真田丸 大坂冬の陣図

海の見える杜美術館は、「大坂冬の陣」の布陣図を所蔵しています。

20161119大坂冬の陣図(仮称)UMAM (1)

大坂城の敷地の右下に四角く飛び出ているところに「さなたとり出」(真田砦)と書かれています。ここがあの真田丸なのでしょう。そのすぐ下には、「将軍様」と書かれ四角く囲まれた城があります。真田信繁(幸村)が徳川本隊の真正面に対峙しているのが分かります。

NHK大河ドラマ「真田丸」は冬の陣の真っただ中です。冬の陣に参加した武将たちが見たかもしれない布陣図を眺めながら、ぜひお楽しみください。

なお、《大坂冬の陣図》(仮称)は、いつ、だれが、何のために作ったのかわかっていません。
一枚刷りの冬の陣図は、ほかに《大坂城之図》(江戸東京博物館蔵)が知られていますが、比較すると、絵の感じも真田の軍勢の数も異なります。当館の《大坂冬の陣図》は冬の陣のその年に刊行された「大坂物かたり」(慶長19年(1614)成簣堂文庫蔵)の巻末に付された布陣図と、かなり似ています。

さち

青木隆幸

 

杜の遊歩道の紅葉が見ごろを迎えています

20161117杜の遊歩道の紅葉が見ごろを迎えています (1)

ナラ(楢)、クヌギ(橡)、カエデ(楓)、タイワンフウ(台湾楓)、トウカエデ(唐楓)、イチョウ(銀杏)、いろいろなサクラ(桜)、カキノキ(柿木)、メグスリノキ(目薬木)etc. 紅葉する木々。

杜の遊歩道の色彩が、毎日まいにち変化しています。

もりひこ

街道が好きです - 道路開通記念碑

2016年10月17日のブログに記した、「道路開通記念碑」についてです。
ウィキペディアの「広島県道30号廿日市佐伯線」に登場していました。

「中世以来、津和野街道として発展。宮内村で西国街道から分岐して汐見坂峠(現在の明石峠)を越えて津田、友田、六日市を経て石州津和野の城下に至る。江戸時代には津和野藩主の参勤交代ルートであり、脇街道として整備された。
1891年(明治24年)- 津和野街道が県道として改修される。このときの記念碑が廿日市市宮内の御手洗川べりに残っている」

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (1)

ここに記されている記念碑が、この「道路開通記念碑」です。せっかくなので、記念碑に彫られた文字をおこすことにしました。年月を経て読みづらい字は前後の文面から判断して読んだ個所もあります。気になるところは写真と見比べてください。写真をクリックすると拡大画面になります。

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (2)


安藝國佐伯郡宮内村廣裹六里戸数五百人口貳阡四百其土
鹵砂肥饒其俗知方好義盖距廣島縣治西方凡四里達于石州
津和埜之要衝而與防州山代本郷路相通地方物産之出輸咸
由此通路以是人馬往來毎加頻数而路極険隘行路太苦明治
十五年村人相議略加修築稍得通車馬費用不支而中止以其
功不全屢毀傷人畜有志者謂運輸不便則産業不興殖産之本
在道路開通一人倡之衆僉和之廿一年九月請于宮以脩道之
事官使技師測地理自砂原至三和村畍中間経折出領及佛坂
而迂回于明石鑿塩見坂之險迂除曲折斫險爲痍填濕闢窄以
便於車馬運輸以廿三年十二月起工翌年七月告功竣其総費
金九千七百七拾八圓餘其三分二乃縣税支出之其他於村内
及郡中各町村醵出之其開鑿里数二里十四町廿四間此諸舊(彫は萑に旧)
道延長凡二十六町其新要地者七町二畝二歩毀家屋者八戸
於是乎畏途相夷無後危險災害之患行旅運搬共蒙幸福者其
幾許乎可謂事業一時而功名千古矣頃者村人相共謂立石録
姓名以不托之屬余作文以記之余嘉昭代之美擧叙其繄繫其
銘曰 變難成易 因民之義 公道如砥 就地之利
・・・・・・乃幸乃慶 險夷異地 厥力厥德 豈可不記
・・明治二十七年九月之吉日
・・・・平安 東海道人棉引泰撰文   小田甚作書之

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (3)


功勞者
イロハ順
西村七右衛門 堀内綱次郎 横山直助 吉岡峯次郎 高橋嘉六 高見峯吉 田中文作 田村榮之介 武田敏惠 大田和一郎 小田貫一 小田孫七 小倉大兵衛 福永喜三郎 藤岡利兵衛 河野直太朗 惠木保太郎 遠藤代次郎 柴田千太郎 正田榮人 瀬田德次郎 杉山重四郎 住田久藏 住田史郎 鈴木重老

側面
昭和十一年三月建之宮内村

備考

※「自砂原至三和村」
砂原は広島県廿日市市宮内砂原のことで、現在も地名として残っています。この石碑が立っている場所です。 三和村は、明治22年(1889年)、峠村、渡瀬村、松ヶ原村の三村が合併して発足し、昭和4年(1929年)友原村と合併して友和村となりその名称は使われなくなりました。(「佐伯郡」ウィキペディア)

※「開鑿里数二里十四町廿四間」
二里 7654.5m 十四町 1527.3m 二十四間 43.6m = 9,225.4m
旧砂原村のこの石碑が立っている場所から9.2キロ行くと廿日市市立友和小学校の前につきました。

※「平安 東海道人棉引泰」
綿引東海(1837-1915)
幕末明治の漢学者。天保8年(1837)常陸生。名は泰、字は天行、通称は泰助、東海と号す。原伍軒の門に学び、明治3年弘道館訓導を経て宮内省に出仕。大正4年没、年79.著書『烈士詩伝』『疑獄録』等がある。大正4年(1915)歿、79才(『日本人名大辞典』復刻版第一刷、平凡社、1979年)

※「小田 貫一」
1856年生まれ。安芸国佐伯郡宮内村(現廿日市市)出身。広島県会議員を経て宮内村村長、第2回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以後6回当選)。広島市長(第六代)。1909年没。(「小田貫一」ウィキペディア)

 

大野村⇔宮内村
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もりひこ