展覧会の一枚 《妙法蓮華経 巻第五(鳥下絵装飾経)》 平安時代 11世紀

仏教の経典は「法身舎利(ほっしんしゃり)」と呼ばれることがあります。これは、経典は釈迦の教えを書き記したものであるから、舎利(釈迦の骨)にも等しい価値を持つものである、という意味です。
こうした考えにより、経典は仏そのものと同等の存在であると見なされ、崇拝の対象となりました。そして経典が崇拝の対象となるならば、経はそれにふさわしいかたちでなければならないということで、美しい意匠が施された写経が数多く制作されました。こうした経を、「装飾経」と呼び習わします。
とりわけ平安時代に天台宗により幅広い階層に広まった経典である『妙法蓮華経(法華経)』は、仏道にまつわる造形活動を「作善(さぜん)」、つまり仏教の善行のひとつとして説いていることから、時の貴族たちの間では、きらびやかに飾り立てられた『法華経』を作って供養することが、一種のステータスシンボルにもなっていました。
今回ご紹介する《妙法蓮華経 巻第五》は、こうした歴史的な背景のなかで作られた装飾経のひとつです。

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ただしこのお経、「装飾経」というわりには、あまりきらびやかに見えません。それどころか、黒いしみが全体に散らばっていて、美しさからほど遠い印象を抱くかもしれません。なぜこれが装飾経なのでしょうか?

実はこれ、もとからこんな色ではありませんでした。この経に散らばる黒ずみの正体は、銀なのです。
銀は空気に触れると、酸化して黒くなってしまいます。この経にはふんだんに銀泥(銀粉とにかわを混ぜ合わせた絵具)が用いられているのですが、1000年の月日を経て、真っ黒になってしまったのです。

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よく見ると、草花と舞い飛ぶ鳥達のすがたが描かれていることがわかります。このためこの経は、「鳥下絵装飾経」とも呼ばれているのです。今では黒くなっていますが、これが当初は銀色だったわけです。

銀が用いられているのはそれだけではありません。界線(経文の行を区切る線)にも銀が用いられています。

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また会場ではお見せすることはできませんが、経の裏にも美しい鳳凰のすがたが銀で描かれています。

制作当時の様子を想像してみてください。この経全体が美しい銀色に光り輝くさまが、目に浮かんできませんか?

銀は古来より七宝(仏国を荘厳する七種類の宝)のひとつとして重んじられるものでした。
また明瞭で目にも鮮やかな金に対して、月の光にもなぞらえられる清浄なきらめきを持つ銀は、平安中期以降の上流階級に好まれ、装飾の材料としてしばしば用いられました。
この経からは、これが制作された当時の、成熟した王朝文化の高い美意識をも感じ取っていただくことができるでしょう。

 

田中伝