引札 門松の前をあるく母と子

引札は、江戸時代(1603-1868)から始まる、いわゆる広告のチラシです。

明治時代(1868-1912)から大正時代(1912-1926)のころは、新年を寿(ことほ)ぐ絵を描いた引札が、年末に大量に配られていました。

2016-010-21呉服店(縮小) 海の見える杜美術館

門松の前、晴れ着を着た親子連れが歩いています。そのにこやかな表情や子供たちの元気あふれるしぐさから、新年の高揚した気分が伝わってきます。

画面左上は、反物を巻くように画面が巻き下げられて、そこには繁盛している商店の様子が描かれています。

扇久呉服店 商店の繁栄 海の見える杜美術館

商店の看板には「勉強」の文字が見えるので、「お安うしまっせ」とか、「お、ねだん以上。」とか、いくつかの某有名店のキャッチフレーズが聞こえてきそうです。お得感満載の商店なのでしょう。すると手前を歩く女性が手にしているのはその商店で買った商品、そして子供が手にする風船は、そこでもらった景品なのかもしれません。

扇久呉服店 風船 海の見える杜美術館

この引札はいつごろ配られたものなのでしょうか。印刷の技法など勘案するに、おそらく明治末から大正初めの頃ではないかと、筆者は今のところ考えています。子供が持っている浮いた風船が時代に則しているか気になったのですが、岩手県立美術館所蔵の萬鐵五郎《風船をもつ女》1912~13(明治45~大正2)年に描かれた風船もしっかり浮いているので、とりあえず明治末から大正初めと考えても問題なしとして、この引札の正確な制作年代の特定は別の機会に譲りたいと思います。なおこの絵の作者は広瀬楓斎(春孝)。数多くの引札を手掛けている人気の作家です。

引札に書かれた文字は「呉服太物祝儀小袖商 並ニ 毛布洋傘るい 能登川 (山久印)扇久呉服店」。つまり、呉服ほかの織物から毛布・傘まで生活用品を手広く扱う、「扇久呉服店」の新年のあいさつのチラシということがわかります。

「能登川」というのは滋賀県にある店の所在をあらわしていますが、明治時代のはじめに伊庭村から分立した能登川村のことではありません。1889年(明治22年)に「能登川駅」が能登川村から約1km離れた五峰村と八幡村の境にできて後に、能登川村から離れていた駅周辺を指すようになった通称の「能登川」です(※1)。なお「扇久呉服店」の当時の行政区画上の住所は八幡村です。

「扇久呉服店」は5代目出路久右衛門が1897(明治30)年に「扇久呉服店」または「扇屋呉服店」として創業しました。昭和34年7代目の時に「有限会社 扇久」となり、平成26年に現当主、出路敏秀氏が8代目出路久右衛門を襲名され、今年創業124年を迎えています。(※2)

創業時の店の名前はまだ特定できていないのですが、明治45年の能登川列車時間表に記された名前は「(山久印) 扇屋呉服店」です(※3)。また、刊行年不明の双六には「(山久印) 扇屋呉服店 能登川 電話二番」と記されています。「扇屋呉服店」の時代に電話番号があったのなら、電話番号が記されていない「扇久呉服店」の引札は、「扇屋呉服店」の前の時代、つまり明治45年より前なのかなあ、と思ったりしますが、まだまだ詳細な検討が必要なので、年代特定はやはり別の機会にします。

20210519122531-0001

能登川駅前商店 商売繫栄双六

ところで、「能登川駅前商店 商売繫栄双六」の写真(※4)を見ると、「出し」が谷川新聞舗、そのあと1~34番までの各コマに料理屋・写真館・タクシー会社など店舗の紹介があり、そして中央に大きなコマで「上り」が扇屋呉服店になっています。能登川周辺の地は近江商人発祥の地のひとつであり、近代は紡績で栄えていたことが知られていますが、この双六からは、能登川駅前商店の繁栄ぶりがうかがえ、その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だのだろうと想像されます。その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だったのだろうと想像されます。また電話番号が2番というのもその推測を補強します。当時は電話番号1番は行政・電話局・郵便局など公的機関が優先的に使用しているようですからとることは困難です。電話番号2番ということは、民間の1番。この地域で特別な商店であったのではないでしょうか。

引札には歴史を読み解くヒントがちりばめられています。
当時の歴史に思いをはせていただけましたら幸いです。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※5)。

 

最後になりましたが、扇久社長 出路敏秀氏には、ご多用のなか「扇久呉服店」について丁寧にご教示いただき、また、資料の掲載を快くご諒解いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1 駅の名前がなぜ村の名前と一致しないのかなどの経緯は、東近江市能登川博物館からウェブで公開されている「ふるさと百科 能登川てんこもり」の「人とひと」の参照。

※2 「扇久呉服店」に関する資料の存在が確認できなかったため、8代目当主の出路敏秀氏がまとめてくださいました。貴重な資料なので記録として掲載いたします。

有限会社 扇久 〒521-1221 滋賀県東近江市垣見町1318

1897 明治30年     5代目出路久右衛門 襲名 現地にて呉服店創業 26歳
1936 昭和11年10月19日 6代目出路久右衛門 襲名
1959 昭和34年8月8日  7代目 出路 弘     有限会社 扇久 設立 社長就任
1987 昭和62年3月1日  8代目 出路 敏秀    有限会社 扇久 社長就任
2014 平成26年12月14日 8代目 出路久右衛門 襲名
2021 令和3年5月現在              社長 出路 敏秀 78歳

※3 東近江市文化スポーツ部 歴史文化振興課 『東近江市史 能登川の歴史』ダイジェスト版 88頁。

※4 出路敏秀氏提供。

※5
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

引札 空を飛ぶ七福神

引札は、江戸時代(1603-1868)から始まるいわゆる広告のチラシです。

明治時代(1868-1912)から大正時代(1912-1926)のころ、新年を寿(ことほ)ぐ絵を描いた引札が、年末に大量に配られていました。

引札 海の見える杜美術館 (1)

七福神が、空を飛ぶいろいろな乗り物に乗って、富士山を見晴るかす海岸の夜明けの空を舞っています。夜明け・富士山・七福神、いずれも新年を寿ぐ吉祥の題材ですし、空を飛ぶ飛行機・飛行船はまるで正月に高く揚がる凧のようでもあります。年の瀬にこの引札をもらった人は、新しい年を迎えるにあたって、とても希望に満ちた気持ちになったのではないでしょうか。そして家のどこかに飾ったかもしれません。

描かれている飛行機のモデルの1つとなったと思しき当時の飛行機は、たとえば1番手前の恵比寿大黒が搭乗しているのはブレリオ、その上の方、飛行船2つはさんで箱形の機体はアンリ・ファルマン、の面影が垣間見えます(※1)。

アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館 (1)
アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館

アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館
アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館

1910(明治43)年12月19日、日本人による動力付き飛行機でのフライト国内初成功が報じられました(※2)。そして翌1911(明治44)年には海外から多くの飛行家がやってきて全国各地で⾶⾏会が開催されるようになりました(※3)。志賀直哉は『暗夜行路』にこのころの飛行機の話題を取り入れ、石川啄木は死の前年にあたる1911(明治44)年6月27日、「飛行機」という詩をつくっています。(※4)

この引札には印刷した日付が入っていないので制作年ははっきりしません。しかしもらった人が喜んでくれることを期待して作られるものですから、描かれた飛行船や飛行機のモチーフと思われる機体が製造されていて、かつ飛行機熱が高まっていたころ、つまりこの引札は、明治末から大正初期に配られたものではないかと思います。

当時の新聞は今ほど各家庭まで届いていませんし、掲載された写真ははっきりしないモノクロでした。もちろんテレビもインターネットも無いわけですから、飛行機や飛行船についてのイメージは、引札に描かれた絵を見てはじめて知る人もいたことでしょう。引札は新しい時代の情報を人々に届けるメディアのような役割も果たしていたかもしれません。

そのような人々の興味を惹く絵を背景に黒々と書かれている文字は「太物類 洋反物 メリヤスシャツ ぱっち 足袋 京都市松原通麩屋町東入 商標武徳印 松永商鋪 電話下八五三番」。松永商鋪は、綿織物や麻織物、西洋の生地からメリヤスシャツ、ぱっち、足袋など、服に関する和洋いろいろな商品を取り扱っている店のようです。

電話番号は下853番。この3桁の番号は京都では昭和3年までしか使われていないので、この引札はそれ以前のものということは間違いありません。大正11年の電話番号簿にこのお店の番号が掲載されていました(※5)。
電話番号簿 大正11年 京都 表紙松永友三郎登録者は松永友三郎という名前になっています。それでは当時の人の気分になって、電話をかけてみましょう。

まず電話番号簿に記された「電話加入者心得」をしっかり読んでください。10頁です。

電話加入者心得「受話器を耳にあてますと交換手が「何番へ」と問いますから直ぐ相手の局名番号をはっきり告げてください。加入者の過失で相手の番号を間違えたときは有料になりますから前もってよくお調べ願います。」(適宜現代の言葉遣いに改めました)。よろしいですか、それでは「通話の注意」の図をよく見て、正しい姿勢でかけてください。

通話の注意

明治大正時代の引札を見て、当時の時代の雰囲気をお楽しみいただけましたら幸いです。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※6)。

青木隆幸

※1 飛行機の同定について、所沢航空発祥記念館様より数々の示唆に富むご教示を賜りました。また、「アンリ・ファルマン機」の写真をご提供いただきました。厚く御礼申し上げます。所沢航空発祥記念館には様々な飛行機が展示されていて、飛行機の歴史を学ぶことができます。また現在(2021年)、所沢飛行場の空を初めて飛んだ飛行機「アンリ・ファルマン機」の特別公開がおこなわれています。詳しくは同館HPをご確認ください。

※2 「飛行界レコード成る」東京日日新聞(現毎日新聞) 1910年12月20日p.4

※3 「飛行自在」東京朝日新聞(現朝日新聞) 1911年4月3日 朝刊 p.5

※4 「第5回 ようこそ、空へ―日本人の初飛行から世界一周まで―」 国立国会図書館 ミニ電子展示「本の万華鏡」https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/5/index.html

※5 国立国会図書館蔵 インターネット公開(保護期間満了)    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909504

※6
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

うみもり香水瓶コレクション10 シャネル社《No.5》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。1925年の通称アール・デコ展を彩ったフランスの老舗香水メーカーの香水瓶を前回、前々回と取り上げましたが、今回は、ウビガン社の美しい香水瓶《ラグジュアリー》が、なぜ時代に逆行したデザインとみなされてしまったのかを、別の面から掘り下げたいと思います(この意地悪な見方、ちょっとしつこいですよね!)。再び登場! 👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ウビガン社、香水瓶《ラグジュアリー》1925年、透明クリスタル、金、デザイン:ジョルジュ・シュヴァリエ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、HOUBIGANT, LUXUARY FLACON, Georges CHEVALIER -1925, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その背景にあったのは、ずばり、香水分野における服飾メゾンの台頭です。近代以降の香水の歴史において、製造販売を担っていたのは香水製造会社でした。しかし20世紀に入ると、そこに服飾メゾンが参入するようになります。この流れを決定づけたのが、デザイナーのガブリエル・シャネルでした。実は、彼女の以前にも、ファッション・デザイナーが、ドレスに見合う香水を独自に製造し販売していました。それには例えば、香水散歩でも度々取り上げた、ポール・ポワレが挙げられます。彼は、シャネルに先立つこと10年前から、香水製造を手掛けていましたが、その際、自分のブランド名を香水には冠せずに、「ロジーヌ社」という別名の会社を設けて発表していました。こちら👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

左:ロジーヌ社(ポール・ポワレ)、《パウダー・ボックス》厚紙、布、絹、デザイン:コラン工房、1911年、海の見える杜美術館所蔵、POIRET,Parfum de ROSINE, POWDER BOX,design by Colin workshop, Card board, fabric, silk、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

右:ロジーヌ社(ポール・ポワレ)、アトマイザー《ポワレ》透明ガラス、エナメル彩、デザイン:マルティーヌ工房、1912年頃、製造:マルティーヌ工房、海の見える杜美術館所蔵、POIRET,Parfum de ROSINE, POIRET ATOMIZER, Design by Martine worlshop,Ca.1912, Transparent glass, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※このアトマイザーには1911年の香水「トゥットゥ・ラ・フォレ」が入れられました。

 

つまり、ポワレのドレスのための香水は、ポワレ社製ではなくロジーヌ社製なのです。現在からすると、「まあ、なんと紛らわしいことでしょう!」とひとこと言いたくなりますが、当時はそれほどまでに香水製造と服飾デザインが分けて考えられていたということでしょう。

けれどもシャネルは、そのような旧来の価値観にとらわれることはありませんでした。本業の服飾デザインにおいても、コルセットの要らないストンとした直線的シルエットを数多く採用したり、下着用とされていたジャージー素材をドレスに用いたりと、社会通念よりも、ドレスを着る人間の着心地そのものを重視し、女性の身体を窮屈にする過去の細々とした決まり事を、次々と取り払ってきた彼女には、服飾と香水のジャンル分けなど、そもそも大して意味をなさなかったのでしょう。こうして、服飾メゾンのシャネル社の香水は、シャネル社製という、今日ではごく当たり前となったファッションと香水の一体化を最初に行うことになったのです。

その記念すべき香水は、1921年に発表された、かの有名な《No.5》です。画像3

シャネル社、香水瓶《No.5》1921年、透明ガラス、リボン、デザイン:ガブリエル・シャネル、1920年(画像はジャック・エリュによる1970年)製造:ブロッス社、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、

夏の庭園から着想を得たとされる香水は、自然の香りの表現のためには人工的に構成されるべきとする(これだけでも、当時はとても斬新な発想です!)シャネルの考えに基づき、合成香料の特質を熟知したロシア人調香師エルネスト・ボーが手がけました。3種類の合成香料と、非常に高価で貴重な南仏グラース産の最高品質のジャスミンやバラを惜しみなく大量に使い、80種類以上もの香料と混ぜ合わせて作られた香りは、シャネルがボーに注文した通り「女性の香りのする、女性のための香水」であると同時に、かつて誰も作り出したことのない革新的な香りでした。発表されるやいなや、人々を驚かせるだけではなく、大いに惹きつけ、大成功をおさめました。その魅力は、発表からちょうど100年を経た今日においても、世界中で愛され続けていることからも伺えますね。

この香水は、香水名が数字である点でも、前例を見ないものでした。それ以前の香水名は、花の香りを想起させるものや、詩情豊かな言葉が使われるのが常でしたが、シャネルが付けた名前は、なんと単に「No.5」のみ。それはボーによる試作品のうち5番目の香りをシャネルが選んだことや、彼女のラッキーナンバーに由来するのですが、シンプルさや単純化こそが、現代性の象徴として浸透し始めた当時においてすら、何人たりとも思いつかなかった、究極のシンプルさでした。

その究極のシンプルさは、シャネル自身がデザインを手がけた、一切の装飾のない香水瓶にも表れています。その着想源は、紳士用の旅行用洗面セットとも、ウィスキーのデカンタともいわれています。しかし私がもっとも驚いたのは、ボトルよりもラベルです。こちらです☛画像4

素気ないほどに、いかなる装飾もありません。シャネルの時代をしばし脇におき、シャネルより前時代、例えば19世紀後半から1910年代までの数々の香水瓶を思い出すと、当時は香水ごとにボトルのデザインを造り変えないことも多かったため、ボトル自体は、比較的シンプルなものが多く見られます。ただしその代わり、ラベルやケースには趣向が凝らされていました。例えばこちらはゲラン社の「ルール・ブルー」と「ミツコ」ですが、ともに同じ型の香水瓶に入れられていますね.。箱のデザインも凝っています👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

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上:ゲラン社、香水瓶《ハート型栓香水瓶》香水「ルール・ブルー」1912年、透明クリスタル、デザイン:レイモン・ゲラン、1911年、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 右:ゲラン社、香水瓶《ハート型栓香水瓶》香水「ミツコ」1916年、透明クリスタル、デザイン:レイモン・ゲラン、1911年、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

そのような中、シャネルはラベルやケースさえも、この上なくシンプルにしてしまったのです。ケースはこちら👇

画像7

白い箱に黒のラインのみのという簡素さです。またそれは、香水瓶の素材においても同じことが言えます。

それ以前は、高級な香水がおさめられる場合には、下の画像のようなクリスタルか天然石が素材とされましたし、仮にガラスが用いられる際にも、ルネ・ラリック社のように、芸術性の高い特殊な加工が施されていると相場が決まっていました。しかしシャネルが選んだのは、何の変哲もない透明ガラスだったのです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

L.T.ピヴェール社、香水瓶《カラフォン》1908年、透明クリスタル、金、デザイン・製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、PIVER,CARAFON FLACON, Cristalleries de Baccarat– 1908, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

香水瓶にまつわるあらゆる既成概念を取り払い、新たな時代を切り開いた《No.5》を前にすると、すべてにおいて大切なのは香水瓶ではなく、中身なのだという彼女の主張が聞こえてくるようです。それはファッションにおいて他者に与える印象だけではなく、纏う人本人が快適であることをも重視したデザイナーだからからこそ、辿り着いた考えであるでしょう。

さて、冒頭のウビガン社《ラグジュアリー》が発表されたのは、シャネルの《No.5》による大成功の後、4年も経てからのことです。高級素材と技術を駆使した香水瓶の見た目の《ラグジュアリー》さよりも、目に見えない香りという中身の《ラグジュアリー》さと、それを可視化する香水瓶のシンプルさを追求することに新たな価値を見出した人々の目に、ウビガン社の豪華絢爛な《ラグジュアリー》が、もはや時代遅れと映ってしまったのは、仕方のないことであったと思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)