の大規模な内乱で、日本最後の内戦と言われています。その戦況は、当時の新聞や新聞記事をもとに制作された錦絵を通してリアルタイムに庶民へと伝えられました。やがて記者が従軍するようになり西南戦争の新聞報道が過熱すると、錦絵の人気も高まりました。それとともに錦絵の中にも繰り返し登場する題材が出てくるようになります。今回ご紹介する女子隊を描いた錦絵(以下女子隊図)もその一つです。
当時の新聞には、薩軍の婦女子が薙刀を携えて戦地に奔走したこと(『郵便報知新聞』明治10年3月29日付)や、女性兵士の数は1000人ほどに及び、その中には西郷隆盛の妻娘もいたこと(『東京曙新聞』明治10年4月4日付)など、女子隊に関する記事が散見されますが、歴史的な裏付けはなくその存在は史実とはみなされていません(1)。それでも多くの浮世絵師が、これらの新聞の報道記事をもとに、自身の想像を加えた虚構の女子隊の姿を錦絵に描きました。
女子隊がいつごろから錦絵の中に登場したかは定かではありませんが、当館所蔵の錦絵の中で登場が最も早いものは、真匠銀光(しんしょうぎんこう)画《鹿児島新聞 木葉嶽(このはだけ)戦火之図》で明治10年4月11日の届です。
真匠銀光画《鹿児島新聞 木葉嶽戦火之図》明治10年4月11日御届 出版人小森宗次郎
画面の右下には官軍と薩摩軍の激戦の模様が描かれ、画面の左上、八重桜が咲き乱れる小高い丘には女子隊の姿が描かれています。女性は色とりどりの着物を身にまとい、頭には白の鉢巻をし、肩に襷(たすき)をかけ、手には薙刀(なぎなた)を持っています。この白の鉢巻、襷(紅色が多い)、薙刀(または小刀)という姿は、絵師に関係なく多くの作品に共通しています。詞書には「夫に劣らぬ暴徒の激戦」や「女隊は必死に奔走なし」など女子隊の奮戦の模様が書かれています。
女子隊図は数多く制作され、戦争の終結まで書き続けられたことから、西南戦争錦絵の人気の題材であったと考えられます。
当館にも女子隊図が28点あります。絵の内容は、女性が集結している場面や奮戦する場面、夫や子の仇討ちをする場面など様々です。絵師をみると、月岡芳年(つきおかよしとし)や永嶋孟斎(ながしまもうさい)、楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)など多くの浮世絵師が絵を手がけていますが、中でも明治期を代表する美人画の名手であった楊洲周延の作品は、当館所蔵の女子隊図の中で最も多く、20点あります。ここでは楊洲周延の作品の中でも、女性の立ち振る舞いや、着物や薙刀の色の鮮やかさなどが特に大胆で華やかな2作品をご紹介します。
楊洲周延画《鹿児島征討紀聞》明治10年6月2日御届 出版人鈴木記
この錦絵では、詞書に「薩摩そだちの女武者」とある5人の女性が、官軍と船上で戦う様子が描かれており、左手後方では西郷隆盛や池上四郎(いけがみしろう)、淵辺高照(ふちべたかてる)など薩軍の兵士らが戦いの様子を窺っています。花や紅葉柄の着物をまとった3人の女性にはそれぞれ「越野柳」(こしのやなぎ)・「筋梨おさつ」(すじなしおさつ)・「円出おと子」(まるでおとこ)といった洒落をきかせた名前が付けられています。中でも画面中央の女性(円出おと子)は、船の縁に右足をかけ薙刀大きく振りかぶる派手な立ち回りで画面からは躍動感が伝わってきます。
楊洲周延画《鹿児島戦争記聞》明治10年6月11日御届 出版人木曽直次郎
こちらも女子隊と官軍との戦いの場面です。手前では3人の「勇婦」が奮戦し、後方では西郷をはじめとする薩軍が官軍と戦っています。
画面中央の馬に乗り、手に薙刀を持つ女性は、画面右の官兵と対峙しており、当時錦絵で人気の高かった一騎打ちの構図となっています。また、画面左の官兵に首を掴まれている女性には「古野手花世」(このてはなせ)と語呂合わせの名前が付けられています。画面全体に咲き乱れる山つつじの赤、女性の着物や周囲を流れる川の青は、暗い背景と地面の茶色の中で一層際立っています。
女性を手前に大きく描き、西郷をはじめとする薩軍を画面の後方に小さく配する構図は周延の他の女子隊図にも見られ、周延の女子隊図の特徴といえます。
女子隊図の人気の理由については、現在のところ詳しいことはわかっていませんが、美人画としての需要の他にも、かわら版で好評だった女性の仇討ちを取り入れたこと(2)や、女性が奮戦する姿を描いたことは、当時の大衆に受け、女子隊図の人気につながったのかもしれません。
大内直輝
※西南戦争錦絵については以前のブログでも紹介しています。
西南戦争錦絵「奇星之実説」 https://www.umam.jp/blog/?m=201707
西南戦争錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」 https://www.umam.jp/blog/?p=7636
(1) 大庭卓也・生住昌大『西南戦争 -報道とその広がり-』 P.10-12 久留米大学文学部 2014年
(2) 東京大学デジタルミュージアム『ニュースの誕生 かわら版と新聞錦絵の情報世界』
http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1999news/index.html
(2017年11月16日閲覧)
歌川広重の浮世絵の連作『東海道五十三次』は、制作当時からとても人気があり、世界的に有名ないわゆる保永堂版をはじめとして、たくさんのシリーズが作られました。その種類は30種類を超え、中にはいまだに全容が確認できない『東海道五十三次』もあります。三井高陽氏が「広重の絵封筒」(『浮世絵芸術』27号、1970年11月)のなかで、五十三次揃っていたかどうかわかりませんが、と断りつつ示された「五十三次 吉原」封筒もその一つでした。
「五十三次 吉原」
三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月より転載
当館に、歌川広重の東海道五十三次の封筒の貼交ぜ帖が所蔵されていて、この中に、三井高陽氏が示された「五十三次 吉原」が含まれていました。
貼交ぜ帖に添付されている封筒は順に次の通りです。(文末画像参照)
東海道五十三次封筒 一立齋 廣重筆
日本橋
品川
川崎
神奈川
程か谷
戸塚
藤澤
五十三次 封筒 立斎筆
平塚
大礒
小田原
箱根
三嶋
沼津
原
東海道五十三次 続画封筒 一立斎中はし□ぐ 丸喜軒□
吉原
蒲原
中居
興津
江尻
府中
鞠子
五十三次封筒 立斎筆
岡部
藤枝
嶋田
金谷
日阪
懸川
袋井
五十三次 封筒 立斎筆
見付
浜松
舞阪
荒井
白須賀
二川
吉田
五十三次続画封筒 廣重筆
御油
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒
鳴海
宮
桑名
四日市
石薬師
庄野
立斎筆 五十三次封筒 東海道
亀山
関
坂の下
土山
石部
水口
草津
大津
京
淀川
これで広重の東海道五十三次封筒の全容が明らかになったかと期待したのですが、東海道を描いた封筒が、はじめ7枚ずつなのに、最後は11枚、10枚と添付されていることや、水口宿、石部宿の順序が逆になっていることが気になります。この貼交ぜ帖は発行された当時の状況を正しく反映していない可能性があることを慎重に考慮しなくてはならないようです。
しかし、揃っているのかわからないとされていた歌川広重の東海道五十三次封筒について、いろいろなことが明らかになりました。東海道五十三次の封筒は間違いなく発行されていたという事実。表題と広重の落款が入った封筒を入れるための包みと思われるものが少なくとも7種類はあること。その包みの1枚に丸喜軒と記されていること。各地の名産名勝を縦長の画面に配していること。色彩を淡くおさえ、中央には宛名を書くための空間を配慮するほか、随所に封筒ならではの工夫を凝らしたデザインになっていること。そして落款の書体から制作が広重晩年の1853年頃と推定されることなどです。
以上のことから、歌川広重の東海道五十三次封筒は、1853年頃、丸喜軒という版元で、東海道の53宿と起点の日本橋、終点の京、そして淀川を加えた56枚が企画され、8枚セットにして7回(※1)に分けて順次販売、あるいは配布された(※2)のではないかと考えてみました。
さち
青木隆幸
※1 ほかに封筒の包みがもう一つ存在していた場合は7枚セットにして8回になる
※2 先の「広重の絵封筒」のなかで、筆者の先祖の話として、財閥の三井家では昔、東京は榛原(はいばら)、京都は金光堂(きんかどう)というところで封筒を特別に誂えたことが記されており、私製の配布物の可能性を排除できない
海の見える杜美術館蔵 歌川広重 東海道五十三次封筒
11月1日(水)~12月10日(日)まで、京都国立近代美術館にて、「岡本神草の時代」展が開催されます!当館所蔵の《梳髪の女》も展示されます。
岡本神草《梳髪の女》
岡本神草は1894年神戸に生まれ、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)で絵を学びました。絵専の卒業制作《口紅》(京都市立芸術大学資料館蔵)は蝋燭の明かりのもとで口紅を塗る舞妓の官能美を描き出した作品で、同作品を土田麦僊や村上華岳、小野竹喬ら若手画家たちの主催する国画創作協会展に出品し、当時注目を集めました。その後も帝展に入選するなどの活躍を見せるものの、1933年、39年の生涯を閉じました。早世ゆえに残された作品が少なく、これまで大きな回顧展が開催されることはなかったように思います。当館の作品も、縦46.9×横51.0ほどの小品ではありますが、神草の残した足取りのひとつとして、「岡本神草の時代」展の展示室を飾らせていただくこととなりました!
《梳髪の女》は身支度中の芸妓を描いた作品です。髪を梳かれながら、首や顎あたりの化粧の具合を手鏡で見ているのでしょうか。珊瑚や貝、花の模様の散った黒い着物、胸元からのぞく赤い襦袢がなんとも官能的です。実際に作品を見ると、鏡や着物の襟には金銀泥(日本画で使う、金や銀の粉末を使った絵の具)を用いています。鏡のもつにぶい輝き、衣装の豪華さを表現しようとしたのでしょう。手鏡を持つ細い指先は、朱の細い線で縁取られています。このわずかに見える朱線が、芸妓の白い指に血が通っているように見せ、よりなまめかしさを見るものに感じさせるのです。当時の日本画としてはけして珍しくない表現ですが、私などはついまじまじと見てしまう点です。ぜひ展覧会でご覧いただければと存じます。
当館の作品が他の神草作品と並んで展示されるのもうれしいですが、私は神草の《口紅》と甲斐庄楠音の《横櫛》※(京都国立近代美術館蔵)が同じ会場で見られることもひそかに楽しみにしています。この、《口紅》と《横櫛》は、第1回国画創作協会で入賞候補になりました。土田麦僊は岡本神草を、村上華岳は甲斐庄楠音を推薦。結局決着がつかず、竹内栖鳳が仲裁に入り、違う作品を入賞作としたのでした…。このことで、当時は大変な話題になったようです。展覧会場では当時の画家たちの活気あふれる活動に思いを馳せたいですね。
※甲斐庄楠音の《横櫛》は同構図でわずかに差異がある作品が何点か描かれており、国画創作協会に出品された《横櫛》は、現在広島県立美術館がご所蔵ですが、京都国立近代美術館ご所蔵の《横櫛》も出品作の雰囲気を濃厚に漂わせています。
長々と説明いたしましたが、詳しくは京都国立近代美術館様のHPにて、素晴らしい作品の画像とともにご覧くださいませ。
「岡本神草の時代」
会場:京都国立近代美術館
開催日:11月1日(水)~12月10日(日)
開館時間:9:30~17:00(ただし金曜・土曜は午後8時まで開館、入館は閉館の30分前まで)
休館日:毎週月曜日
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2017/422.html
森下麻衣子
当館の主要コレクションの一つである西南戦争錦絵の中から、西南戦争に取材した歌舞伎の舞台を錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」(おきげのくもはらうあさごちやくしゃえ)をご紹介します。
西南戦争は、明治10年(1877)年に起きた西郷隆盛を首領とした薩摩軍兵士(薩軍)と政府軍(官軍)との間の大規模な内乱で、日本最後の内戦と言われています。その戦況は、当時の絵入り新聞や錦絵を通してリアルタイムに庶民へと伝えられました。新聞や錦絵は戦況の速報だけでなく、西南戦争の登場人物にスポットを当てた記事なども取り扱ったため、西郷隆盛のみならず、薩軍の重要人物であった桐野利秋や篠原国幹、村田新八や池上四郎、官軍の野津道貫・鎮雄の野津兄弟などは知名度を上げ、庶民の人気を得ました。戦争が終結し、戦況の速報としての錦絵の役目は終わりましたが、錦絵の出版自体はそれ以降も続き、子供の教育用の玩具絵(おもちゃえ)や、今回ご紹介する歌舞伎の役者絵などが出版されました。
西南戦争は明治10年9月24日に西郷の自決で終戦となりましたが、年が明けるとすぐにそれを題材に歌舞伎がいくつか上演され、その中でも明治11年2月、東京・新富座の『西南雲晴朝東風』は最大のヒットになりました。この劇の作者は幕末から明治時代にかけて活躍した河竹黙阿弥で、当時出版された新聞や錦絵、関係者への取材をもとに制作され、全7幕16場が薩軍視点で構成されています。(1)
役者は九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎らが出演しました。「西南雲晴朝東風役者絵」は、この歌舞伎を錦絵にしたもので、当時の役者絵の名手・豊原国周とその弟子楊洲周延によって制作されました。
豊原国周筆「吉次越蓑原討死之場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年3月届出
上は『西南雲晴朝東風』第3幕の、西南戦争最大の激戦、田原坂・吉次峠の戦い(明治10年3月1日~3月31日)の「吉次越蓑原討死之場」です。この場面は劇中において最大の見せ場であり、砲撃の特殊効果に花火を、音響効果にラッパを用いて戦場の迫力を再現したことから大きな評判となりました。(2)
馬に乗り右手にサーベルを持った薩軍の蓑原国元が、敗走する味方を鼓舞しながら敵陣へと進みますが、官軍の流れ弾に当たり斃(たお)れます。銃弾を受けた簑原の胸からは血が流れ、傍らにいる薩軍の武上四郎は突然の出来事に驚いた様子です。画面右上の短冊から、簑原を五世尾上菊五郎が、武上を中村宗十郎が演じていたことがわかります。
蓑原国元、武上四郎は、それぞれ史実における篠原国幹、池上四郎のことですが、実名から微妙に改変されているのは、歌舞伎や人形浄瑠璃で実在する人物を扱うときは、時局に触れぬよう、名前や時代を変えてごまかしながら扱うのが通例とされていたためです。(3)
篠原国幹は薩軍の副司令格としてこの戦いに臨んでおり、その死は、西南戦争序盤においては最大のニュースでした。
豊原国周筆「日向西條陣営の場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年届出
こちらは、第7幕の戦争終盤の薩軍本営の場面です。各地から召集された少年兵に対し市川団十郎扮する西條高盛(史実では西郷隆盛)が国に帰るように説得しますが、少年の一人が、両親のいない自分だけでも一緒に戦いたいと願い出て、その姿に皆が涙します。この場面は、『西南雲晴朝東風』終盤の泣かせどころとなっています。
史実では薩軍の兵の召集は、田原坂の戦いで敗れ、敗色が濃厚となって以降、子供から老人まで及ぶようになったといいますが、官軍の兵であった喜多平四郎の手記によると、少年を兵として招集したことを知った西郷隆盛は激怒したといいます。(4)
西南戦争錦絵は、その画題の多くが戦況の速報ですが、今回ご紹介した歌舞伎の役者絵のように娯楽としての側面を持っているものも少なくなく、広く大衆に受け入れられていました。今後も定期的に西南戦争錦絵について紹介していきたいと思います。
大内直輝
※西南戦争錦絵については現在鋭意研究中で美術館リニューアル後に展示する予定です。
(1) 埋忠美沙「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」(『演劇学論集 日本演劇学会紀要 62集』収載) P.19-20 日本演劇学会 2016年
(2) 同前 P.24-28
(3) 大庭卓也・生住昌大『西南戦争 -報道とその広がり-』 P.69 久留米大学文学部 2014年
(4) 前掲「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」 P20-22
浅野秀剛著『浮世絵細見』(講談社、2017)が刊行されました。
この本には、「調べることに興味がある人のために」浮世絵に関する諸々の問題について、著者の浅野秀剛氏によって「経緯を含めた研究成果を、論文でない形で、分かり易く提示」されています。(本書p.301参照)
「調べることに興味がある」私は、引き込まれるように一気に読み進みました。とにかく面白い。日ごろ疑問に思っていた浮世絵に対するあれこれが、心地よく解きほぐされていきました。おすすめの一冊です。
しかし私はその興奮とは裏腹に、本書に記された広く深い知見に吸い込まれていく中で、自らの浅薄な知識が「分かり易く」浮き彫りとなり、あやうく気を失いかけそうにもなりました・・・。(おっと気を取り直して)
著者いわく「その過程はなるほどと思われるものもあれば、ちょっと違うなあ、そこは不足なのでは、と思うところもあるだろう。そう思っていただけるとすれば、本書の目的は半ば以上果たされたと考えている」(同p.302)ということなので、1か所だけ指摘を、いやそんなおこがましいことはできません、自白をさせてください。
広重花鳥画所蔵館のブログとして、ここは正直にお伝えしておきたいと思います。当館では研究のために歌川広重が作成した花鳥を主題とする作品のデータベースを独自に作成しておりますが、その中にはボストン美術館の618件、ロードアイランド・デザイン学校付属美術館の354件、そしてホノルル美術館の280件の所蔵品が含まれています。ここでは詳しい花鳥画の計上方法を述べませんが、それぞれのHP上に公開されている所蔵品情報をご覧いただければ(かなりの労力を要しますが)、以上のことはほぼご確認いただけると思います。そして海の見える杜美術館は190件を所蔵(大部分は文化遺産オンラインにて公開しています)しているので、「広重の花鳥画のコレクションで最も大きなものは、アメリカのロードアイランド・デザイン学校付属美術館が所蔵するロックフェラー・コレクションであり、それに次ぐのが広島県にある、海の見える杜美術館のコレクションである(ボストン美術館などにも相当数所蔵されていると思われるが未調査の為、詳細には言及しない)。」(同p.42)の個所について、異を唱えなくてはなりません。
「未調査のため詳細には言及しない」とはいえ、Web上では、少なくとも「広重の花鳥画のコレクションで最も大きなもの」はボストン美術館にあり、海の見える杜美術館のコレクションは、さらにロードアイランド・デザイン学校付属美術館、ホノルル美術館に次ぐ4番目の規模であることが確認できるのです。
浅野氏からは常々、研究をきちんとした形で発表するようにと厳しく(温かく?)声をかけていただいています。いまにも「このようなことはブログで発表するのではなくて・・・」という声が聞こえてきそうですが、今日のところはご容赦ください・・・。
ではここで、私の大好きな広重花鳥画の一つをご紹介させていただきます。
月に松上の木菟
中短冊版37.6×12.6
天保3(1832)年頃
三日月の 船遊山して みゝつくの 耳に入たき 松風の琴 八陣亭(花押)
廣重筆 白文瓢箪印幽斎
海の見える杜美術館蔵
同じ主版の作品がボストン美術館に2点(MFA impressions: 21.7943, 21.7944)、ハーバード大学美術館(Object Number: 1933.4.301)、ブルックリン美術館(Accession Number: 39.578)にそれぞれ1点所蔵されていて、Web上で確認することができます。ぜひ摺りの違いなども比較して、合わせてお楽しみください。
さち
8月も下旬。いよいよ夏の終わりが近づいてきましたが、ここ広島では宮島の花火大会などまだ夏のイベントが残っています。気温もしばらく30度をこえる日々が続きそうですね。
夏と言えば、山や海に降り注ぐ輝く太陽の季節、というイメージですが、日中の暑さが落ち着く夜の風情もいいものです。今日は夏の夜の物憂い情景を描いた一場面を、当館の物語絵画コレクションの中から紹介します。
『伊勢物語』は平安時代10世紀に成立したと思われる歌物語(和歌を軸とした物語)で、実在した貴族、在原業平(825〜80)をモデルとする「男」の元服から死までの人生を、125の短編で編んだものです。早い時期から絵に描いて楽しまれたようで、11世紀初頭に成立した『源氏物語』の「絵合」・「総角」帖には、『伊勢物語』の絵画を鑑賞するエピソードが見られます。以来、絵巻物から浮世絵に至るまで、『源氏物語』と並んで日本で最も頻繁に絵画化されてきた物語といえるでしょう。
当館には『伊勢物語』を描いた作品が3点あります。今回ご紹介するのは、《伊勢物語画帖》の一場面です。
《伊勢物語画帖》 2帖 18図のうち 17世紀 紙本着色 海の見える杜美術館蔵
絵をじっくり見てみましょう。水流のある庭に面した室内に、男が一人、水辺の景を描いた水墨画の屏風を背にして、くつろいだ姿で腕を枕に横になっています。畳の上には赤い枕が、画面手前、男の前には燈台がおかれています。男の視線に導かれて、あげた御簾の向こうの庭に目をやると、水流にかかったすやり霞の上に蛍の群れが点々と描かれています(注)。
御簾、庭の水流、蛍
この場面は『伊勢物語』第45段「ゆく蛍」を描いたものです。短い段ですので、物語と絵を一緒に鑑賞してみましょう。
むかし、おとこ有りけり。人のむすめのかしづく、いかでこのおとこに物いはむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、物病みになりて死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」といひけるを、親ききつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど死にければ、つれづれとこもり居りけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころをひに、夜ゐは遊びをりて、夜ふけて、やゝ涼しき風吹きけり。蛍たかく飛びあがる。このおとこ、見臥せりて、
ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風ふくと雁につげこせ
暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき
『竹取物語 伊勢物語 大和物語(日本古典文学大系9)』(岩波書店、1957年)より。表記はブログ用に適宜変更しました。
現代語に訳すとこんな感じです。
むかしある男がいた。大切に育てられてきたひとりの娘がこの男に恋をした。男と一緒になりたいと願うがその思いを口に出せないまま恋わずらいし、死の床についてしまった。娘の気持ちを聞いた親が泣く泣くこのことを知らせたところ、男はあわてて駆けつけたが、娘はすでに亡くなった後であった。男はそのまま喪に籠もった。時は水無月(旧暦の6月)末、とても暑い時期だった。宵には亡くなった女を慰めるために管弦を奏した。夜がふけると涼しい風が吹いてきた。蛍が高く飛び上がる。男は横になったまま蛍を眺めて歌を詠んだ。
飛び行く蛍よ、雲の上まで行くことができるならば、下界ではもう秋風が吹いていると雁に告げてほしい
なかなか日が暮れない長い夏の日の一日中、物思いにふけっていると、何ということなしにもの悲しい
さて、物語を読んだところで、もう一度絵を見てみましょう。
自分に思いを寄せたまま会うこともなく亡くなった娘を偲んで、長い夏の一日を物思いして過ごし、夜には蛍に彼岸にいる娘への気持ちを託す、その心情を2首の歌に詠む男。絵に描かれた男の顔は、引目鉤鼻という、貴族の男女の顔を描く平安時代以来の典型的な技法で描かれ、そこにあからさまな感情の表現はありません。しかし、物語の本文で状況を知り、和歌で登場人物の心持ちを味わい、そして絵を眺めることで、この一見のんきそうな男の姿と情景に、物憂い夏の夜の風情と人生のはかなさがたちあらわれてきます。
蛍は夏の季語で、清少納言の『枕草子』にも「夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもおかし。雨など降るもおかし」と、夏の趣ある景物のひとつに数えられています。和歌では蛍が光る様子を、恋の炎に身を焦がすことに、あるいは死んだ人の魂に例えたりします。『後拾遺集』に載る和泉式部の「物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる」は、御手洗川に飛ぶ蛍を見て詠んだ歌で、蛍を、つれない恋人に恋焦がれるあまり、からだを離れた自分の魂に見立てています。『伊勢物語』では男のメッセンジャーとして、雁(渡り鳥である雁は春に去り、秋に帰ってくる)、つまり天上にいる娘の魂に戻っていらっしゃい(もう下界では秋風が吹いているから戻ってくる季節ですよ)と伝言するよう、その想いを託されています。光りながらふらふらと飛び交う幻想的な蛍の様子は、この世とあの世を行き交うものとしてふさわしいですね。
ところで、『伊勢物語』のような古典的主題を描く絵画にはいくつかの約束事があって、見慣れていないと了解できないサインがあります。先ほどご紹介した引目鉤鼻という表情のない画一的な面貌表現もその一つで、身分の高い、美しい男女はきまってこの顔に描かれます。また室内を描くために、俯瞰構図において邪魔になる屋根や壁などの建築構造をとりはらって室内を見せてしまう”吹抜屋台”という手法も独特です(この場面ではあるはずの屋根が描かれていません)。画面の上下に配されている水色の帯は”すやり霞”と呼ばれ、大気を漂う霞を表現しつつ、絵巻などで画面のフレームとして機能します。
もうひとつご紹介したいのが、夜の描写のお約束です。夜の空を黒や青で彩色して表現することは、江戸時代になるまで日本の絵画では行われてきませんでした。ですが空を暗く塗らないと、昼の情景も夜の情景も同じような絵になってしまうんですね。そこで夜であることを示すサインがいくつか決まっています。この場面には蛍が登場するのでわかりやすいのですが、絵の中にはもう一つのサインがあります。それは男の手前に描かれた燈台です。
男、枕、燈台
ここでは画面が痛んでいて火が灯っているかどうか確認できませんが、燈台が描き混まれていれば、夜だな、と思っていいわけです。
絵の具の剥落や退色があり、古びた絵、という印象ですが、今でも残るたっぷりと塗られた絵の具の鮮やかな色からは、制作当初の華やかな画面が想像されます。この絵を描いた絵師は、古典的な主題の絵を描く技法を身につけていていますが、形式化や素朴な表現も見受けられ、宮廷や幕府中枢で取り立てられたような、正統派の絵師ではなかったようです。17世紀前半、『伊勢物語』は嵯峨本と呼ばれる豪華版本の出版(慶長13年〈1608〉)を契機にして、様々な階層の人々に愛好されていきます。庶民達が手にできる版本が盛んに出版される一方で、ひとつひとつ絵師が描いて彩色したこのような絵巻・絵本は、とても豪華な愛蔵品として一部の富裕層に喜ばれたのでしょう。
谷川ゆき
では、実際に私が見つけてきた資料等を見ていただきたいと思います。
左が歴彩館にてコピーさせていただいた、高島屋『現代名家風俗画集』の翠嶂のページ。右が当館所蔵の《女役者》。
比較してみると本当によく似ているのですが、決定的に違うのが、背景の幕の紋、そして印章(落款、つまり署名のところに押されている印鑑)です。まったく別の作品です。お恥ずかしながら、最初この図録を手にしたときは完全に「おお一緒だ一緒だ」と思っており、「あれっ…え…うそ…違う…?」と気づくまでに3~4日かかりました。思い込みとはかように怖いものです。落丁に気づいたとき以上の驚きが私を包みました。こちらもお察しいただければ幸いです。
では当館の作品はニセモノなのか?という疑問がわいてきてしまいますが、近代の日本画の世界では展覧会に出したものを画家自身がコピーすることは結構多く見られます。例えば当館所蔵の北野恒富の《阿波踊り》、榊原紫峰の《獅子》なども展覧会に出したものを縮小して描いたものです。おそらく、求めに応じて描いたのでしょう。
驚愕の発見の日から自分を納得させること数ヶ月、先日また別の資料を手にすることができました。西山翠嶂が自ら3年かけて発行した『翠嶂作品集』(西山翠嶂著、瑠璃社、大正10(1921)年)です。
左は、《翠嶂作品集》に収録されていた女役者(木版)です。こちらは幕の紋も印鑑の形もほぼ一致。色や紋の微妙な部分が違うのは、木版で完全なコピーではないことが原因です。違う紋を背負う2つの《女役者》が翠嶂の手によって描かれたことは間違いないと、資料でも証明されました。
この《翠嶂作品集》は、帝展出品作などの力作を収録していることから、こちらの《女役者》も、翠嶂にとってまずまずの自信作だったと見られます。なんとなく一安心。
さて、では、描かれた女役者とはいったい誰なのか。この疑問も現在まだ回答が出ておりません。はじめ私は、紋があるということは、特定の誰であるか当時見る人が見ればわかったのだろうと想像していました。しかし2作品でまったく紋を変えてしまったという事実がここで判明しました。誰であるのかは問題ではなかったということになるのでしょうか。もう少し、演劇史のほうを調べる必要があるかもしれません。
結局、わかったことは以下の2点。
1つめは、翠嶂は高島屋の展覧会に出品したものと、『翠嶂作品集』に掲載したもの、少なくとも2つの《女役者》を描いたということ。
そして2つめは、当館の作品は『翠嶂作品集』に掲載された《女役者》であること。
調べていくうちにかえって疑問点も増えました。でも研究や調査とは、きっとそんなもの。簡単にはいかないということを改めて思い知らされました。
このように学芸員の喜び悲しみを織り交ぜて調査中の翠嶂作品は、2018年の秋に西山翠嶂展の中でご紹介する予定です。ご興味を持っていただけますと大変うれしく存じます。
主要参考文献
高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」『京都文化博物館紀要 朱雀』第5集、1992年
『現代名家風俗画集』、高島屋飯田呉服貿易店 発行、1912年
西山翠嶂『翠嶂作品集』、瑠璃社 発行、1921年
『京都府百年の年表 8 美術工芸編』京都府立総合資料館 編、京都府 発行、1970年
※本記事での図版の掲載にあたり、京都府立京都学・歴彩館様と高島屋史料館様にご協力をいただきました。感謝申し上げます。
森下麻衣子
今回は、当館所蔵の西山翠嶂作品《女役者》についてお話しいたします。しかしこれは皆様に作品解説をしようという記事ではございません。ただ、話を聞いていただきたい、そんな気持ちをつづってみました。長いです。
大きな紋の入った幕の前に立つ女性。着崩した格子柄の着物、余裕のあるしぐさが非常にかっこいいですね。作者自身がつけた「女役者」というタイトルが示すとおり、おそらくこの人は女性の歌舞伎役者でしょう。現在、歌舞伎を演じるのは男性のみですが、江戸時代末から大正時代の頃にかけて、女性も演じており、彼女たちは女役者と呼ばれていたのです。女団州と呼ばれた市川粂八などが最も有名でしょうか。粂八は鏑木清方によって肖像が描かれていますので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
さて、彼女が誰で、この絵がいつ頃描かれたものなのかを考える前に、作者についてお話しておきたいと思います。
描いた西山翠嶂(1879-1958)は、竹内栖鳳の高弟で、娘婿でもありました。一時期、洋画家 浅井忠にも師事し、人物デッサンを学びました。風景や動植物が多い栖鳳と違い、人物画の大作を多く描き、文展や帝展などに出品しています。大正から昭和にかけて重鎮として京都の画壇を支え、自身が主宰する画塾・青甲社からは、秋野不矩・上村松篁、中村大三郎ら重要な画家を輩出しています。
そんな翠嶂ですが、落款や印章などのデータの蓄積はまだ多くはなく、文展・帝展に出品した代表作以外は年代の特定などが難しいのが現状です。この絵について調べたいと思ったとき、どうすればいいのか。まずやはり先人の研究に頼るほかありません。
幸いにも、高木多喜夫氏が研究成果として「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」(『京都文化博物館研究紀要「朱雀」第5集』、1992年発行)を残されています。これは、図書や雑誌ほか膨大な資料を丹念に整理されたもので、私は翠嶂を調べる上でこれをいつも頼りにしています。その中に、見逃せない箇所がありました。
明治45(1912)年6月1日、(翠嶂)33歳 女役者 現代名家風俗画集(高島屋飯田橋呉服貿易店 明治45(1912)年6月5日)に掲載。京都高島屋呉服店の新築落成記念現代名家風俗画展に出品。出典『高島屋美術部五十年史』(掲載にあたり、年号の表記など適宜変えました)
これを見つけた私はひそかに大喜びしました。当館の《女役者》は高島屋の展覧会に出たものだと確信して…。作品の出品歴がわかると何がよいかといいますと、素性がわかるということももちろん、やはり展覧会に出すということはそれだけ力を入れて描いているという想像もできるわけで、その力作に画家がどのような苦心・工夫をしたのか、調べがいも出てくるのです。また別の本を参照すると、この展覧会には栖鳳の名画《アレ夕立に》も特別に陳列されていた、という興味深い事実もわかりました。
調べで「現代名家風俗画展」の明治45年当時の図録が図書館や資料館に残されているとわかってさらに有頂天になった私は、資料を保存している図書館に突撃しました。
とある図書館へ飛び込んでカウンターで恐る恐る「すいません、『現代名家風俗画集』を見せてください」とお願いし(貴重書なので開架ではないのですね)、司書の方から本を手渡され、私はドキドキしながら年月の蓄積を感じるその本のページを丁寧にめくりました。そして…
「あれ?ない…ないよ…?」
そう、あろうことか落丁です。それも翠嶂のページだけが。なんとも驚くことではありませんか。私の落胆をお察しいただければ幸いです。
そして次の機会を求めて待つこと数ヶ月。オープンしたての京都府立京都学・歴彩館にて、とうとう図録を手にすることができました。そして、確認することができたのです。
当館の《女役者》は高島屋呉服店現代名家風俗画展出品の《女役者》ではないということを…。
森下麻衣子