作品紹介 《夜討曽我絵巻》の富士山

気がつけばもう5月。広島はすっかり初夏の陽気です。

新型コロナウイルスの影響で、せっかくのゴールデンウィークは遠出のままならない休暇になった方が多かったことと思います。私も広島から離れられない毎日にそろそろ旅心がうずき、東京に向かう新幹線に乗って、車窓から5月の明るい空に映える富士山を眺めたくて仕方がありません。さて今回は、そんな個人的な旅心(あるいは関東出身者の里心)を慰めたく、所蔵品の中から《夜討曽我絵巻》に描かれた富士山をとりあげます。お付き合いください。

 

建久4年(1193)5月28日、曽我十郎祐成、五郎時致兄弟は、父の仇である源頼朝の重臣、工藤祐経を討つべく、頼朝が富士山麓で行った巻狩に参加します。日中も祐経を狙いますが好機を逃し、夜討によってその悲願を果たします。日本に数ある仇討ちの物語の中でも、曽我兄弟の仇討ちほど人々に愛され、文芸に影響を与えた物語はありません。物語として享受されるだけでなく、能や歌舞伎など芸能の主題として、もちろん絵の主題としても人気を博しました。幸若舞曲と呼ばれる芸能では、弟の元服から仇討ち後の兄弟の死までを6曲で語ります。特に、物語のハイライトにあたる最後の2曲「夜討曽我」(巻狩から仇討ちまで)と「十番切」(仇討ち後の決闘と兄弟の死まで)は人気が高く、屏風や絵巻、絵本の主題として盛んに制作されました。

ここにご紹介する《夜討曽我絵巻》もそのうちのひとつ。とはいえ普通は2、3巻程度のボリュームで描かれる「夜討曽我」を、この絵巻は9巻もの大部にしあげています。そのため、右から左へと巻き広げていく絵巻の横長の画面を効果的に使った非常に長大な場面が特徴です。9巻のうちでも最も力の入った見所は、頼朝の富士山麓での巻狩を描いた巻1でしょう。

狩野春雪筆《夜討曽我絵巻》 9巻のうち、巻1第2段 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館蔵

上の図は、巻1の第2段の図。右手に小さく見えるのは、富士の巻狩に向かう頼朝一行。その左手には裾野の浅間神社に続いて雪を頂く富士山が大きく描かれます。さらにその左には田子の浦、画面手前に三保の松原、左端には清見寺が見えます。この場面は実に約430センチもの長さです。

この絵の主眼は、物語の場面描写の域を超えて、周辺の名所を含めた富士図を描くことにあるといえます。この絵巻を描いたのは狩野春雪という江戸時代初期の狩野派の絵師です。この時代の富士山、とくに幕府の御用絵師を勤めた狩野派の描く富士山は、関東を拠点に日本を支配する徳川将軍の権力の象徴、あるいは将軍そのものを象徴する存在だったと考えられています。この富士とともに描かれる頼朝は、関東を基盤にした武家の支配という偉業を成し遂げた最初の将軍として、徳川将軍に重ねられたことでしょう。

 

さて、そのような文化的背景はあるものの、この絵自体に威張ったような、堅苦しいようなところはあまりなく、描かれた景観は明るく晴れやかです。富士山は悠々とした山容を表し、山麓の鮮やかな緑と富士山頂の雪の白の配色が、夏の景色であることを示します。細かく描き込まれた人物はどこかかわいらしく、人々の営みが描き添えられた田子の浦は、穏やかな雰囲気です。

富士山麓に向かう源頼朝の一行。赤い傘を差し掛けられた白馬に乗る人物が頼朝です。

富士山麓に向かう源頼朝の一行。赤い傘を差し掛けられた白馬に乗る人物が頼朝です。

拡大図2

仇討ちが行われたのは旧暦の5月28日。山頂に雪を残しながらも、裾野には鮮やかな緑が広がり、晴れやかな夏の富士が描かれます。富士山にかかったもくもくとした輪郭の瑞雲は、富士が神聖な山であることを示します。

三保の松原と清見寺

細々と人々の営みが描き込まれます。田子の浦の名物「塩焼き」を行う人たちも。

三保の松原と清見寺

三保の松原と清見寺

新幹線や飛行機などの交通機関の発達で、私たちはそんなに無理をせずとも遠方に旅することができるようになりました。ですが今のような思うままに出かけることができない状況の中にあって、絵に描かれた場所への旅心を育ててみると、また違った感慨があって楽しいものです。江戸時代の人々も同じような旅への憧れを持って絵を眺めていたのだろうかと想像しています。

 

ところでこの絵巻、他にも色々と面白い見所が多いのです。大部の絵巻なのですべての図をご覧頂くことはなかなか難しいのですが、今後も機会をつくってご紹介できればと思っています。

 

谷川ゆき