もりひこ
図書の整理をしていると、ガリ版刷りのレタリング書体が昔懐かしい、とても心惹かれる表紙が目につきました。タイトルは『方言の研究』第三号第一冊。1971年(昭和46)に新潟大学教育学部国語研究室内、新潟大学方言研究会から出版された個人論文集でした。俄然興味をそそられ、思わずページを捲ってしまいました。
丁寧にフィールド調査を行い、多くの言葉の事例を集め、詳細に分類検証されていました。
面白い・・・。
海の見える杜美術館が所在する広島の方言、広島弁文末の「の」のような事例が書かれていました。
和田初栄「新潟県北魚沼郡小出地方の文末詞 ―ナ行の感声文末詞について―」から、一部抜粋してみます。
二、ナ行の感声文末詞
(3)、「ノ(-)」「ノ」はいろいろの文末詞と結合して用いられており、頻繁に、特色的に使われている文末詞であり、したがって意味も多様である。
1疑問の意を丁寧に表す
○ナニ ショッペーン クッタロ ノー。(どんな塩からいのを食べたんだろうね。)〈中・女→青・女〉
(中略)
2勧誘、依頼の意を丁寧に表す
○アシタ コン カ ノ(明日来ませんか。)〈中・女→青・女〉
(中略)
3感動、詠嘆を表す
(中略)
○イー ノー。(いいですねえ。)〈中・女→中・女〉
(中略)
4呼びかけの意を表す
(中略)
○ラーメン コー テー。 ノー。(ラーメン食べようよう。ねえ。)〈少・女→中・女〉
(中略)
5念を押す意を表す
○アコン ショト オンナジダ ゼ ノ。(あそこの衆と同じだね。) 〈老・女→中・女〉
「の」の使い方の分類を細かく上げた後、発音の仕方や使用方法もさらに例示して、言葉の品位の上下や、話者の間柄など細かく分析されていました。
以上は新潟県北魚沼郡小出地方の方言の研究ではありますが、冒頭に書きましたように広島でも語尾に「の」をよく聞きます。そのように思いをもちながら論文を読み進んでいると、ちゃんと記してありました。
三 おわりに
「ナ」は近畿四国の方言の特色的なものであり、「ネ」は関東系のものであるという。また「ノ」は中国地方にもいちじるしく存するらしい。
はい、「らしい」ではなく、間違いなく存しています。論文が記された1971年から45年たった今でも、中国地方の広島にはいちじるしく存しています。
言語学者の皆様の間ではきっと普通に行われている分類研究なのかもしれませんが、普段使いの何気ない言葉がこのように分析されると、改めて意識させられるものですね。今回は語尾「の」との新鮮な出会いとなり、これからも「の」を大切に意識していきたいと思いました。
さち
青木隆幸
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
音声は左大臣光永さまに吹き込んでいただきました。原文のまま朗読の箇所もあるのですが、文章の意味が分からなくても、十分に内容が感じ取れる、そんな臨場感あふれるナレーションになっています。やはりプロの方はすごいですね。ありがとうございました。
天神の本地(てんじんのほんじ)
絵巻 一巻
室町時代後期 写
箱題「天神の本地」
Tenjin-no-honji
延喜帝の時、菅原大臣菅丞相是善の家に5,6歳の稚児が来て、父子となった。稚児は才学豊かに成長し菅原道真となり、帝の覚えもめでたかったが、菅原時平大臣の奸計により、道真は太宰府に流される。飛梅の奇跡(注)等の後、道真は天満大神となり、都において雷となって時平大臣を骨もみじんに消し去ってしまう。比叡山の法性房の努力により、菅丞相は天に登り神となった。
『天神縁起』と同内容であるが、細部は異なり、別の物語として扱われてきた作品。『天神縁起』には、古くからのさまざまな絵巻物が存在しているが、本物語にも諸本が多くあり、多くは絵入りで伝わる。また、それぞれの本を比較すると、少しずつ内容が異なり、いわゆる異本関係を形成している。本書は室町時代後期に作られた絵巻。絵が古雅な雰囲気で、いかにも御伽草子的な味わいでかわいらしい作品である。
注…菅原道真が太宰府に左遷されて家を出るとき、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ梅の木が、あるじの配所である太宰府の庭に飛んで生え匂ったという故事に由来して今に伝えられている。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ
図書の整理をしていると、縦15センチ2ミリ、横10センチ7ミリ、厚さ3ミリほどの、小さな目録が目にとまりました。
表紙に、「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館」と、記されています。
これは、正倉院の繊維工芸品が史上初めて一般公開された※1展覧会の記念すべき目録です。
いまでは毎年20万人以上の動員を記録する「正倉院展」、その第1回展「正倉院御物特別拝観」奈良国立博物館1946年(昭和21)※2をさらに21年さかのぼる、1925年(大正14)に開催されているのですね※3。
1914年(大正3)に奈良帝室博物館正倉院掛が開始し、100年たった今も終わらず継続している正倉院伝来品の整理、公開事業。
この目録を目にしたとき、関係の皆様が、史料を修復、保管、研究、公開という博物館の基本的な使命※4を100年変わらず守り続け、日本人のアイデンティティーそして文化経済価値をも高めて国際競争力の原動力となっていること、また、国際的な平和の礎となる多様な文化理解の一助となっていることを感じ、あらためて畏敬の念に打たれました。
ところで、うみもり所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」には、いろいろな鉛筆の書き込みのほか、以下のように赤字で修正が記され、慶應義塾大学様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」※5では、すべて修正されています。
また、うみもり所蔵本には表紙に「正倉院掛」という奈良帝室博物館の一部署の印が押され、発行年など奥付がありませんが、慶應義塾図書館様の本にはきちんと奥付がついていて、受入時の日付「大正14年5月7日」と寄贈者名「奈良帝室博物館」が記された寄贈印が残されています。そのように見てくると、慶應義塾図書館様の本は完成した本で、うみもり所蔵本は奈良帝室博物館関係者旧蔵の校正用の本という事になるようにも考えられました。
しかし、まだよくわからないことがあります。
慶應義塾図書館様の本に貼られている正誤表の箇所が、うみもり所蔵本では間違っていないこと。
慶應義塾図書館様の本もうみもり所蔵本も、正誤表自体に間違いがあります。相当慌ただしく作ったのでしょうか。
慶應義塾図書館様の本の印刷発行日が、展覧会開催初日になっています。開催初日に刷り上がったのでしょうか。
いつか誰か研究してはっきりさせてくれることを願ってやみません。
さち
青木隆幸
(1) 尾形充彦「正倉院の染織品の整理」『正倉院紀要』27号 宮内庁正倉院事務所 2005年3月
(2) 2016年の今年は10月下旬から第68回「正倉院展」が開催予定
(3) ウィキペディアの「正倉院」項、8正倉院展、には「染織品の展覧は、1924年(大正13年)4月に奈良帝室博物館で大規模な展示があり」とあるが「1925年(大正14年)」の誤りか
(4) 「正倉院御物棚別目録」帝室博物館1925年10月26日(国立国会図書館蔵) 凡例に「一 本目録は宝庫拝観者のために、大正13年11月現在をもって、各棚、箱、棚外に別ち、御物の品目を列記す。」と記されている
(5) 慶應義塾図書館様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」がgoogle booksで公開されている
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
そしたら思いのほか楽しくて・・・。
八幡宮縁起(はちまんぐうえんぎ)
絵巻 一巻
大永七年(1527) 写
箱題「八幡大神宮縁起絵巻」
Hachimangu-engi
八幡大菩薩は、第15代応神天皇のことである。母である神功皇后が新羅などを討つために九州へ向かったとき、白髪の老翁があらわれ、皇后に付き従うことになる。皇后は、腹の中の皇子に帰朝するまで生まれぬように言い含め、新羅を討ち従えた後、筑前宇佐の宮で12月14日に誕生した。その後、応神天皇は、豊前国宇佐郡で出家し、そこを正覚寺といった。大菩薩の本地は自在王菩薩である。
本図は八幡大菩薩の縁起絵巻である。類書に『神功皇后縁起』がある。鎌倉時代末期制作という絵巻や、室町時代制作という絵巻が複数現存している。本書は、片仮名交じりの古絵巻。本文には、罫線が引かれる。末尾に、「吉安」「大永七」と記される。また、「淡路島 浜天神宮旧蔵」と箱書きに見える。寺社の縁起絵巻には、年号や制作者が記されることが多い。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
そしたら思いのほか楽しくて・・・。
三井寺(みいでら)
絵巻 一巻
室町時代末期 写
外題 三井寺
Miidera
三井寺に住む僧が、どこからともなく来た稚児を連れて、名月の庭に出る。そこに物狂いの女が来て、藤原秀郷が運んできたという鐘を打とうとする。それを止めに入ると、その女は稚児の母であるとわかる。稚児は、人買い商人に連れられて、駿河の国清見が関からやって来たと打ち明け、母子は再会する。母は、子供が行方不明になったことから物狂いになったのであった。その後、一家は末繁昌したという。
能『三井寺』を絵巻化した作品。能の詞章をほぼそのまま本文として写している。27の『松風村雨』も同じ系統の作品。能の作品が絵巻化される例はいくつかあり、その際、謡曲の詞章をそのまま本文として使うものと、詞章を物語化してしまうものとがある。物語化したものは、御伽草子としていちづけられるので、能は御伽草子成立の題材となることがわかる。本書の絵は、古雅な奈良絵本タイプで、美しく可愛らしい。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
そしたら思いのほか楽しくて・・・。
道成寺縁起(どうじょうじえんぎ)
絵巻 二巻
室町時代末期 写
箱書「行秀道成寺縁起」
Dojoji-engi
醍醐天皇の時、奥州から、見た目の美しい僧が、熊野参詣にやって来た。紀伊の国真砂に宿があり、亭主清沢の庄司のもとの女が、その僧を好きになる。女が僧を誘うが、僧は熊野から戻るときに会うと約束する。女は待ちこがれ、僧が下山すると、蛇身となって、僧を追いかける。日高郡の道成寺で、僧が助けを求めると、寺僧たちにより、大鐘の中に身を隠されるが、蛇身となった女は、火炎を吐いて鐘ごと燃やし、僧を焼き殺してしまう。
現代でも絵巻を使用して絵解きが行われている作品。能や歌舞伎にも多くの道成寺物があり、文学のみならず演劇にも影響が大きい。道成寺には、室町時代写の原本があり、その摸本で絵解きが行われてきた。道成寺本と本書は、字体まで似せて作られている。絵巻の場合、江戸時代中期まで、字体まで模写する行為はほとんど行われていないことから、本書はそれ以降の模写の可能性もある。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ
オオニワゼキショウの花が咲きました
ニワゼキショウより 花は小さいのですが
背の高さと種のサイズが大きいです
もりひこ