春季特別展「美人画ラプソディー 近代の女性表現」5月31日まで
駐車場からの美術館までの沿道で、トベラの花が満開になっています。
感染対策のために、場内のシャトルは窓をすこし開けて走っているので
トベラの花の甘い香りが、車中まで届くかもしれません。
もりひこ
春季特別展「美人画ラプソディー 近代の女性表現」5月31日まで
駐車場からの美術館までの沿道で、トベラの花が満開になっています。
感染対策のために、場内のシャトルは窓をすこし開けて走っているので
トベラの花の甘い香りが、車中まで届くかもしれません。
もりひこ
皆様こんにちは。
現在、当館は「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」と題し、近代の日本画家たちによる多様な女性像をご覧いただく展覧会を開催しております。
4月初旬より休館しておりました当館も、皆様のご協力をいただきながらではございますが、5月19日から再開することとなりました。
↓ご来館にあたってのご注意は以下をご覧ください。
現在の会場風景。近代の画家たちの個性あふれる女性表現をお楽しみいただける展覧会です。
美術館は開館しておりますが、ご自宅でも展覧会をお楽しみいただけるよう、会場風景や作品の解説を動画にてお届けいたします。
下記URLからご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=t55WW3l0GzU
展覧会場の雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。
森下麻衣子
(重い本の包みを持って歩いたグラース国際香水博物館付近の通り)
こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。「香水散歩」開始以来の変化のときが訪れました。これまで、ヨーロッパや日本の町を旅しながら香りに関して思うところや最新情報をお届けしてまいりましたが、世界的な新型コロナウィルスの蔓延により、その「旅」ができない状況になりました。
けれども、表題に掲げた「散歩」までできなくなったわけではありません。物理的に体を使った散歩はできないまでも、精神における散歩はこれまで通り続けられるのではないでしょうか。そのような思いを強めてくれるのが、読書や、DVD及びネットから配信される映画や音楽の鑑賞です。それらによって、私たちはあらゆる時代のあらゆる場所へ思いを馳せることができます。それは、美術館の所蔵作品についての知識を深めてくれたり、また美術館の所蔵品となる以前にその作品がどのような人物たちとともにあったかを伝えてくれたりします。
しかもそれらは、またいつか自由に出歩けるようになったら、この作品を見に行こう、この香りを嗅ぎに行こうという未来への希望を抱かせてくれるのです。世界は広く、素晴らしい宝物や尊い存在に満ちている―—そのように私が思わずにはいられなくなった書籍や映画を、この機会にご紹介していきたいと思います。
「ポール・ポワレ クチュリエ・パフューマー」展図録 グラース国際香水博物館、2013年
今回ご紹介するのは、第6回と第7回「香水散歩」でもお馴染みの南フランスのグラース国際香水博物館で開催された、2013年の夏の展覧会の図録です。本書は、この博物館を訪問した際、ミュージアムショップで購入した大量の本のうちの一冊です。その日私は購入した本を1回では持ち帰れずに、ふうふう言いながらホテルと博物館を2往復することとなりました。なぜそんなにも大量に買ってしまったかというと、まもなくミュージアムショップの書籍コーナーを模様替えするとのことで、書籍の在庫セールをしていたのです!
いずれの書籍も、他の都市やインターネットではなかなか見つけられない貴重なものばかり。これも何かのご縁と自分に言い聞かせて、気になるものはすべて買ってしまいました。大量のまとめ買いの常として、じっくりとそのすべてに目を通すことはなかなか叶いませんでしたが、外出が制限されたこの特別な大型連休期間のおかげで、ようやくそれができました。
本書は、20世紀前半に活躍したフランスのファッション・デザイナー、ポール・ポワレの香水分野における仕事を網羅的に紹介しています。世界の香水の一大産地、否、香水産業の首都たる威信をかけて、グラースの地で開かれる展覧会の図録に相応しく、ポワレの香水を様々な角度から取り上げた論文が豊富な資料と共に多数収録されています。驚いたことに論文執筆者の中には、「香水散歩」でも何度も取り上げている今日を代表する調香師ジャン=クロード・エレナも含まれています。そのため、今まで不明瞭であったところや、あまり語られることのなかった部分も明らかにしてくれる、大変充実した構成の一冊です。また、ポワレの革新性を伝えるために、ポワレ登場以前の香水産業の歴史が詳述されている点も、私としては嬉しいところです。
さて、ときに「革命児」とも呼ばれるポワレの革新性とはどのようなものであったのでしょうか。せっかくですから、海の見える杜美術館の所蔵作品とともにそれをお伝えしたいと思います。なにしろ、当館にはポワレが手掛けた香水分野の作品がいくつも所蔵されているのですから!
ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)《ロジーヌ社》1911年、リトグラフ、海の見える杜美術館所蔵
ポワレの革命児ぶりを余すことなく伝えるのは、まずはこちらの作品でしょう。画面下部のフランス語は「ロジーヌ社」と書かれています。本作品は、イラストレーターのジョルジュ・ルパップの筆による、1911年にポワレが立ち上げた香水製造会社、ロジーヌ社のリトグラフです。シャネルしかり、ディオールしかり、服飾メゾンが香水を発表するという、現在ではごく当たり前のことも、当時にあってはまだ珍しいことでした。そのような中、ポワレは自分のドレスの仕上げには香水が欠かせないと、香水分野に積極的に乗り出して大成功をおさめたのです。
彼を成功に導いた要因の一つは、イメージ戦略ともいえる様々な試みです。ポワレは、贅を尽くした美しいドレスを提供するだけではなく、そのイメージを人々の心に深く刻ませようと努めました。そこで彼はとりわけ広報部門を重視します。そのために、様々な分野のアーティストたちを協力者として採用したのです。とりわけイラストレーターは重要な役割を担いました。ポワレのドレスを纏う女性たちのファッション・イラストを一冊の冊子にまとめて顧客たちに配ったのです。カタログの配布も、今日では名だたるメゾンで頻繁に行われていることですが、ポワレはその元祖であったと言われています。
このイラストを描いたルパップも、ポワレのイメージ戦略の重要な協力者の一人でした。ルパップは、ポワレのドレスを纏って、こんな夜会に出てみたい、こんな風にテニスをしてみたい等、具体性を持った夢を抱かせるイラストを次々と描きました。それらに加えて、自らの感情に忠実な女性の姿態――例えば、「倦怠」を主題に、物憂げにのびをする女性等――を描くことで、見る人の精神の奥深くにまで巧みに訴えました。彼のドレスを纏えば、自らの欲望や感情をより露わにできる新時代の自由な女性になれるのではないかと夢見させたのです。
さて次は、描かれた女性の装いを見てみましょう。ポワレは第10回「香水散歩」で登場したマリアーノ・フォルチュニとほぼ同時期に、女性のドレスのシルエットを激変させた一人です。それまでコルセットで締め付けられていた女性のウエストは、胸の下からゆったりとしたドレープが広がる彼のドレスによって解放されました。それには、フランス革命直後からナポレオン1世誕生までの間に流行した、ディレクトワール・スタイル〔新古典主義様式、1795-1803〕に着想を得たと言われています。なるほど本作品でも、ハイウエストですね。
さらに詳しく装いを見てみましょう。羽根飾りのついたターバンやハーレム・パンツ等の東洋の影響が色濃く出ていますが、これもまたポワレの仕事を特徴づけるものでした。これにはあるイメージソースがありました。それは、このリトグラフが世に出る1年前、パリではセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス〔ロシアバレエ団〕による演目「シェエラザード」が上演され、パリの人々を熱狂させていました。ほどなくして「シェエラザード」という名のナイトクラブが開店するほどの人気ぶりであったといわれています。
『千夜一夜物語』に想を得たこのバレエの舞台は、東洋の国ペルシアの王宮にあるハーレムでした。ポワレは、すかさずそのイメージを活かしたドレスを制作します。本作品の女性も、ハーレムに住まうオダリスク(女奴隷)とみなされています。描かれた場所が東洋であることは、部屋の設えからもわかります。彼女は西洋の生活では基本となる椅子には座らずに、色とりどりのたくさんのクッションに囲まれているのですから。
しかしここで一つの疑問が浮かびます。王の寵愛をもってしか生きられない女奴隷のオダリスクを、パリ上流階級の女性たちが憧れの対象としてみなしていたのでしょうか? どうやらそのようなわけではないようです。バレエ・リュスの演目「シェエラザード」に登場するオダリスクや王の妻は、19世紀にドラクロワやアングルが描いたハーレムの女性たちとは異なる性質を持っていました。20世紀の彼女たちは、男性の絶対支配に従うだけの女性ではもはやありませんでした。その姿が、当時のパリの上流階級の女性たちの目には、斬新で進歩的で魅力的なものに映ったようです。
ポワレが東洋のイメージを活用したのは、ドレスや広報物に留まりませんでした。彼は、この東洋的なドレスを人々に着せて、大祝宴を開きました。その祝宴の名は「千二夜物語」(洒落ていますね!)。 その際、彼は庭に、香水を振りまいて、魅惑的な匂いがたちこめる場を作り出しました。使用された香水は、「ニュイ・ペルザン」、フランス語で「ペルシアの夜」と名付けられた香りです。加えて帰り際には、招待客にこの香水瓶をお土産として渡しました。香水瓶の蓋をそっと開ければ、いつでも香りとともに、パーティの楽しかった時間が蘇ってくるのです。これほど深い印象を、しかも長く抱かせることはないでしょう。
このたった一枚のリトグラフは、彼のドレスも、彼を取り巻く芸術の協力者たちの顔ぶれも、独創的なパーティの演出や香水も、また当時のパリの流行をも物語ってくれるものなのですね。
最後にここでちょっとマメ知識です。ポワレの香水の会社名はなぜ他の服飾メゾンのようにブランド名ではないのでしょうか? 彼の香水会社名の「ロジーヌ」は、フランスの女性の名前ですが、これはポワレの長女の名前が冠せられています。拙宅の近所にもお嬢様の名がつけられたカフェやギャラリーがあり、その名がオーナーたちの子煩悩ぶりを伝えていて微笑ましくなりますが、ポワレもどうやらそのタイプだったようですね!
ロジーヌ社の香水瓶の制作を担っていたマルティーヌ工房やコラン工房のことは、いつかまたこちらでご紹介したいと思います。
岡村嘉子(クリザンテーム)
◇ 今月の香水瓶 ◇
バレエ「シェエラザード」の上演と同年にポワレが発表した香水「アラジン」が入れられた香水瓶です。本作品はマリオ・シモンとポワレによって1919年にデザインされました。この香水瓶からも、東洋への傾倒ぶりが見てとれますね。
ポール・ポワレ(ロジーヌ社)香水瓶《アラジン》
デザイン:マリオ・シモンおよびポール・ポワレ、1919年、金属に銀メッキ、茶色パチネ、ベークライト、海の見える杜美術館所蔵
気がつけばもう5月。広島はすっかり初夏の陽気です。
新型コロナウイルスの影響で、せっかくのゴールデンウィークは遠出のままならない休暇になった方が多かったことと思います。私も広島から離れられない毎日にそろそろ旅心がうずき、東京に向かう新幹線に乗って、車窓から5月の明るい空に映える富士山を眺めたくて仕方がありません。さて今回は、そんな個人的な旅心(あるいは関東出身者の里心)を慰めたく、所蔵品の中から《夜討曽我絵巻》に描かれた富士山をとりあげます。お付き合いください。
建久4年(1193)5月28日、曽我十郎祐成、五郎時致兄弟は、父の仇である源頼朝の重臣、工藤祐経を討つべく、頼朝が富士山麓で行った巻狩に参加します。日中も祐経を狙いますが好機を逃し、夜討によってその悲願を果たします。日本に数ある仇討ちの物語の中でも、曽我兄弟の仇討ちほど人々に愛され、文芸に影響を与えた物語はありません。物語として享受されるだけでなく、能や歌舞伎など芸能の主題として、もちろん絵の主題としても人気を博しました。幸若舞曲と呼ばれる芸能では、弟の元服から仇討ち後の兄弟の死までを6曲で語ります。特に、物語のハイライトにあたる最後の2曲「夜討曽我」(巻狩から仇討ちまで)と「十番切」(仇討ち後の決闘と兄弟の死まで)は人気が高く、屏風や絵巻、絵本の主題として盛んに制作されました。
ここにご紹介する《夜討曽我絵巻》もそのうちのひとつ。とはいえ普通は2、3巻程度のボリュームで描かれる「夜討曽我」を、この絵巻は9巻もの大部にしあげています。そのため、右から左へと巻き広げていく絵巻の横長の画面を効果的に使った非常に長大な場面が特徴です。9巻のうちでも最も力の入った見所は、頼朝の富士山麓での巻狩を描いた巻1でしょう。
上の図は、巻1の第2段の図。右手に小さく見えるのは、富士の巻狩に向かう頼朝一行。その左手には裾野の浅間神社に続いて雪を頂く富士山が大きく描かれます。さらにその左には田子の浦、画面手前に三保の松原、左端には清見寺が見えます。この場面は実に約430センチもの長さです。
この絵の主眼は、物語の場面描写の域を超えて、周辺の名所を含めた富士図を描くことにあるといえます。この絵巻を描いたのは狩野春雪という江戸時代初期の狩野派の絵師です。この時代の富士山、とくに幕府の御用絵師を勤めた狩野派の描く富士山は、関東を拠点に日本を支配する徳川将軍の権力の象徴、あるいは将軍そのものを象徴する存在だったと考えられています。この富士とともに描かれる頼朝は、関東を基盤にした武家の支配という偉業を成し遂げた最初の将軍として、徳川将軍に重ねられたことでしょう。
さて、そのような文化的背景はあるものの、この絵自体に威張ったような、堅苦しいようなところはあまりなく、描かれた景観は明るく晴れやかです。富士山は悠々とした山容を表し、山麓の鮮やかな緑と富士山頂の雪の白の配色が、夏の景色であることを示します。細かく描き込まれた人物はどこかかわいらしく、人々の営みが描き添えられた田子の浦は、穏やかな雰囲気です。
新幹線や飛行機などの交通機関の発達で、私たちはそんなに無理をせずとも遠方に旅することができるようになりました。ですが今のような思うままに出かけることができない状況の中にあって、絵に描かれた場所への旅心を育ててみると、また違った感慨があって楽しいものです。江戸時代の人々も同じような旅への憧れを持って絵を眺めていたのだろうかと想像しています。
ところでこの絵巻、他にも色々と面白い見所が多いのです。大部の絵巻なのですべての図をご覧頂くことはなかなか難しいのですが、今後も機会をつくってご紹介できればと思っています。
谷川ゆき
杜の遊歩道のサクラの花は今、ショウゲツとウコンが満開です。
ショウゲツ(松月)
左がウコン(鬱金)、右がショウゲツ(松月)
ウコンは数百品種あるサクラのうちでただひとつ、
黄色の花を咲かせるサクラといわれているそうです。
このほかカンザン(関山)やフゲンゾウ(普賢象)など八重咲のサクラが咲いています。
来年の春には、ぜひ直接ご覧いただきたいです。
もりひこ
お花見のシーズンは過ぎましたが、前回の小野小町の衣の文様に続き、しつこく桜の話をさせてください。今回は、昨年開催した「厳島に遊ぶ—描かれた魅惑の聖地」展(11月23日〜12月29日)で展示した《厳島八景画巻》から、宮島の大元神社に咲く桜を描いた「大元桜花」の場面をご紹介します。
厳島の景観の見所ベスト8を選んだ「厳島八景」をご存知でしょうか。正徳4年(1717)、厳島の光明院の僧、恕信の依頼によって、京都の公家、冷泉為綱が八景を選定します。中国の景勝地、瀟湘八景に倣って選ばれた厳島の名勝は、「厳島明燈」「大元桜花」「瀧宮水蛍」「鑑池秋月」「谷原麋鹿」「御笠濱鋪雪」「有浦客船」「弥山神鴉」の8つ。それぞれに和歌、漢詩などの詩歌と挿絵を添えて、元文4年(1739)に版本『厳島八景』(全3冊)が刊行されています。
さて、この「厳島八景」の成立に関わった公家のひとりに、風早公長がいます。公長は冷泉為綱に八景の題の選定を依頼し、また、版本『厳島八景』(上冊)に、「有浦客船」の和歌、「八景和歌跋」、「八景詩跋」を寄せています。
ここでご紹介する《厳島八景画巻》は、この風早家ゆかりの作例です。版本上冊にある八景の和歌と挿絵、「八景和歌跋」から成り、その後に風早公長の孫、公雄の明和5年(1768)の署名、また、それに続いて明和7年に画工に写させた旨の奥書があります。おそらく公雄による明和5年の原本を、誰かが明和7年に写させたのだと思うのですが、残念ながらそれが誰なのかは分かりません。詳細は不明ながら、江戸時代の宮島と京都の公家文化の交流の一端を示す興味深い資料です。
さて、前置きが長くなりましたが、あとはのんびり「大元桜花」の場面で一足遅いお花見を...。
穏やかな海浜に面して鳥居があり、少し奥まって社が描かれます。春霞のかかる山容を背景に、木々と桜の花に囲まれてたたずむ大元神社の静謐な趣は、嚴島神社の壮麗な社殿とはまた違った感動を誘います。現在も大元神社を訪れると、このひっそりとした聖域の空気が、当時と変わらず漂っているように感じられます。
《厳島八景図巻》はページ数の都合で展覧会ブックレットに掲載できなかったこともあり、何かの機会にご紹介したいと思っていました。「厳島に遊ぶ」展は寒さが深まる中で展示の準備をしていたので、春はことさら待ち遠しく、桜の季節がきたら「大元桜花」をぜひ訪れてみたいと思っていたのです。しかし、残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で叶いませんでした。そんな今年の桜への未練も含めて、この機に一部をご覧頂きました。
来年は穏やかな春が訪れるよう願うばかりです。
谷川ゆき
現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。
今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。
1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。
江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。
上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。
では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。
歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)
天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。
続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。
「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)
明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。
このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。
「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。
大内直輝
2020年4月8日(金)の杜の遊歩道です
ソメイヨシノが散り始め、シダレザクラがもうすぐ満開です
いつもシャトルが通る道にはサクラの花びらが舞っていました
ツバキの小道には途切れることなく桜の花びらが降り注いでいました
ミモザの花がサクラと競うように広がっていました
ミツバツツジの花がそこかしこに咲いています
来年の春、ぜひお越しください
お待ちしています
もりひこ
杜の遊歩道では桜が満開を迎え、早くもはらはらと舞い始めました。つぼみの時も、満開も、そして散っている姿も目にしたいと、桜の時期はいつもそわそわと落ち着かないものですが、それは『古今和歌集』にある在原業平の和歌「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」に見るように、平安の昔から同じだったようです。
さて今回は桜にちなんで、小野小町の絵をご紹介いたします。
土佐光起筆《三十六歌仙画帖》のうち、小野小町 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館蔵
色鮮やかな色紙に書かれた小町の和歌と、小町の肖像が組み合わされています。色紙にあるのは『古今和歌集』にある小町の和歌「色みえでうつろうものは世の中の人の心の花にぞありける」。人の心に咲いた花は、普通の花とは違って知らないうちに色を変えていくものだ、と、恋人の心変わりを嘆いた和歌です。
絵を見てみましょう。絹の地に、大変緻密な筆致で描かれています。「絶世の美女」「恋多き女」として知られた小町のイメージに相応しい華やかな装束です。細やかに描き込まれた衣の柄に注目してみると、桜の模様であることがわかります。
小町の和歌としては、本作の「色みえで・・・」のほかにも、百人一首にもとられた「花の色は移りにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」が良く知られています。この歌は、若い美貌が恋や世事に思い悩むうちに衰えてしまったことを、春の雨に打たれ色あせてしまった花にたとえています。花とはつまり、桜です。この和歌を背景に、小町=美女=桜という連想は非常に強く結びついたようで、三十六歌仙などの歌仙絵に描かれる小町の着物の柄は、本作のように桜の模様であることが一般的です。
勝川春章による版本『三十六歌仙』に描かれた小町も、こちらは立ち姿ですが、やはり桜模様の衣を身につけています。
さて、ここで紹介した2点は、秋に開催予定の歌仙絵をテーマにした展覧会で展示する予定です。土佐光起筆《三十六歌仙》は残念ながら画面に汚れがあり、台紙にも損傷があるのがご覧いただけると思います。こちらは現在修復中で、展覧会会場ではさらに美しくなった姿をお披露目できると思います。どうぞご期待ください。
桜の盛りの美しさは、それが瞬く間に去りゆくものであるからこそ際立つのでしょう。小野小町は優れた歌人であり、また絶世の美女として賞賛されますが、一方で、その美しさを失って放浪する老婆としての小町説話も語られるようになります。展覧会ではできれば老いた小町のイメージもご紹介したいと思っています。
谷川ゆき