海の見える杜美術館から広島方面に向かう途中に村境の石柱がありました。
大野 宮内 村境
当館は旧大野村にあるのですが、大野村が宮内村と境を接していたのはこの場所であったのだと、静かに教えてくれました。
この石柱がある道は大昔からの由緒があり、江戸時代には五街道のひとつ西国街道として重要な役割を果たしていました。その時に定められた二間半(約4.5m)の道幅そのままに現在に至っています。そしてこの石柱の立つ場所は、紀元600年ごろの伝説がある大野四郎由来の四郎峠にあります。現在「エコセンターはつかいち」がある場所です。
日ごろ通いなれた道でしたが、この石柱にいざなわれて、清盛が、秀吉が、そして幕末維新の志士たちが駆けたであろう光景が日常の風景に重なってみえたような気がしました。
いつの時代に建てられたのか気になりますが、この石柱には日付の記述がありません。下限ははっきりしていて、大野村が大野町になる1950年(昭和25年)4月1日より前です。上限は両村の呼び名が江戸よりずっと前からあったのではっきりしませんが、風化の度合いなどからみて、明治22年の市町村施行時に村境を確定のために設けられたものでしょうか。皆さんはどうお考えになりますか。
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もりひこ