ウメの花が盛りです
ブンゴ(豊後)の花が咲いています
枝をグンと天に伸ばしています
もりひこ
ウメの花が盛りです
ブンゴ(豊後)の花が咲いています
枝をグンと天に伸ばしています
もりひこ
梅林から春風が吹き抜けてきます
オウシュク(鴬宿)が咲いています
オウシュクの今年の花は 終わりをむかえようとしています
もりひこ
2月27日から、島根県立石見美術館にて、「こどもとファッション 小さな人たちへのまなざしの歴史」展が開催されています。
18世紀後半にはじまるヨーロッパのこども服の歴史、そして明治以降の日本で和装から洋装に変化していくこども服の過程を紹介する展示です。
くわしくは展覧会の特設ページで!
http://www.grandtoit.jp/museum/exhibition/special/kodomo/index.html
当時実際着られていたであろうかわいい子供服のほか、絵画や写真にあらわれるこどもの装いも見ることが出来ます。
当館の作品も2点展示されています。
《曲芸》 千種 掃雲
《椅子によれる子供》 森 守明
《曲芸》は綱渡りをする女の子のお化粧や衣装、表情も見どころですが、綱渡りを見ているお客さんの様子もとても生き生きと描かれています。《椅子によれる子供》も、服や手にしているバスケットの質感がとても真に迫っていますし、何より描かれた子のまなざしがとても印象的な素敵な絵ですよ。2点とも大好きな作品なので、是非みなさんに見ていただきたいです。
会場風景。手前のケースに入っているのは引き札でしょうか?色々なものが見られそう。(これらの写真は、島根県立石見美術館様にご提供いただきました)
私はまだお訪ねできていないのですが、是非見に行きたいな~と思っています。
4月11日までの展示でーす!
森下麻衣子
もう、あっという間に春ですね。
遊歩道の河津桜も咲き始め、たくさんの小鳥たちが
蜜を吸いにやってきていました。
なかには、お腹がまん丸 ふっくらとした子もいて
とても愛らしかったです。
河津と合わせてこれから見頃です!
本日の四枚。
メジロ
ジョウビタキ
河津桜
N.T
《港頭春色図》に関する資料があと2つあります。
ひとつは、このシリーズのブログ1で紹介した、黒田天外宛の手紙に記された、香港の風景に感銘を受けて書いた文章「香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居」です。まるでこの作品を説明しているかのようです。
もうひとつは、竹内栖鳳が収集した資料の中に保存されているこの写真です。
集合する帆船や手漕ぎのボートほか、港の日常風景を絵画作品として成立させているところが目を引きます。
栖鳳は、ヨーロッパの絵画を徹底的に研究し、新たな領域の作品に仕上げただけではなく、特定の西洋画をリスペクトしたと思われる作品もたくさんあります。例えば、渡欧中に面会したフランスの画家ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824 – 1904)が20代前半に描いた《闘鶏》(Jóvenes griegos presenciando una pelea de gallos (Museo de Orsay, París, 1846.)と、竹内栖鳳の名作《蹴合》などです。ぜひ比較してみて下さい。
栖鳳は文字に残した感興は必ずと言っていいほど実現する作家です。そして光村利藻は画家に注文を付けずに好きな絵を思う存分に描かせてくれるコレクターです。栖鳳は、利藻から後世に残す絵を12点描くように依頼を受けたとき、つねづね、西洋画に対抗する東洋画を築きたいと言っていた、その心意気がふつふつとわき上がり、これまで蓄えた東洋美術に対する深い造形、中国の港の風景を初めて直接目にした時の震えるほどの感動、帆船を描いた西洋画に触れたときのひらめき、心に秘めていたいろいろなイメージを昇華させて生まれたのがこの作品なのだろうか、などと、想像をたくましくしてしまいます。(もちろん、この《港頭春色図》が光村利藻のコレクション《泊舟の図》と同定できていませんが・・・。)
この絵には、じつに栖鳳らしい自在な工夫がいたるところにあります。パッと見たところでは船上生活を描いた単なる風俗画に見えますが、画中すべての人々に穏やかな空気を漂わせて、幸せな生活を願う中国の伝統的な画題『漁楽図』をふまえた吉祥画に仕立てています。奥の方はモノクロームに近くは色を入れて遠近感を出し、黒墨ではなくセピア色で線を引いてこれまでの日本画にはない暖かい画面にしています。大雑把に描きつつ構造やディティールの表現はじつに緻密で写実的です。密集する船に動きや静止を与えたのは、コッテ作《カマレの港》を参考にしているようです。(「表紙作品紹介」 季刊誌『プロムナード』海の見える杜美術館 2016年春号)
つづく
※
竹内栖鳳は無数の絵画資料を収集し、分類保管していた。そのうちの1枚。
台紙に張られた写真
表には印「竹内図書」
裏にはシール「No.189 絵」
写真左下に「2324 Musee Du Luxembourg Le Port de Camaret. Cottet」。リュクサンブール美術館のコッテ作《カマレの港》と記されている。写真とネット上の画像を比較する限り、現在、オルセー美術館の公式ページに所蔵品として紹介されているCharles Cottet (1865-1925)《Rayons du soir, port de Camaretde》 1892 と同一のように思える。所蔵館には未確認。
さち
青木隆幸
光村利藻(1877-1955 明治-昭和時代前期の実業家)という大コレクターをご存知でしょうか。竹内栖鳳の作品を600点以上収集していて、その中には、日本美術の中にローマの遺跡を出現させた記念碑的名作《羅馬古城図》(※1)や、当時の日本人が見たことのなかったライオンをリアルに描いて世間を大いに驚かせた《獅子図》(※2)を始め、《蕭条》(※3)、《平軍驚水禽図》(※4)など数々の名品が含まれていたことが伝記に記されています。(増尾信之『光村利藻伝』非売品 光村利之 1964)
1906年頃、光村利藻は後世に名品を残すことを目的として、竹内栖鳳に12点の作品制作を依頼し、《盛夏午後の図》、《悲愁図》、《泊舟の図》、《山桜》、《獅子の図》の5点が制作されたところで、経済的な破たんにより、計画は頓挫しました。
『光村利藻伝』242-243頁
『光村利藻伝』に記された《泊舟の図》の項を読んだ時、思わず当館所蔵の《港頭春色図》を連想しました。「上海付近の河辺の風景で、大河に碇泊している大きな船のまわりにジャンクが密集している風景で、当時の ― 清朝末期の水辺のシナ人の生活状態を描いたもの。」この説明が当館の作品と符合するのです。
そして、制作時期や寸法を確認してみると、ほぼ重なることがわかります。
《泊舟の図》
制作時期:1906年頃(伝記制作時の記憶)
寸法:縦約6尺、幅2尺5寸
《港頭春色図》
制作時期:1905年頃(署名落款から推定)
寸法:縦152.8㎝、横71.6㎝
(縦6尺、横2尺5寸と言われる栖鳳作品の実寸はこのぐらいの寸法が多い)
なにより、《港頭春色図》以外に、これらの条件(1906年頃、縦6尺、幅2尺5寸の大きさで描かれた、上海付近の河辺の風景)にあてはまる栖鳳の作品を見たことがありません。
海の見える杜美術館が所蔵する《港頭春色図》は、光村利藻が収集した《泊舟の図》なのでしょうか。作品の他の情報を見てみましょう。
《港頭春色図》を入れている箱のふたには、竹内栖鳳直筆の箱書きがあります。
作品の箱ふたの表 ふたの裏側
「港頭春色図」 「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」
「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」は、明治の庚戌の年、つまり1910年の春3月に、耕漁荘(栖鳳の家・アトリエ)にて、栖鳳が箱に題を書いたことを示しています。
この年は、奇しくも、経営に失敗した利藻が再起をかけて、小さな印刷所を立ち上げた1910年と一致します。『光村利藻伝』は、「利藻の経済的な危機を栖鳳は絵を描いて、金に替え援助したことも一再ならずあった」と言います。もしかしたら、利藻が作品を手放すときに、作品が少しでも高く売れるよう、栖鳳が箱書きを買って出て、「港頭春色図」と命名したのではないか、そんなことも考えることができます。それとも伝記に記された《泊舟の図》と海の見える杜美術館所蔵の《港頭春色図》は全く別物なのでしょうか。これらの関係をはっきりさせる資料はまだ見つかっていません。
つづく
※1 現在、海の見える杜美術館蔵 《羅馬之図》
※2 現在、この作品は未確認
※3 現在、京都国立近代美術館蔵 《蕭条》
※4 現在、東京国立博物館蔵 《富士川大勝図》
さち
青木隆幸
竹内栖鳳は、パリで開催されている万国博覧会を視察するために、1900年8月1日、神戸港から日本郵船若狭丸に乗船して渡欧しました(*)。9月17日にフランスのマルセイユ港に着くまでの約1か月半の船旅の途中、たくさんの手紙を日本の知人に送りました。
そのなかの一つ、黒田天外(京都日出新聞記者)にあてた手紙に、このようなものがあります。
拝啓 いよいよ御清栄賀し奉り候 (中略) 香港までの事は申上べき事とては無し (中略) 香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居、何事も便し居る様と来居候。洋画家小山正太郎氏も頻りに船の有様色どりなど称賛せり。(後略)
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)
その続きに、下船して歩き回った香港の様子、香港を出て2日目に遭遇した嵐のことなど書き記しています。
文末には詩を2首
(前略)
瑠璃盆に 銀象眼の浪模様 鉄の船こそ 我が住いなり
ばってらの 底すれすれに 月見かな
八月十四日
黒田天外大兄
若狭丸船中 竹内棲鳳
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)
そして別紙にスケッチを一つ付けました。
さて、8月14日に記したこの手紙がどういう経路をたどったかを追ってみましょう。
8月15日に封筒にいれたようです。表書きの自分の名前の後に日付が記されています。
その後の行方を、封筒の消印で追うと
翌8月16日、シンガポールのタンジョン・パガー(TANJONG PAGAR)郵便局で投函され、
8月31日、日本の神戸郵便局に届いています。
8月31日(金)、あるいは9月1日(土)には、宛先の
「大日本京都 三条通東洞院 日出新聞社 黒田天外」
に届いたはずです。
天外は、手紙の文面そのままに、日出新聞に掲載する事にして、すぐに原稿作成にとりかかりました。手紙に添えられたスケッチは、新聞用の版下にするために、栖鳳の高弟、西山翠嶂に臨模を依頼しました。
そして、9月4日(火)の日出新聞に掲載され、多くの人たちが、竹内棲鳳の渡欧中の生の声を知ることになりました。
当時の人は結構リアルタイムで栖鳳の見たものを共有できていたのですね。
新聞の日付欄が空白になっているのは愛嬌ですね。発行日が4日であることは前後の新聞で確認しました。
* 丹波丸と記された文献もありますが、誤りです。丹波丸に乗船したのは帰国の時。
つづく
さち
青木隆幸
(本稿に使用した史料はすべて、海の見える杜美術館所蔵)