竹内栖鳳夫妻のコスプレ画像が残されています。
栖鳳は、ただ着替えて遊んだのではなく、役になり切ることが作画のヒントになるはずだからやってみようと思い立った、というのですが、いかがでしょうか。コスプレをした時の状況が京都日出新聞に掲載されていますので、その記事に写真をさし込んで紹介いたします。また、この写真を目にした田中日佐夫(1932 – 2009)氏の見解もあわせて紹介いたします。
栖鳳さんはこれまで「紙治」を二度ばかり描いたことがあったそうだ。しかしどうも自分の気に入った製作が出来ない。いっそ成駒屋(中村鴈治郎)がやるようにすっかり扮装をしたら紙治の気分になれるかもしれない。その気分が味わい得たら必ず会心の作物が出来なければならぬ、とかねがね一度は自分自身が紙治の扮装をして、あの近松の戯曲のように、はた成駒屋の舞台のような甘い、柔らかい、そして悲しく艶々しい雰囲気へ自分自身を心ゆくばかりひたしてみたいと期していたそうであった。今度の顔見世に成駒屋に逢うて、今年こそぜひとも実現させたいというから脂はすっかりのってしまい、それは面白いとここに相談は一決して22日にいよいよ栖鳳丈の初舞台と本決まりになったわけである。本宅の方では来訪の人が絶えないから、まだ披露はしてないが嵯峨の別荘霞中庵でコッソリと一日を思う存分面白く遊ぼうの計画、もとより粋画伯のこととて嫌がる奥さんをまあまあ一期の思い出にこそと、役を収めてしまう。「恥かしうて出来ませんと申しましたがどうあってもやれと言われましたのでとうとうこんなことになってしまいました」ときまり悪げの嬌態は一層若く美しくみられる。さあこう決まれば同じ事なら一役では物足りない。治兵衛と重次郎との栖鳳さんの注文、奥さんは申すまでもない小春と初菊、それも月並みの衣裳やかつらでは気に入らぬ。成駒屋のをそのまま使いたいとあって俄かに番頭の喜助ドンが大阪へ走って万端残らず取り揃えて帰るとかつらを合わすやら身に合して衣裳の縫い直し、おかげで成駒屋の床山と衣裳方は前晩は一睡もできない。当日は朝寝を以てなる成駒屋もここにレコードを破って8時に起きる。9時過ぎには福助と自動車で嵯峨野の別荘へ乗り込むという破天荒、お昼頃からそろそろ扮装にかかる。栖鳳さんの顔は成駒屋がつくる。奥さんの方は福助が、承って箱登羅が万事世話役
という格で、床山や衣裳方は「えらい騒動だす」とあまりの大がかりな仕組みにたまげている。かつらから衣裳まで成駒屋のを身に合わせて直したもので出来上がるといつもの栖鳳さんではなくてやはり紙屋の治兵衛さんらしい。
「頭は合したときは痛かったが今日は痛い事ありまへん、顔は少々引っ張ります」と含み綿をして言いにくそうだ。しばらくする と奥様の小春が出来た。かつら付きの良いお顔でまったくもってお美しい事だ。「先生、奥さんに惚れたらいきまへんぜ」と成駒屋がからかう。栖鳳さん嫌がって奥さんを見てニタリ。「今向うの煮売屋で・・・・・」と揚幕を見た形、「河庄方」と舞台を見やった形、奥さんはまず立見とあってバックの前へ立ったが「ちょっと褄の取りようを教えておくれやす」と愛嬌をまく、
すかさず箱登羅が「出たての妓衆さんだから」と半畳を入れる。いろいろの型で一人一人の撮影がすむと、今度ははなれの茅屋で一緒の撮影、小春の長煙管の持ちように雁治郎も福助も余程工夫したがどうも気に入らぬ。座布団へかけておいてみたがまだ情景が調わない。とうとう横にして前へおくことになるとその次は尼ケ崎となる。準備のあいだ成駒屋の妻女お仙さん、梅玉夫婦、魁車、芝雀、長三郎、梅玉老の孫の牧治郎も加わって自動車で乗り込む。これより先に世話方格の先斗町山愛の女将をはじめ祇甲の美濃今からはおしげ、静子、染松等が繰込んでいることとてにわかに賑やかになる。重次郎は裃と鎧両方だ。「私は今度かつらを手に取って見ましたがなかなか美術的にできているのに感心しました。しかし舞台と違って、こうしてみると生え際が不自然ですな」前髪姿の栖鳳さんの声は莫迦に優しい。小春の時にしとやかに艶であった奥さんは初菊に至っていよいよ本役でゆかしい御姫様ぶりである。
成駒屋のお仙さんがつくづくと眺めつつ「私も一ぺんこんなことして貰いとうおますな」とかたわらに立っている雁治郎に言う。御大黙って笑うていると芝雀が「違いないこうして写すとよろしな」とお仙さんのかたわらへ行って握り拳を頭の上へやって叩く真似をする。魁車や福助が賛成して大笑い。彩管とっては思うがままに描き出されるほどの栖鳳さんだけに、素人とはいいながら一度成駒屋が格好をしてみせるとすぐにお手本通りのスタイルが出来上がる、奥さんとてもなかなか器用なものでめっぽう形がよい。むしろ画伯以上のお手際であるのにはいずれも驚かされた。
お仙さんや高砂家のお君さんは「私どもが扮装するのはいつでもできる仕事ですが、奥さんなどはホンマに一生一代どすな」と女は女連れ、話は弾む。「実は写真は皆さんがお越しになるまでに写してしまうつもりどしたが、時間が取れてえらいところを見られました。芝雀さんやらこんな姿をおめにかけるのはほんとに恥ずかしおすわ」と本役の京家を見やる。「イエどういたしまして、この肩から帯へかけてのやわらかみはどうしてもご婦人でないといけまへん。私どもはいくら気をつけてもやはりあきまへん」と魁車を見返る。
「ほんとに肩から胸、帯際へかけての線は女形ではとても駄目だす。さっき何ともなしに庭の飛び石の上に立ってござるのを横から拝見してつくづくやわらかい格好に感心してました。昔の女形やないと今のではあきまへんな」と芝雀へ渡す。「今の役者は何でもやりますさかい、自然あかんことになりますな」とはしなくも女形論というような話に実が入る。こんな風に別荘の一日はまことに賑やかに暮れて写真撮影の終わったのは6時ころであった。
「粋画伯の年忘」『京都日出新聞』、日出新聞社、大正5年12月24日
(平野重光編『栖鳳芸談』京都新聞社、1994年、頁327 – 330に再録)
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。
栖鳳が歌舞伎の役どころに扮して写真をとり、それを大小いろいろに焼きつけたものを、今も方々で見る。そういうところから考えると、栖鳳自身相当の変身願望があった人なのではないかなどと思わざるをえないのだが、それはともかく、栖鳳という近代画人がいろいろな歌舞音曲のたぐいに親しみ、人並み以上にそれに打ち込んでいたことは、近代芸能誌の問題としても興味深い事であろう。そのことが栖鳳の絵画創造の上にどのように作用していたかということを論じることは至難きわまることであるが、もしかしたら、天才栖鳳の、激情を秘めてともすればバランスをくずしそうになる人格や意識の流れは、この遊芸などによってあやうくバランスをとりながら、ゆたかに余裕のある心の世界を保っていたのかもしれないともわたしは思うのである。
田中日佐夫『竹内栖鳳』、岩波書店、1988年、頁288
さち
青木隆幸
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