初代中村雁治郎(1860-1935、成駒屋)は、地方回りの下積みから花形役者に上りつめた歌舞伎役者で「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と戯れ唄になるほど、その人気は大変なものでした。
芸に対する姿勢は貪欲で、絶えず研究を怠らず、酒が飲めない鴈治郎が酒乱の役を務めることになったときは、酒好きの役者を自宅に招いて酒をたらふくふるまって、大暴れするさまを観察し、その姿を舞台で再現して喝采を浴びた有名な逸話も残っています。
芸の道に真摯に取り組む姿勢や、社会を巻き込む人気ぶりは、竹内栖鳳ととてもよく似ています。異なる世界で生きる二人が気のおけない付き合いをしていたのは、きっと心の奥深くまで通じ合うものがあったからではないでしょうか。
ここでは、雁治郎と栖鳳がたびたび繰り広げた大宴会に関する記録に、当館所蔵の写真を添えてその交流ぶりを感じていただきたいと思います。飾りつけに工夫を凝らした会場で、栖軍・雁軍に分かれて様々なゲームを行い、豪華賞品があたる大掛かりな遊びです。「代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」など、盛り上げるための様々な仕掛けもありました。
それでは、二人の粋な遊びっぷりをご覧ください。
(栖鳳が語る大宴会の思い出)
話は期せずして顔見世興行に入り、今は昔、栖鳳君の御池の画室で、興行後の余興が例年行われたことに及ぶ。(竹内栖鳳)君は言う。
そのころ、成駒屋は顔見世に出演すべく汽車に乗ると、まず胸を打つのは、当の興行よりは御池の余興には、何を演じようか、何か変わった趣向もがな、とその事にばかり思いふけったそうで、それほど、この余興には力を入れてくれました。
ある時のこと、二十四孝の狐火の所作を、人形で見せてくれましたが、なかなか堂に入ったものでした。それは雁治郎が役者になる前、はじめは人形使いになろうと稽古したことがあるそうで、あのくらいの人になると、何をしてもソツはありませぬ。
また、ある時幸四郎が「汐汲み」を舞ってくれましたが、これも見事でした。その外、様々の俳優が思い思いの趣向を凝らして余興をしてくれましたので、この会合は年一年盛んになり、窓から外へ桟敷までして、大入満員、それでも入りきれぬほどの盛会でしたが、何分にも電気がゴウゴウと音を立てて鳴りだし、危険この上もなく、もし火事でも出して、近所合壁へご迷惑をかけるようなことになってはと心配して、四・五年前から、フッツリやめました。(掲載文献1)
(栖鳳の弟子が語る大宴会の思い出)
山本(紅雲) 素人顔見世をやっていましたな。先生の一番広い画室で、顔見世興行が終わった翌日に、大阪の中村雁治郎さんの一党だけ呼んでみんな芝居するんです。長いこと続けてやっていましたな。
池田(遙邨) ええ。魁車優がお夏狂乱を踊ったのですが、あの目が醒めるような派手な舞台衣装はいまでも目に浮かぶようです。
山本 芝居が終わったあとの余興に、おもりをつけた風船をうちわであおいで飛ばして、鳥居をくぐらせ、景品の名をしるした紙に風船が落ちた人には栖鳳先生の絵があたるというお遊びもあったのです。(写真1)
池田 扇子を投げる『投扇遊び』もやりましたな。栖鳳先生はそういう遊びが好きでしたね。(写真2) (掲載文献2)
写真1 大正(1912‐1926)前期
風船を煽いで鳥居をくぐらせて、商品を当てるゲーム。
写真2 第1回大会、明治36年(1903)頃
投扇興(とうせんきょう) 台にたてられた的に向かって扇を投げて、倒れた形で得点を競う。
写真2(部分)
柱にかかる、余興のルール
「・・・・・
一、競技中は座席を立去るべからず
一、栖軍競技に優勝し商品受領の場合、若し雁軍の代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」
写真3 大正(1912‐1926)前期
だるま競争
写真5 第1回大会、明治36年(1903)頃
ゲーム大会後の集合写真
掲載文献1
・「歳晩閑談(二) 竹内栖鳳画伯と語る」、『京都日出新聞』所収、日出新聞社、昭和4年12月20日
・平野重光編『栖鳳芸談』、京都新聞社、1994年、第9章「竹内栖鳳/芸事に遊ぶ」頁331
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。
掲載文献2
「美を語る9竹内栖鳳、師・竹内栖鳳の魅力とその作品、鼎談 池田遙邨(日本画家) 山本紅雲(日本画家) 田中日佐夫(美術評論家)」『アート・トップ』No.96 12・1月号所収、芸術新聞社、1986年12月1日発行 頁69
11月1日から開催の「竹内栖鳳」展には、竹内栖鳳と中村雁治郎一派が合作した作品を展示します。その絵を見るときには、この心温まる交流があったことを思い出してください。
さち
青木隆幸
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