岡本東洋と竹内栖鳳  ― 写真の裏に記された撮影データ ―

岡本東洋(1891‐1969)は、昭和のはじめごろ京都を中心に活動した写真家で、横山大観や川合玉堂など数多くの画家に作画用の資料として写真を提供したことが知られています。(参考文献1)
竹内栖鳳とは、写真家として独立したかなり早い時期から栖鳳がこの世を去る直前まで間断なく交流が続いています。

竹内栖鳳は無類の調査好きで、描く対象は自らの目で観察するだけではなく、写真も駆使してその姿を細部まで把握しようとします。写真記録を依頼する岡本東洋へも、自らがスケッチを行うのと同じように、執拗な撮影、そして取材した日時や場所など撮影データの控えを求めていました。

ここに、竹内栖鳳家伝来の写真史料より、日頃紹介されることのない、写真を封入している袋や、写真の裏側を紹介いたします。撮影者、撮影場所、撮影日時が記録されていることをご確認ください。

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (2)

岡本東洋撮影 冨士五景の中の一枚       海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (3)

同写真の裏に書かれた撮影場所と日時        海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (1)

同写真が入っていた封筒                  海の見える杜美術館蔵

 

多くの画家の資料は散逸し、今となっては岡本東洋と画家との関係をはっきりと確認できるのは当館の収蔵する竹内栖鳳関係資料だけと言われています(参考文献2)。

参考文献
1、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012
2、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012、頁106

付記
当館所蔵の竹内栖鳳関係資料の多くは『資料集 竹内栖鳳のすべてVol.1~3』(王舍城美術寳物館、1987~89)、『館蔵選』(王舍城美術寳物館、1991)に掲載されています。(王舍城美術寳物館は当館の旧称です)

さち

青木隆幸

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栖鳳、歌舞伎役者になる!!

竹内栖鳳夫妻のコスプレ画像が残されています。

栖鳳は、ただ着替えて遊んだのではなく、役になり切ることが作画のヒントになるはずだからやってみようと思い立った、というのですが、いかがでしょうか。コスプレをした時の状況が京都日出新聞に掲載されていますので、その記事に写真をさし込んで紹介いたします。また、この写真を目にした田中日佐夫(1932 – 2009)氏の見解もあわせて紹介いたします。

 

栖鳳さんはこれまで「紙治」を二度ばかり描いたことがあったそうだ。しかしどうも自分の気に入った製作が出来ない。いっそ成駒屋(中村鴈治郎)がやるようにすっかり扮装をしたら紙治の気分になれるかもしれない。その気分が味わい得たら必ず会心の作物が出来なければならぬ、とかねがね一度は自分自身が紙治の扮装をして、あの近松の戯曲のように、はた成駒屋の舞台のような甘い、柔らかい、そして悲しく艶々しい雰囲気へ自分自身を心ゆくばかりひたしてみたいと期していたそうであった。今度の顔見世に成駒屋に逢うて、今年こそぜひとも実現させたいというから脂はすっかりのってしまい、それは面白いとここに相談は一決して22日にいよいよ栖鳳丈の初舞台と本決まりになったわけである。本宅の方では来訪の人が絶えないから、まだ披露はしてないが嵯峨の別荘霞中庵でコッソリと一日を思う存分面白く遊ぼうの計画、もとより粋画伯のこととて嫌がる奥さんをまあまあ一期の思い出にこそと、役を収めてしまう。「恥かしうて出来ませんと申しましたがどうあってもやれと言われましたのでとうとうこんなことになってしまいました」ときまり悪げの嬌態は一層若く美しくみられる。さあこう決まれば同じ事なら一役では物足りない。治兵衛と重次郎との栖鳳さんの注文、奥さんは申すまでもない小春と初菊、それも月並みの衣裳やかつらでは気に入らぬ。成駒屋のをそのまま使いたいとあって俄かに番頭の喜助ドンが大阪へ走って万端残らず取り揃えて帰るとかつらを合わすやら身に合して衣裳の縫い直し、おかげで成駒屋の床山と衣裳方は前晩は一睡もできない。当日は朝寝を以てなる成駒屋もここにレコードを破って8時に起きる。9時過ぎには福助と自動車で嵯峨野の別荘へ乗り込むという破天荒、お昼頃からそろそろ扮装にかかる。栖鳳さんの顔は成駒屋がつくる。奥さんの方は福助が、承って箱登羅が万事世話役

 

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かつらの髪を結い上げる竹内栖鳳と、わきに控える中村雁治郎 海の見える杜美術館蔵

という格で、床山や衣裳方は「えらい騒動だす」とあまりの大がかりな仕組みにたまげている。かつらから衣裳まで成駒屋のを身に合わせて直したもので出来上がるといつもの栖鳳さんではなくてやはり紙屋の治兵衛さんらしい。

 

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-06-028-01

竹内栖鳳扮する「紙屋治兵衛」 海の見える杜美術館蔵

 

「頭は合したときは痛かったが今日は痛い事ありまへん、顔は少々引っ張ります」と含み綿をして言いにくそうだ。しばらくする と奥様の小春が出来た。かつら付きの良いお顔でまったくもってお美しい事だ。「先生、奥さんに惚れたらいきまへんぜ」と成駒屋がからかう。栖鳳さん嫌がって奥さんを見てニタリ。「今向うの煮売屋で・・・・・」と揚幕を見た形、「河庄方」と舞台を見やった形、奥さんはまず立見とあってバックの前へ立ったが「ちょっと褄の取りようを教えておくれやす」と愛嬌をまく、

 

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-06-026-01

竹内栖鳳夫人 奈美扮する「紀の国屋小春」 海の見える杜美術館蔵

すかさず箱登羅が「出たての妓衆さんだから」と半畳を入れる。いろいろの型で一人一人の撮影がすむと、今度ははなれの茅屋で一緒の撮影、小春の長煙管の持ちように雁治郎も福助も余程工夫したがどうも気に入らぬ。座布団へかけておいてみたがまだ情景が調わない。とうとう横にして前へおくことになるとその次は尼ケ崎となる。準備のあいだ成駒屋の妻女お仙さん、梅玉夫婦、魁車、芝雀、長三郎、梅玉老の孫の牧治郎も加わって自動車で乗り込む。これより先に世話方格の先斗町山愛の女将をはじめ祇甲の美濃今からはおしげ、静子、染松等が繰込んでいることとてにわかに賑やかになる。重次郎は裃と鎧両方だ。「私は今度かつらを手に取って見ましたがなかなか美術的にできているのに感心しました。しかし舞台と違って、こうしてみると生え際が不自然ですな」前髪姿の栖鳳さんの声は莫迦に優しい。小春の時にしとやかに艶であった奥さんは初菊に至っていよいよ本役でゆかしい御姫様ぶりである。

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-06-029-01

竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

成駒屋のお仙さんがつくづくと眺めつつ「私も一ぺんこんなことして貰いとうおますな」とかたわらに立っている雁治郎に言う。御大黙って笑うていると芝雀が「違いないこうして写すとよろしな」とお仙さんのかたわらへ行って握り拳を頭の上へやって叩く真似をする。魁車や福助が賛成して大笑い。彩管とっては思うがままに描き出されるほどの栖鳳さんだけに、素人とはいいながら一度成駒屋が格好をしてみせるとすぐにお手本通りのスタイルが出来上がる、奥さんとてもなかなか器用なものでめっぽう形がよい。むしろ画伯以上のお手際であるのにはいずれも驚かされた。

 

20140804 栖鳳、歌舞伎役者になる!! 1985-045-04-51-002-001-2

竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

お仙さんや高砂家のお君さんは「私どもが扮装するのはいつでもできる仕事ですが、奥さんなどはホンマに一生一代どすな」と女は女連れ、話は弾む。「実は写真は皆さんがお越しになるまでに写してしまうつもりどしたが、時間が取れてえらいところを見られました。芝雀さんやらこんな姿をおめにかけるのはほんとに恥ずかしおすわ」と本役の京家を見やる。「イエどういたしまして、この肩から帯へかけてのやわらかみはどうしてもご婦人でないといけまへん。私どもはいくら気をつけてもやはりあきまへん」と魁車を見返る。

「ほんとに肩から胸、帯際へかけての線は女形ではとても駄目だす。さっき何ともなしに庭の飛び石の上に立ってござるのを横から拝見してつくづくやわらかい格好に感心してました。昔の女形やないと今のではあきまへんな」と芝雀へ渡す。「今の役者は何でもやりますさかい、自然あかんことになりますな」とはしなくも女形論というような話に実が入る。こんな風に別荘の一日はまことに賑やかに暮れて写真撮影の終わったのは6時ころであった。

「粋画伯の年忘」『京都日出新聞』、日出新聞社、大正5年12月24日
(平野重光編『栖鳳芸談』京都新聞社、1994年、頁327 – 330に再録)
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

 

 

栖鳳が歌舞伎の役どころに扮して写真をとり、それを大小いろいろに焼きつけたものを、今も方々で見る。そういうところから考えると、栖鳳自身相当の変身願望があった人なのではないかなどと思わざるをえないのだが、それはともかく、栖鳳という近代画人がいろいろな歌舞音曲のたぐいに親しみ、人並み以上にそれに打ち込んでいたことは、近代芸能誌の問題としても興味深い事であろう。そのことが栖鳳の絵画創造の上にどのように作用していたかということを論じることは至難きわまることであるが、もしかしたら、天才栖鳳の、激情を秘めてともすればバランスをくずしそうになる人格や意識の流れは、この遊芸などによってあやうくバランスをとりながら、ゆたかに余裕のある心の世界を保っていたのかもしれないともわたしは思うのである。

田中日佐夫『竹内栖鳳』、岩波書店、1988年、頁288

さち

青木隆幸

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中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
初代中村雁治郎(1860-1935、成駒屋)は、地方回りの下積みから花形役者に上りつめた歌舞伎役者で「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と戯れ唄になるほど、その人気は大変なものでした。

芸に対する姿勢は貪欲で、絶えず研究を怠らず、酒が飲めない鴈治郎が酒乱の役を務めることになったときは、酒好きの役者を自宅に招いて酒をたらふくふるまって、大暴れするさまを観察し、その姿を舞台で再現して喝采を浴びた有名な逸話も残っています。

芸の道に真摯に取り組む姿勢や、社会を巻き込む人気ぶりは、竹内栖鳳ととてもよく似ています。異なる世界で生きる二人が気のおけない付き合いをしていたのは、きっと心の奥深くまで通じ合うものがあったからではないでしょうか。

ここでは、雁治郎と栖鳳がたびたび繰り広げた大宴会に関する記録に、当館所蔵の写真を添えてその交流ぶりを感じていただきたいと思います。飾りつけに工夫を凝らした会場で、栖軍・雁軍に分かれて様々なゲームを行い、豪華賞品があたる大掛かりな遊びです。「代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」など、盛り上げるための様々な仕掛けもありました。

それでは、二人の粋な遊びっぷりをご覧ください。

 

(栖鳳が語る大宴会の思い出)

話は期せずして顔見世興行に入り、今は昔、栖鳳君の御池の画室で、興行後の余興が例年行われたことに及ぶ。(竹内栖鳳)君は言う。
そのころ、成駒屋は顔見世に出演すべく汽車に乗ると、まず胸を打つのは、当の興行よりは御池の余興には、何を演じようか、何か変わった趣向もがな、とその事にばかり思いふけったそうで、それほど、この余興には力を入れてくれました。
ある時のこと、二十四孝の狐火の所作を、人形で見せてくれましたが、なかなか堂に入ったものでした。それは雁治郎が役者になる前、はじめは人形使いになろうと稽古したことがあるそうで、あのくらいの人になると、何をしてもソツはありませぬ。
また、ある時幸四郎が「汐汲み」を舞ってくれましたが、これも見事でした。その外、様々の俳優が思い思いの趣向を凝らして余興をしてくれましたので、この会合は年一年盛んになり、窓から外へ桟敷までして、大入満員、それでも入りきれぬほどの盛会でしたが、何分にも電気がゴウゴウと音を立てて鳴りだし、危険この上もなく、もし火事でも出して、近所合壁へご迷惑をかけるようなことになってはと心配して、四・五年前から、フッツリやめました。(掲載文献1)

 

(栖鳳の弟子が語る大宴会の思い出)

山本(紅雲) 素人顔見世をやっていましたな。先生の一番広い画室で、顔見世興行が終わった翌日に、大阪の中村雁治郎さんの一党だけ呼んでみんな芝居するんです。長いこと続けてやっていましたな。
池田(遙邨) ええ。魁車優がお夏狂乱を踊ったのですが、あの目が醒めるような派手な舞台衣装はいまでも目に浮かぶようです。
山本 芝居が終わったあとの余興に、おもりをつけた風船をうちわであおいで飛ばして、鳥居をくぐらせ、景品の名をしるした紙に風船が落ちた人には栖鳳先生の絵があたるというお遊びもあったのです。(写真1)
池田 扇子を投げる『投扇遊び』もやりましたな。栖鳳先生はそういう遊びが好きでしたね。(写真2)   (掲載文献2)

 

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (7)
写真1 大正(1912‐1926)前期
風船を煽いで鳥居をくぐらせて、商品を当てるゲーム。

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
写真2 第1回大会、明治36年(1903)頃
投扇興(とうせんきょう) 台にたてられた的に向かって扇を投げて、倒れた形で得点を競う。

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)-2
写真2(部分)
竹内栖鳳のドヤ顔

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)-3
写真2(部分)
柱にかかる、余興のルール
「・・・・・
一、競技中は座席を立去るべからず
一、栖軍競技に優勝し商品受領の場合、若し雁軍の代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (3)
写真3 大正(1912‐1926)前期
だるま競争

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写真4 大正(1912‐1926)後期
パチンコゲーム

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (2)
写真5 第1回大会、明治36年(1903)頃
ゲーム大会後の集合写真

掲載文献1
・「歳晩閑談(二) 竹内栖鳳画伯と語る」、『京都日出新聞』所収、日出新聞社、昭和4年12月20日
・平野重光編『栖鳳芸談』、京都新聞社、1994年、第9章「竹内栖鳳/芸事に遊ぶ」頁331
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

掲載文献2
「美を語る9竹内栖鳳、師・竹内栖鳳の魅力とその作品、鼎談 池田遙邨(日本画家) 山本紅雲(日本画家) 田中日佐夫(美術評論家)」『アート・トップ』No.96 12・1月号所収、芸術新聞社、1986年12月1日発行 頁69

 

11月1日から開催の「竹内栖鳳」展には、竹内栖鳳と中村雁治郎一派が合作した作品を展示します。その絵を見るときには、この心温まる交流があったことを思い出してください。

さち

青木隆幸

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栖鳳 荒れ狂う海をみる

UMI115
風濤(ふうとう) 1918(大正7)年ごろ 当館蔵

重い雲に閉ざされた空の下、壁のようにそそり立つ荒波の上を、一羽の鶴が烈風にひるまず翼をひろげて飛んでいます。

画面左下部には、大きく隆起する海面が垣間見せる深い青、わずかな陽光に透かされて輝く波の緑、そして波に巻き上げられる海砂を表す金を、うねる動きそのままにダイナミックな筆遣いで描き、そこに真っ白な絵具を散らして、そのもっとも印象的な瞬間を劇的にとどめています。一方、画面右半部に目を向けると、中央から放射線状に広がる波頂が崩れ落ちながら、この絵と対峙する鑑賞者の眼前へと迫り、まるでアニメーション映画が1コマずつそのすがたを変えていくような躍動感に満ちあふれています。部分的には意味を持たない色とかたちが、全体を通して見ると、ひとつの画面の中に静と動がせめぎ合い、またたく間にその姿を変える荒海を表現するのに欠くことのできない要素へと変貌しています。

このような、抽象的ともいえる細部描写を圧倒的なリアリズムへと昇華させる表現は、対象の本質をつかむため、飽くことなく観察し続けた者しか達成し得ない境地ではないでしょうか。栖鳳はことあるごとに観察を繰り返したはずです。

この作品を制作した13年ほど後の話ですが、竹内栖鳳が荒波を観察したときの逸話が残されています。

「(1931(昭和6)年ごろの)冬、沼津の海岸に四五日滞在していると、急に大しけが始まって、海岸はごうごうと怒涛が巻き崩れた。すると先生(栖鳳)はその怒涛を見るという。見ると言ったって、老人には無理な芸当で、念のため筆者(栖鳳の長男竹内逸)は海岸へ出てみたが、風は強く、寒さは激しく、砂は散り、しぶきが飛ぶ。だがどうしても父は海岸へ出るという。仕方ないから、父の体にドテラを着せ、頭から耳へずぼりと帽子をかぶせ、眼には水中眼鏡をかけ、口と鼻とは日本手拭で巻き、さらに合羽をどっさり買ってきて、頭から腰のあたりまで包み、それを両腕もろとも帯やひもでからめ上げてしまった。まあ案山子かミイラのような姿で、それを筆者と女中との二人で海岸へ押し出していった。だが困ったことには、あまりの強風で、老人は後ろへ倒れそうになる。そこで二人は支柱のように後ろから肩と腰とを押している。そうなればむしろ老人は平気だが、二人は防寒も防水も防砂もやっていない。しかもそれが10分か15分なら我慢するが、30分以上もじっと逆巻く怒涛を見ている・・・」

(竹内逸「湯河原対話」『栖鳳閑話』所収、改造社、1936年、頁63〜64。転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。)

 

「風濤(ふうとう)」は、11月1日から開催の『生誕150年記念 竹内栖鳳』展に出品いたします。

さち

青木隆幸

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新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

1933(昭和8)年5月、新渡戸稲造が京都に竹内栖鳳と佐伯理一郎を訪ね、瓢亭で会食した時の記念写真です。

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (7)後方左から佐伯、新渡戸、栖鳳

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

この3人はとても仲が良く、特に新渡戸は、著書で竹内栖鳳について章を割いて思い出を語っているほどです。-参考資料①

この写真について、会食を企画した新渡戸稲造の当時の状況から考えてみます。
1932(昭和7)年2月4日、講演先の四国松山で「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言したことが日本中で非難され、その2か月後に満州事変を起こした日本の国際社会孤立を防ぐためアメリカにわたって日本の立場を訴えるものの理解を得られず、翌1933年(昭和8年)3月27日、ついに日本は国際連盟脱退を表明。この写真はその2か月後の失意のどん底のなかで栖鳳を訪ね、いろいろな相談をしたときに撮影されたものです。-参考資料②

新渡戸は同年10月15日、日本代表団団長として出席した、カナダで開かれた太平洋問題調査会議を終えた直後にその地で帰らぬ人となりました。本能的に自分の余命を感じて長年交流を温めてきた京都の友を訪問し、この世の記念に写真に納まったのではないかと思えてなりません。

これらの写真は京都市丸太町寺町のサン写真館に依頼して作成されました。記念としてそれぞれの手元へ配られたようです。-参考資料③

以下 当館所蔵写真帳2点

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (4)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (5)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (6)

 

 

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (1)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (2)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (3)

 

参考資料

①新渡戸稲造著『偉人群像』(実業之日本社, 1931)頁363~ 文字は適宜当用漢字にあらためた。

第31章  竹内栖鳳画伯  神韻縹渺たる画人

明治40年ごろであった。わが輩が高等学校に奉職しているころ、毎日昼食を職員と共にする間、雑多な問題が話題に上がった中、最もしばしば話題となったのは絵画のことであった。

教授の中にはその道に通じた人が多かったのと、また解らぬ者さえ名画をほしい一念から、絵と画家がしばしば論ぜられた。

わが輩は絵画も解らず、また美術家の中には、殆ど知己なるものが皆無であったため、何事も事珍しく聞いておったが、ある日2,3人のいうことに、画家中ではおそらく人物としては、栖鳳の上に位するものがなかろう、と、この一言がわが輩の耳に異様に響いた。

何故なれば田舎武士に生まれたわが輩には、殊に生家では父親は美術に趣味もあったが、寧ろ実務の方に興味があって、祖父は殆どヤンキー的(ママ)な実際家であり、そのまた親たる曾祖父は軍学者であった関係上、絵画などは単なる慰み物で、これを商売にする絵描きの如きは、人物としては、コンマ以下の如く思い倣しておった。

しかしのみならず、美術家と称する人の風采を見ても、だらしなく締りなき態度であったから、栖鳳氏が高潔なる士であるとの言葉を聞いて急に日本絵画に注意を払う気分になった。展覧会でもあれば、従来全然怠っている審美的観賞を発揚せんとの心がけさえ起った。

その後数年ならずして京都に滞在中、友人の佐伯理一郎氏に竹内栖鳳という人は、京都の画家だそうだが、画家に似合わない人物と聞いたが「君知っているか」と、尋ねた所、同氏は殆ど極端なる言葉をつらねて栖鳳氏の技術と、人格を賞め讃えた。

その翌日であったと思うが、佐伯君が同伴して栖鳳氏を訪れた。一見して同氏の非凡なることを認めることが出来る。その非凡とは芸術に関することではなく(この点はわが輩にはわからぬから)、彼の容貌り(ママ)物のいい方、風采、すべて彼の性質を現す事柄がわが輩に異様な印象を与えた。

彼の言の如き頗る謙遜で、京都式に穏やかにしかも内容のある一言一句にさすが、名人の名を博するだけある。

 

②柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり』((株)銀の鈴社, 2012)頁208

「これから日本を、美術と文学を通じて外国に紹介しなければならない。そのためには、竹内画伯に聞いておかねばならないことがたくさんある」と何度も繰り返し、3人での会食を楽しみました。もしかしたら、政治的な交渉にすでに限界を感じ、日本の文化を通じて、日本の真価を世界に認めてもらおうと考えていたのかもしれません。

 

③左から佐伯、新渡戸、竹内の写真は、同志社大学同志社社史資料センターにも保存されていることが『新渡戸稲造ものがたり』に紹介されています。

さち

青木隆幸

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一生一硯

竹内栖鳳が生涯を通じて大切に使っていた硯です。 20140621一生一硯 (8)

栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。

20140621一生一硯 (1)

「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。   以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (12) 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (10)「一生一硯」掲載ページ   20140621一生一硯 (7) 「竹内栖鳳遺作展覧会目録」20140621一生一硯 (6)「竹内家出品」硯の部分   一生一硯収納箱 20140621一生一硯 (9) 「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」

この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。   以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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竹内禎子独唱会

当館の所蔵する竹内栖鳳資料の中の一枚です。
舞台左袖に「ソプラノ独唱 竹内・・・」の文字をかろうじて読む事が出来ました。

20140618竹内禎子独唱会

竹内栖鳳の家系で声楽にかかわる人物に、栖鳳の長男、逸三の妻「竹内禎子」がいます。

日本の洋楽、特に京都における声楽にとって重要な人物です。同志社女子大学ホームページや京都混声合唱団ホームページでその活動の一部を確認する事が出来ます。

「竹内禎子」の舞台で「独唱」と名の付く催事は、1930年(昭和5)11月10日または19日に京都市公会堂(岡崎公会堂)で行われた「竹内禎子夫人帰朝独唱会」が確認されましたので、この写真はその時のものの可能性があるのですが、当時の京都市公会堂の舞台写真との照合など基本調査がまだ終わっていないので確定ではありません。

ところで、京都混声合唱団のホームページには、1925(大正14)年に産声をあげた創立時の中心メンバーは「稲畑登美子、吉田恒三、柳兼子、近藤義次、竹内禎子、上村いさを(けい)、加藤榮(千恵)ほか」とあります。
稲畑登美子女史は、1877年(明治10)にフランスのリヨンに留学した稲畑産業株式会社創業者、稲畑勝太郎の妻です。竹内栖鳳が1900年(明治33)にリヨンに立ち寄るに際して交信はなかったのでしょうか。

その京都混声合唱団を後援する「京都音楽協会」顧問には、竹内栖鳳と山元春挙が名前を連ねていますが、京都の音楽界にどのようなかかわりを持っていたのでしょうか。

この一枚の写真が、いろいろなことに示唆を与えてくれました。

 

調査の過程で得た文献を1つ紹介します。
⦅ ⦆はさちによる注です。

「京都音楽史」編纂主任 吉田恒三 発行所 京都音楽協会  昭和17年6月28日発行

⦅p315~⦆
昭和3年 京都混声合唱団発表会に対する後援

この合唱団ははじめ同声会京都支部の会員が創意成立したもので柳兼子、竹内禎子など熱心なる支持者であった、その後会員も次第に多くなった、第一回の発表は昭和2年11月19日同志社チャペルであったのでこれは第二回で、本会(京都音楽協会)はこれを講演したのである。

曲目
1、       カヴァレリア ルスティカナ開幕の合唱       マスカニ作
2、 (イ)       逝ける女                                          ベンネケ
(ロ)  夜                                                     シューベルト
3、 (イ)       送別の歌                                          信時 潔
(ロ)  母の心                                              ブルッフ
4、 (イ)  帰雁                                                 ハウプトマン
(ロ)  鶯                                                     メンデルスゾーン
5、ドンファン                                                            モーツァルト
(二重唱  近藤義次 竹内禎子)
6、山の乙女の踊り(イゴル公より)                         ボロディン作
7、森の讃歌                                                               ブルッフ作
8、真の幸福への讃歌                                                 ヘンデル作
(二重唱  竹内禎子 柳兼子)
9、主よ御恵を 栄光神にあれ(第12彌撒⦅ミサ⦆)曲)           モーツァルト

⦅p334~⦆
竹内禎子夫人帰朝独唱会 11月19日⦅ママ⦆於市公会堂
同夫人はさきに夫君逸三氏と共に欧米に遊び永くフランスに滞留声楽研究を重ねてこのほど帰朝、その第一声を同志社合唱団主催のもとに発足せらるるので本会はこれを後援した、ピアノはニコルスカヤ嬢であった。

曲目
第1部
1、       独唱
イ、楽園の美しき三羽烏(民謡)                          ラヴェル
ロ、ニコレット(民謡)                                   ラヴェル
ハ、歌を唄ひし追憶                                          アーン
ニ、風景                                                            アーン
ホ、五月                                                            アーン
2、   イ、マダム・バターフライより                   プッチニ
静かなる海に
ロ、ポエムより                                            プッチニ
人は私をミミと呼ぶ

第2部
1、       ピアノ・ソロ
イ、ガボットとヴァリエーション                         ラムデュ
ロ、円舞曲 第15番                                            ブラームス
ハ、スタッカー練習曲                                          ルビンシュタイン
2、独唱
イ、何処へ                                                        シューベルト
ロ、モムースのアリア                                       バッハ
ハ、すみれ                                                        スカラッティ
3、 イ、白銀の指輪                                                 シャミナード
ロ、歌劇 ヘロデ王より                                   マスネ
サロメの嘆き

京都楽団年表⦅ページ表記なし 竹内関係抜き書き⦆
大正6年11月                   ペツォルド夫人独演会  竹内夫人助奏
Agrand Benefit Concert. Petzold
主、三一教会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正10年12月7日          ペツォルド夫人、竹内禎子夫人音楽大演奏会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正11年4月21日          ショルツ氏・竹内夫人音楽演奏会
市公会堂

大正14年5月24日          ウエラ・オース嬢 竹内禎子夫人演奏会
鯖戸英郎氏 主、音楽同志会
市公会堂

大正15年6月4日            オルガン独奏会 竹内禎子女史助演
同志社

大正15年6月19日          セリスト・ストゥーピン氏演奏会 竹内禎子氏助演
市公会堂

昭和5年11月10日⦅ママ⦆              竹内禎子女史独唱会

⦅注意:本文と年表とで独唱会の日付が異なる⦆

さち

青木隆幸
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クライスラーと栖鳳

今秋開催の竹内栖鳳展に向けて、収蔵している竹内栖鳳関係史料の整理調査を進めています。

20140609クライスラーと栖鳳 (1)

竹内栖鳳と一緒に写っているヴァイオリンを持つ男性は、世界的ヴァイオリニストであり作曲家のフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875 – 1962)です。

クライスラーは1923年(大正12)に来日し、5月1日から20日まで、東京帝国劇場での6日間連続公演から始まり、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの2回ずつ8公演、そしてもう一度東京地区にもどって東京1回、横浜1回そして東京1回、移動も含めた20日間で合計17公演というとんでもないスケジュールで演奏旅行を行いました。しかも合間に徳川頼定侯爵、西本願寺の大谷伯爵などの錚々たるメンバーによる晩餐会も入っているのです。そのような中、京都岡崎公会堂における5月14日、16日のどちらかの演奏会の後に、竹内栖鳳邸で夜9時半から朝3時まで行われたという歓迎の宴の際に撮影された写真のようです。

上の写真の右奥にかかっている烏の掛け軸は、京都国立近代美術館所蔵の「遅日」(大正7年)と思われます。昨年、東京国立近代美術館と京都市美術館で開催された竹内栖鳳展に出品されていたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。

20140609クライスラーと栖鳳 (4)

調査の過程で得た3つの文献と余談を2つ紹介します。

なお、転載に際しては適宜当用漢字に直しました。( )内はさちによる注です。割愛箇所は・・・としました。

 

文献1 栖鳳邸での歓迎会の様子を、栖鳳の長男の竹内逸の文章より。
「栖鳳閑話」竹内逸著 昭和18年2月21日発行 改造社版  原文、大阪朝日新聞夕刊連載9編昭和11年9月稿

文献2 演奏会について、京都音楽協会の記録より。
「京都音楽史」昭和17年6月28日 京都音楽協会発行 編纂主任 吉田恒三

文献3 演奏会の記録について、フリッツ・クライスラーに直接取材して書かれた伝記より
「フリッツ・クライスラー」1975年12月20日発行 ルイス・P・ロックナー著 中村稔訳 第19章 東洋をかいまみる

 

文献1 p188~
「ところで、1923年に、名実ともに世界的楽人のクライスラーが日本へ演奏旅行に来た。そして京都での演奏会の夜、その演奏後ただちに楽器を提げたまま栖鳳を訪ねてきた。たぶんそれは9時半ごろだったろう。だからそれはクライスラーの50歳近く。栖鳳はちょうど60歳のころで、二人とも現在に比べてはるか元気であった。しかもかつてその時ほど異国人を相手として、相当内容のある談話の弾んだ(原文:機んだ)時もなかったろう。なぜなら、クライスラーが栖鳳の家を去ったのは午前3時だったし、その長時間、クライスラーが栖鳳の絵を見、栖鳳がクライスラーの演奏を聴いていた時間を除いて、ほとんど音楽や絵画について、お互いの意見を吐きあったからである。しかもクライスラーはよほど談話に身が入ったとみえ、肝心の名器を床の間へ置き忘れたまま帰ってしまった。だから10分もすると、またクライスラーは自動車で戻ってきたが、筆者が楽器を車の窓から差し入れると、「どうもありがとう。こんな失敗は生まれて初めてですよ」と、苦笑いしていた。
だが、残念ながら、筆者はその時の談話の内容をすっかり忘れてしまった。その時はよく覚えていたし、その直後手記でもしておけば、今の場合相当興味のある記録となったろうと思うが、何しろ楽人と画家とが勝手放題にしゃべる談話の通訳で、むしろその内容よりも、通訳の方に気を取られていた。
ただクライスラーは、いざ栖鳳の家を去ろうとする直前、どちらかといえば淋しい表情で、こんな風なことを言った。
「私から言わせると、画家は楽人よりはいいと思いますね。なぜかと言いますと、楽人の場合は、もしその夜すぐれた耳を持った人が聞きに来ていてくれない場合、楽人のその夜の努力は全く永久に無駄になってしまいます。しかし画家はその作品が残るのですから、たとえその生きている時代に社会から認められなくとも、将来を目標として自信のある、かつ自由な仕事ができます。
かくしてクライスラーは栖鳳の家を去ったのだが、栖鳳は台所の火鉢の前に座って、だれを目標とするわけではなく、そこに居並ぶ我々に対して、ぼんやりとこんなことを言っていた。
「なるほどな。私は今まで、自分の作品が将来も長く人目にさらされるということを忘れて仕事をしている場合が多かった。これはよく考えねばならん事だし、やはりあれだけの人になると、すべての話が本当の苦労からにじみ出てくるから偉いものや。やっぱり人間は本当に苦労をした人でなければダメかな」
しかもまたクライスラーは栖鳳に対して、こんなことを言い残している。
「このころでは私は一日に30分か1時間しか練習しません。その他の時間は心を養ったり、心で研究しています。たぶんあなたが2時間か3時間でできる作品のために、2日も3日もお考えになっている場合があるように…」

文献2 p264~
クライスラー独奏会
□大正12年5月14日、16日午後7時半
□岡崎公会堂
・・・
□当会(京都フィルハーモニー・ソサエティー)は此の至高芸術家を迎え二日にわたって大演奏会を催したが名流の家庭殆ど総動員の形で場内華やかに定刻前すでに満員になった、黒ビロードを背景に薄暗い光の下にクライスラー氏は伴奏者と共に潮のような拍手に迎えられてその姿を現した、健康そうな引き締まったあの体躯と澄み切った聡明なあの目とやや白くなった豊かな髪、ウィーンの芸術家的気稟がまず聴衆にいい感じを与えた。そして二時間にわたる演奏には幾度か嵐の如きアンコールが繰り返され千の聴衆は全くその神技に魅了された。
尚ソサエチー、音楽同好倶楽部有志者は南禅寺稲畑邸にクライスラーを迎えティーパーティーを催し広大な庭園を逍遥し写真を撮影、十分に歓を尽くした。

文献3
「(1923年)5月の最初の6日間、クライスラーは帝国劇場に連日出演した。」(p231)
「最終日の5月6日・・・終演後、徳川頼定侯爵夫妻がクライスラー夫妻の為ために晩餐会を催し、特別の来賓として久爾宮が臨席した。」(p232)
「横浜での演奏契約をすませたあと、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの二回ずつの演奏会を開いた。」(p233)
「京都にいるとき、・・・多くの画家に会い、彼らのスタジオに招かれた。彼らの中で最大の画家は栖鳳だった。彼は掛け軸に描いた自分の代表作のひとつをクライスラーに贈った。」(p235)
「クライスラー一行はもう一度東京地区にもどって、5月19日に横浜、5月18日と20日に東京で、お別れ演奏会を開いた。」(p236)

余談1 栖鳳の失敗
来日前に演奏会のため立ち寄った上海で、クライスラー夫妻はねずみにさんざんな目にあっていました。
「われわれのホテル住まいは必ずしも快適とはいえなかった。居間も食堂もねずみだらけだった。まったく不潔このうえなかった。クライスラー夫人が一番よわってしまい、せめて部屋で猫を飼わせてほしいと支配人に泣きついた・・・ホテルの人は猫を一匹連れて来てくれました。ところが半分野生の猫だったのです。夜、目をさますと、二つの眼がじっと私をにらんでいました。その猫はフリッツの胸に陣取っていたのです!」(文献3、p230)
ところがそれを知らない栖鳳は、得意のねずみの絵をクライスラーに贈ってしまったのです。
「夫妻がホテルに帰り、その(栖鳳の)贈物を広げて見て仰天した。チーズを齧っているねずみの絵ではないか。ねずみが大嫌いなハリエットはその絵をできるだけ手の届かぬ所へしまい込んでしまい、それがベルリンの家の壁に掛けられることはけっしてなかった。」(文献3、p235)

余談2 栖鳳と京都音楽界
栖鳳は、この演奏会の直後の大正12年6月、京都フィルハーモニー・ソサエティーをはじめとした諸団体を合同して設立された京都音楽協会の顧問を務めている。(文献2 、p277)

さち

青木隆幸

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松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

竹内栖鳳展へ向けて、当館で保管している膨大な史料の海をかき分けていると、松岡映丘から竹内栖鳳にあてた手紙が出てきました。
20140519松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

昭和5年(1930)にローマで行われた日本美術展の報告が書かれています。

日本美術の威信をかけて行われたこの展覧会のなかで、竹内栖鳳の作品がどのような役割を担っていたのかなど、色々なことを伝えてくれる貴重な一葉です。

なお、文中の「御作品」は竹内栖鳳の作品の事、「闘鶏」は現在「蹴合」 (大倉集古館蔵)と呼ばれている作品のことと思われます。


日本京都市御池油小路
竹内栖鳳様

益々御清康奉賀候 さて 当地に於ける展覧会は去る二十六日首相臨場のもとに盛大に開会せられ頗る好評に御座候
御作品闘鶏は第六室二間床にかけ 支那風景も招待日には特に中央室の床に陳列いたし候

四月三十日 ローマにて
松岡映丘


竹内栖鳳展へ向けて史料の整理を進めています。

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青木隆幸