展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会 期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会 場 : 海の見える杜美術館
上記の展覧会が終わりました。
このたびは展覧会図録を制作しなかったので、ブログにその記録を残すことにいたします。
どうぞご覧ください。
引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし展
ごあいさつ
引札とは、江戸時代(1603-1868)から昭和時代(1926-1989)の初めにかけて、商店などの宣伝のために作られた広告ちらしのことです。江戸時代においては版木を使って一枚ずつ手で摺っていましたが、明治時代(1868-1912)には西洋からもたらされた銅版・石版・活版印刷の利用が始まり、それ によってこれまでの木版にはなかった表現が現れました。印刷革命たる機械印刷の時代を迎えると大量生産が可能になり、明治末期には当時の日本の世帯数を上回る年間1,000万枚以上が配布されるまでになりました。浮世絵師や日本画家・洋画家をはじめとした様々な絵師が参画し、描かれる図様も多様化していきます。
この度の展覧会では、海の見える杜美術館が収蔵する約2,200点の引札の中から、制作年代・印刷技法・絵師・図様・キャラクターなどテーマに沿って、明治時代の年末年始に配布された引札を中心に、選りすぐりの約150点を展示いたします。新年を寿ぐために描かれた、おなじみの鶴や亀などの伝統的な吉祥画題、さらには飛行機に乗って富を授けにやってくる恵比寿や大黒など、近代化に活気づく明治期ならではのおめでたさの表現などをご覧いただけます。また、紙に凸凹をつけて鳥の羽根や菊の花弁などを立体的に表現する、空押と呼ばれる印刷技術が使われた引札は、是非展示室で実物を見ていただければと存じます。画師たちの競演、それにこたえる印刷技術、明治期の印刷物の持つ華やかな色彩など、この時代に花開いた「引札文化」をお楽しみいただければ幸いです。
最後になりましたが、開催に ご協力いただきました関係者の皆様に心から感謝申し上げます。
主催者
第1章 明治16年頃までの引札
江戸時代中頃から作られるようになった引札は、明治時代にはいっても浮世絵版画と同じように色ごとに版木を摺り重ねて作る木版画が主流でした。商店は、年の瀬になると宝船などの吉祥の図像が描かれた引札を版元から購入し、それに店の名前を印刷してなじみのお客様に新年のあいさつとして配りました。略暦(カレンダー)付きの引札が人気でしたが、略暦の印刷には明治政府からの許可が必要であったため、この頃の引札の多くは暦問屋によって扱われていました。
1-01 明治初期の引札見本帳に綴じられた河鍋暁斎の引札です。暁斎は狩野派の絵師ですが、いろいろな流派の画法を取り入れて、なんでも貪欲に描いたので、自分のことを「画鬼」と呼んでいました。引札まで描いていたとは驚きです。
1-02 明治初期の引札には、新年を寿ぐ吉祥の画題として日の出が最も多く描かれました。この絵には力強くのぼる旭日を受けて、荷物を満載した船が荒波を超えていくさまが生き生きと描かれています。晴れ晴れとした光景です。
1-03 勢いよく昇る旭日を背に、宝船がこちらに向かって進んできます。船の積み荷は宝珠やサンゴ、打出の小槌に千両箱や米俵。夢のような宝物が満載です。現実の船ではなく神々の世界からやってくる宝船も数多く描かれました。
1-04 右下に描かれているのは、旭日を背にこちらに向かってやってくる宝船。江戸時代から繰り返し描かれてきたおなじみの吉祥の光景です。左に見えるのは空高くあがる気球です。新しい乗物も積極的に吉祥の画題に取り入れられました。
1-05 神々が住む世界のひとつ、蓬莱山が描かれています。金の生る木や宝珠の実がつくサンゴのような木が生えています。滝の下では打出の小槌の水車が回り、まさしく神々の住む楽園のような光景です。七福神があちらこちらでくつろいでいます。
1-06 これは見本ではなく、配布するために店名等を入れて摺られた引札です。これは左下に赤字で印刷された字を読むと、「くらかり峠」の「入口より二丁目北側」 にある宿屋、〇太マークが目印の「かわちや太郎兵衛」が配った引札だということがわかります。
1-07 画面の左上にうっすらと見えるのは竜宮城です。そこに向かうのは蓑亀の背に乗った浦島太郎。この絵には乙姫も玉手箱も描かれていません。浦島は竜宮城にあると言われている宝の蔵を目指しているのかもしれません。
1-08 明治六年十一月三日の天長節(天皇誕生日)から国旗を立てることが行われるようになり、やがて国民の祝日や正月にも掲揚することが習慣化したとされています。白地に書かれている「ヌ印壱円七十銭」は引札百枚の価格です。
1-09 出品番号1-08に記された価格によると、この引札は現在でいうと一枚およそ八十五~百七十円です。その引札を現米沢市の大坂屋清兵衛が購入して配りました。なおこのお店は現在も続いています。第六章のパネルで紹介しています。
1-10 恵比寿・大黒・福禄寿・寿老人が働く反物屋で、弁財天・毘沙門天・布袋が買い物をしています。暖簾に染め抜かれているのは福の字でしょう。旭日を背景に福尽くしの店が描かれた、一年の繁栄を予感させるおめでたい絵です。
1-11 少し痛んでいますが、出品番号1-10の明治十五年の暦を持つ引札と同じ版が使われています。この引札には明治十七年の暦がついているので、少なくとも足掛け三年は作り続けられたた人気の図柄だったことがわかります。
第2章 略暦刊行の自由化と印刷革命
明治16年に略暦の発行が自由化されると、多くの印刷所が引札制作に参入しました。そこには銅版や石版など、これまで引札を制作してきた暦問屋にはない技術がありました。彼らは競い合うように様々な技法を駆使し、時には既存の技法を組み合わせて新しい表現を編み出しました。明治25年頃から引札印刷の主流になったのは、まず絵を木版に彫り、その版を転写紙で石版に写しとって製版し機械で大量印刷するという手法でした。多色刷石版の一種、クロモ印刷など西洋から入ってきた最新技術も次々と取り入れられていきます。
ここでは印刷技法に注目して引札をご覧ください。
2-01 東京日日新聞が、明治七年(一九七四)から新聞タイトルのデザインに有翼の天使を描くようになると、引札にも同じような天使が登場しました。版元の饗庭長兵衛は、江戸時代、元禄二年(一六八九)創業の京都の老舗版元です。
2-02 真ん丸な太陽から放たれた光が、青い空を白く光らせその先に放射線状になって伸びています。赤いすやり霞がたなびき、海の手前はベロ藍のボカシ摺。見たことのない珍しい表現の組み合わせです。版元の山﨑米吉については不詳です。
2-03 赤地に白の松竹梅と鯛を抱える恵比寿が描かれた伝統的な吉祥図です。版元の平民 松居市太郎は不詳です。明治に華族 士族以外は平民という族称となり、明治八年三月の署名には族称を記す旨の布告に従い、略歴左側の署名には「平民」と記されています。
2-04 勢いよく昇る太陽を背に船から大量の荷を下ろす人々。活気ある港湾という題材は、商人にとって代表的な吉祥図のひとつです。版元名は絵の右側に「和田板」とだけ記されています。こちらも不詳の版元です。
2-05 生い茂った藻を刈る藻刈船は日本の伝統的な画題です。引札にも藻刈船が多く描かれています。「藻を刈る」の読みが「もおかる」→「儲かる」に通じているのです。商店は、縁起をかついで儲かる藻刈船が描かれた引札を配りました。
2-06 金庫の前に座ってお金を数える恵比寿と大黒という、典型的とも言える吉祥の図様です。よく見ると、恵比寿や大黒の顔には陰影がつけられ、立体感を帯びていることが分かります。
2-07 「うしのちゝ」の旗を掲揚した牧場が描かれています。暖簾に見える「聖パルナパ病院」は大阪市天王寺区にある日本聖公会最古の病院、聖バルナバ病院のこと。この引札にはそこに牛乳を納めた福島弥助の名前が記されています。
2-08 とても細い線を組み合わせて濃淡や陰影を表しています。これは、ここまで見てきた凸版(木版製版)にはない銅版ならではの表現です。明治十六年以降、様々な印刷業者が参加したことで、引札に新しい表現が加わりました。
2-09 先頭の船には略暦が、続く船には汽車の時刻表、最後尾の船には汽車と汽船の時刻表が掲げられています。引札は、配布した先で身近に飾ってもらえるよう、華やかさ、めでたさ、そして実用性も考えて作られました。
2-10 銅版で版を作っていますが、富士と龍は銅板特有の細かな線ではなく、木版を真似た太い線や面を主とした表現になっています。富士の裾野から黒雲をまとって昇天する龍の図は、葛飾北斎の《富士越龍》(北斎館蔵)を想起させます。
2-11 太陽から広がる薄明光線が丁寧に表現され、その下の遠方に見える船のマストのロープ一本まで繊細に描かれています。そして右下の近景は線遠近法を用いて奥行きを演出しており、画面の隅々まで行き届いた描画がされています。
2-12 地紋フィルムとは今で言うスクリーントーンのような技術だと考えられ、ここでは背景に使用されています。楠木正成の家紋「菊水の紋」、そして武将が物を授ける様子が描かれていることから『太平記』の名場面のひとつ「桜井の別れ」に見立てていることがわかります。ただし、授けているのは物語で語られる短刀ではなく大金のようです。
2-13 五円札を模した「互圓」の字の下に、この引札を糊で貼りつけるように、と書いてあります。どうやらこのお札は縁起をかついでいるようです。例えばお札の番号は「二九八内」(福は内)、日本商工の印は「商売盛大」になっています。
2-14 店の左側に続く橋の親柱に「しじみはし」と書かれており、この川は明治四十二年に埋め立てられる前の蜆川(曾根崎川)とわかります。店主の顔は木口木版でリアルに描かれています。盛大堂薬局は現在も大阪で営業しています。
2-15 もくもくとした黒雲や柔らかな鉛筆で描いたかのような岩肌の陰影には、砂目という石版の手法の一種が使われています。細かな点で繊細に陰影を表現しています。
2-16 明治二十年代頃は、砂目の石版を使って、素朴な鉛筆画のような少しリアルに描いた印刷物が流行り、それは引札にもすぐに取り入れられました。この引札では、繁盛する店の様子を描いています。当時の店頭風景がよくわかります。
2-17 黒色の部分は砂目の石版を使って印刷しています。赤などの色の部分は合羽摺と言われる浮世絵版画の彩色法のひとつが使われています。ステンシルのように着色したい部分を切抜いた型紙を引札にのせて、その上から彩色します。
2-18 横笛を吹く人物は、絵を写真撮影して製版しています。そのほかは木版で版を作っています。それらの版を転写紙で石版に移して機械印刷しているようです。このころの印刷はとにかく自由で数々の実験的な試みが行われました。
2-19 この引札に使われているクロモ石版は、いわゆる「ポスター黄金時代」のアルフォンス・ミュシャやトゥルーズ・ロートレックらの活躍を支えた十九世紀後半の代表的な印刷技術です。色の点を掛け合わせてリアルな色彩を再現します。
2-20 こちらもクロモ石版が使われています。サイズや用途は引札ですが、明治末から大正時代に流行した美人画のポスターに劣らない美しいものです。「矢尾支店」(矢尾商店)は、「矢尾百貨店」(埼玉県秩父地域)として今も営業中です。
2-21 この引札には、石版ではなくアルミ板を使ったアルモ印刷という技術が使われています。旅館が配る引札は、このような新年の挨拶を添えたものが多く、顧客が遠方にいることもあり、まさしく今で言う年賀状のように郵送した可能性もあります。
2-22 明治時代は各印刷所がそれぞれ工夫して印刷しているので、今となってははっきりとわからない技術がたくさんあります。この引札もその一つです。クロモ石版や模様の入った転写紙(地紋フィルム)を組み合わせて印刷したようです。
2-23 引札には紙に凹凸をつけて線を描いたものが多くあります。キャプションに空摺あるいは空押と記しているので注意してみてみてください。
2-24 中央に記されているのは広島の宮島 岩国から山口の三田尻を経由して福岡の中津 宇野島に至る各地の港の名前です。その間の航海の安全を願うかのように、背景には穏やかな海を表す青海波文様が空摺で描かれています。
2-25 手で摺って凹凸をつけるときは空摺、機械で押し付けて凹凸をつけるときは空押と呼びます。この作品は空押でレリーフのような立体感を引札に与えています。白鷹の羽の重なり、岩肌、波のうねりが陰影だけで表現されています
2-26 多くの空押の引札の中でも、ひときわ繊細な彫刻が施されている引札です。羽の模様をそれぞれの場所で工夫していて、特にくちばしから下の毛並みは深さや流れまで考えて一本一本丁寧に彫り分けています
2-27 バラの花びら一枚まで空押が施されています。一見しただけでは気づくことができないほど繊細な表現です。言ってしまえばただのチラシに過ぎない引札ですが、高い技術が注ぎ込まれて作られています。
2-28 この引札では、輝くネックレスを表現するために、印刷の上からキラキラ光る小片をちりばめています。このような独創的な表現は、絵師だけでなく、彫師や印刷職人たちとの共同作業によって生み出されたものと思われます。
「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2 第2・3展示室」に続きます。
青木隆幸