「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札(続)

たがわ龍泉閣様より2点の引札の画像をご提供いただきましたので、それらについて考えてみます。

まずは、こちらの引札です。

田川旅館提供 明治28年-2
たがわ龍泉閣蔵

左は福助をまつるお多福。
金庫の上に鎮座する日の丸扇を広げた福助に、お多福が直径30㎝5升はあろうかと見える大きな鏡餅を供えています。福助のそして年神様の運気を分けてもらうととともに一年の無病息災を願っているのでしょうか。そして福助の上には分銅金や大福帳が下がった福笹が飾られています。

右は大黒をまつる恵比寿。七五三縄が貼られた神棚には、左肩に大きな袋をかけて右手に打ち出の小槌を持ち大俵のうえに立つ大黒天。その前では恵比寿が正座をして大麻(おおぬさ)を振って穢れ(気枯れ)を祓っています。大黒天のお力を戴く神事でしょうか。

左は人間、右は神、いずれも今年一年の商売繁昌 金運の上昇をこいねがっている絵のようです。

明治28年の略暦がついているので、この引札の印刷年代は明治27年と推定できます。ただし、絵柄の部分は以前から作成している版を使って、暦の部分だけ新しい版で印刷する手法があるので、絵の部分の版は明治27年よりもっと前に作られていたかもしれません。

絵には陰影表現がされていて、一見銅版画のようにも見えますが、写真で見る限りですが、線の切れやインクだまりのようなぽつぽつとした点がなどから、銅版風の彫刻を施した木版で作られた印刷物と思われます(※1)。この時代には銅版画風の木版画が数多くつくられているのでその可能性は十分あると思います。なぜわざわざ銅版画風にするのでしょうか。当時の流行だったのでしょうか。もしかしたら銅版画による紙幣の流通も影響していたかもしれません。明治15(1882)年に日本銀行が設立され、明治18年から1円、5円、10円、100円札が新たに発行されました。それらは4種とも大黒天が描かれているので通称「大黒札」とも呼ばれています(※2)。明治21年からは菅原道真や武内宿祢などの歴史上の人物が陰影豊かに銅版で印刷された紙幣が次々と発行されました。これまでいわゆる江戸時代の版本や浮世絵のような主に輪郭線で表現された木版画しか目にしたことがなかった人々にとって、紙幣に印刷された陰影の付いたリアルな像が新しい時代を感じさせる魅力的なものとして映ったのかもしれません。

田川旅館提供 明治28年-2-2田川旅館提供 明治28年-2-3

引札には暦と絵と別々に印刷会社が記されています。

暦の左下隅には「明治廿七年十一月十一日印刷/同年同月□□□/金沢市上近江町四番地/近広堂 広瀬与作」と記されています。そして引札の下中央には「金沢上近江町近広堂印刷」と記されています。この引札はどちらも近広堂で印刷されていますが、印刷会社が異なることもあります。
なお、この広瀬与作という人は発行人ではありますが、彫師でもあったようです。(※3)

田川旅館提供 明治28年-暦印刷会社名

田川旅館提供 明治28年-印刷会社名

ちなみに当館に明治30年の暦の付いた同じ金沢の地で印刷された引札があります。
海の見える杜美術館 引札 明治30
海の見える杜美術館蔵

前の引札と同じように銅版画風の絵になっています。ただ、この時代の印刷は日進月歩で木版・石版・銅版を混在させながら変化しているので正確な印刷手法はわからないのですが、拡大してみれば、こちらの引札の原版には普通の木版ではない手法が取り入れられているようです。ぱっと見では気づかないほどの微細な点が、インクの溜まりもなく鮮明に機械的に打たれて線となり、白地に淡い模様を浮き出させています。恵比寿の顔は先ほどの引札より小さな点で陰影を表現しています。少し拡大して見てみましょう。

海の見える杜美術館 引札 明治30 部分1「謹賀新年」の「謹」の字のところです。

海の見える杜美術館 引札 明治30 部分2恵比寿の顔のアップです。

こちらの印刷会社は山下印刷です。
暦の下段に「明治廿九年十一月一日印刷同月廿二日発行 印刷兼発行者 石川県金沢市上堤町五十三番地士族 山下義保」、そして引札下中央に「金沢上堤町山下印刷」と記されています。暦はこのころは届け出制で、印刷発行日・住所氏名の掲示が義務付けられていたので暦を見れば印刷発行者の住所と本名がわかります。海の見える杜美術館 引札 明治30 山下義保海の見える杜美術館 引札 明治30 山下印刷

以上、明治27-30年ごろに流通した銅版画風の印刷をご覧いただきました。

ここで、明治28年の引札の年始の挨拶文を書き記しておきます。田川五三郎の店の挨拶文がどのように変化するのか、その違いを次に紹介する引札で、あわせてお楽しみいただきたいのです。

「恭奉賀新年/併而閣台之萬福を禱る/布説旧年中は毎々御愛顧を/蒙り奉源謝候尚本年も倍旧の/御引立を以て御入湯之節は不相替/御投宿之程伏て奉希上候 敬白」

少し今風に書き改めてみると
「恭賀新年 あわせてあなたの万福をお祈りいたします。旧年中はご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。本年もご入浴の節は変わらず当宿へお越しくださいますよう切に願っております。 敬白」
という感じでしょうか。

次にたがわ龍泉閣様よりご提供いただきましたのは、日の出の富士を背景に、大量の真鯛を抱えて海岸をあるく恵比寿の引札です。松・竹(笹)・双鶴いずれも吉祥の動植物が添えられていて、新年を寿ぐ(ことほぐ)にはもってこいの題材となっています。

田川旅館提供 明治40年代-3

今回注意してみてみたいのは、絵ではなく、印刷された文字です。

長くなりそうなので、続きはまた次回にいたします。

 

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

※1. 裏側から見れば摺り跡やインクのにじみからもう少し詳しいことがわかります。
※2. お金と切手の博物館のウェブサイトより
※3. 森嘉紀『金沢の引札』文一総合出版 1979 75頁 「近広堂 加賀金沢刀工近広堂與作、近広堂彫工、近広堂、金沢近広堂、金沢市近広堂判、石川県金沢上近江町四番地 広瀬与作」

 

 

 

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館

日の出の富士を背景にして、七福神が飛行を楽しんでいます。富士山と太陽の場所そして遠方に見える岩肌からすると、ここは湘南の海岸なのだろうかと想像が膨らんできます。

気球・飛行船・プロペラ機が飛んでいます。恵比寿が操縦している飛行機はブレリオをベースにしているようにも見えますね。詳しくは5月18日投稿の「引札 空を飛ぶ七福神」を参考にしていただきたいのですが、1910(明治43)年12月、日本人による動力付き飛行機でのフライトが成功し、翌1911(明治44)年には海外から多くの飛行家がやってきて全国各地で⾶⾏会が開催され、志賀直哉や石川啄木らが飛行機を題材にした文章や詩をつくるなど、この頃日本では飛行機のブームが起きました。この引札には制作年代が記されていないのですが、引札には流行の風俗が描かれたことを思えば、1911-12(明治44-45)年頃に作られたものなのかもしれません。

この引札は、おめでたい図柄で満ちています。日の出・富士・鶴・旺盛な交易を暗示する各種の船・空高く飛ぶ飛行機・七福神、もう少し詳しく見てみると、恵比寿が操縦している飛行機は、胴体が算盤・翼は百億円札・尾翼は江戸時代のお金にまつわる分銅金の形をしています。また、翼の紙幣の上部には「日本帝国万歳号」、四方に「福」の字が記され、中央の数字「百億円」の下には朱印で「寿」、紙幣の番号は753(いろいろな伝承がある吉祥の数字)、そして透かしには大黒の顔が入っていて、どこまでも商売繁盛と幸せを寿ぐ機体となっています。
引札 田川五三郎 恵比寿の飛行機

また、この引札には辰口鉱泉の効能書が、添付されています。いろいろな病気が治りそうですね。当時の人々はこのような表記を参考にして療養に訪れたのかもしれません。
辰口温泉効能書

この引札をお得意様に配ったのは、「石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿 田川五三郎」。明治32年10月30日の北国新聞の番付(※1)には、加越能三州(※2)の宿屋の前頭として堂々の最上段に名前が記されています。また辰口という地域では筆頭の宿屋とわかります。

北國新聞番付

この引札は、その大人気の宿屋「田川五三郎」が年の瀬あるいは新年に、お得意様に配ったものです。

引札の挨拶文にはこのように記されています。(/は改行)
「恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白」
簡単に訳してみると
「恭賀新年 あわせてあなたの万福をお祈りいたします。旧年中はご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。本年もご入浴の節は変わらず当宿へお越しくださいますよう切に願っております。 敬白」
という感じでしょうか。

なお、「鉱泉御宿 田川五三郎」は、辰口温泉「たがわ龍泉閣」として現在も営業がつづいています。

辰口温泉は開湯1400年の歴史ある名湯で、現在のたがわ龍泉閣には田んぼの真ん中から湧き出た源泉を利用している北陸最大級の混浴露天”田んぼの湯”ほかいくつもの湯があるうえ、温泉には今も昔と変わらない効能があるようです。(以下たがわ龍泉閣HPより)
温泉:辰口温泉
泉質:塩化物泉
効能:神経痛リュウマチ/外傷骨折火傷/痔/婦人病/病後回復ストレス解消/運動機能障害/関節痛/筋肉痛/五十肩/消化器/神経痛/創傷/打ち身/動脈硬化/冷え性など

この引札をいただいたお客様の気分になって、訪ねてみてはいかがでしょうか。体調が回復し、日頃のストレスも発散して爽快な気分になることは間違いないと思います。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 「たがわ龍泉閣」様よりご提供いただきました。
※2. 加賀(石川県南部)、越中(富山県)、能登(石川県北部)3国にまたがる前田氏の旧所領

青木隆幸

「高橋盛大堂」の引札 更新

2021年7月7日にアップした、『「高橋盛大堂」の引札』文中において、「高橋盛大堂が電話交換に加入した年が判明したら更新します。」と記していました。

このたび、明治27年2月に発行された『大阪神戸電話交換加入者名簿』に高橋盛大堂の加入記録が確認できましたので、以下の米印の箇所を追記し、更新したことを報告いたします。

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以上のことから、引札の制作年代について、①は明治16年(1883)に盛大堂の称号を定めた後、電話が引かれた可能性のある明治26年(1893)頃までの間、②は電話をひいた可能性のある明治26年(1893)頃以降、林基春の没する明治36年(1903)までの間としておこうと思います。高橋盛大堂が電話交換に加入した年が判明したら更新します。(※)

※『大阪神戸電話交換加入者名簿』(明治27年2月) 18頁に高橋盛大堂・高橋盛大堂分店の電話番号が記載されていることを確認しました。明治26年の名簿は未確認です。(20210720)

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海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

「日の又」の引札

日の又商店引札 海の見える杜美術館蔵-4

旭日 金雲 金箔散らしを背景に、中央に鼓・扇・そして正月など特別な時に演じられる祝福をもたらす『翁』に使用する肉色尉の面が重なり、面と鼓の間には菊の花が添えられています。右上の重ね色紙には、新年を寿ぐ句が認められ、新春の家を飾るにふさわしい おめでたい引札となっています。

引札の文字情報を下に記します。

右上 重ね色紙:
御代之春 尾上の松を かざりけり 若葉

引札本文:
数百年前の創業にして製作の経験最多し
伏見は材料手間賃安く運搬最も便利
薄利多売
各國産漆器卸小賣
たんす 長持 嫁入道具 製作販賣
伏見大坂町御ひいきのたんすや
日の又

右下隅 引札 落款:
白文方印 弌舟

左端 印刷年月日と印刷所名:
明治四十二年七月十日印刷仝年八月卅日発行
印刷兼發行者
大阪市東区京橋壱丁目廿九番地
平民古島徳次郎

以上の絵の内容と文字情報から、この引札は、大阪伏見のタンス屋「日の又」が、明治42年の年末に、ひいきの顧客に配布したものとわかります。

「日の又」は、現在の 「株式会社 日の又商店 (家具ステージ日の又)」です。同社は室町時代末期の永禄年間(1558-70)に創業し、安土桃山時代には伏見城に漆器調度品を製造納入しお抱えとなって以来 伏見の地で営業をつづけ、現在は当主17代目となり、総合インテリア家具販売店として盛業です。

この引札が配られていたころの「日の又」です。

日の又店舗

明治の終わり13代目当主のころの店舗で、店先は床机を持ち上げると中に収納できるようになっています。店の奥に並んでいる鏡が見えます。

株式会社 日の又商店蔵

こちらは江戸時代初期から日の又に伝来する漆を調合する大きなお椀です。直径90㎝もあります。引札に書かれた「数百年前の創業にして製作の経験最多し」「各國産漆器卸小賣」といった文を裏付ける品です。椀の底には「野の虫も ちからくらぶる 浮世かな」の句に添えてカマキリとバッタと思しき虫が描かれています。

本稿を作成するにあたり、株式会社 日の又商店 代表取締役 日の又 第17代当主の辻貞好様には、本引札が株式会社 日の又商店の物であることをご確認いただくとともに、ここに掲示しました明治時代の店の写真や江戸時代から伝来する漆を調合する椀の写真など貴重な資料をご提供いただきました。謹んで感謝申し上げます。

 

追記
引札右下隅の印章の弌舟は、浅田一舟のことと思われますが、断定するにはもう少し検証が必要です。しかし浅田一舟については浮世絵関係の事典にも、近年の研究書でも生没年等を含めほとんど記述がない(※1)ので、検証するためにはまだ情報が不足しています。

ところで、管見の限り浅田一舟研究に下の参照が見あたらないため、抜粋してここに紹介いたします。

岩本一成「浅田一舟君」
「浅田一舟君は明治5年、大阪市南区大宝寺町に生まれ、師匠は鈴木雷斎と武内桂舟に学んで風俗画家として特技をもっておられた。(中略)私の知っているのは大阪の特産物として相当の生産高を持っていた引札、団扇の意匠図案に長じ、版下に麗妙なる筆致とその彩色に至っては第一人者であった。(中略)
日露戦争後(中略)世間より別途に取り扱われていた挿絵画家といわれし人々、尾竹国一、北野恒富、金森観陽および小生等発起人となり研究団体として春秋会を組織しまして(中略)研究方法の協議、展覧会開催等の目標に毎日(ママ)2・3回集合し、仮装写生会、古実研究、講演会等を催し破壊に建設に活動したものです。これが画壇覚醒の先鋒となり今日の大阪画壇の基礎となったもので、会員30余名を有し第1回展覧会を大阪書籍俱楽部事務所楼上で開きました。島成園君が当時わずか14歳で観山ばりの小野小町を出品したことを覚えております。
門下生に島一水(中略)、その他上田海舟(紫水と改む)等々あり(中略)
大正9年10月18日49歳で没し、墓所は天王寺区椎寺町天瑞寺にあります。」
(※2)

このほかこの絵を描いたのと同じ年の明治42年に出版された『日本書画評価表』(石塚猪男 1909)(※3) では一舟の一幅の掛け軸の価格が20円と評価されています。なお参考までに申しますと、明治40年の公務員の初任給は50円です(※4)。

 

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 山田奈々子 増補改訂『木版口絵総覧』(文生書院 2016)はメジャーではない画家が多数網羅された貴重な書籍なのでたびたび参考にさせていただいているのですが、浅田一舟については「生没年不詳 舟がつく画家は竹内桂舟の弟子と見てよいと思う。」という表記にとどまっている。

※2. 『上方』138号 上方郷土研究会 1942 253頁 (適宜現代仮名遣い、当用漢字に改めた。)

※3. 東京文化財研究所 HOME>明治大正期書画家番付データベース>日本書画評価表_807006 URL :https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807006.html
所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)

※4. 『続・値段の 明治 大正 昭和風俗史』朝日新聞社1981 159頁

青木隆幸

「高橋盛大堂」の引札

「高橋盛大堂」の引札を2点、海の見える杜美術館は所蔵しています。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館

①の引札の上部左右には松と梅が繁っています。松梅(ショウバイ)が盛んに繁る様子は、商売繁盛を表す吉祥性があります。その中央には「専用権特許 高橋盛大堂」と記された兎の商標、その商標の左右には、お得意様を祝賀する言葉「花客万歳」(※1)の文字、その下の赤いリボンには「本舗 大阪堂嶋しゞみ橋南詰 盛大堂高橋卯之輔」と記されています。中央の段、右には盛大堂主人肖像 中央には売り出し中の薬の名前、左には「盛大堂薬剤摸形」として、薬剤の包材と取次所一覧が描かれています。下段には店舗の繁栄の様子とそれを取り囲む花々が描かれています。

引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館

②の引札も①と同じくお客様を祝賀する言葉「華客祝万歳」が上部に大きく記され、中央には薬箱や包材、店の名前と住所が記され、背景に店の繁盛の様子が描かれています。

①・②、いずれも店の製造薬品と繁栄の様子にお客様を祝賀する言葉が添えられ、高橋盛大堂とお客様の互いのより一層の繁栄を祝しています。どうやら年の瀬に高橋盛大堂から顧客の薬店や小売店に配布した引札のようです。

ところで今現在、大阪市西淀川区で営業している盛大堂製薬に確認したところ、盛大堂製薬は高橋盛大堂の流れを汲んでいる会社で、引札に掲載されている商品もかつて製造していたものに間違いないとのことでした。ただ明治時代の詳しい資料は残っていないそうです。

盛大堂製薬の歴史はHPの記載によれば、安政5年(1858)、大阪堂島にて高橋安兵衛により創業。明治8年(1875)、高橋卯之輔に継承。明治16年(1883)、盛大堂の称号を定める。とされています。

これら引札の制作年代について、以下箇条書きで考えてみます。

・製作年代は引札に明記されていないので正確にはわかりません。
・HPのとおり盛大堂の称号が明治16年に定められたとすれば、盛大堂の名が記されたこれらの引札はそれ以降の制作ということになります。
・いずれの引札も高橋盛大堂本店の横には親柱に「しじみばし」と記された橋が描かれ、住所には「しじみ橋南詰」「蜆橋南詰」と表記されていることから、これらは蜆橋があったときの引札と思われます。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館 しじみはし引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館 しじみばし

・蜆橋は、明治42年(1909)のいわゆる「北の大火」のときに瓦礫の廃棄場所として曽根崎川(蜆川)の上流が埋められたときになくなったので、これらの引札が描かれたのは明治42年(1909)より前ということになります。(※2)
・②の引札には応需基春と落款があり、林基春(1858-1903)の作画とわかるので没年の明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・これら2つの引札に描かれた登録商標は兔ですが、明治36年(1903)には犬の顔で商標登録が行われ(※3)、以降の宣伝には犬の顔が登場するようになるので、このことからもいずれも明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・引札には電話番号を記すのが一般的なのですが①には電話番号が記されていません。①は電話加入以前の制作と考えることが妥当で、②は電話加入以降の制作になります。なお、大阪に初めて電話が開設されたのは明治26年(1893)(※4)です。

以上のことから、引札の制作年代について、①は明治16年(1883)に盛大堂の称号を定めた後、電話が引かれた可能性のある明治26年(1893)頃までの間、②は電話をひいた可能性のある明治26年(1893)頃以降、林基春の没する明治36年(1903)までの間としておこうと思います。高橋盛大堂が電話交換に加入した年が判明したら更新します。(※)

※『大阪神戸電話交換加入者名簿』(明治27年2月) 18頁に高橋盛大堂・高橋盛大堂分店の電話番号が記載されていることを確認しました。明治26年の名簿は未確認です。(20210720)

備考として
②には分店が描かれているので、分店の設立時期が分かればもう少し制作年を絞ることができます。②には「人不壮は国家不健」と書かれています。人が弱ければ国も弱くなるということでしょうか。このように国のことが引札に記されるのは戦時中が多いので、日中戦争の明治27年、あるいは 日露戦争への戦意の高まり始めた明治36年ごろに制作された可能性も高まります。また、両引札に描かれた人々のファッションや風俗が近いことから、制作年代が大きく離れない可能性があります。

店に掲げられた看板に記された薬の名前、描かれた都市風俗、そのほか興味は尽きませんが、いずれ詳しい方々の目に触れて引札や産業・社会・風俗の研究が進むことを願ってやみません。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

最後になりましたが、盛大堂製薬様にはご多用の折、本引札をご確認そして当時の資料の捜索などご協力いただき、HPへのリンクもご快諾いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1. 花客(かかく)(「華客」とも書く)お得意の客。顧客 (「日本国語大辞典」 第二版 小学館 2000~2002)

※2. 店主の高橋氏はこの蜆橋にはよほどの愛着があったのか、大正13年に曽根崎川の下流も埋められてしまった後、昭和2年に高橋盛大堂の壁面に蜆橋のレリーフを掲げました。そのレリーフは紆余曲折を経て、今は曽根崎川跡碑のすぐそばにあり、そこには「盛大堂主高橋氏」と名前が刻まれています。なお、その紆余曲折については高木伸夫「「しじみ橋」のレリーフ碑」『大阪春秋』36号(大阪春秋社 1983)100-101頁に詳しい。

※3. 登録商標第19095号 登録明治36年4月2日 ジャパンアーカイブズ 薬店のトレードマーク(高橋盛大堂、現・盛大堂製薬)

※4.  NTT西日本HP 企業情報 データブックNTT西日本 電信電話の歩み 1830~1964年

 

アート魚ッチング展クイズ!

アート魚ッチング展の展覧会場で流れているクイズ動画が、ユーチューブで公開されています。

アート魚ッチング 海の見える杜美術館 – YouTube

その動画の中では歌川広重の伊勢海老(イセエビ)や、大野麥風の鯛(タイ)が動いています。

クイズとあわせてお楽しみください。

うみひこ

うみもり香水瓶コレクション11 ランバン社《球形香水瓶》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回は、シャネルが、ファッションと香水を一体化させた第一人者であることをご紹介しましたが、1921年に彼女が起こした新たな潮流は、その後、一気に大きくなりました。4年後の1925年の通称アール・デコ展では、シャネルのように服飾メゾンから発表されたある香水瓶が称賛されます。それは、デザイナー、ジャンヌ・ランバンが創設したランバン社の《球形香水瓶》です。

こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社《球形香水瓶》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館 LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

シャネルの《No.5》は本体も栓もスクエア型、またルネ・ラリックのウビガン社の香水瓶もスクエア型でしたが、幾何学的な造形を特徴とするアール・デコのデザインでは、本作のような球形の香水瓶も多く作られました。

本作のデザインは、アルマン・ラトーという、フランスの室内装飾家が手がけました。彼の代表作の一つは、この香水瓶とほぼ同時期に完成した、ジャンヌ・ランバンの邸宅の装飾です。現在、その邸宅はパリの装飾美術館に一部が移築され、常設展示室の主要作品となっています。私は、装飾美術館の企画展に行く折には、その展示室にも必ず立ち寄りますが、全体はもとより細部に細かな趣向が凝らされているため、毎回新たな発見があります。ここにその様子がわかる画像をお見せできないのが残念ですが(ご興味のある方は、ぜひパリの装飾美術館ウェブサイトをご覧ください)、まさにフレンチ・アール・デコといった洗練された優雅な室内装飾です。新古典主義様式を再解釈し、漆等を用いた東洋的な要素も加味した高級家具製作を得意としたラトーならではの特徴が詰まった部屋なのです。

翻って私は、ランバン社の球形香水瓶、とりわけ金色に輝く豪華版の香水瓶を見ると、ラトーが室内空間すべてを使って実現した華やかな世界が、手のひらに収まるサイズにギュッと圧縮して提示されているように思えるのです。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社《球形香水瓶》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

しかも、つい両掌に収めたくなるような、ころんとした本体や、マツカサをかたどった栓、そして本体の中央に描かれた、手を取り合う母と子のシルエット(モデルはジャンヌ・ランバンとその娘です)には、単に洗練された豪華さだけではなく、遊び心や、どこか懐かしい、なんとも優しくやわらかな気持ちをも呼び起こされます。

シャネル《No.5》の徹底したミニマリズムと比較すると、同じアール・デコ・デザインながら、その個性の違いが明らかですね。ランバンの香水もまた、シャネル《No.5》同様、フランス国内外で成功をおさめ、その後長きにわたって、メゾンの顔として定番となりました。

ところで、シャネルやジャンヌ・ランバンの活躍は、この時代の社会における大きな変化も伝えてくれるのが面白いところです。彼女たちはファッションと香水を結び付けることに先駆的な役割を担いましたが、それ以前にも、ファッション界に進出した女性として第一人者たちでした。この分野は、彼女たちが登場するまで男性社会だったのです。

20世紀初頭の第一次世界大戦前、彼女たちは勇敢にもファッション界での成功を目指し、着心地の重視等、着る人間の側に立った女性ならではの視点をいかして、ファッション・デザインに新風を吹き込みました。前回、言及したような、ファッションと香水という二つの異分野の融合を思いついたのも、それを享受する女性としての視点がいかされたものではないでしょうか。つまり彼女たちは、ガラスの天井を自らの手で突き破ったのです。

また第一次世界大戦は、彼女たちへの周囲の理解を深める状況を生み出しました。戦時中は多くの男性が前線へと駆り出されたため、銃後の女性たちはその階級差を問わず、男性がしていた多くの仕事を担うようになりました。やがて多大の犠牲を払った大戦が終わると、フランスにおいては人口の男女比は女性が上回るようになります。そのことが結果的には女性が家庭のみではなく、社会でも働くことを後押しする一助となりました。

このように1910年代、20年代はあらゆる分野で女性の社会進出が加速した時代でもあったのです。女性参政権運動が各地で盛んになり、長年のたゆまぬ努力の末に獲得するようになるのもこの頃のことです。

香水瓶に描かれたジャンヌ・ランバンの肖像のように、たとえ子供を得ても仕事を辞めることなく、むしろ母としての細やかな愛情に溢れた視点をいかしてデザインを生み出してゆく――そのような新たな女性像が多くの共感を呼んだことを、ランバン社の《球形香水瓶》は、今に物語ってくれるのです。

 

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇蔵出し:アール・デコの球形香水瓶コレクション◇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

カレージュ社 ケース付き《球形香水瓶》 デザイン:ジュリアン・ヴィアール1929年、黒色ガラス、金、ベークライト、海の見える杜美術館, CAREGE BOULE FLACON WITH ITS CASE, Design by Julien ViardA -1929, Black glass, gold,bakelite, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima