大正7年(1918)、黒田天外(譲)は、長らく秘蔵してきた栖鳳渡欧時の手紙を冊子に仕立て『西遊鴻爪帖』と名付けました。その跋文には、手紙の由来や新聞に掲載した経緯などのほか、長尾雨山に句を、内藤虎南に題箋を、竹内栖鳳に箱書きを書いてもらって、ついに「天下至宝」となったと認められています。
間もなく天外は亡くなり、遺言によって、この書簡集は南市田家へ分与されたようです。その後の事はつまびらかではありませんが、途中、林道具店の手を経るなどして、現在は海の見える杜美術館で「天下至宝」として、大切に保管されています。
外箱
外箱に貼られた林道具店の紙
中箱 箱書き 竹内栖鳳「西遊鴻爪帖」
中箱蓋裏の栖鳳のサイン 「栖鳳題」
中箱を保護する紙蓋の裏側
「宗秀信士遺言により遺物として南市田家へ贈らる 大正八年十一月十五日」
黒田天外(譲)の生没年は寡聞にして特定できていなかったのですが、慶應2年(1866)生まれで記者を30年ほど勤めたとの伝聞や、大正7年夏を最後に活動記録が見当たらないこと、そしてこの一文などを鑑みて、天外は大正8年前半ごろ天寿を全うし、宗秀信士という戒名がつけられたと推察しました。
表紙 題箋 内藤虎南「西遊鴻爪帖」
句 長尾雨山「乾坤萬里眼」(杜甫「春日江村五首其一」)
跋 黒田天外(譲)
跋文の下書き
竹内栖鳳《港頭春色図》にまつわる周辺を、史料整理の現場から紹介するこのシリーズは、これでひとまず終わりです。
さち
青木隆幸