杜の遊歩道では、紅葉が散り始めました。
そして同時に、ジュウガツザクラの花が満開になりました。
ツワブキの花も満開です。
この白い花は季節外れのシラユキゲシでしょうか?
「幸野楳嶺 近代京都画壇の開拓者」展会場と駐車場の間は
紅葉と季節の花々をお楽しみいただける「杜の遊歩道」でつながっています。
坂道です。そして歩くと20分前後はかかります。ごゆっくりお楽しみください。
もりひこ
杜の遊歩道では、紅葉が散り始めました。
そして同時に、ジュウガツザクラの花が満開になりました。
ツワブキの花も満開です。
この白い花は季節外れのシラユキゲシでしょうか?
「幸野楳嶺 近代京都画壇の開拓者」展会場と駐車場の間は
紅葉と季節の花々をお楽しみいただける「杜の遊歩道」でつながっています。
坂道です。そして歩くと20分前後はかかります。ごゆっくりお楽しみください。
もりひこ
現在開催中の「幸野楳嶺―近代京都画壇の開拓者―」の展覧会紹介動画をYoutubeにアップしました。
今回、図録にもご寄稿いただいた研究者のお二人をお招きし、幸野楳嶺と今回展示している作品について詳しく解説いただきました。
前半
後半
大変充実した内容になっおりますので、ぜひご覧ください。
森下麻衣子
10月31日(土)より、海の見える杜美術館では「幸野楳嶺―近代京都画壇の開拓者―」展を開催しております。
幸野楳嶺という画家をご存じでしょうか?近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳や菊池芳文を教え導いた師匠で、美人画の上村松園も短い間ではありますが、その教えを受けています。日本初の公立の絵画の学校、京都府画学校の設立に向けて、尽力したことでも知られています。栖鳳たちの活躍は、楳嶺という人なしにはなかった、かもしれません。
幸野楳嶺《馬猿図》 1877年(明治10)
今回の企画では、第一章「はざまの時代の画家 幸野楳嶺」で、楳嶺が描いた花鳥・人物・風景の作品を、第二章「楳嶺を取り巻く人々」で楳嶺の師の中島来章や塩川文麟、盟友の久保田米僊、弟子の栖鳳、芳文ら画家たちの作品を、第三章では「教育者としての楳嶺」と題し、画塾で用いた資料、画学校に寄贈した名品《孟母断機図》、画家たちの手本として発行された画譜類などを展示しております。豊富な作品と資料で、画家・楳嶺の画業、生きた時代を多角的にご紹介する展覧会となっています。
会期中、このブログと当館のインスタグラムで会場の様子や作品をご紹介していく予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
ところで、展覧会に来てくれたお客様が、第二章「楳嶺を取り巻く人々」で展示中の、鈴木松僊《月下蝙蝠図》をご覧になって「ハッピーハロウィンですね」とコメントをくださいました。
鈴木松僊《月下蝙蝠図》明治時代
こちら、実は初公開。松僊の父、鈴木松年が描く《旭日群雀図》と対になっている作品です。松年は楳嶺とライバルのような関係だったと伝えられる画家で、楳嶺を取り巻く人々の一人として紹介しております。
蝙蝠は中国由来のおめでたい意味を持つモチーフですので(「蝠」の字の音が「福」と同じであるため)、中国や日本の絵画、工芸によくあらわれます。ハロウィンのために描かれた絵ではないのですが、雰囲気は確かにぴったりですね!はからずも10月31日のハロウィンに開幕したこの展覧会に、こんなにかわいらしい蝙蝠が出ていることを、その日のうちに気づいてアップできたらよかったです。…という、ちょっとした後悔でした。
展覧会は12月27日(日)までの開催です。美術館に併設されている遊歩道の木々も紅葉が始まり、散策するのにもいい季節です。ご興味を持っていただければ幸いです。
森下麻衣子
こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。ヨーロッパにおけるコロナウィルス流行の第二波により、海を越えた香水散歩がままならない昨今。そのようなときこそ、うみもりの香水瓶コレクションを眺めながら、追憶のなかの香水散歩をしばし楽しみたいと思います。
今回の散歩の友となるのは、こちらの香水瓶です。👇
《香水瓶》イタリア ヴェネツィア、1690年頃、ラッティモ・ガラス、クリスタッロ、銀に金メッキ、海の見える杜美術館所蔵 PERFUME FLACON, Italy,Venice,Ca.1690, Lattimo, cristallo, gilt silver, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
名画を所蔵するヨーロッパ各地の邸宅美術館を訪れると、家具などの調度品や蔵書はもちろんのことですが、邸宅の所有者とゆかりのある陶磁器やレース等の優れたコレクションにもしばしば出合います。
例えば、充実した工芸品コレクションとして真っ先に思い浮かぶのが、ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館です。イタリア・ルネサンスの画家サンドロ・ボッティチェッリによる聖母子像のなかでも個人的には、聖母マリアの憂いを含んだ表情ゆえに最も美しいと感じる《聖母子》(1480年頃)を有する美術館ですが、地階のごく目立たない片隅に、ポルディ・ペッツォーリ家と同じミラノに住む、さるレディたちから寄贈された膨大なレース・コレクションが展示されています。
それが、どのくらい目立たない場所かと申しますと……このような感じです!
おわかりになられましたか!? 映像コーナーの右側にある、黒い大きな四角い棚です! 一見、壁と思われますよね!?(少なくとも私は思ってしまいました~!) ですので、レース・コレクションの存在をあらかじめ存ぜず、写真の奥にあるクロークにコートを預けにいった帰り際に、偶然その存在に気付いたときの驚きといいましたら! ちょうど棚を引き出しておられるご婦人がいらしたおかげで、ようやく知ることができたのです。
早速、好奇心にかられて、自分でも引き出してみました!👇
なんとなんと、ケースの表にも裏にも、しかも中央から下の引き出しになったその下段まで、大量の美しいレースと刺繍が収められています。それはまた、いかにもこの北イタリアにふさわしいコレクションでもあります。というのも、ヨーロッパでレース編みが考案されたのは、さかのぼること500年前の15世紀、北イタリアに位置するかつてのヴェネツィア共和国のブラーノ島であったとされているからです。
ヴェネツィアのレースは、その後、瞬く間にヨーロッパ諸国の王侯貴族たちを惹きつけ、一大流行を起こします。イングランド王リチャード三世はじめ各国の王家の肖像や、オランダの裕福な市民たちの肖像画で、幾度となく目にしてきた、黒や暗い色の服の襟元や袖元を輝かせる純白のレースは、実際にはこれほどまでに巧緻なレースであったのかと、ケースを引き出すごとに、感嘆のため息が出てしまいました。
ところで、ケースの上部に掛けられた肖像画の女性も身に着けている、ラフと呼ばれるエリマキトカゲのような巨大な襟は、16世紀、17世紀と長きにわたって愛用されたものでした。かようにも大きすぎる襟(しかも、パリっと糊付けされて、大きなものは針金入り!)では、首の動きもままならず、食事をとるにも難儀であったことでしょう。ですから今日の感覚からすれば、その実用性のなさから一時の流行としてすぐに廃れそうなものですが、当時はかえってその制限された動きが、優雅で厳粛な印象を与えるため上流階級で好まれたといいます。身に着ける装飾品も重要ですが、物腰もまた、しかるべき地位を表すのに欠かせないもの。レースは、見た目の美しさだけでなく、纏う人の理想的な立ち居振る舞いまでも叶えるものであったがゆえに、何世紀にもわたって愛用されたのですね!
さて、レースが富と権威の象徴であった時代、ガラスにおいてもレースを模したものが作られました。それを実現したのは、またしてもヴェネツィア共和国の、中世より卓越したガラス製造技術を誇った職人たちでした。彼らは、美しく精緻な当地のレース模様のグラスやコンポート、水差し等のガラス工芸品を生み出しては、人々を驚嘆させました。
今回のうみもり香水瓶コレクションとしてご紹介する作品も、まさにそのようなひとつです。
本作品には、ヴェトロ・ア・レトルティと呼ばれる、熟練した二人の職人が糸ガラスに捩れを入れながら引き伸ばしを行い作る複雑な螺旋形によるレース模様が、3種類も施されています。しかも、黒地の服が白いレースを引き立たせていた対比の効果を思い起こさせるかのように、上下にあしらわれた硬質の銀製の彫金細工が、レース模様のしなやかさを一層際立たせています。
見る者をうっとりとさせる模様の素材は、レースと同様に当時の富と権威の象徴であった東洋磁器の持つ白さに似せて作られたもので、ラッティモ・ガラスという名の白ガラスです。東西の文物が出合い、唯一無二の美しい逸品が次々と生み出されていた活気溢れる海運国家ヴェネツィアを代表するこの香水瓶には、一体どのような香りがおさめられていたのでしょう。この香水瓶を前にすると、追憶の香水散歩から、さらにさかのぼった時代への夢想の香水散歩へと誘われてしまうのです。
岡村嘉子(クリザンテーム)
お気に入りのヴェネツィアの香水店のショウ・ウィンドウ、2018年
「歌仙をえがく」展も会期を残すところ1週間ほどとなりました。
王朝の雅を伝える存在として和歌とともにしばしば絵に描かれてきた歌仙たち。その存在は、江戸時代も中期以降になると、絵入り版本の流通とともに庶民の教養としても浸透していきます。また歌仙や彼らの詠んだ和歌は浮世絵の主題ともなり、しばしば「見立て」の手法で、当世の美人や役者にそのイメージが投影されていきます。
今回の展覧会では、三代歌川豊国(国貞)による《見立三十六歌撰之内》を36枚まとめてご覧いただけます。展覧会後半の見所です。
この作品は、役者見立絵です。歌仙の名とその和歌が色紙形の中に書かれ、劇中の登場人物の名が役者の似顔絵に添えられます。登場人物と、歌意や歌のモチーフ、あるいはそれを詠んだ歌仙の境遇などの間に連想されることを読み解き、描かれている人物が登場するのはどの演目か、さらに、似顔からどの役者であるのかを当てることが、この作品を見る際の楽しみ方だったようです。
謎解きはなかなか難しく、よほどの歌舞伎通で、かつ和歌や歌仙に明るくなければできなさそう。会場には柿本人麻呂などほんの数人分ですが、謎解きの解説のパネルをつけました。江戸の芝居愛好者の教養をぜひ追体験してみてください。浮世絵自体も力強く、見応えがあります。
YouTubeに画像をゆっくりご覧頂ける動画にしてアップしました。ぜひお楽しみください。
https://www.youtube.com/channel/UCyOWfAm66u_WefHCAvhlPkA
谷川ゆき
こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。空に浮かぶ雲の形や風の匂い、虫の音が変化し、日一日と秋らしくなるのを感じると、私はこれから出合う芸術への期待で胸が高鳴ります。秋の夜長の友として、どのような文学を今宵は選びましょうか――。おりしも、現在当館では、日本の古典文学を彩る歌仙たちの肖像を描いた歌仙絵の展覧会「歌仙をえがく―歌・神・人の物語」展が開催中です。
そこで今回のうみもり香水瓶コレクションは、芸術の秋に相応しい文学にちなんだ香水瓶をご紹介いたします。 こちらです👇
1906年発売のキャロン社の香水「シャントクレール」のためにデザインされた本作品は、一見するとごくありふれた香水瓶ですが、ぜひ金色のラベル部分にご注目ください。雄鶏が刻まれていますね。
このモデルとなったのは、フランス中世文学作品のひとつ『狐物語』に登場する、狡賢いキツネに一矢報いた雄鶏シャントクレールです。内容が滑稽味溢れるものであったことも影響したのでしょうか、『狐物語』は、フランスはもとよりヨーロッパ諸国にも写本によって広く親しまれました。その影響は大きく、18世紀末には、ゲーテがこの物語集から着想を得た『ライネケ狐』を執筆したほどです。
ところで、シャントクレールという名前には、フランス語で、澄んだ声で(クレール)歌う(シャント)という意味が隠されています。それは、歌によって夜明けを知らせる鳥である鶏のイメージと重なります。香水瓶に祝祭のように明るく華やかなイメージを求めたデザイナーのフェリシ・ベルゴーにとって、まさにぴったりのイメージソースであったといえるでしょう。
また、この香水瓶の発売と前後して、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者、エドモン・ロスタンも雄鶏が活躍する戯曲『シャントクレール』を執筆し、パリでの上演で好評を博していたことも見逃せません。
雄鶏は、フランスの国鳥でもあります。香水瓶の発表当時、ドイツと緊張関係にあったフランスの人々は、高らかに歌う国鳥をモティーフにした本作品や文学によって、愛国心を募らせたのかもしれませんね。
はるか中世の写本の世界についても、18世紀末のドイツ文学についても、20世紀初頭のヨーロッパの情勢についても、おおいに物語ってくれる香水瓶です。
岡村嘉子(クリザンテーム)
9月5日から「歌仙をえがく」展が始まりました。
「歌仙(かせん)」とはいささか耳慣れない言葉でしょうか。古来宮廷文化を支えた和歌は、そもそもは単なる文芸ではなく、神仏と人のコミュニケーションを司る神聖な役割をそなえたことばでした。そのような和歌に長けた歌人達は歌仙とよばれ、尊敬を集め、時に信仰の対象となりました。歌仙たちは平安の雅を伝える存在として、和歌とともにしばしば絵に描かれ、その肖像は「歌仙絵」と呼ばれます。
この展覧会では、海の見える杜美術館の所蔵品のなかから江戸時代の作例を中心に、絵に描かれた歌仙たちの姿をご紹介します。
今回、展覧会のポスターやチラシには、土佐光起が描いた《三十六歌仙画帖》をデザインしました。土佐光起(1617〜91)は、宮廷絵所預として活躍した江戸時代のやまと絵を代表する絵師のひとり。王朝の雅を伝える歌仙を描くにふさわしい絵師と言えるでしょう。
土佐光起《三十六歌仙画帖》のうち、「小野小町」 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館
この図のように、歌仙の名前と和歌を書いた色紙と、歌仙の肖像が組み合わされています。
鮮やかな色彩と繊細な筆致が魅力です。
会場にも同じ光起の作品を配しました。写真は1階エントランスの様子。
1階の廊下には、みなさんもきっと名前や和歌を聞いたことがある有名な歌仙5名を選んで大きく引き延ばしました。柿本人麻呂、小野小町、在原業平、紀貫之、斎宮女御です。光起の作品自体は本当に小さいのですが、ここでは歌仙を1メートル以上の大きさに。細かい着物の模様や、繊細な線を間近にご覧いただけます。ぜひ会場でお楽しみください!
向かい側にはやはり光起の《三十六歌仙画帖》を用いて、三十六歌仙(平安時代の貴族藤原公任が撰んだ歌の名手36人)の和歌と略歴を紹介するパネルを設けました。お気に入りの歌仙を見つけてみてください。
まだ日中は残暑が続きますが、朝や夕方は杜の遊歩道も歩きやすい季節になりました。海杜テラスから見る宮島は秋の空に映えて今日も見事です。初秋の一日、海の見える杜美術館で、平安の雅を伝える華やかな歌仙絵と、美しい自然を満喫する時間をぜひお楽しみください。
海の見える杜美術館では、明日8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。
展覧会の紹介と過去のブログは、
に掲載してあります。
今回は本展でも多数展示している歌川広重の名所絵と当時流行した版本の関係について紹介します。
江戸時代後期、宿場や街道が整備され安全で長距離の移動が可能になると、庶民の間で旅ブームが起きます。そのような中で京都の名所を集めた『都名所図会』(秋里籬島編著、竹原春泉斎画、安永9年(1790))が刊行され、短期間で数千部が売れるベストセラーになりました。そのヒットを皮切りに次々と名所図会が刊行され、18世紀末から19世紀初めにかけて名所図会ブームが起こります。これに触発されて名所案内記や道中記、旅を題材にした狂歌本など、他の地誌類の版本の刊行も盛んに行われるようになりました。
版本の流行の背景には、旅ブームや本の内容の充実度以外に、浮世絵師によって緻密に描き出された挿絵の役割の大きさも指摘されています。
そして、浮世絵師達は名所絵を制作する際に、これらの版本の挿絵を種本として利用しました。特に名所図会の最高傑作といわれる『江戸名所図会』(斎藤月岑編著、長谷川雪旦画、天保5-7年(1834-1836))は多くの絵師が種本としました。
名所絵の名手であった広重もその一人で、彼は『江戸名所図会』の挿絵をもとにした名所絵をいくつか残しています。
その一つが、現在展示している作品番号16-1.《東都名所 道灌山虫聞之図》(天保10-13年(1839-1842))で、これは『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」に依拠しています。
上:『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」 国立国会図書館蔵
下:《東都名所 道灌山虫聞之図》
手前の坂道を上る女性達や、右奥の筵に座って月見をする男性達、地平線にのぼる満月などその図様の多くが「道灌山聴虫」に倣っていることが分かります。
しかし、よく見ると手前の女性に比べて奥の男性が小さく描く、坂に松の木をもう一本描き加え、手前の松との大小比によって奥行きを表現するなど、画中の遠近感を高めていることが分かります。
このように、広重は版本を参考にしながらも、そこに独自の工夫を加えることによって、より実景に近いリアルな絵に仕上げていました。
展覧会もいよいよ明日で終わりです。まだまだ暑い日が続きますが、頑張っていきたいと思います。
大内直輝
こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今回も、ぜひ皆様のお目にかけたい、当館の香水瓶コレクションの選りすぐりの作品を紹介いたします! 今回はこちらの作品です。
ファベルジェ社《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク、1895-1900年頃、水晶、サファイヤ、金、ギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵 海の見える杜美術館所蔵。
FABERGE, PERFUME FLACON, C.1895 – 1900, Rock crystal, sapphire, gold, Propriety:King Georges I of the Hellenes, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
本作品も、第1回に登場したファルベルジェ社の作品と同様、2007年までギリシャ王室にて代々引き継がれたゲオルギオス1世旧蔵の香水瓶です。前回の香水瓶とは対照的に、あっさりとした造形の本作品においても、ファベルジェ社らしい卓抜した技術による仕上げに、思わずため息が漏れてしまいます。
掌におさめると、ずっしりと重く硬さもあります。それは、ガラスでもクリスタルでもない、水晶ならではのもの。クリスタルや多様なガラス加工の香水瓶が既に普及していた時代を考えれば、それは特別なことでした。
1917年のロシア革命によりファベルジェ社の記録が一部失われたため、本作品の購入者はいまだ謎に包まれていますが、どなたかがゲオルギオス1世に贈った可能性が先行研究において指摘されています。
水晶に刻まれたなだらかな曲線は、そのまま金の栓にもつながり、頂点のサファイヤに達します。希少な天然物を用いて、色を極力排したシンプルな造形は、ほぼ同時期に興隆したウィーンのモダン・デザインをも連想させます。
時代の先端を行く、極上のシンプル・モダンを体現した香水瓶。一分の隙もない、完璧なフォルムを見ていると、この趣味の持ち主への興味が尽きません。
岡村嘉子
海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。
展覧会の紹介と過去のブログは、
https://www.umam.jp/blog/?p=9873
https://www.umam.jp/blog/?p=10128
に掲載してあります。
今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。
現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。
江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
満開の桜が咲き誇っています。
その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。
しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。
吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。
1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。
もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。
最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。
江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。
その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。
そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。
以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。
今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?
大内直輝