うみもり香水瓶コレクション2
ファベルジェ社《香水瓶》 モダン・デザインの逸品

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今回も、ぜひ皆様のお目にかけたい、当館の香水瓶コレクションの選りすぐりの作品を紹介いたします! 今回はこちらの作品です。
ファベルジェ 1895-1900
ファベルジェ社《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク、1895-1900年頃、水晶、サファイヤ、金、ギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵 海の見える杜美術館所蔵。
FABERGE, PERFUME FLACON, C.1895 – 1900, Rock crystal, sapphire, gold, Propriety:King Georges I of the Hellenes, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

本作品も、第1回に登場したファルベルジェ社の作品と同様、2007年までギリシャ王室にて代々引き継がれたゲオルギオス1世旧蔵の香水瓶です。前回の香水瓶とは対照的に、あっさりとした造形の本作品においても、ファベルジェ社らしい卓抜した技術による仕上げに、思わずため息が漏れてしまいます。
掌におさめると、ずっしりと重く硬さもあります。それは、ガラスでもクリスタルでもない、水晶ならではのもの。クリスタルや多様なガラス加工の香水瓶が既に普及していた時代を考えれば、それは特別なことでした。

1917年のロシア革命によりファベルジェ社の記録が一部失われたため、本作品の購入者はいまだ謎に包まれていますが、どなたかがゲオルギオス1世に贈った可能性が先行研究において指摘されています。
水晶に刻まれたなだらかな曲線は、そのまま金の栓にもつながり、頂点のサファイヤに達します。希少な天然物を用いて、色を極力排したシンプルな造形は、ほぼ同時期に興隆したウィーンのモダン・デザインをも連想させます。

時代の先端を行く、極上のシンプル・モダンを体現した香水瓶。一分の隙もない、完璧なフォルムを見ていると、この趣味の持ち主への興味が尽きません。

岡村嘉子

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ③ 江戸の桜の名所

海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、

https://www.umam.jp/blog/?p=9873

https://www.umam.jp/blog/?p=10128

に掲載してあります。

今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。

現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。

江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。

歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)

満開の桜が咲き誇っています。

その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。

歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)

江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。

しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。

吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。

1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。

歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)

三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。

もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。

歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)

たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。

最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。

江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。

その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。

歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)

色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。

そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。

以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?

大内直輝

うみもり香水瓶コレクション1
ファベルジェ社《香水瓶》

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今後、うみもりブログで、当館の香水瓶コレクションのなかでも選りすぐりの作品を紹介してまいります! 第1回目の作品は、こちらです 👇ファベルジェ 1890

(ファベルジェ社《香水瓶》ロシア、サンクトペテルブルク、1890年頃、水晶、ダイヤモンド、ルビー、ムーンストーン、金、七宝、ロシア皇太子ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチおよびギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵、海の見える杜美術館所蔵。 PERFUME FLACON, FABERGE, C. 1890 ,Gold, rock crystal, diamonds, rubies, moonstone, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima)

 

写真から、水晶の輝きを際立たせる繊細な文様が伝わりますでしょうか? いかにもやんごとなき所有者を想像させるこの壮麗な香水瓶は、世紀転換期に生きたギリシャ国王、ゲオルギオス1世の旧蔵品です。2007年までギリシャ王家の驚異の部屋に収められ、代々受け継がれた後に、当館に収蔵されました。

ゲオルギオス1世の名は、近代オリンピック揺籃期の文献に多く登場します。近代オリンピックの歴史は、1890年代にフランスのクーベルタン男爵が、古代オリンピックの再興を提唱したことに始まるとされていますが、その栄えある第1回目の地として選ばれたのが、ギリシャのアテネでした。

しかし、わずか2年しかなかった準備期間で、開催資金を調達するのは至難の業でした。それを解決したのが、ときのギリシャ国王、ゲオルギオス1世であったのです。ギリシャ国王となる以前、デンマーク王子であった彼は、王太子コンスタンティノスとともに、各国の王室に呼びかけて、資金提供者を集め、開催を実現させました。

本作品は、そのゲオルギオス1世が、故郷のデンマーク王室を通じ、ロシア皇帝ニコライ2世の弟である皇太子より相続した香水瓶です。ロシアの高級宝飾ブランド、ファベルジェ社の工房長ペルチンが手がけたもので、煌く宝石があしらわれた栓や、アラベスク文様が緻密に彫られた水晶の本体に、その熟練の技術が認められます。18世紀の装飾様式を持つ表現が、家族の歴史を物語るかのような格調高い香水瓶となっています。

ただ今、香水瓶展示室では、本作品を含むオリンピックにちなんだ作品を展示しています。はるかギリシャのエーゲ海を思わせる、穏やかな夏の海を臨む翠緑の杜の美術館で、本作品をぜひご堪能くださいませ。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

香水瓶展示室と東京オリンピック・パラリンピック

香水瓶展示室では、8月23日まで オリンピック・パラリンピック企画 のコーナーが設けられています。

香水瓶とオリンピックにはどのような関係があるのでしょうか。
コーナーの展示解説からここに紹介いたします。

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古代オリンピック

前8 世紀に始まる古代オリンピックは、ギリシャのオリンピアにあるゼウス神域で行われた、4 年に一度の競技祭でした。当時、都市国家間での戦争がありましたが、競技祭開催に先立ち、開催の都市国家の使者がギリシャ全土の諸国を周って、休戦を告げました。
また古代オリンピックは、単なる競技会ではなく、宗教的な祭事でもありました。全能の神ゼウスへの儀式も行われ、競技者は神域に入る前に身を清め、ゼウス像に不正を行わないことを誓いました。
このような背景を持つオリンピックは、戦争を中断して参加することから「聖なる休戦」と呼ばれました。この平和のおかげで競技者や観戦者は、オリンピアに無事に旅することができたのです。
海の見える杜美術館は、レスリング等の運動に励んだギリシャの若者たちが、筋肉を和らげ、肌を守るために身体に塗った香油用の容器《アリュバロス》をはじめ、古代のスポーツの在り様を今に伝える作品を所蔵しています。

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島? 前6 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島?
前6 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島 前6 世紀 テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島
前6 世紀
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀 テラコッタ

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀
テラコッタ

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀-前5 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀-前5 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色

近代オリンピック

近代オリンピックの第1回アテネ大会開催(1896 年4 月)に尽力した、ギリシャ国王ゲオルギオス1世が所蔵した2 点のファベルジェ社の香水瓶を展示いたします。
ゲオルギオス1 世は、平和を願う近代オリンピックの提唱者、クーベルタン男爵の考えに共鳴し、西暦393 年以来、1500 年途切れていたオリンピックを再興させようと、開催国の国王として多大なる支援をしました。
当時、ギリシャ政府も、また国際オリンピック委員会も財政難に直面し、大会開催のための資金繰りに難航していましたが、デンマーク王室出身のギリシャ国王ゲオルギオス1 世とその子息、王太子コンスタンティノスが各国の王室に呼びかけて資金提供者を集め、開催が実現したといわれています。
海の見える杜美術館には、ゲオルギオス1 世が所有し、その後2007 年までギリシャ王室に代々伝えられてきた2 点の香水瓶が所蔵されています。

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1890 年頃 水晶、ダイヤモンド、ルビー ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1890 年頃
水晶、ダイヤモンド、ルビー
ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1895-1900 年頃 水晶、サファイヤ、金

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1895-1900 年頃
水晶、サファイヤ、金

ゲオルギオス1 世(1845-1913 年、在位1863-1913 年)と19 世紀のギリシャ

長らくオスマン帝国の支配下にあったギリシャが、1833 年に独立を果たすまでの険しい道のりは、フランス・ロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワの傑作《キオス島の虐殺》(1824 年)に端的に表れています。独立戦争の後、ヨーロッパ列強諸国の支援を得て、ギリシャは君主制の独立国となりました。その初代国王としてドイツ南部のヴィッテルスバッハ家の国王オソン1 世が就任しましたが、彼はギリシャの習慣に同化せず、また数々の行いから国民の信が得られずに、ほどなくして退位
します。紆余曲折の末、新国王として白羽の矢が立てられたのが、当時17 歳のデンマーク王室の王子ヴィルヘルムでした。1863 年、ギリシャ人の王、ゲオルギオス1 世として即位した彼は、デンマーク国教の福音ルーテル教会からギリシャ正教会へと改宗し、ギリシャの近代化や領地の拡大に着手しました。そのような中で、近代オリンピックの第1 回アテネ大会が開催されたのです。
やがてゲオルギオス1 世の領地拡大路線は、周辺諸国から反感を招くこととなります。オリンピックの翌年にはオスマン帝国との希土戦争が勃発し敗戦し、1913 年、第一次バルカン戦争の最中、テッサロニキにて暗殺されました。

ヨーロッパの王室は、婚姻を通じて、各国が密接に結びついています。例えばゲオルギオス1 世も、ロシアの最後の皇帝ニコライ2 世の母方(デンマーク王室)の伯父にあたります。作品番号35 は、ニコライ2 世の弟ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチ皇太子がロシアのファベルジェ社で購入したものです。夭逝した彼に代わり、ゲオルギオス1 世へと受け継がれ、ギリシャ王室で長く所有されることとなりました。

展覧会企画/構成:岡村嘉子、今城誥禧
展覧会解説:岡村嘉子

うみひこ

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ② 江戸から明治にかけての首都の風景の変化 第2回「駿河町」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展を開催中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

本ブログでは、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景の一部を見ていき、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて紹介しています。

前回の内容は↓に載っています。

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

2回目は、江戸を代表する経済の中心地であった「駿河町」を紹介します。

現在は駿河町という地名は残っておらず、日本橋室町が当時の駿河町にあたります。江戸の経済の中心として栄えましたが、地名が変わった今でも多くの商業施設が建ち並び商業の中心としての役割を担っています。

現在の日本橋室町
↑現在の室町周辺の写真。三越百貨店(右)やコレド室町(左)など大型商業施設が林立しています。

駿河町の地名の由来は、この場所から南西の方角を望むと正面に江戸城を、その背景に富士山(駿河国)を眺望できたことにあります。ここから眺める富士山は江戸一と言われており、江戸の名所としてその風景は浮世絵の題材として良く描かれました。

では、駿河町を題材にした江戸と明治の作品を見ていき、それぞれ描かれているものにどのような違いがあるか見ていきましょう。

歌川広重《東都名所 駿河町之図》 天保14-弘化4年(1843-1847)UMAM 海の見える杜美術館
歌川広重 「駿河町の図」(《東都名所》のうち) 海の見える杜美術館蔵

駿河町の様子を描いた天保3年(1832)頃の浮世絵です。通りの両側には三井呉服店(丸に井桁三文字)ののれんがかかった店舗が建ち並び、正面には富士山の姿が見えます。武士や旅人、天秤棒を担いだ振売(商人)など様々な人が行き交い、賑わいを見せています。正面の奥には富士山がその手前には小さく江戸城が描かれています。富士山は駿河町のみならず江戸のランドマークとして多くの浮世絵に登場します。

続いて明治時代の駿河町です。

井上安治《東京真画名所図解》「駿河町夜景」 明治14-22年(1881-1889)UMAM 海の見える杜美術館
井上安治「駿河町夜景」(《東京真画名所図解》) 海の見える杜美術館蔵

こちらは1877年(明治10)前後の駿河町の夜景を描いた作品です。向かって左側の建物は越後屋、右の建物は資生堂薬舗、奥のシルエットの建物が三井組本店(後の三井銀行)です。画面中央を見ると文明開化の象徴であるガス灯の姿が見え、その周りには馬車と人力車が描かれます。馬車や人力車は明治時代になり普及した乗り物で、馬車・人力車専用の道もありました。
この作品では、広重の作品では存在感を放っていた富士山が描かれません。その代りに画面の奥には、1874年(明治7)に竣工した擬洋風建築・三井組本店が描かれ、シルエットのみの姿ですが、存在感があります。この建物は、当時の開化絵にも取り上げられていることから、文明開化の象徴的な建造物として注目を浴びていたのでしょう。江戸から明治へと移り変わる中で、富士山以外にも、文明開化の代表的な産物である洋風建築が新たに駿河町のランドマークとして登場したことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも隔週で、展覧会出品作品の中から、作品紹介を行っていきたいと思います。

大内直輝

第18回 香水散歩 特別展 ミイラ「永遠の命」を求めて展

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国立科学博物館、東京・上野

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。ようやく緊急事態宣言が全国的に解除となり、各地の美術館も再開し始めましたね。今年はこれから、どのような展覧会鑑賞のご予定がおありでしょうか?なかにはおそらく、約1年半をかけて全国を巡回する話題の展覧会「ミイラ――永遠の命を求めて展」がそのご予定におありの方もおいでのことでしょう。そこで、いち早く国立科学博物館での東京展に足を運びましたので、今回はこの展覧会を取り上げたいと思います。

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ところで、ミイラ……実は香水の歴史に深い関心を抱くようになるまでは、率直に申しまして苦手でした。思い起こせば今から四半世紀前、実物との最初の遭遇は、期せずしてやってまいりました。

フランス・ノルマンディ地方の古都ルーアンを訪れたときのこと、この町を特徴づける半木骨造の建物で囲まれた、美しい中庭に行き当たりました。現在、美術学校となっているその場所は、その昔、ペストがこの町を襲った際に病院と納骨堂となったところです。1348年の大流行時には、なんと住民の4分の3もの人々が命を落としたといわれています。その歴史を雄弁に語るかのように、建物の柱には髑髏の彫刻が施され、ペスト患者や彼らの治療に懸命にあたった人々が心の慰めとしたような木立が中庭の中央にありました。

木々の葉を優しく震わす風のそよぎと鳥の歌声だけが響く、静寂に包まれた中庭に立って、建物をじっくり眺めていると、壁になにやら、茶色っぽいしわの寄った塊が埋め込まれています。「あら、これは何かしら?」と至近距離まで寄って見てはっと致しました。「こ、こ、これはきっと……ミイラァァッ!!」とわかるや否や、声にならない悲鳴を上げて、その場を一目散に立ち去ったのはいうまでもありません。

後で調べてみると、それはまさしく猫のミイラでした。当時、黒い猫は、悪魔の化身と考えられていたため、あの猫はペストをもたらす悪魔退散のための生贄であったといわれています。

なぜあのとき、ミイラは私に恐怖をもたらしたのでしょうか? 今にして思えば、それはミイラについて知識が乏しかったからだと思います。黒ずんで骨と皮になったり、しわくちゃになったりしている姿だけでも衝撃的ですのに、その上、生前の実体がまだ残っており、単なる物体になったわけではないかのようで――つまり、生とも死ともいえない状態を目の当たりにしたかのように思えて、ひたすら恐ろしかったのです。

その後、とりたててミイラを求めたわけでは決してないのですが(むしろ全く望んでいなかった)、様々な時代や地域のミイラを見る機会が多々ありました。ただし、それらはすべて博物館内の「ミイラ」展示室や「古代」展示室等でしたので、最初の遭遇とは異なり、心の準備をした上での対面でした。しかも、そこでの解説が、未知なるものへの私の恐怖を少しずつ取り去ってくれました。

香りに興味を持つようになると、むしろミイラが興味の対象へと変わるまでになりました。というのも、香りの歴史を紐解けば、古代では香りがミイラづくりに欠かせないものであったからです。例えば、エジプトのミイラといえば包帯でぐるぐる巻きにされた姿を思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、あの麻の布は、遺体に巻かれる前に、殺菌や防腐の効果がある芳香性の樹脂に浸したものであったので、よい香りがしたといわれています。また、遺体は放置しておくと、体内の水分によって腐敗が進み、ミイラにはなりません。そこでエジプト人たちは、内臓などを取り出しましたが、その空になった部分にも、樹液のしみ込んだ麻布を何枚も入れましたし、体腔にはハーブの入った袋を詰めました。さらに身体の皮膚にも香りの付いた軟膏などを塗ったといわれています。推論も含めて様々な研究結果を知るにつけ、では一体、エジプトのミイラにはどのような香りが使われたのかしら、ローリエかしら、ユーカリかしら、ユリかしら……、あるいはそもそもどうしてその香りが必要だったのかしら等々、興味が次々と湧いてくるのです。

そのような古代エジプトのミイラへの興味に応えてくれるだけではなく、世界のミイラへの関心をも大いに喚起してくれるのが、今回の「ミイラ」展です。個人的には「大ミイラ展」あるいは「深淵なるミイラの世界展」と呼びたいほど、最新の研究結果とともに、世界各地のミイラ43体が一堂に集められた大規模な展覧会です。

ミイラとひとことで言っても、時代や地域によってその様相や作られた背景が随分と異なります。なんといっても、ミイラにするつもりなど微塵もなかったにもかかわらず、乾燥や泥炭等といった自然環境のもたらす作用で心ならずもミイラになってしまった自然ミイラがある一方、古代エジプトのように複雑な手順を経てミイラとなった人工ミイラがあるのです。その多種多様なことといったら! もちろん私たちにとって馴染み深い(?)、日本のミイラも出品されています。

展覧会は、世界の地域ごとに「南北アメリカのミイラ」「古代エジプトのミイラ」「ヨーロッパのミイラ」「オセアニアと東アジアのミイラ」という4つのセクションから構成されています。

「南北アメリカ」は、世界最古の自然ミイラ(約1万年前、アメリカ合衆国ネバダ州)と人工ミイラ(約7000年前、チリ北部の都市アリカ近辺)を有する地域です。

展示室には、人工ミイラの創始者がエジプト人であるという通説を覆した、南米チリ北部のチンチョーロ族の人工ミイラより、紀元前3200年頃のミイラが展示されていました。顔の部分には目と口がくりぬかれたマスクが付けられているのですが、そのマスクが意外にも、なんとも可愛らしい! いうなれば日本の土面や埴輪を想起させるマスクです。見慣れるようになったエジプトのミイラだけではなく、世界各地の未知なるミイラ展ともなれば、再び恐ろしいミイラに遭遇してしまうのでは……!?という心によぎる一抹の不安を払拭してくれました。ちなみに身体は、内臓や筋肉を取り除いた後に、木材や葦の紐などで形を整え、灰のペーストで肉付けされてるのですが、その仕上がりが、これまた意外にもふっくらしていて、素朴なお人形のようです。表面が黒ずんでいるのも、誰かがこのお人形と遊び過ぎて、すっかり汚してしまったようでさえあります。おかげで、かなり安心させて頂きました。

そのほか、同セクションには、顔部分に刺繍のある袋状になったミイラ「ミイラ包み」(その刺繍も愛嬌たっぷりです!)など、豊かなミイラ文化を伝える品々が展示されています。

ミイラ包みはその愛くるしさゆえ、写真のようなぬいぐるみになってミュージアムショップに並んでいました。↓

IMG_5882ポーチもミイラファンには味わい深いものが……。こちらです ↓IMG_5883

さて、「古代エジプト」では、ミイラや棺はもちろん、小さなお守り類やミイラに添えられた装飾品、ヒエログリフの書かれた麻布などが出品されています。それらは、エジプトのミイラづくりが、エジプトの神話を基にして行われたことを伝えてくれます。エジプトを守る神が不滅であるように、その神の役割を引き継ぐ王、ファラオをはじめとするエジプトの人々が死してなお、生が永続するようにと願ったことが、展示品を通じてより身近に感じられることでしょう。

この展示室には、ミイラづくりに用いられた物質であるサフランや没薬(ミルラ)、瀝青、ナトロン等も出品されています。没薬(ミルラ)は、イエス・キリストが誕生した際に、東方三博士が献上した3つの品のひとつです。ミルラという香りが、異なる宗教において、聖なる存在に捧げられているのは、非常に興味深いですね。

「ミイラ展」は他にも、自然ミイラの一種の湿地遺体や、カナリア諸島原住民の人工ミイラや、聖人の遺体を聖遺物として珍重したキリスト教の信仰を伝える頭骨にユリ十字やバラなどの装飾を施したものや(以上すべて「ヨーロッパのミイラ」)、仏教思想に基づいて瞑想しながら死してミイラとなった日本の即身仏(「オセアニアと東アジアのミイラ」)などが詳しく紹介されています。

なかでももっとも驚かされたのは、江戸時代後期の本草学者が自らの研究成果を確かめるために、自らミイラとなったものでした。彼は後世、自分を掘り出すよう言葉を遺しました。そして約120年以上の時を経て掘り出されると、彼の研究が大成功したことが確認されたのです。展示室では、見事なミイラになったこの本草学者も展示されていますので、どうぞお見逃しなく! まさに探究心とチャレンジ精神の勝利ですね。

ところで、この展覧会を訪れたのは、新型コロナウィルスの流行が起こる前でした。それもあって、会場内はまさに密状態。いずれの展示室もケースの前には幾重にも列ができ、鑑賞者で埋め尽くされていました。そのお一人お一人が、それぞれ異なる関心から鑑賞なさっていたと思いますが、私にとっての展覧会の魅力は、フランスのリヨンにあるコンフリュアンス美術館の展示もしかり、またミイラというテーマもしかり、「死んだらどうなるのかな?」という誰しもが抱くであろう素朴な疑問に、真正面から向きあう先人について知ることができることです。その向き合い方は、科学的見地から探ったものや、宗教的課題としてそれを探究したものなど、実に様々。そのおかげで、あたかも知の殿堂のただなかに身を置いているかのような気分を味わいました。

機会に恵まれたら、これから行われる他の都市でも再度見てみたいと思っています。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

こちらは古代エジプトにおいて死から再生へと導く儀式に用いられたとされるパレットです。7つあるくぼみの上部に書かれたヒエログリフは、それぞれ香り豊かな7つの聖油を表しています。文字とともにあることで、香りが永遠に存在し続けると当時は考えられていました。肉体も香りも束の間のものとはせずに、いかに永遠のものにするか――古代エジプト人たちの発想にはいつも驚かされます。

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵

 

第17回 香水散歩 読書推進期間 ポール・ポワレ

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(重い本の包みを持って歩いたグラース国際香水博物館付近の通り)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。「香水散歩」開始以来の変化のときが訪れました。これまで、ヨーロッパや日本の町を旅しながら香りに関して思うところや最新情報をお届けしてまいりましたが、世界的な新型コロナウィルスの蔓延により、その「旅」ができない状況になりました。

けれども、表題に掲げた「散歩」までできなくなったわけではありません。物理的に体を使った散歩はできないまでも、精神における散歩はこれまで通り続けられるのではないでしょうか。そのような思いを強めてくれるのが、読書や、DVD及びネットから配信される映画や音楽の鑑賞です。それらによって、私たちはあらゆる時代のあらゆる場所へ思いを馳せることができます。それは、美術館の所蔵作品についての知識を深めてくれたり、また美術館の所蔵品となる以前にその作品がどのような人物たちとともにあったかを伝えてくれたりします。

しかもそれらは、またいつか自由に出歩けるようになったら、この作品を見に行こう、この香りを嗅ぎに行こうという未来への希望を抱かせてくれるのです。世界は広く、素晴らしい宝物や尊い存在に満ちている―—そのように私が思わずにはいられなくなった書籍や映画を、この機会にご紹介していきたいと思います。

Pauke Poiret

「ポール・ポワレ クチュリエ・パフューマー」展図録 グラース国際香水博物館、2013年

今回ご紹介するのは、第6回と第7回「香水散歩」でもお馴染みの南フランスのグラース国際香水博物館で開催された、2013年の夏の展覧会の図録です。本書は、この博物館を訪問した際、ミュージアムショップで購入した大量の本のうちの一冊です。その日私は購入した本を1回では持ち帰れずに、ふうふう言いながらホテルと博物館を2往復することとなりました。なぜそんなにも大量に買ってしまったかというと、まもなくミュージアムショップの書籍コーナーを模様替えするとのことで、書籍の在庫セールをしていたのです!

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いずれの書籍も、他の都市やインターネットではなかなか見つけられない貴重なものばかり。これも何かのご縁と自分に言い聞かせて、気になるものはすべて買ってしまいました。大量のまとめ買いの常として、じっくりとそのすべてに目を通すことはなかなか叶いませんでしたが、外出が制限されたこの特別な大型連休期間のおかげで、ようやくそれができました。

本書は、20世紀前半に活躍したフランスのファッション・デザイナー、ポール・ポワレの香水分野における仕事を網羅的に紹介しています。世界の香水の一大産地、否、香水産業の首都たる威信をかけて、グラースの地で開かれる展覧会の図録に相応しく、ポワレの香水を様々な角度から取り上げた論文が豊富な資料と共に多数収録されています。驚いたことに論文執筆者の中には、「香水散歩」でも何度も取り上げている今日を代表する調香師ジャン=クロード・エレナも含まれています。そのため、今まで不明瞭であったところや、あまり語られることのなかった部分も明らかにしてくれる、大変充実した構成の一冊です。また、ポワレの革新性を伝えるために、ポワレ登場以前の香水産業の歴史が詳述されている点も、私としては嬉しいところです。

さて、ときに「革命児」とも呼ばれるポワレの革新性とはどのようなものであったのでしょうか。せっかくですから、海の見える杜美術館の所蔵作品とともにそれをお伝えしたいと思います。なにしろ、当館にはポワレが手掛けた香水分野の作品がいくつも所蔵されているのですから!

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ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)《ロジーヌ社》1911年、リトグラフ、海の見える杜美術館所蔵

ポワレの革命児ぶりを余すことなく伝えるのは、まずはこちらの作品でしょう。画面下部のフランス語は「ロジーヌ社」と書かれています。本作品は、イラストレーターのジョルジュ・ルパップの筆による、1911年にポワレが立ち上げた香水製造会社、ロジーヌ社のリトグラフです。シャネルしかり、ディオールしかり、服飾メゾンが香水を発表するという、現在ではごく当たり前のことも、当時にあってはまだ珍しいことでした。そのような中、ポワレは自分のドレスの仕上げには香水が欠かせないと、香水分野に積極的に乗り出して大成功をおさめたのです。

彼を成功に導いた要因の一つは、イメージ戦略ともいえる様々な試みです。ポワレは、贅を尽くした美しいドレスを提供するだけではなく、そのイメージを人々の心に深く刻ませようと努めました。そこで彼はとりわけ広報部門を重視します。そのために、様々な分野のアーティストたちを協力者として採用したのです。とりわけイラストレーターは重要な役割を担いました。ポワレのドレスを纏う女性たちのファッション・イラストを一冊の冊子にまとめて顧客たちに配ったのです。カタログの配布も、今日では名だたるメゾンで頻繁に行われていることですが、ポワレはその元祖であったと言われています。

このイラストを描いたルパップも、ポワレのイメージ戦略の重要な協力者の一人でした。ルパップは、ポワレのドレスを纏って、こんな夜会に出てみたい、こんな風にテニスをしてみたい等、具体性を持った夢を抱かせるイラストを次々と描きました。それらに加えて、自らの感情に忠実な女性の姿態――例えば、「倦怠」を主題に、物憂げにのびをする女性等――を描くことで、見る人の精神の奥深くにまで巧みに訴えました。彼のドレスを纏えば、自らの欲望や感情をより露わにできる新時代の自由な女性になれるのではないかと夢見させたのです。

さて次は、描かれた女性の装いを見てみましょう。ポワレは第10回「香水散歩」で登場したマリアーノ・フォルチュニとほぼ同時期に、女性のドレスのシルエットを激変させた一人です。それまでコルセットで締め付けられていた女性のウエストは、胸の下からゆったりとしたドレープが広がる彼のドレスによって解放されました。それには、フランス革命直後からナポレオン1世誕生までの間に流行した、ディレクトワール・スタイル〔新古典主義様式、1795-1803〕に着想を得たと言われています。なるほど本作品でも、ハイウエストですね。

さらに詳しく装いを見てみましょう。羽根飾りのついたターバンやハーレム・パンツ等の東洋の影響が色濃く出ていますが、これもまたポワレの仕事を特徴づけるものでした。これにはあるイメージソースがありました。それは、このリトグラフが世に出る1年前、パリではセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス〔ロシアバレエ団〕による演目「シェエラザード」が上演され、パリの人々を熱狂させていました。ほどなくして「シェエラザード」という名のナイトクラブが開店するほどの人気ぶりであったといわれています。

『千夜一夜物語』に想を得たこのバレエの舞台は、東洋の国ペルシアの王宮にあるハーレムでした。ポワレは、すかさずそのイメージを活かしたドレスを制作します。本作品の女性も、ハーレムに住まうオダリスク(女奴隷)とみなされています。描かれた場所が東洋であることは、部屋の設えからもわかります。彼女は西洋の生活では基本となる椅子には座らずに、色とりどりのたくさんのクッションに囲まれているのですから。

しかしここで一つの疑問が浮かびます。王の寵愛をもってしか生きられない女奴隷のオダリスクを、パリ上流階級の女性たちが憧れの対象としてみなしていたのでしょうか? どうやらそのようなわけではないようです。バレエ・リュスの演目「シェエラザード」に登場するオダリスクや王の妻は、19世紀にドラクロワやアングルが描いたハーレムの女性たちとは異なる性質を持っていました。20世紀の彼女たちは、男性の絶対支配に従うだけの女性ではもはやありませんでした。その姿が、当時のパリの上流階級の女性たちの目には、斬新で進歩的で魅力的なものに映ったようです。

ポワレが東洋のイメージを活用したのは、ドレスや広報物に留まりませんでした。彼は、この東洋的なドレスを人々に着せて、大祝宴を開きました。その祝宴の名は「千二夜物語」(洒落ていますね!)。 その際、彼は庭に、香水を振りまいて、魅惑的な匂いがたちこめる場を作り出しました。使用された香水は、「ニュイ・ペルザン」、フランス語で「ペルシアの夜」と名付けられた香りです。加えて帰り際には、招待客にこの香水瓶をお土産として渡しました。香水瓶の蓋をそっと開ければ、いつでも香りとともに、パーティの楽しかった時間が蘇ってくるのです。これほど深い印象を、しかも長く抱かせることはないでしょう。

このたった一枚のリトグラフは、彼のドレスも、彼を取り巻く芸術の協力者たちの顔ぶれも、独創的なパーティの演出や香水も、また当時のパリの流行をも物語ってくれるものなのですね。

最後にここでちょっとマメ知識です。ポワレの香水の会社名はなぜ他の服飾メゾンのようにブランド名ではないのでしょうか? 彼の香水会社名の「ロジーヌ」は、フランスの女性の名前ですが、これはポワレの長女の名前が冠せられています。拙宅の近所にもお嬢様の名がつけられたカフェやギャラリーがあり、その名がオーナーたちの子煩悩ぶりを伝えていて微笑ましくなりますが、ポワレもどうやらそのタイプだったようですね!

ロジーヌ社の香水瓶の制作を担っていたマルティーヌ工房やコラン工房のことは、いつかまたこちらでご紹介したいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

◇ 今月の香水瓶 ◇

バレエ「シェエラザード」の上演と同年にポワレが発表した香水「アラジン」が入れられた香水瓶です。本作品はマリオ・シモンとポワレによって1919年にデザインされました。この香水瓶からも、東洋への傾倒ぶりが見てとれますね。

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ポール・ポワレ(ロジーヌ社)香水瓶《アラジン》

デザイン:マリオ・シモンおよびポール・ポワレ、1919年、金属に銀メッキ、茶色パチネ、ベークライト、海の見える杜美術館所蔵

作品紹介 《夜討曽我絵巻》の富士山

気がつけばもう5月。広島はすっかり初夏の陽気です。

新型コロナウイルスの影響で、せっかくのゴールデンウィークは遠出のままならない休暇になった方が多かったことと思います。私も広島から離れられない毎日にそろそろ旅心がうずき、東京に向かう新幹線に乗って、車窓から5月の明るい空に映える富士山を眺めたくて仕方がありません。さて今回は、そんな個人的な旅心(あるいは関東出身者の里心)を慰めたく、所蔵品の中から《夜討曽我絵巻》に描かれた富士山をとりあげます。お付き合いください。

 

建久4年(1193)5月28日、曽我十郎祐成、五郎時致兄弟は、父の仇である源頼朝の重臣、工藤祐経を討つべく、頼朝が富士山麓で行った巻狩に参加します。日中も祐経を狙いますが好機を逃し、夜討によってその悲願を果たします。日本に数ある仇討ちの物語の中でも、曽我兄弟の仇討ちほど人々に愛され、文芸に影響を与えた物語はありません。物語として享受されるだけでなく、能や歌舞伎など芸能の主題として、もちろん絵の主題としても人気を博しました。幸若舞曲と呼ばれる芸能では、弟の元服から仇討ち後の兄弟の死までを6曲で語ります。特に、物語のハイライトにあたる最後の2曲「夜討曽我」(巻狩から仇討ちまで)と「十番切」(仇討ち後の決闘と兄弟の死まで)は人気が高く、屏風や絵巻、絵本の主題として盛んに制作されました。

ここにご紹介する《夜討曽我絵巻》もそのうちのひとつ。とはいえ普通は2、3巻程度のボリュームで描かれる「夜討曽我」を、この絵巻は9巻もの大部にしあげています。そのため、右から左へと巻き広げていく絵巻の横長の画面を効果的に使った非常に長大な場面が特徴です。9巻のうちでも最も力の入った見所は、頼朝の富士山麓での巻狩を描いた巻1でしょう。

狩野春雪筆《夜討曽我絵巻》 9巻のうち、巻1第2段 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館蔵

上の図は、巻1の第2段の図。右手に小さく見えるのは、富士の巻狩に向かう頼朝一行。その左手には裾野の浅間神社に続いて雪を頂く富士山が大きく描かれます。さらにその左には田子の浦、画面手前に三保の松原、左端には清見寺が見えます。この場面は実に約430センチもの長さです。

この絵の主眼は、物語の場面描写の域を超えて、周辺の名所を含めた富士図を描くことにあるといえます。この絵巻を描いたのは狩野春雪という江戸時代初期の狩野派の絵師です。この時代の富士山、とくに幕府の御用絵師を勤めた狩野派の描く富士山は、関東を拠点に日本を支配する徳川将軍の権力の象徴、あるいは将軍そのものを象徴する存在だったと考えられています。この富士とともに描かれる頼朝は、関東を基盤にした武家の支配という偉業を成し遂げた最初の将軍として、徳川将軍に重ねられたことでしょう。

 

さて、そのような文化的背景はあるものの、この絵自体に威張ったような、堅苦しいようなところはあまりなく、描かれた景観は明るく晴れやかです。富士山は悠々とした山容を表し、山麓の鮮やかな緑と富士山頂の雪の白の配色が、夏の景色であることを示します。細かく描き込まれた人物はどこかかわいらしく、人々の営みが描き添えられた田子の浦は、穏やかな雰囲気です。

富士山麓に向かう源頼朝の一行。赤い傘を差し掛けられた白馬に乗る人物が頼朝です。

富士山麓に向かう源頼朝の一行。赤い傘を差し掛けられた白馬に乗る人物が頼朝です。

拡大図2

仇討ちが行われたのは旧暦の5月28日。山頂に雪を残しながらも、裾野には鮮やかな緑が広がり、晴れやかな夏の富士が描かれます。富士山にかかったもくもくとした輪郭の瑞雲は、富士が神聖な山であることを示します。

三保の松原と清見寺

細々と人々の営みが描き込まれます。田子の浦の名物「塩焼き」を行う人たちも。

三保の松原と清見寺

三保の松原と清見寺

新幹線や飛行機などの交通機関の発達で、私たちはそんなに無理をせずとも遠方に旅することができるようになりました。ですが今のような思うままに出かけることができない状況の中にあって、絵に描かれた場所への旅心を育ててみると、また違った感慨があって楽しいものです。江戸時代の人々も同じような旅への憧れを持って絵を眺めていたのだろうかと想像しています。

 

ところでこの絵巻、他にも色々と面白い見所が多いのです。大部の絵巻なのですべての図をご覧頂くことはなかなか難しいのですが、今後も機会をつくってご紹介できればと思っています。

 

谷川ゆき

作品紹介 《厳島八景画巻》より「大元桜花」

お花見のシーズンは過ぎましたが、前回の小野小町の衣の文様に続き、しつこく桜の話をさせてください。今回は、昨年開催した「厳島に遊ぶ—描かれた魅惑の聖地」展(11月23日〜12月29日)で展示した《厳島八景画巻》から、宮島の大元神社に咲く桜を描いた「大元桜花」の場面をご紹介します。

 

厳島の景観の見所ベスト8を選んだ「厳島八景」をご存知でしょうか。正徳4年(1717)、厳島の光明院の僧、恕信の依頼によって、京都の公家、冷泉為綱が八景を選定します。中国の景勝地、瀟湘八景に倣って選ばれた厳島の名勝は、「厳島明燈」「大元桜花」「瀧宮水蛍」「鑑池秋月」「谷原麋鹿」「御笠濱鋪雪」「有浦客船」「弥山神鴉」の8つ。それぞれに和歌、漢詩などの詩歌と挿絵を添えて、元文4年(1739)に版本『厳島八景』(全3冊)が刊行されています。

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

さて、この「厳島八景」の成立に関わった公家のひとりに、風早公長がいます。公長は冷泉為綱に八景の題の選定を依頼し、また、版本『厳島八景』(上冊)に、「有浦客船」の和歌、「八景和歌跋」、「八景詩跋」を寄せています。

ここでご紹介する《厳島八景画巻》は、この風早家ゆかりの作例です。版本上冊にある八景の和歌と挿絵、「八景和歌跋」から成り、その後に風早公長の孫、公雄の明和5年(1768)の署名、また、それに続いて明和7年に画工に写させた旨の奥書があります。おそらく公雄による明和5年の原本を、誰かが明和7年に写させたのだと思うのですが、残念ながらそれが誰なのかは分かりません。詳細は不明ながら、江戸時代の宮島と京都の公家文化の交流の一端を示す興味深い資料です。

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

さて、前置きが長くなりましたが、あとはのんびり「大元桜花」の場面で一足遅いお花見を...。

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

穏やかな海浜に面して鳥居があり、少し奥まって社が描かれます。春霞のかかる山容を背景に、木々と桜の花に囲まれてたたずむ大元神社の静謐な趣は、嚴島神社の壮麗な社殿とはまた違った感動を誘います。現在も大元神社を訪れると、このひっそりとした聖域の空気が、当時と変わらず漂っているように感じられます。

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景図巻》はページ数の都合で展覧会ブックレットに掲載できなかったこともあり、何かの機会にご紹介したいと思っていました。「厳島に遊ぶ」展は寒さが深まる中で展示の準備をしていたので、春はことさら待ち遠しく、桜の季節がきたら「大元桜花」をぜひ訪れてみたいと思っていたのです。しかし、残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で叶いませんでした。そんな今年の桜への未練も含めて、この機に一部をご覧頂きました。

来年は穏やかな春が訪れるよう願うばかりです。

 

谷川ゆき

 

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝