竹内栖鳳と寺崎広業 広業没後に完成した合作《竹梅図》

1910(明治43)年4月、寺崎広業は、薬舗津村順天堂の主人津村氏から頼まれて、六曲一双屏風《竹梅図》を揮毫しました。

左隻右隻

広業はその後横山大観、山岡米華と一緒におよそ2か月のあいだ中華民国を外遊し、帰国後すぐに第4回文展の審査委員として出品作品の制作に取り掛かり、中国を題材にした3作品《夏の一日》《長江の朝》《長城の夕》を出品しました。展覧会には横山大観も中国旅行に取材した作品を出品し、「広業は筆路の円熟をもって、大観は着想の奇抜をもって、場中の双璧をなしている」と評されました。※1

そのように充実した日々を過ごした年の暮、放浪の画家ともいわれる広業が新橋の料亭「花月」に滞在中、津村氏と会食の機会があり、その中で、津村氏:(今年描いてもらった《竹梅図》は)「竹梅ばかりでは淋しいので、何か小鳥でも描き添えてほしい」。広業:「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という会話があったようです。※2

その会話が実現しないまま10年の月日が過ぎた1919(大正8)年2月、53歳の若さで広業が世を去り、津村氏には「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という言葉が遺言のように残されることになりました。

広業が世を去って13年後の1932(昭和7)年新春、栖鳳が昨冬来、近くの湯河原に湯治中との情報を得た津村氏は、すぐさま行動に移り栖鳳に揮毫を懇望しました。

その年の春4月17日、目黒町の貴族院議員津村重舍邸を訪ねて《竹梅図》を確認した栖鳳は、会心の笑みとともに「ホゝ明るい気持ちのええ図やなあ」「一つ描きまホう」と言ったと記録されています。※2

栖鳳は翌4月18日昼過ぎに津村邸を再訪し《竹梅図》に合作を試みます。4時間かけて、左半双の竹林に雀を3羽、右半双の老梅に鶺鴒1羽放ち、「栖鳳同作」と落款を広業の横に添えました。広業が揮毫して実に24年を経て《竹梅図》は完成しました。

左隻

右隻

栖鳳と広業はいずれも人気作家で「売れっ子は、東の広業、西の栖鳳」といわれるほどだったようです。栖鳳の豪遊ぶりは新聞をいつもにぎわしていましたし、広業は1912(大正元)年に購入して改築した小石川関口町の大邸宅や、翌年7月にしつらえた長野県下高井郡上林温泉の別荘「養神山房」などを見ると、そのような風聞にも首肯できます。

栖鳳と広業は西と東に分かれて活動していたので交流の足跡は多く残されていませんが、当館にはこのほか栖鳳が「獅子」を、広業が「文殊」を描いた双幅《獅子文殊図》も残されていて、関係の一端を垣間見ることができます。

獅子文殊図 栖鳳 獅子 umam獅子文殊図 広業 獅子 umam 2

これらの作品は、本年3月17日のリニューアルオープン展覧会『香水瓶の至宝~祈りとメッセージ~』の開催時に、このたび新設した竹内栖鳳専用の展示室で同時開催『知られざる竹内栖鳳 -初公開作品を中心に-』に出品いたします。いずれの作品も初公開となる記念すべき展覧会です。東西人気作家の交流の証をご覧ください。

※1中川忠順『東京毎日新聞』1910(明治43)年10月24日
※2斎田素州「栖鳳、広業の合作 24年ぶりに此程完成す」『塔影』8巻6号1932年)

さち

青木隆幸

歌川広重 東海道五十三次封筒

歌川広重の浮世絵の連作『東海道五十三次』は、制作当時からとても人気があり、世界的に有名ないわゆる保永堂版をはじめとして、たくさんのシリーズが作られました。その種類は30種類を超え、中にはいまだに全容が確認できない『東海道五十三次』もあります。三井高陽氏が「広重の絵封筒」(『浮世絵芸術』27号、1970年11月)のなかで、五十三次揃っていたかどうかわかりませんが、と断りつつ示された「五十三次 吉原」封筒もその一つでした。

三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月
「五十三次 吉原」
三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月より転載

当館に、歌川広重の東海道五十三次の封筒の貼交ぜ帖が所蔵されていて、この中に、三井高陽氏が示された「五十三次 吉原」が含まれていました。

貼交ぜ帖に添付されている封筒は順に次の通りです。(文末画像参照)

東海道五十三次封筒           一立齋 廣重筆
日本橋
品川
川崎
神奈川
程か谷
戸塚
藤澤
五十三次 封筒  立斎筆
平塚
大礒
小田原
箱根
三嶋
沼津

東海道五十三次 続画封筒 一立斎中はし□ぐ 丸喜軒□
吉原
蒲原
中居
興津
江尻
府中
鞠子
五十三次封筒 立斎筆
岡部
藤枝
嶋田
金谷
日阪
懸川
袋井
五十三次 封筒 立斎筆
見付
浜松
舞阪
荒井
白須賀
二川
吉田
五十三次続画封筒 廣重筆
御油
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒
鳴海

桑名
四日市
石薬師
庄野
立斎筆 五十三次封筒 東海道
亀山

坂の下
土山
石部
水口
草津
大津

淀川

これで広重の東海道五十三次封筒の全容が明らかになったかと期待したのですが、東海道を描いた封筒が、はじめ7枚ずつなのに、最後は11枚、10枚と添付されていることや、水口宿、石部宿の順序が逆になっていることが気になります。この貼交ぜ帖は発行された当時の状況を正しく反映していない可能性があることを慎重に考慮しなくてはならないようです。

しかし、揃っているのかわからないとされていた歌川広重の東海道五十三次封筒について、いろいろなことが明らかになりました。東海道五十三次の封筒は間違いなく発行されていたという事実。表題と広重の落款が入った封筒を入れるための包みと思われるものが少なくとも7種類はあること。その包みの1枚に丸喜軒と記されていること。各地の名産名勝を縦長の画面に配していること。色彩を淡くおさえ、中央には宛名を書くための空間を配慮するほか、随所に封筒ならではの工夫を凝らしたデザインになっていること。そして落款の書体から制作が広重晩年の1853年頃と推定されることなどです。

以上のことから、歌川広重の東海道五十三次封筒は、1853年頃、丸喜軒という版元で、東海道の53宿と起点の日本橋、終点の京、そして淀川を加えた56枚が企画され、8枚セットにして7回(※1)に分けて順次販売、あるいは配布された(※2)のではないかと考えてみました。

さち

青木隆幸

※1 ほかに封筒の包みがもう一つ存在していた場合は7枚セットにして8回になる
※2 先の「広重の絵封筒」のなかで、筆者の先祖の話として、財閥の三井家では昔、東京は榛原(はいばら)、京都は金光堂(きんかどう)というところで封筒を特別に誂えたことが記されており、私製の配布物の可能性を排除できない

 

海の見える杜美術館蔵 歌川広重 東海道五十三次封筒
歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (1) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (2) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (3) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (4) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (5) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (6) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (7) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (8) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (9) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (10) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (11) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (12) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (13) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (14) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (15) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (16) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (17) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (18)

二条城行幸図 (洛中洛外図) 屏風


二条城行幸図 屏風 右隻 UMAM右隻

二条城行幸図 屏風 左隻 UMAM左隻

寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸が描かれた、金色にきらめく豪華な屏風です。

屏風全体には、京都の町並みと周りの風景が描かれています。そしてその中段に一直線、左側の屏風には、二条城を出て後水尾天皇を迎えに御所をたずねる三代将軍家光の一行が、
二条城行幸図 屏風 左隻2

右側の屏風には、御所を出て二条城に向かう後水尾天皇一行が、二条城行幸図 屏風 右隻2 UMAM

見物する群衆や沿道警備の武士も一緒に臨場感豊かに描かれています。
二条城行幸図 屏風 左隻3 UMAM

おそらくこの屏風のどこかに登場していると思われる人物、土御門 泰重(つちみかど やすしげ)の日記に当時の様子を見てみましょう。

9月4日 晴れ 行幸の用意。身に付けるものや道具を点検した。今日太刀がとどいた。樋螺鈿蒔絵梨地(ひらでんまきえなしじ)だ。

9月5日 晴れ 中山元親(なかやまもとちか)のところへ行って場所を借りてきた。行幸を見物する人たちのためだ。夜になって雨が降り始めた。深夜には大雨になった。明日の行幸はどうなるのだろう。用意は大体終わった。夜12時頃就寝。20170601二条城行幸図 屏風 右隻3

9月6日 日の出前まで大雨だったが、晴れてよかった。先発隊が出た。その後に中宮(天皇の妃)が出発した。将軍が迎えに参内した。鳳輦(天皇が乗る駕籠)を紫宸殿の庇によせ、鳳輦にお移りになられた。華やかなる行幸、民衆が群れをなした。(適宜抜粋して現代語に訳した)
二条城行幸図 屏風 右隻4

実在の人物の日記を読んであらためて絵を眺めると、絵空事のようだった屏風絵が、記録映像のように現実感を伴って見えてきます。

この日の高揚した様子を再現するのに、画家が苦心したのは京都の市街や名所、1300人以上の人々を描き込む労力だけではありません。左側の屏風は堀川沿いを北に向かう行列を、
二条城行幸図 屏風 左隻4 UMAM

右側の屏風は堀川へ向けて西に向かう行列を描いていて、二条城行幸図 屏風 右隻5 UMAM

左右の屏風を直角になるように並べると、堀川の橋で曲がる列が立体的に正しく再現されるように工夫されているのです。二条城行幸図 屏風 一双

徳川家康が戦国時代に区切りを告げた後、二代将軍秀忠は娘の和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ、天皇家と姻戚関係になります。その後将軍職を家光に譲り穏便に世代交代を済ませ、次に天皇を徳川の城、二条城に招いて歓待したのです。天皇家と徳川家の和平を決定的に内外に示したこの二条城行幸によって、完全に戦国の世に終わりを告げることができたのかもしれません。そのような観点からは、この屏風はとても記念碑的な作品として輝いていますし、また、この屏風は藤堂家伝来と言われていて、徳川和子入内の立て役者であり、後水尾天皇を迎えるための二条城改修工事の基本設計を担当した藤堂高虎との関係性にも興味がつきません。

なお この原稿は当館の季刊誌『プロムナード』Vol.22 2017年夏号に掲載されています

さち

青木隆幸

蘇州版画 西洋劇場図

2016年11月1日から12月10日まで、中国江蘇省蘇州市の蘇州美術館で開催された「蘇州桃花塢木版年画特展」に《西洋劇場図》が出品されていました。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)

西洋劇場図 『支那古版画図録』美術研究所編 美術懇話会 1932年 図27

その昔、黒田源次氏、岡田伊三次郎氏らが協力して収集し、そして矢代幸雄氏らの尽力を経て、現在の東京文化財研究所の前身、美術研究所の開所記念展覧会「故岡田伊三次郎氏蒐集支那版画(姑蘇板)陳列」(1931(昭和6)年11月1~3日)で展観された作品です。1932(昭和7)年3月に刊行された美術研究所編輯美術研究資料第一輯 支那古版画図録 図版27番に掲載されています。

この書籍はコロタイプ印刷なので、近頃よく見る印刷のような網点がなく、とても細かいところまで良く見えます。ですからルーペを使って何度も何度もそれこそ穴が開くほど繰り返し見てきました。なぜなら、西洋の遠近法、陰影法が建築物などをはじめ、ここまで正確に用いられている、そしてなにより人物の顔、肉体などが西洋人そのものに表現されている、現段階では唯一無二ともいえる作品だからです。また、中国人が西洋的な版画を制作したときに賛に記すことが多い「倣西洋画筆法」などと書かれていないことを併せて考えたときに、これまで論じられることのなかった、西洋人が蘇州版画の作画に直接かかわった可能性をも感じさせられる作品だったからです。(『支那古版画図録』では「ヴェネチア派の劇プルチネラに関する書籍の挿絵を模したもの」と指摘している)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(2)建築

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(4)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(3)

この作品以降、中国風に変化した数々の作品が生み出されていきます。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)20161221中国版画 阿房宮図UMAM (1)
西洋劇場図        阿房宮図(海の見える杜美術館蔵)

《西洋劇場図》は現在、縁あって遼寧省博物館の所蔵品となっています。歴史に埋もれていた作品が公開されて、本当に良かったと思います。

なお、コレクター岡田伊三次郎氏について、あまり知られていませんが、氏の中国版画収集の経緯などが、三隅貞吉「岡田伊三次郎さんを偲ぶ2」(『日本美術工芸』245号、1959年2月)に記録されています。そのなかで岡田氏は「私は、自分の趣味の赴くままに、あれこれと色々のものを蒐集して来たが、結局は支那の古版画を集めにこの世に出て来たようなものだった」と述懐していたことが記されています。氏の尽力に敬意を表します。

さち

青木隆幸

関連記事:中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

真田丸 大坂冬の陣図

海の見える杜美術館は、「大坂冬の陣」の布陣図を所蔵しています。

20161119大坂冬の陣図(仮称)UMAM (1)

大坂城の敷地の右下に四角く飛び出ているところに「さなたとり出」(真田砦)と書かれています。ここがあの真田丸なのでしょう。そのすぐ下には、「将軍様」と書かれ四角く囲まれた城があります。真田信繁(幸村)が徳川本隊の真正面に対峙しているのが分かります。

NHK大河ドラマ「真田丸」は冬の陣の真っただ中です。冬の陣に参加した武将たちが見たかもしれない布陣図を眺めながら、ぜひお楽しみください。

なお、《大坂冬の陣図》(仮称)は、いつ、だれが、何のために作ったのかわかっていません。
一枚刷りの冬の陣図は、ほかに《大坂城之図》(江戸東京博物館蔵)が知られていますが、比較すると、絵の感じも真田の軍勢の数も異なります。当館の《大坂冬の陣図》は冬の陣のその年に刊行された「大坂物かたり」(慶長19年(1614)成簣堂文庫蔵)の巻末に付された布陣図と、かなり似ています。

さち

青木隆幸

 

古文書は 文字を読むのが大変です

時代の流れとともに変遷する、文字の形や言葉の持つ意味。そして筆者の特徴ある書体が、文書の読解をムツカシクさせます。

特にこの書状は、私にとって難解の作品でした。展覧会『日本の書芸美 名筆へのいざない』(海の見える杜美術館 2012年)開催時に、財津永次先生(当館顧問 当時)に助けていただいて判読した、思い出の作品です。

20160910  文字を読むのが大変でした 書状 「出度已来」 武野紹鴎 UMAM
武野紹鴎(1502 – 1555)
書状 「出度已来」
16世紀【室町時代】
13.8 × 39.7

LETTER   “SHUTTAKU-IRAI…”
TAKENO Jouou
16th century,  Muromachi Period

茶道は、茶祖珠光の創めた侘び茶を紹鴎が引き継ぎ、その門下の利休が大成しました。
この書状は「菊某」に宛て、普請中の茶友に建築の進捗工合などを気遣う内容で、利休の書状にも通じる書風が見られます。

–  (無)□儀候へ共御
–  座敷きのま々
–  令□申候以上
出度已来無音申候
依御手前御作事
出来候哉無御心元候
御用之儀候者可承候
然者□銀も未出来
□れ御口切十四日に候
其元御法事にて
御上奉待候猶以
面上可申入候恐惶
謹言

菊□□   紹鴎(花押)

文化遺産オンラインにて、作品を公開しています。
そのほかの書跡もどうぞお楽しみください。

さち

青木隆幸

 

文化遺産オンラインに登録を始めました 赤松円心 (則村)

秘蔵スタッフNの協力を得て、文化遺産オンラインに、当館所蔵の作品の登録を始めました。

まずは『書』に関するものを入力したのですが、作品調査していたころを思い出しました。 当時とても興味深いと感じた作品を、ひとつご紹介いたします。

20160824 書下  宝寺僧衆中宛 元弘三年三月廿七日  「(伊)豆国」 赤松 円心 (則村) UMAM

赤松円心 (1277-1350) 書下   宝寺僧衆中宛 元弘三年三月廿七日 「(伊)豆国」 1333年【鎌倉時代】

[ ]豆国在庁高時法師一族
[ ]分之餘忝蔑如 朝威剰
[  ]震襟之間可加征伐之
旨円心依奉 勅責随西国打上
洛中之処山崎寶寺僧衆等
凝丹心致祈祷之由奉畢
可令存知之状 如件

元弘三年三月廿七日
沙弥(花押)
寶寺僧衆中

赤松円心 (則村)は、南北朝時代、武将後醍醐天皇の建武新政府に活躍ののち、足利尊氏がたに味方して赤松氏繁栄に尽くした人物です。

この書き下しは鎌倉幕府討幕、いわゆる元弘の乱の雌雄を決する重要な戦い、六波羅制圧に向かうまさにその時の物で、「北条高時を征伐する。祈祷を頼む」という内容であす。これまで円心が討幕の中心勢力と知られていましたが、本書き下しに「円心依奉 勅」とあり、円心が後醍醐天皇の命を受けて動いていることが明らかになっています。

『本物』が伝える迫力に、圧倒されたことを思い出しました。

文化遺産オンラインで、当館所蔵の作品を検索してみてください。

さち

青木隆幸

 

中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 – 1918)は晩年、肖像の背景にアジアからもたらされたと思われるモチーフを描いた独特の作品を制作しています。

・アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像(Bildnis der Adele Bloch-Bauer II 1912)
・エリザベート・バッホーヘンの肖像(Bildnis der Baroness Elisabeth Bachofen-Echt 1914-1916)
・ウォーリーの肖像 (Bildnis der Wally 1916)
・フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)
などです。

このことを知ったとき、これらの背景の図像は中国版画(*)の中に見出せるのではないかと、とても気になりました。
*日本の浮世絵のように民間に広く売り出された版画で、その歴史は浮世絵よりも古いようです。いわゆる蘇州版画もこのなかに含まれます。

例えばフリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)について、寄託先のテルアビブ美術館のウェブサイトには、絵の背景の戦闘シーンはクリムト所有の韓国の花瓶のモチーフからの引用と記されているのですが、私たちが収集している中国版画の図様にも似たモチーフを見ることができそうなのです。

《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

それでは背景に描かれたモチーフを、海の見える杜美術館所蔵の中国版画の中から探ってみましょう。この絵と同様に戦の群像を描いた作品を、時代順に見てみることにします。

まず、清代(1644-1912)はじめ頃の《薛仁貴私擺龍門陣図》や《水演図》です。
20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画 UMAM《薛仁貴私擺龍門陣図》
20160627 水演図 中国版画 蘇州版画 UMAM《水演図》

戦士が持つ盾に描かれた模様などに共通点があります。
 20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画  UMAM

しかし、クリムトの作品の右側ひげ面の男が京劇風に描かれていることに対して、この時代の中国版画には京劇風の人物が描かれない(*)ことを考えると、これらの作品が直接的なモチーフになったとはいえないようです。
*京劇は乾隆55年(1790)以降の成立といわれています。しかし京劇成立以前に行われていた地方演劇と中国版画の関係性の検証が課題として残されています

乾隆期(1736 – 1795)末ごろの作品と推定される《当陽救主》、そしてもう少しあとの時代に印刷された《李元覇鎚振四平山》《楊家将八虎闖幽州》をみてみましょう。

20160627 当陽救主 中国版画 蘇州版画 UMAM《当陽救主》双和
20160627 李元覇鎚振四平山 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》双和
20160627 楊家将八虎闖幽州 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》双和

これらの作品には、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》の背景といくつかの共通点を見出すことができます。例えば遠近感に乏しく平面的に描かれた群像表現や、ある程度様式化された姿、そして京劇風の表情や、左側白馬に騎乗している男が持つ先の丸い独特の武器(鎚)などです。

20160627 李元覇鎚振四平山(部分) 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》(部分)

これらの版画は復刻され、長い間作られ続けました。クリムト(1862 – 1918)の生きた時代にも作られ続けていたようです。

例えば「双和」が制作した《楊家将八虎闖幽州》を「呉太元」が復刻しています。
20160627 楊家将八虎闖幽州 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》呉太元

さらに時代が下って、清代後期に制作された版画を見てみましょう。
その時々の戦争が版画になり、その過程で新たな表現も生まれています。

道光8年(1828)のジハンギール(張格爾)の乱を描いた《得勝封侯》は古い様式で描かれていますが、光緒26年(1900)の義和団の乱(庚子事変)を描いた《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》では臨場感ある報道的な絵に描かれました。
20160627 得勝封侯 道光9年1829 中国版画 蘇州版画 UMAM《得勝封侯》
20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 光緒庚子孟秋1900年 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》

ここまで、清代(1644-1912)中国に制作された、戦の群像表現のある版画を、駆け足で眺めてきました。
それでは改めて、グスタフ・クリムトが描いた《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》を見てみましょう。
Fredericke Maria Beer 1916
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

清代(1644-1912)直後の1916年に制作された作品です。
フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像の後ろに、アジアの武人の群像が描かれています。その様式化された群像表現や一部見られる京劇風の表情などには、乾隆(1736–1795)末から道光(1821–1850)期に作られた中国版画に登場するモチーフとの共通性が見られるようです。
グスタフ・クリムト(1862 – 1918)が生きた時代、中国版画はヨーロッパにたくさん出回っていました。たとえば当館に一括で収集した義和団の乱(庚子事変 1900年)を描いた版画には、収集者の備考と思われる戦いの概要が、フランス語で記入されています。

20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図》(部分)

今回の観察を通じて、中国版画とヨーロッパ美術の関係性に少し興味がそそられました。

さち

青木隆幸

余談ですが、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》は、グラモラレコードのCD アレクサンダー・ツェムリンスキー、カール・ゴルトマルク、ハンス・ガル「ピアノ三重奏曲集」のジャケットに使われています。
Alexander Zemlinsky, Carl Goldmark, Hans Gal  klaviertrios
Gramola Records 2012

関連記事:蘇州版画 西洋劇場図

方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 

図書の整理をしていると、ガリ版刷りのレタリング書体が昔懐かしい、とても心惹かれる表紙が目につきました。タイトルは『方言の研究』第三号第一冊。1971年(昭和46)に新潟大学教育学部国語研究室内、新潟大学方言研究会から出版された個人論文集でした。俄然興味をそそられ、思わずページを捲ってしまいました。

20160604方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 (1)

丁寧にフィールド調査を行い、多くの言葉の事例を集め、詳細に分類検証されていました。

面白い・・・。

海の見える杜美術館が所在する広島の方言、広島弁文末の「の」のような事例が書かれていました。

和田初栄「新潟県北魚沼郡小出地方の文末詞 ―ナ行の感声文末詞について―」から、一部抜粋してみます。

20160604方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 (2)

二、ナ行の感声文末詞
(3)、「ノ(-)」

「ノ」はいろいろの文末詞と結合して用いられており、頻繁に、特色的に使われている文末詞であり、したがって意味も多様である。

1疑問の意を丁寧に表す
○ナニ ショッペーン クッタロ ノー。(どんな塩からいのを食べたんだろうね。)〈中・女→青・女〉
(中略)
2勧誘、依頼の意を丁寧に表す
○アシタ コン カ ノ(明日来ませんか。)〈中・女→青・女〉
(中略)
3感動、詠嘆を表す
(中略)
○イー ノー。(いいですねえ。)〈中・女→中・女〉
(中略)
4呼びかけの意を表す
(中略)
○ラーメン コー テー。 ノー。(ラーメン食べようよう。ねえ。)〈少・女→中・女〉
(中略)
5念を押す意を表す
○アコン ショト オンナジダ ゼ ノ。(あそこの衆と同じだね。) 〈老・女→中・女〉

「の」の使い方の分類を細かく上げた後、発音の仕方や使用方法もさらに例示して、言葉の品位の上下や、話者の間柄など細かく分析されていました。

以上は新潟県北魚沼郡小出地方の方言の研究ではありますが、冒頭に書きましたように広島でも語尾に「の」をよく聞きます。そのように思いをもちながら論文を読み進んでいると、ちゃんと記してありました。

三 おわりに
「ナ」は近畿四国の方言の特色的なものであり、「ネ」は関東系のものであるという。また「ノ」は中国地方にもいちじるしく存するらしい。

はい、「らしい」ではなく、間違いなく存しています。論文が記された1971年から45年たった今でも、中国地方の広島にはいちじるしく存しています。

言語学者の皆様の間ではきっと普通に行われている分類研究なのかもしれませんが、普段使いの何気ない言葉がこのように分析されると、改めて意識させられるものですね。今回は語尾「の」との新鮮な出会いとなり、これからも「の」を大切に意識していきたいと思いました。

さち

青木隆幸

正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正14年 奈良帝室博物館

図書の整理をしていると、縦15センチ2ミリ、横10センチ7ミリ、厚さ3ミリほどの、小さな目録が目にとまりました。
20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館-2
表紙に、「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館」と、記されています。
20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (1)
これは、正倉院の繊維工芸品が史上初めて一般公開された※1展覧会の記念すべき目録です。
いまでは毎年20万人以上の動員を記録する「正倉院展」、その第1回展「正倉院御物特別拝観」奈良国立博物館1946年(昭和21)※2をさらに21年さかのぼる、1925年(大正14)に開催されているのですね※3

1914年(大正3)に奈良帝室博物館正倉院掛が開始し、100年たった今も終わらず継続している正倉院伝来品の整理、公開事業。
この目録を目にしたとき、関係の皆様が、史料を修復、保管、研究、公開という博物館の基本的な使命※4を100年変わらず守り続け、日本人のアイデンティティーそして文化経済価値をも高めて国際競争力の原動力となっていること、また、国際的な平和の礎となる多様な文化理解の一助となっていることを感じ、あらためて畏敬の念に打たれました。

ところで、うみもり所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」には、いろいろな鉛筆の書き込みのほか、以下のように赤字で修正が記され、慶應義塾大学様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」※5では、すべて修正されています。

20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (2)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (3)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (4)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (5)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (6)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (7)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (8)(写真はすべて うみもり所蔵本)

また、うみもり所蔵本には表紙に「正倉院掛」という奈良帝室博物館の一部署の印が押され、発行年など奥付がありませんが、慶應義塾図書館様の本にはきちんと奥付がついていて、受入時の日付「大正14年5月7日」と寄贈者名「奈良帝室博物館」が記された寄贈印が残されています。そのように見てくると、慶應義塾図書館様の本は完成した本で、うみもり所蔵本は奈良帝室博物館関係者旧蔵の校正用の本という事になるようにも考えられました。

しかし、まだよくわからないことがあります。
慶應義塾図書館様の本に貼られている正誤表の箇所が、うみもり所蔵本では間違っていないこと。
慶應義塾図書館様の本もうみもり所蔵本も、正誤表自体に間違いがあります。相当慌ただしく作ったのでしょうか。
慶應義塾図書館様の本の印刷発行日が、展覧会開催初日になっています。開催初日に刷り上がったのでしょうか。
いつか誰か研究してはっきりさせてくれることを願ってやみません。

さち

青木隆幸

(1) 尾形充彦「正倉院の染織品の整理」『正倉院紀要』27号 宮内庁正倉院事務所 2005年3月
(2) 2016年の今年は10月下旬から第68回「正倉院展」が開催予定
(3) ウィキペディアの「正倉院」項、8正倉院展、には「染織品の展覧は、1924年(大正13年)4月に奈良帝室博物館で大規模な展示があり」とあるが「1925年(大正14年)」の誤りか
(4) 「正倉院御物棚別目録」帝室博物館1925年10月26日(国立国会図書館蔵) 凡例に「一 本目録は宝庫拝観者のために、大正13年11月現在をもって、各棚、箱、棚外に別ち、御物の品目を列記す。」と記されている
(5) 慶應義塾図書館様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」がgoogle booksで公開されている