1910(明治43)年4月、寺崎広業は、薬舗津村順天堂の主人津村氏から頼まれて、六曲一双屏風《竹梅図》を揮毫しました。
左隻右隻
広業はその後横山大観、山岡米華と一緒におよそ2か月のあいだ中華民国を外遊し、帰国後すぐに第4回文展の審査委員として出品作品の制作に取り掛かり、中国を題材にした3作品《夏の一日》《長江の朝》《長城の夕》を出品しました。展覧会には横山大観も中国旅行に取材した作品を出品し、「広業は筆路の円熟をもって、大観は着想の奇抜をもって、場中の双璧をなしている」と評されました。※1
そのように充実した日々を過ごした年の暮、放浪の画家ともいわれる広業が新橋の料亭「花月」に滞在中、津村氏と会食の機会があり、その中で、津村氏:(今年描いてもらった《竹梅図》は)「竹梅ばかりでは淋しいので、何か小鳥でも描き添えてほしい」。広業:「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という会話があったようです。※2
その会話が実現しないまま10年の月日が過ぎた1919(大正8)年2月、53歳の若さで広業が世を去り、津村氏には「それは栖鳳先生にお願いするがいい」という言葉が遺言のように残されることになりました。
広業が世を去って13年後の1932(昭和7)年新春、栖鳳が昨冬来、近くの湯河原に湯治中との情報を得た津村氏は、すぐさま行動に移り栖鳳に揮毫を懇望しました。
その年の春4月17日、目黒町の貴族院議員津村重舍邸を訪ねて《竹梅図》を確認した栖鳳は、会心の笑みとともに「ホゝ明るい気持ちのええ図やなあ」「一つ描きまホう」と言ったと記録されています。※2
栖鳳は翌4月18日昼過ぎに津村邸を再訪し《竹梅図》に合作を試みます。4時間かけて、左半双の竹林に雀を3羽、右半双の老梅に鶺鴒1羽放ち、「栖鳳同作」と落款を広業の横に添えました。広業が揮毫して実に24年を経て《竹梅図》は完成しました。
左隻
右隻
栖鳳と広業はいずれも人気作家で「売れっ子は、東の広業、西の栖鳳」といわれるほどだったようです。栖鳳の豪遊ぶりは新聞をいつもにぎわしていましたし、広業は1912(大正元)年に購入して改築した小石川関口町の大邸宅や、翌年7月にしつらえた長野県下高井郡上林温泉の別荘「養神山房」などを見ると、そのような風聞にも首肯できます。
栖鳳と広業は西と東に分かれて活動していたので交流の足跡は多く残されていませんが、当館にはこのほか栖鳳が「獅子」を、広業が「文殊」を描いた双幅《獅子文殊図》も残されていて、関係の一端を垣間見ることができます。
これらの作品は、本年3月17日のリニューアルオープン展覧会『香水瓶の至宝~祈りとメッセージ~』の開催時に、このたび新設した竹内栖鳳専用の展示室で同時開催『知られざる竹内栖鳳 -初公開作品を中心に-』に出品いたします。いずれの作品も初公開となる記念すべき展覧会です。東西人気作家の交流の証をご覧ください。
※1中川忠順『東京毎日新聞』1910(明治43)年10月24日
※2斎田素州「栖鳳、広業の合作 24年ぶりに此程完成す」『塔影』8巻6号1932年)
さち
青木隆幸