展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会 期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会 場 : 海の見える杜美術館
「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 1」から続く
第3章 引札を描いた絵師たち
機械式の大量印刷が始まると、やがて全国の小さな個人商店までもが引札を購入するようになり、明治後期には1,000万枚以上が全国で配られたといいます。引札の流通が盛んになるにつれ、絵を手掛ける絵師たちの人数も増え、顔ぶれも多様化していきます。今回調べただけでも100名を超える絵師が引札に参画していることが分かり、長谷川派や歌川派の浮世絵の流れを汲む絵師たち、日本画家や洋画家として名前を知られる作家たちがいるほか、引札の中でしか名前を見ることのできない経歴等がいまだ不明な画家も多くいます。
この章では引札に関わった絵師たちをご紹介いたします。
3-01 松川 半山は江戸後期~明治時代の画家。別号翠栄堂、霞居、直水など。大坂の狂歌師鬼粒亭力丸の子。名所図会などの画家菅松峯に師事しました。狂歌本の挿絵や絵口合の絵を手掛け、後年には戯作者の暁鐘成と連携して、名所図会や案内記・絵地図類にて傑作を多く世に出しました。文明開化に即応する啓蒙書の著者としても活躍。
3-02 別号一梅斎、朝香楼など。はじめは芳晴、その後芳春と号しました。二代柳川重信、のちに歌川国芳の門人となります。本格的な活動期は弘化年間から明治十年代頃。美人画、武者絵のほか、大曲馬・蒸気車などの開化絵、おもちゃ絵、読本挿絵などを手掛けました。武者絵の代表作に《水滸伝豪傑鏡》(安政三年頃)がある。
3-03 俗名嘉造。歌川国芳の流れを汲む大坂の浮世絵師・中井芳瀧の門人。『古今博識一覧』(一八九一)の現存日本画人名一覧流派早見一覧には大阪の歌川派としてただ一人掲載されている画師です。幕末の役者絵が多く残されているほか物語絵などもあります。引札には花鳥を主としたものがあります。
3-04 明治時代の浮世絵師・郷土玩具画家。別号人魚洞・芳斎・碧水居。中井芳滝に師事しました。芳滝の遺志であった新聞、雑誌の挿絵や連載物のほか、シリーズ物の印刷風俗画作品「大阪名所」の制作を引き継ぎました。明治三十六年頃から郷土玩具への関心を高め、郷土玩具の素朴な美しさを写生画に残す傍ら、玩具の研究を行いました。
3-05 別号は翠軒。作画期は明治八年頃から二十二年頃までと考えられます。名所や祭事を描いた錦絵のほか、本の制作や出版にも携わります。著書に日本各地の説話集である『新文図説』など。文部省編集の書籍への作画を行ったり、天皇はじめ公家、軍人ら婦人、画工に至るまで様々な人物の肖像画を描いたりと、幅広く活動しました。
3-06 初代長谷川小信で、初代長谷川貞信の長男。父に絵を学ぶが、父の勧めで歌川芳梅にも学びました。役者絵のほか、文明開化期の世相や事件、風俗を描き、当時新しいメディアだった錦絵新聞も手掛けました。木版画以外に銅版画の作品もあります。明治十七年からは、中判が主流だった上方役者絵の大判を復活させました。
3-07 三代長谷川貞信のこと。二代長谷川貞信の長男。道頓堀各座の番付や役者の似顔絵集、立川文庫の口絵などを手掛けました。小信は後年、引札やそれに関わる絵師の話を残しており、それらは引札研究の重要な資料となっています。
3-08 明治~昭和時代の日本画家。別号夜雨庵。月岡芳年に浮世絵を学んだ稲野年恒に師事。明治中期から末期頃、新小説の口絵を手掛けました。明治四十三年文展で「すだく虫」が初入選。大正三年らは院展に出品。同六年に日本美術院同人。また、大正美術会、大阪美術会を結成し、大阪を拠点に美人画を描きました。
3-09 明治時代の浮世絵師。通称は雷之助。別号雷斎、蕾斎。月岡芳年の門人。名所風景画や人物画を描きました。西南戦争の立役者達を大判の大首絵で描いた「文武高名伝」(明治十年)や、戦争の場面を大判三枚続で描いた錦絵などが知られます。同年に鈴木雷之助の名で絵草紙『薩摩大戦記』六編を刊行しています。
3-10 明治時代の浮世絵師。大坂の人。通称は捨蔵、別号は公斎。鈴木年基に学びますが、葛飾北斎らの画風にならいました。挿絵の作例が多いものの、団扇絵や石版画の風景画作品も残っています。
3-11 田口年信は明治期の浮世絵師。別号に修斎、鮮中舎、国梅。月岡芳年や川端玉章の門人です。本姓は白井で、田口家の養子となったことから田口姓を名乗る。俗称信次郎。明治二十三年には大阪で活動し、新聞挿絵や講談本の口絵を描きました。晩年は東京で玉章に学び、日本画の通信教授を務めました。
3-12 浅田一舟は明治期の絵師。鈴木年基、武内桂舟に学び、風俗画家として大成しました。引札や団扇の図案制作を得意とし、挿絵も手掛けました。
3-13 島御風は、大坂の美人画家で知られる島成園の兄にあたります。大正から昭和の時代にかけて、引札や団扇などに絵を描く画工を生業とする傍ら、浅田一舟に師事して日本画家としても活躍しました。
3-14 大坂の浮世絵師・林基春の門人。別名広瀬楓斎。名所絵を得意としました。代表作に《伊勢名所 伊勢土産名所図画》(全八枚、明治三十年)、《大阪名所》(明治三十一年)があります。ほかに『大正橋心中』(大正四年)の口絵・表紙を制作しました。
3-15 現段階では『大日本絵画著名大見立』(明治三十五)の番付 東前頭の最下段に名前と住所(大阪清水町三休橋)を見つけることができますが、それ以外の記録がありません。引札も日本画家 今尾景年の引札コレクションに見本十二点を見る以外になく、未詳の作家と言わざるを得ない画家です。
3-16 明治期の富山浮世絵の代表的な絵師であり、日本画家。別号の越堂の名でも知られます。当初は四代歌川国政を師としたとされます。富山で版画、新聞挿絵や絵馬を手がけました。大阪に出て引札制作に携わり、東京に移った後は肉筆画を多く描きました。文展で活躍した弟の竹坡、国観と共に中央画壇で活躍し、尾竹三兄弟と称されました。
3-17 尾竹三兄弟の末弟。江戸時代末から明治にかけて富山で、薬のおまけとして作られた売薬版画(富山浮世絵とも言われる)の最盛期に活躍した絵師の一人です。日本画家でもあり、文展でも活動しました。
3-18 明治~昭和前期の日本画家。尾竹国一に学び、関西で活躍しました。また「サンデー毎日」連載の白井喬二作の「新撰組」などの挿絵も描きました。
3-19 号は日峯、五葉亭、白水など。鈴木廣貞に学び、のちに幸野楳嶺を師としたと言われています。明治二十四年の『古今博識一覧』の「日本画人名一覧流派早見一覧」には歌川派京都の木下廣信とあり、また『浮世絵師伝』では、初代廣信の門人(すなわち二代)で、柳唐、芦水家などの号もあり、初名は廣国であるとされています。
3-20 円山四条派を学んだ絵師・小荒井豊山の門で学びました。師豊山の画風を受け継いで、花鳥や山水画のすぐれた作品を描きました。晩年は襖絵や絵馬を多く手掛けています。
3-21 三島文顕の名は、数多くの引札の中に見られ、日本画家・ 今尾景年の引札コレクション二一六点の中に三十一点が含まれています。しかし、その経歴に関して残された情報は、戸田忠恕が出版した葛飾北斎画『浄瑠璃図絵』(明治二十四年九月)の奥付に北斎の絵を文顕が模写して版下を作ったという記録があるのみとなっています。
3-22 円山派の木下蘆州に学んだ画家として知られています。現在確認できる作品は非常に限られており、数少ない残存作品を見る限り、関西で引札を中心とした作画活動を行っていたと思われます。双六の作画もおこなっています。
3-23 明治~昭和の浮世絵師で日本画家。別号楽寿、昇竜館。通称は愛之助。掛軸作品や、皇室の御用杉戸絵、木版画の出版物など、多彩に創作活動を行いました。大阪にて浮世絵師で画家の三谷貞広に師事したのち、近代京都画壇の中心人物だった鈴木松年に師事しました。三十六年に第五回内国勧業博覧会で入選しています。
3-24 明治~大正の日本画家。錦絵の初筆は、明治十年の征韓論について描いた大判錦絵三枚続絵。活版印刷と洋装本普及期の中で、作画量随一の挿絵画家となります。明治二十年代は挿絵、錦絵の版下絵、日本画の制作と、彼の最も精力的な活動期です。著作に風俗を描いた錦絵『以呂波引 月耕漫画』があります。
3-25 画家の名は判明していませんが、このほかにもアルファベットでサインされた引札があります。いずれの作家も未詳。洋画家である可能性も考えられます。
第4章 引札に描かれた物語
新年に配布する引札には、新しい年の訪れを寿ぐ、長寿・富貴・商売繁盛・立身出世などの意味を持つおめでたい吉祥の図像が描かれていることがほとんどです。なかには鬼を退治して財宝を手に入れる桃太郎、正直者が富を得る舌切り雀の翁、努力によって村一番の農家となる種まき権兵衛などの、私たちもよく知る物語の一場面が描かれる引札も散見されます。これは、人々がそれら物語の中に勇敢さ・正直さ・勤勉さによって富を得るという、おめでたい面を見出したことによると思われます。
当時の人々に楽しまれた物語をご覧ください。
4-01 鬼を退治して財宝を手にする桃太郎の話は、明治時代の教科書に採用され、全国に知れ渡りました。幟の「日本一の大勉強」とは、日本一の大値引きという意味です。この桃太郎は品物をとても安く販売しているようです。
4-02 柴と斧の上に稲穂がたれて雀が集まってきています。画面右隅には財宝を手にしたお爺さんが描かれています。この組み合わせからは、舌切雀の話が思い出されます。親切心をもって毎日を送り、富を得るに至る話は、商売に携わる人々としても教訓であると同時に、めでたい物語でもあったのでしょう。
4-03 夫婦愛と長寿、人世を言祝ぐめでたい能「高砂」に見立てて若い男女が相生の松の下を掃いています。よく見ると、亀が種を蒔いて生えた「信用あつ木」「万しょうじ木」「万ほどよ木」から落ちる小金を集めているではありませんか。
4-04 太陽神の天照大御神が隠れた岩戸を天手力男神が引き開けて、暗闇の世界に光が差し込んだところです。光に重ねて名前を書いて、店が光で照らされているかのような演出になっています。
4-05 「戦に勝利するのであれば、魚が釣れる」という占いをして、見事アユを釣りあげてこの後の戦で勝利したという神功皇后の鮎釣り伝説が描かれています。この引札を使ったのはやはり生魚商、魚屋です。
4-06 讒言により大宰府に左遷された菅原道真が天拝山で己の無実を訴える場面です。浮世絵師 豊原国周も明治二十四年に似た図様の浮世絵を制作しています。よく見てみると、道真が掲げている紙には「祈商盛」と書いてあります。
4-07 源義経の母・常磐御前が、子ども達を連れて逃げる途中、松の下で雪をさける場面です。右上の色紙には「色かえぬ 常盤の松の千代かりて ひとえに願う 四方の御ひいき」の一句。常磐の松には冬の中でも色を変えない松の葉の意味があります。皆様の変わらないごひいきを願っていますというメッセージの引札です。
4-08 赤穂事件をもとにした主君のかたき討ちの物語、忠臣蔵の一場面です。かたき討ちの中心人物・由良助のもとへ、大星力弥が密書を届けたところ。忠臣蔵の中でも名場面とされています。由良之助は茶屋で酒を飲んでいるせいか赤ら顔に見えます。酒屋がこの引札を使う理由がそこにありそうです。
4-09 児島高徳は、元弘二年(一三三二)、後醍醐天皇が隠岐へ遠流となったとき、ただ一人が天皇救助を諦めずにその決意を桜の木に「天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず」と刻み、天皇を激励したといいます。勾践とは中国の春秋時代の越の王、范蠡は敗れた王・勾践を助けた忠臣。
4-10 仁徳天皇は民のかまどに煙が立っていないのを見て、民が貧しいことを知り、税金を取るのをやめ、自分も質素な生活をして宮殿が壊れても修理しませんでした。三年後、民は豊かになり、家々のかまどから煙が立つようになりました。添えられた句は「高きやにのぼりて見れば烟たつ 民のかまどは賑わいにけり」。
4-11 二宮尊徳(金次郎)は、年若い頃に薪を運ぶ間も惜しんで勉強して出世し、多くの村々を救ったことで知られる人物です。右の色紙の句の大意は、ひこばえ(孫生え 古株の根元から出る若芽)も花を咲かせるだろうから水を与えよう、というもの。
4-12 権兵衛は、まいた種を烏に食べられてしまう不器用な農民でしたが、努力を続けて村一番の農家になったと伝えられる人物です。添えられた句「勉強で種く おきゃくがはせくる 繁盛の…」の大意は、安売でお客が集まり大繁盛、というものと思われます。
4-13 竜宮城から帰った浦島太郎の玉手箱の上に、桃の形で囲った、松と梅が茂る蓬莱山が描かれています。茂る松と梅は松梅(ショウバイ)繁盛と読み取ることが出来、桃は中国から伝わる伝統的な長寿を意味するモチーフです。浦島太郎の話に富貴と長寿を得る吉祥性を見出した絵のようです。
4-14 現在の岐阜県の養老の滝には、そのそばで親孝行の青年が山で酒の泉を発見し、その酒で老父が若返った、青年が出世したなどの伝説があります。酒屋が使う引札にふさわしい題材と言えるでしょう。添えられた句は「養老の 瀧のほまれも 孝の徳」。
4-15 竹取物語、つまり竹取の翁によって竹の中から発見されたかぐや姫を巡る話です。今まさしく翁が赤子のかぐや姫を発見し、おくるみに包んで山を駆け下りているところが描かれています。後にかぐや姫は翁に富と不死の薬を授けることになります。富貴と長寿を得る物語と見ることもできるでしょう。
4-16 添えられた文章は「日本織物祖先 呉服 綾服。糸繰ノ元祖 綾服、織物ノ元祖 呉服。呉服ハ應神天皇の御代、始めて機を織り今に伝わる。依て織物を呉服と云ふ」。織物にまつわる数ある伝説の内のひとつです。
「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)」に続きます。
青木隆幸