海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。
うみひこ
当館の主要なコレクションである西南戦争錦絵の中から、月岡芳年画《西郷隆盛霊幽冥奉書》(さいごうたかもりのれいゆうめいにほうしょす)という作品をご紹介します。
月岡芳年画《西郷隆盛霊幽冥奉書》 出版人船津忠次郎 1878年(明治11)7月5日御届
真っ暗な画面の中に、西郷隆盛の幽霊が描かれており、手には誰かに宛てた建白書(けんぱくしょ)を持っています。題に「幽冥」とあることから、西郷がいる場所はあの世であると思われます。西郷の顔を見ると、髪と髭は伸び放題で、目は白目をむき、唇は青くなっており、頬はこけています。その表情はおどろおどろしく、少し不気味な絵です。
作者の月岡芳年[1839-1892]は、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した絵師で、血みどろ絵と呼ばれる残虐な絵で一躍有名となりました。また、幽霊画や妖怪画も多く手掛けており、芳年自身も女郎の幽霊を見たという逸話が残っています。
さて西郷の持っている建白書が、誰に宛てられたものなのかという問題ですが、建白書には「建白」という文字しか見えず、また絵の内容を説明する詞書などもないため、誰に宛てたものかを特定することはできません。
しかし、この建白書は西郷と同じ薩摩出身で、盟友でもあった大久保利通に宛てられたものだとする説があります(1)。右上の題に目を移すと、外枠が鎖でつながれており、題を取り囲んでいるのがわかります。
さらによく見るとところどころ文字のように見える箇所があります。この文字が漢字の「甲」によく似ていることから、「甲東」(2)が号であった大久保利通を暗に示しており、それを理由にこの建白書は大久保に宛てたものではないかと推測されています。
この錦絵の届出は、1878年(明治11)の7月5日ですが、この約2か月前の5月14日、東京・紀尾井坂において、大久保利通は不平士族らによって暗殺されています。
西郷と大久保は、同じ薩摩の出身で盟友でもありました。2人は明治維新後、政権の中枢を担いましたが、1873年(明治6)の征韓論を機に、西郷は帰郷して政権からは離れました。そして西南戦争の時も西郷は、政府側で指揮を執っていた大久保に対して自分の意見を伝えることができないまま、鹿児島城山で敗死しました。この絵は、生前には叶わなかった西郷の建白を、あの世で実現させたものなのかもしれません。
大内直輝
※西南戦争錦絵については以前のブログでも紹介しています。
西南戦争錦絵「奇星之実説」 https://www.umam.jp/blog/?m=201707
西南戦争錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」 https://www.umam.jp/blog/?p=7636
女子隊が活躍する西南戦争錦絵 https://www.umam.jp/blog/?p=7845
(1) 小西四郎『錦絵 幕末明治の歴史8 西南戦争』 P.94 講談社 1977年
(2) 大久保が育った加治屋町(かじやまち)が鹿児島市中心部を流れる甲突川(こうつきがわ)の東側に位置することからそれに因んでつけたと云われている。
海の見える杜美術館は、粉本類も収蔵しています。
これは、幸野楳嶺が、弟子の竹内栖鳳の独立開業を祝して制作した《鳳凰図》明治20年(1887)の草稿です。
幸野楳嶺《鳴鳳之図》明治20年(1887)(鳳凰之図 草稿)
裏には「花四十五号 鳴鳳之図 丁亥九月草稿」と書かれています
2018年3月17日より、オープニング記念特別展『香水瓶の至宝』と同時に、このたび新らしく設けられた竹内栖鳳展示室で開催する『知られざる竹内栖鳳 – 初公開作品を中心に』に出品します。お楽しみに!
幸野楳嶺《鳳凰図》明治20年(1887)
本作品も、もちろん出品されます。
さち
青木隆幸
1910(明治43)年4月、寺崎広業は、薬舗津村順天堂の主人津村氏から頼まれて、六曲一双屏風《竹梅図》を揮毫しました。
左隻右隻
広業はその後横山大観、山岡米華と一緒におよそ2か月のあいだ中華民国を外遊し、帰国後すぐに第4回文展の審査委員として出品作品の制作に取り掛かり、中国を題材にした3作品《夏の一日》《長江の朝》《長城の夕》を出品しました。展覧会には横山大観も中国旅行に取材した作品を出品し、「広業は筆路の円熟をもって、大観は着想の奇抜をもって、場中の双璧をなしている」と評されました。※1
そのように充実した日々を過ごした年の暮、放浪の画家ともいわれる広業が新橋の料亭「花月」に滞在中、津村氏と会食の機会があり、その中で、津村氏:(今年描いてもらった《竹梅図》は)「竹梅ばかりでは淋しいので、何か小鳥でも描き添えてほしい」。広業:「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という会話があったようです。※2
その会話が実現しないまま10年の月日が過ぎた1919(大正8)年2月、53歳の若さで広業が世を去り、津村氏には「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という言葉が遺言のように残されることになりました。
広業が世を去って13年後の1932(昭和7)年新春、栖鳳が昨冬来、近くの湯河原に湯治中との情報を得た津村氏は、すぐさま行動に移り栖鳳に揮毫を懇望しました。
その年の春4月17日、目黒町の貴族院議員津村重舍邸を訪ねて《竹梅図》を確認した栖鳳は、会心の笑みとともに「ホゝ明るい気持ちのええ図やなあ」「一つ描きまホう」と言ったと記録されています。※2
栖鳳は翌4月18日昼過ぎに津村邸を再訪し《竹梅図》に合作を試みます。4時間かけて、左半双の竹林に雀を3羽、右半双の老梅に鶺鴒1羽放ち、「栖鳳同作」と落款を広業の横に添えました。広業が揮毫して実に24年を経て《竹梅図》は完成しました。
左隻
右隻
栖鳳と広業はいずれも人気作家で「売れっ子は、東の広業、西の栖鳳」といわれるほどだったようです。栖鳳の豪遊ぶりは新聞をいつもにぎわしていましたし、広業は1912(大正元)年に購入して改築した小石川関口町の大邸宅や、翌年7月にしつらえた長野県下高井郡上林温泉の別荘「養神山房」などを見ると、そのような風聞にも首肯できます。
栖鳳と広業は西と東に分かれて活動していたので交流の足跡は多く残されていませんが、当館にはこのほか栖鳳が「獅子」を、広業が「文殊」を描いた双幅《獅子文殊図》も残されていて、関係の一端を垣間見ることができます。
これらの作品は、本年3月17日のリニューアルオープン展覧会『香水瓶の至宝~祈りとメッセージ~』の開催時に、このたび新設した竹内栖鳳専用の展示室で同時開催『知られざる竹内栖鳳 -初公開作品を中心に-』に出品いたします。いずれの作品も初公開となる記念すべき展覧会です。東西人気作家の交流の証をご覧ください。
※1中川忠順『東京毎日新聞』1910(明治43)年10月24日
※2斎田素州「栖鳳、広業の合作 24年ぶりに此程完成す」『塔影』8巻6号1932年)
さち
青木隆幸