「織尾堂」の引札

赤地に桜・菊・牡丹・水仙の花が散らされ、それらの花の間に色紙・扇紙が並んでいます。上の色紙には一行書「書画筆墨硯司」の掛け軸・緋毛氈に大福茶・飾り棚、中央の色紙には筆始の寿老人に長寿を寿ぐ句、下の扇紙には 丸に山形に一つ引き紋 の入った風呂敷を背負う人物・年始の挨拶・店の名前「織尾堂」とその住所が記されています。

20210627引札織尾堂

いずれにも正月にまつわる風景が描かれていて、そしてそれぞれの内容はこの引札を配った店に関係していると考えることが出来そうです。上の色紙の掛け軸「書画筆墨硯司」は営業内容、中の色紙では寿老人が店の商品の命毛といわれる筆の穂先を丁寧にさわりながら「命も長し筆始」と詠んで長寿を寿ぎ、下の色紙は年の初めにお得意様を廻り、挨拶を述べている店の主人と思しき男性、その前には一年の愛顧を願う口上文、そして最後にお店の住所・名前が認められています。
この引札は、書画筆墨硯司「織尾堂」(大阪南区難波新地4番丁1番地)が年の瀬に得意先に配布した引札のようです。

「織尾堂」の引札は、早稲田大学図書館にも1点所蔵が確認できます。同図書館のウェブのDBに公開されています(請求記号:文庫10 08020 0039 タイトル:和漢筆墨商)ので是非ご覧ください。その引札には大福茶・筆を担ぐ寿老人、それを見守る恵比寿天・大黒天・布袋尊・弁才天、そして群鶴と蓑亀が描かれていて、当館の引札同様に正月の芽出度さあふれる内容となっています。そして画面中央に寿老人が大書した字は「和漢筆墨商 大阪府南区難波新地四番町壹番地 安田織尾堂」。当館の引札と店の名前は少し違いますが、営業内容も住所も同じなので「織尾堂」=「安田織尾堂」と考えてよいでしょう。

現在「安田織尾堂」という名前で営業しておられる筆関係のお店が1軒ありました。住所は異なりますが、その大阪府堺市にある「株式会社 安田織尾堂」の御主人にお話をお伺いしたところ、「店に関する資料はまったく残っていないので詳しいことはわからないのですが、父の叔父が織尾太夫を名乗った義太夫で、このままでは食べていけないと考えて御堂筋の歌舞伎座の裏で書画筆などを売り始めたと聞いています。」とのことでした。「御堂筋にある歌舞伎座」とは2009年に閉館した新歌舞伎座(大阪市中央区難波四丁目3番25号)のことでしょうから、明治時代の地図の難波新地四番丁壱番地と照合しましたら、その場所はぴったり重なったので、現安田織尾堂の御主人の記憶と相違ないことがわかりました。また、「書画筆などを売り始めた」というご記憶と引札の「書画筆墨硯司」、そして現在の営業内容が同様ということを考え併せますと、引札の「織尾堂」「安田織尾堂」は、現「株式会社 安田織尾堂」の前身と考えてよいと思われます。

「織尾太夫を名乗った義太夫」については、「浄瑠璃大系図」(※1)に竹本綱太夫(6代目)の門弟として「竹本織尾太夫」の名前が記されていました。また、『近代歌舞伎年表京都篇1』(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室1995)には以下の記録があります。

明治5年10月吉日~ 道場芝居 仮名手本忠臣蔵 【太夫】鶴ヶ岡のだん 竹本織尾太夫
明治7年2月吉日~ 南側実伝演劇 八陣守護錠 【太夫】淀城のだん 竹本織尾太夫
明治7年9月中旬~ 和泉式部演劇 伊賀越乗掛合羽 靫負やしきノ段 竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 南側演劇 菅原伝授手習鑑 【太夫】伝授之だん 跡竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 本朝廿四孝 【太夫】義晴館の段 中竹本織尾太夫

以上のように「織尾太夫を名乗った義太夫」が明治8年まで関西で活動していたことが確認できたので、ご主人のお話の通り「織尾堂」は義太夫の「織尾太夫」が始めたお店と考えることは可能ということになります。

早稲田大学図書館の引札(以下早稲田版という)も海の見える杜美術館の引札(以下海杜版という)も制作年代が不明ですが、早稲田版は先に絵だけ大量に印刷し、その図柄を購入した商店が後から商店の名前を印刷する、いわゆる「所判」あるいは「名入れ判」と呼ばれる様式のように見受けられますので、その印刷技法が広まった明治27年以降のものと思われます。海杜版は、絵に明治中期以降の風俗が描かれていませんし、絵のスタイルも明治の前期ごろのものです。そして絵から店名まで一貫してデザインして木版で刷っているので、引札の印刷手法も明治前期頃として差し支えありません。また、口上文には店の繁栄はお得意様のおかげと記されているので、店にある程度のお客様が付き、店オリジナルの引札を配るほどに店が繁盛した後に制作した引札と考えるのが妥当と思われます。ですので、明治8年以降に織尾太夫が引退してのち、店を立ち上げてしばらくたったころから、明治27年頃に「所判」あるいは「名入れ判」が大流行し始めるまでの間、大雑把には明治15-25年頃に制作された引札と推定されます。

海杜版の引札は、太夫では食べていけないと考えた竹本織尾太夫が明治8年以降、南区難波新地4丁目1番地に「書画筆墨硯司」として「織尾堂」の店を構えてしばらくたった、明治15-25年頃の年の瀬に、「織尾堂」がお得意様に配った引札と考えることが出来そうです。

なお、明治45年1月16日に、南区難波新地(現中央区難波四丁目付近)が火元で、東西1.4km、南北400mに及ぶ大火事、いわゆる「南の大火」が発生しました。当時の写真を見てみると完全に焼け野原になっています(※2)。「織尾堂」移転の時期は不詳ですが、店が「南の大火」の火元近くにあって、店舗が完全に消失してしまったことは店舗移転の一つのきっかけになったかもしれません。

海の見える杜美術館では以下の通り「引札」の展覧会を開催しますので、ぜひお越しください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)
※1 音曲叢書 第1編 演芸珍書刊行会編 演芸珍書刊行会 1914-154
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948801

※2 大阪歴史博物館ホーム>展示・イベント>常設展示>常設展示更新>過去年度の展示更新>南の大火と千日前
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/120116.html 参照

青木隆幸