うみもり香水瓶コレクション16 フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。海の見える杜美術館が収蔵する香水瓶の制作年代は、古代エジプトの先王朝時代に当たるナカダⅡ期(紀元前3700-3250年)から今日までの約5700年間に及びます。この悠久の歴史のなかで生まれた香水瓶を、一つ一つ調査するなかで、もっとも面白いことのひとつは、ある時代の人間が、はるか遠い祖先の時代の様式を再び採用していることです。つまり、いわゆるリヴァイバルですね。

リヴァイバルが起こった地域や時代は様々ですが、そこには、先人の知恵に学び、新たな活力にしようとする温故知新の意を見ることができます。

そこで今回は、そのような温故知新の香水瓶をご紹介いたします。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》1840年頃、透明クリスタル、銀、金属に銀メッキ、 海の見える杜美術館France, FROMENT MEURICE attribued to, PERFUME FLACON -C.1840 Transparent crystal, silver, silvered metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

1840年頃のフランスで制作されたこの香水瓶は、過去のいつの時代を主題としているかおわかりになりますか?

それを解くカギはいくつかありますが、最も分かりやすい部分は、香水瓶のボトル中央部分に添えられた人物像の服装でしょう。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

右の人物は、往年の大ヒット映画『おかしなおかしな訪問者』に登場する騎士のような、時代がかった甲冑を身に着けているのがわかります。左の人物はゆったりとしたドレスを纏っています。ただしこれだけでは、時代を断定しづらいので、同様に人物像が配された香水瓶の反対の面を見てみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

こちらはさきの女性の服装よりも、多くを語ってくれますね! 右の男性は、中世におけるステイタス・シンボルであったマントを纏っていますし、左の女性は、特徴のある帽子をかぶり、体の線を強調した、優美なプリーツのある丈長のドレスを着ています。その服装から、中世の人物が表されているのがわかります。実際、先行研究のなかでも、ここで表現されているのは、騎士と城主夫人と考えられているのです。

反対側の面です。 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
反対側の面です。
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

また、この香水瓶の制作年代に鑑みても、中世の、とりわけゴシック時代に思いを馳せて制作されたものと推定できます。もともと、19世紀は世紀を通じて、過去の様式を次々と復活させる歴史主義が西欧を席巻した時代でもありました。そのため、ゴシック様式のみならず、古代ギリシャ・ローマの芸術を模した新古典主義もあれば、ロマネスク様式やルネサンス様式、さらにはバロック様式もあり、一見しただけでは一体いつの時代のものかわからないような紛らわしい(←正直な感想)建造物や装飾品、また絵画・彫刻が新たにつくられました。この現象の背景については、またの機会に詳述するとして、香水瓶の制作年である1840年頃のヨーロッパに注目すると、それはゴシック・リヴァイバルが興隆していた時期に当たるのです

例えば、火事で焼失したロンドンの国会議事堂の再建案が当初のルネサンス様式からゴシック様式に変更して再建されるのもこの時期のことですし、文学ではそれに先立つ前世紀後半から19世紀初頭にかけて、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』等のゴシック小説や、ゴシック様式の大聖堂の偉大さを説いたシャトーブリアンの『キリスト教精髄』など、枚挙にいとまがありません。

さらに、それらと平行して、パリのノートル・ダム大聖堂等、フランス有数の歴史的建造物の修復や調査が数多く行われ始めたことで、その力学的正しさが解明され、過去の遺物の再評価につながったことも見逃せない同時代の出来事でしょう。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

ところで、当時の中世への関心の高まりを、2019年にパリ市立プティ・パレ美術館で開催された「ロマン主義時代のパリ、1815-1848年」展は、とてもよく伝えてくれるものでした。何人ものパリの友人から熱心に勧められて足を運んだのですが、数度の革命を経ながら、近代的なパリの礎が築かれていくこの時代に、パリジャンがある種の誇りや強い愛着を抱いていることを、改めて知ることとなりました。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

会場内は、パリを散策するかのように、ルーヴルやカルティエ=ラタンなど、名所ごとに当時を再現した展示で構成されていました。そのなかでも15世紀のパリを舞台としたヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ドゥ・パリ』(1831年)で始まるノートル・ダム大聖堂の展示室は、ゴシックの大聖堂の装飾を模した椅子や置時計、中世の甲冑姿のブロンズ像などが展示され、この時代における中世への熱をよく表したものでした。

この展示の意義深さは、ユゴーが小説の執筆に先立つ1825年から既に、革命等によって無残な姿となった歴史的建造物の崩壊を食い止めようと呼びかけていたことや、『カルメン』の著者、プロスペル・メリメのフランス歴史的記念物監督官としての歴史的建造物保護の活動を紹介したことでしょう。つまり、この時代の中世への熱は、単なる理想化された過去への憧れのみではなく、何もしなければ消え去ってしまう遺物を後世に残そうという使命感をも伴うものであったのです。温故知新は、古きものが現存してこそ叶うものです。新たなものを作り出すときの知恵の宝庫を自らの世代で失わせまじとした、当時の文学者たちの高邁な精神と行動に胸が熱くなります🔥。

実は、香水瓶の作者と考えられる人物も、時代を彩った文学者らと近しい関係にありました。現段階では断定に至っていないため、「帰属」と付していますが、フロマン=ムーリスとは、フランソワ=デジレ・フロマン=ムーリス(1801-1855)という、第1回ロンドン万国博覧会(1851年)をはじめ、数々の舞台で最高賞を受賞し、当時のヨーロッパ全域にその名をとどろかせた、金銀細工師・宝飾デザイナーです。彼が得意としたのは、まさに本作品のような中世趣味の作品でした。当時の知識人の関心にかなう主題に加えて、彫刻の修業もした彼の作品は、極めて精巧な彫がなされているため、バルザックやテオフィル・ゴーティエといった作家たちや王侯貴族が作品を求めました。

フロマン=ムーリスが個人のために手掛けた作品は現在、ルーヴル美術館やオルセー美術館、パリ市立バルザックの家等に収蔵されており、聖体顕示台や聖遺物箱など、教会のために制作した作品は、マドレーヌ寺院をはじめとする教会にそのまま保存されています。それらを見る度に、その技術の高さに圧倒されます。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《セント・ボトル》18世紀、イギリス、陶器、海の見える杜美術館

ところで、この香水瓶の様式は、トルバドゥール様式ともいわれます。トルバドゥールとは、中世の騎士物語や恋愛詩、武勲詩を、楽器を奏でながら詠った吟遊詩人のこと。様式名は、彼らの調べで蘇る世界が表現されているがゆえのことでしょう。

現在、海の見える杜美術館は冬季休館中ですが、春の開館に向けて、相澤正彦氏を監修に迎えた企画展「平家物語絵展 修羅と鎮魂の絵画」の準備の真最中です。そのせいでしょうか、私には、トルバドゥールが琵琶法師に、中世の騎士や十字軍兵士が平家公達に重なってしまうのです。そのようなわけで、「平家物語絵」展開催期間中の香水瓶展示室では、今回の香水瓶や、トルバドゥールを連想させる音楽家をかたどった作品(上画像)等を出品する予定です。企画展に合わせて、ぜひ香水瓶展示室もご覧下さいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

 

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 4(引札の豆知識ほか)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3」から続く

第3展示室に現存企業一覧のパネルを掲示しました。
現存企業一覧

展示室の各所では、展示品近くに「引札の豆知識」の拡大パネルを掲示して観覧の補助としました。

引札の豆知識 (1)

引札の豆知識 (1)

引札の豆知識 ①
引札に記された文字は、絵師の名前、絵の印刷所の名前、暦の印刷所の名前などです。

引札の豆知識 (2)

引札の豆知識 (2)

引札の豆知識 ②
引札は絵と共に店名等を記載して配布するものです。本展覧会に多く見られる店名のないものは、見本として制作されたものです。(この二枚は同じ年の物ではないので暦の年が異なっています)

引札の豆知識 (3)

引札の豆知識 (3)

引札の豆知識 ③
明治十六年の引札までは、略暦(カレンダー)に政府の発行許可済みを示す頒暦証と、暦を発行する頒暦商社の印があります。

引札の豆知識 (4)

引札の豆知識 (4)

引札の豆知識 ④
技法のところに記されている「凸版(木版製版 多色摺)」は、江戸時代の浮世絵と同じ印刷技法のことです。この技法で作られた引札には浮世絵と同じような味わいがあります。

引札の豆知識 (5)

引札の豆知識 (5)

引札の豆知識 ⑤
あまり多くは見られませんが、銅版を用いて製版された引札があります。
銅版は、銅の板に傷をつけて線を引くことで、木版よりも細かな線を表現することが可能です。

引札の豆知識 (6)

引札の豆知識 (6)

引札の豆知識 ⑥
地紋フィルムというスクリントーンのようなものを使って、肉眼では見えないような小さな点を印刷した引札があります。この引札では背景の黄色の点のところです。

引札の豆知識 (7)

引札の豆知識 (7)

引札の豆知識 ⑦
硬質の木を輪切りにして木口を版木として使用する木口木版という技法を用いた引札があります。銅版のような精密な絵柄をつくります。版木が小口のサイズに限られるため、このように引札の一部分に使われます。

引札の豆知識 (8)

引札の豆知識 (8)

引札の豆知識 ⑧
明治時代後期になると、色の点を掛け合わせて様々な色を表現する、クロモ石版という技法で柔らかな色彩を繊細に描いた引札がでてきました。

引札の豆知識 (9)

引札の豆知識 (9)

引札の豆知識 ⑨
空摺(からずり)とは、手作業で紙に凹凸をつける技法です。江戸時代の浮世絵に使われていて、数多くの明治の引札にも用いられました。

引札の豆知識 (10)

引札の豆知識 (10)

引札の豆知識 ⑩
空押(からおし)とは、機械で紙に凹凸をつける技法です。手摺から機械印刷にかわっても、凹凸をつけた表現にこだわった引札が多数あります。

引札の豆知識 (11)

引札の豆知識 (11)

引札の豆知識 ⑪
明治時代の引札制作には多くの絵師がかかわりましたが、はじめに牽引したのは浮世絵師でした。

引札の豆知識 (12)

引札の豆知識 (12)

引札の豆知識 ⑫
日本画家としても活躍した絵師がいます。北野恒富(3-08)は妖艶な女性像を描く作家として知られますが、ポスター等の広告物や新聞の挿絵なども手がけるなどグラフィックデザイナーとしての面もあり、引札も手掛けたものと思われます。

引札の豆知識 (13)

引札の豆知識 (13)

引札の豆知識 ⑬
引札を描いた絵師の中には、現在ではほとんど知られず、生没年や経歴が不詳の人が大勢います。引札を専門に活躍していた人の中に多いようです。三島文顕もその一人です。

引札の豆知識 (14)

引札の豆知識 (14)

引札の豆知識 ⑭
有名な話をパロディーにした引札があります。

引札の豆知識 (15)

引札の豆知識 (15)

引札の豆知識 ⑮
人々が憧れる最新の機器が描かれます。
この引札には使っている様子が詳しく描かれています。

引札の豆知識 (16)

引札の豆知識 (16)

引札の豆知識 ⑯
品物の製造工程を一通り描いた引札が数多くあります。店の扱う商品は、正当に作られたものであることをアピールする意味もあったことでしょう。
この引札は茶摘みから袋詰めまで、茶の製造工程が詳しく描かれています。

引札の豆知識 (17)

引札の豆知識 (17)

引札の豆知識 ⑰
商売の風景の中にも、大小暦が隠されていることがあります。大小暦とは、各月の日数が三十日を大の月、二十九日を小の月と呼んだものです。簡単なカレンダーとして使われていました。

引札の豆知識 (18)

引札の豆知識 (18)

引札の豆知識 ⑱
洗濯屋などの新しく生まれた仕事も引札に描かれました。
どのようなサービスなのか、引札を使ってその内容を積極的に宣伝したのでしょう。

引札の豆知識 (19)

引札の豆知識 (19)

引札の豆知識 ⑲
恵比寿、大黒などの福の神は引札界のスターとも言え、多くの引札に様々な姿で描かれています。この引札では、一見、福の神とは気が付きにくいのですが、左上に狩衣に折烏帽子姿のふくよかな人物の恵比寿を発見すると、中央の大きな人物は、二人そろって商売繁盛の神として描かれるもう片方の大黒とみて間違いありません。シルクハットのモーニング姿は広告屋の口上役の衣装ですから、店頭で呼び込みの仕事をしていることがわかります。

引札の豆知識 (20)

引札の豆知識 (20)

引札の豆知識 ⑳
人が七福神になりきったり、コスプレしたりしている絵があります。

引札の豆知識 (21)

引札の豆知識 (21)

引札の豆知識 ㉑
ありえない設定の、インパクトある絵が描かれています。引札は、人をひきつけ興味を持ってもらうことも大切な役目のひとつです。

 

展覧会は以上です。

この度の出品作品はすべて海の見える杜美術館所蔵品です。

展覧会開催に合わせて発刊しました『資料集 引札』には館蔵品の中から1756点の引札をカラーで掲載しています。興味をお持ちの方はぜひご覧ください。

資料集 引札 海の見える杜美術館 2021

資料集 引札 海の見える杜美術館 2021

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 5(資料集)

青木隆幸

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2」から続く

第5章 新しい時代の風景を描く

昔ながらの吉祥の図様と並んで、新時代の流行も引札に取り入れられてきました。汽車や自動車、飛行機など、当時の人たちが初めて目にする新しい乗り物が行き交う風景や、郵便、電話といった新たな通信手段や、または西洋楽器を弾く、犬を飼う、列車で旅行するなどの最先端の生活文化が、活気ある様子で引札に描かれます。今のようにテレビもインターネットもない時代、とりわけ情報がいきわたりにくい地域で生活する人々にとって、引札は都市の流行を知るためのメディアでもありました。色鮮やかに描かれた目を驚かすような新時代の文化に人々は心躍らせたことでしょう。そしてそれは富や発展を感じさせるものでもあったことでしょう。
当時の人々が憧れた新時代の生活の様子をお楽しみください。

第4展示室1

第4展示室1

5-01 汽車 船 松 "あきなひ はんえい" 明治三十三年一九〇〇頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-01
汽車 船 松 “あきなひ はんえい”
明治三十三年一九〇〇頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-01 画面右奥の港の方からこちらに向かって勢いよく汽車が走ってきます。大量の荷物や人を輸送する近代の乗物は繁栄の象徴でもあったのでしょう。松の根元に立てられた行先標には「あきなひ(商い)」「はんえい(繁栄)」の文字があります。

5-02 女性 電車 市街風景 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02
女性 電車 市街風景
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02 明治二十八年、京都で日本初の電車が走り、その後、各都市に広まりました。この引札には電車の走る都会と、装った女性が描かれています。これを配布した木村商店の意図としては、都会に赴く際のよそ行きのおしゃれには当店の小間物を、といったところでしょうか。

5-03 自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-03
自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-03 富士山を背景に、東宮御所、気球、飛行機、自動車が描かれています。当時の多くの人々が憧れを抱いていたであろう、近代的な生活です。この引札が配られた姫路の人々の目にとっても、新年を寿ぐにふさわしい希望に満ちた光景に映ったことでしょう。

5-04 七福神 飛行機 日の出 富士 明治末~大正初期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04
七福神 飛行機 日の出 富士
明治末~大正初期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04 夜明けの富士を背景に、七福神が飛行機に乗って天高く舞い上っています。恵比寿大黒が搭乗しているのは、初めてドーバー海峡を横断した飛行機としても知られるブレリオ機、その上の箱形の機体は日本でも購入され初の試験飛行にも使われたアンリ・ファルマン機をモデルにしているようです。

5-05 幻灯機 母子 松梅 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-05
幻灯機 母子 松梅
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-05 明治二十年代に幻灯機、今でいうところのスライド映写機がブームになり、所有する家もあらわれました。このころは電球ではなくオイルランプで照らしていました。引札を配る際には白地の部分に字が入れられ、幻灯機に映る店の名前をみんなで見ているという場面になります。

5-06 電話 恵比寿大黒 "福人銀行…" 明治二十六年(一八九三)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-06
電話 恵比寿大黒 “福人銀行…”
明治二十六年(一八九三)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-06 この絵の電話機はガワ―ベル電話機といい、日本で使用された電話の中では最も古い型のひとつです。引札に書かれた通話内容を読んでみると、当時は「もしもし」ではなく「おいおい」「はいはい」と呼びかけていることがわかります。

5-07 電話 女性 恵比寿 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07
電話 女性 恵比寿
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07 明治時代は電話が各家庭まで普及していなかったので、郵便局に設けられた電話所で、呼び出してもらって通話をしていました。なお、この絵の電話機は明治二十九年に登場したデルビル磁石式壁掛電話機です。

5-08 往復葉書 郵便差出箱 民衆 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-08
往復葉書 郵便差出箱 民衆
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-08 郵便は新しい時代を象徴する制度のひとつでした。国民への普及は早く、また各商店にとっても荷物の発送など欠かすことのできないサービスとなりました。本作品のように、利便性を兼ねて郵便料金早見表の付いた引札がつくられました。

5-09 郵便局 郵便車両 郵便差出箱 "大勉強…" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09
郵便局 郵便車両 郵便差出箱 “大勉強…”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09 赤色に制定される明治四十一年まで、このような黒色のポストが使われていました。右側の赤色の車は小包郵便物配達用函車です。筆文字で、荷造り具一式を販売している中西幸次郎とあります。この絵にぴったりの商店ですね。

5-10 五十嵐 豊岳 新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 "勉強家…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

5-10
五十嵐 豊岳
新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 “勉強家…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

5-10 明治時代のはじめより、文明開化の流れに乗り、新聞が多数創刊されました。この引札では、店主と思しき人物が新聞に乗って飛んでいます。添えられた字は「勉強家の親玉」「新聞にのせて世界中広告」。絵は、これと同じ意味のことを表しているのでしょう。

5-11 女性 紙 筆 牡丹 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-11
女性 紙 筆 牡丹
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-11 「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」は江戸時代から使われている美人を形容する言葉です。大輪の牡丹と一緒に描かれた五人の美人は目に鮮やかな服をまとっています。左端の女性が筆を持っており、商店の名前を書き入れる係と見られます。このような引札はおそらく呉服店などに重宝されたことでしょう。

5-12 女性 バイオリン 楽譜 君が代 明治四十年(一九〇七)頃 平版(クロモ石版 石版転写) 古島竹次郎 版

5-12
女性 バイオリン 楽譜 君が代
明治四十年(一九〇七)頃
平版(クロモ石版 石版転写)
古島竹次郎 版

5-12 明治期は「ヴァイオリンを弾く女学生」がとても文化的でハイカラな存在としてとらえられていました。明治三十三年には国内で大量生産が始まりピアノほど高価でないため、ハイカラであると同時に、ピアノよりも親しみやすい楽器だったようです。

 

5-13 母子 犬 狆 明治末~大正 平版(クロモ石版 石版転写)

5-13
母子 犬 狆
明治末~大正
平版(クロモ石版 石版転写)

5-13 女性が子供を脇にして狆を抱いています。狆は江戸時代に将軍や大名や一部の裕福な商人が愛玩した超高級犬でした。明治時代も高級犬に違いはありませんが、もう少しハードルが下がり富裕層の間で流行しました。

5-14 結納品 女性 盃 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-14
結納品 女性 盃
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-14 江戸時代に公家や武家、裕福な商家が行っていた結納・結婚式が、明治時代になって庶民の間でも行われるようになりました。結納品の引札まで作られたということは、当時それだけ庶民に浸透したという証でもあるでしょう。

5-15 母子 旅客手荷物運搬人 駅 船  明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

5-15
母子 旅客手荷物運搬人 駅 船
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

5-15 美しく着飾った親子連れが駅構内を歩いています。この引札が配られたころは鉄道旅行が人気でした。赤い帽子をかぶって荷物を運ぶ青年は「赤帽」と呼ばれるポーターです。明治三十年から主要な駅の構内で営業しました。

5-16 金森 観陽 相撲 古今横綱一覧 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-16
金森 観陽
相撲 古今横綱一覧
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-16 相撲好きにはたまらない一枚だったでしょう。相撲の祖の戦いから、各力士の名取り組み、そして古今横綱一覧まで相撲尽くしになっています。なお、相撲は天下泰平・子孫繁栄などを願う神事と密接につながっています。

5-17 広瀬 春孝 子供 野球 競舟 桜 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-17
広瀬 春孝
子供 野球 競舟 桜
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-17 カッターレースや野球などのスポーツ競技が始まったのも明治時代です。新しいものは何でも次々と引札に描いていきました。新しい物事それこそが新年を寿ぐ題材でもあったのです。

5-18 日の出 船 鷹 "版権登録" 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18
日の出 船 鷹 “版権登録”
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18 日清戦争の時、日本海軍の旗艦・高千穂のマストに鷹が舞い降りたという逸話があります。この鷹は神武東征の際に現れた金鵄に見立てられ、様々な詩が詠まれました。戦争になると、戦勝を願って縁起を担ぐ引札が描かれました。

5-19 陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19
陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19 戦時中は士気を鼓舞するプロパガンダ的な要素が見られる引札が発行されました。この引札は糸屋が使用しています。糸を使った軍服が画面を埋め尽くしています。

第6章 描かれた商いの風景

引札には、農業・漁業などの産業や、また、米店・乾物店・酒店などの食料品店、呉服・履物などの衣料品店ほか、多種多様な店舗の様子が描かれています。いうまでもなく、これは引札を配っている店の仕事を見た人に覚えてもらうためであり、新年に配るにふさわしく、店は大いに繁盛し、来店客も幸せいっぱいな様子に描かれています。例えば足袋屋の引札では、足袋の製造から販売までおこなわれている店の様子がにぎにぎしく描かれています。この引札を買った足袋屋は余白に新年の挨拶と店の名前を太々と書いてなじみの顧客に渡したのです。
当時の商いの情景と余白に記された商店の情報を合わせてお楽しみください。

第4展示室2

第4展示室2

6-01 漁 一本釣 日の出 "鰹大漁之真景" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-01
漁 一本釣 日の出 “鰹大漁之真景”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-01 カツオの一本釣りの様子です。手前の船左側の漁師が鰹を寄せる小魚を撒き、その両隣で糸を垂らし、船中央には漁師が釣った鰹を抱いて、それを横の漁師がたらいに入れようと待ち構えています。細かくスケッチをしています。

6-02 米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02
米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02 掛かる小旗には「極上」「大勉強」「大安売」の文字。大量に積み上げられた米を次々と俵に詰めている米屋の光景は豪勢です。この引札を使ったのは各国(各地域)の白米を販売する大阪の(丸虎)上條西支店です。

6-03 青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-03
青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-03 「万青物乾物商」の暖簾がかかっています。描かれているのは野菜・果物・キノコ類です。大黒が抱えるのは豊作を暗示する二股大根。恵比寿は株(カブ)があがるようにと蕪(カブ)を高く捧げています。

6-04 乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島徳次郎 版

6-04
乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島徳次郎 版

6-04 乾物類と卵の組み合わせの引札が多いです。乾物店はおそらくこの頃は卵を一緒に販売していたのでしょう。左側に記された商店の紹介文を読んでみると、ここでは乾物以外に野菜果物(青物)や雑貨(荒物)や紙も販売しています。

6-05 酒造 七福神 唐子 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05
酒造 七福神 唐子
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05 七福神が酒を造っています。酒造りは、それぞれの酒蔵で秘伝ともいえる独特の製法で作られていましたが、明治政府は酒造検査制度を整備して、各製法をすべて検査して門外不出であった酒造法を明らかにしたそうです。

6-06 醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか 明治三十五年一九〇二頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-06
醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか
明治三十五年一九〇二頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-06 酢・醤油・味噌といった調味料を販売している店の様子です。樽や瓶に詰めて販売している様子が描かれています。ただし、これはあくまで絵空事ですのでご注意を。画面の左半分をしめるこんな大きな樽は店頭にはありません。

6-07 茶園 製茶 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-07
茶園 製茶
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-07 製茶の様子が描かれています。左上には茶摘みの場面が、右下には焙炉の上で茶葉を両手で交互にでんぐり返しながら揉む「でんぐり」と呼ばれる手揉みの製法が描かれています。手前左の甕には「玉露」の文字が見えます。

6-08 茶舗 店内の様子 女性 色紙 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-08
茶舗 店内の様子 女性 色紙
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-08 茶舗の店内が描かれています。棚の甕には茶の名前、若緑・相生・玉露・正喜撰・川柳が、袱紗をさばく女性の横の色紙には、「宇治は茶ところ 茶はこゝの店 のんで香もあるあじもある 利休」が添えられています。

6-09 菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 "砂糖菓子…" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09
菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 “砂糖菓子…”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09 明治時代になって外国のお菓子が売り出されました。暖簾に「和洋砂糖御菓子」と記されています。あとに続く「掛物」は砂糖掛け菓子の総称です。贈答品にはお菓子と印象付けるかのように女性が熨斗付きの菓子箱を持っています。

6-10 「一水」款 酪農 幼児 哺乳瓶 花 明治四十一年(一九〇八)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10
「一水」款
酪農 幼児 哺乳瓶 花
明治四十一年(一九〇八)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10 江戸時代まで乳製品はなじみのない食品でした。明治時代になって乳製品ガイドが徐々に出版されるようになり、牛乳は母乳の代用品や滋養品として普及するようになりました。牧場も増え、この絵のような哺乳瓶が製造されました。

6-11 肥料店  店頭 肥料 女性 米の収穫 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11
肥料店 店頭 肥料 女性 米の収穫
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11 江戸時代の日本の肥料は田畑の近隣でできる有機質肥料が中心でしたが、明治時代になって化学肥料が推奨され、各地に肥料を販売する店が出来ました。袋に見える硫曹は明治三十年から製造された過リン酸石灰肥料です。

6-12 薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12
薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12 薪炭店は今、キャンプブームもあって活気があるようですが、明治時代はそもそも生活に使うの主な燃料が薪と炭でしたので、薪炭店は地域になくてはならない大切な店でした。そしてこの絵にあるように馬は大切な運搬手段でした。

6-13 油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13
油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13 江戸時代の明かりは行灯や灯明でした。明治時代に石油ランプが急速に普及しました。明るさが十倍以上あったことや、灯油価格が菜種油の半値ということもあったようです。なお、一般家庭に電灯がともるのは明治末期です。

6-14 鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-14
鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-14 鍛冶屋を描いた引札は珍しく、あまり見られません。一番左の人物がふいごで火を強くし、その右の人物は金属を鍛錬しています。床には出来た農具が並べられ、右上に農具を使った仕事ぶりが描かれています。

6-15 諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 "万金物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15
諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 “万金物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15 右上には鍛冶の神事。中上の金物商の看板には「万金物商」。看板の通り描かれているのは思いつく限りの金物類です。この引札を配ったのは金物全般を取り扱う今北商店。どんな金物でも揃えますという意気込みが感じられます。

6-16 足袋屋 店内 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16
足袋屋 店内
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16 右下の職人が重ねた生地の上に型紙をおいて特殊な刃物で裁断し、その左側の職人は針で縫い合わせています。足袋の製造から販売まで賑わう様子が描かれています。相変わらず御引立てくださいとの言葉が添えられています。

6-17 履物屋 店の様子 女性 "流行履物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17
履物屋 店の様子 女性 “流行履物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17 暖簾には流行履物商の文字が染め抜かれていて、店内には草履、げた、鼻緒が店いっぱいに陳列されています。流行は履物商の引札によく使われる言葉です。「当世流行」(今のはやり)という言葉もよく使われていました。

6-18 栄松斎 中嶋政七 店頭風景 "万傘提灯仕入所…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-18
栄松斎
中嶋政七 店頭風景 “万傘提灯仕入所…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-18 建物中央入口の左の柱に郵便受箱がありますが、これは珍しいです。郵便受箱は昭和時代になって普及したとい言われています。路上に広げた傘には大と小の月の暦が記されています。現在使われているグレゴリオ暦が導入される前の和暦では、三十日ある月を大、二十九日の月を小として、カレンダーとしていました。

6-19 養蚕 蚕棚 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-19
養蚕 蚕棚
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-19 大河ドラマ『青天を衝け』でも紹介された通り、養蚕は当時の日本の重要な産業です。中央の女性は卵からかえった蚕を蚕卵紙から蚕座へ移しています。右側の蚕棚の上で蚕が育っています。引札を配ったのは「万糸物商 堀糸店」。

6-20 染屋 染と洗張の様子 女性 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-20
染屋 染と洗張の様子 女性
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-20 染・洗い・湯のし・洗張、染物所が請け負う各仕事の様子が描かれています。この引札を配布した万染物所 谷川亀太郎の店では印伴天・のれん・風呂敷・黒紋付などの染や洗張・ゆのし、その他いろいろ請け負ったようです。

6-21 広瀬 春孝 呉服店 反物 女性 "現金かけ値なし…" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21
広瀬 春孝
呉服店 反物 女性 “現金かけ値なし…”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21 反物を滝に見立てて店頭ディスプレイをしています。暖簾に書かれた字は「ごふく(呉服 絹織物) ふともの(太物 衣服にする布地) 唐端物(中国の布地)商」。柱には「現金かけ値なし正札付」と安売り低価販売をうたっています。

6-22 洗濯屋 店の様子 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22
洗濯屋 店の様子
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22 洋服が出回ると、洗濯サービスができました。この引札には「和洋せんだく(洗濯)所 並ニ悉皆湯のし(すべてアイロンかけ) 商号あらいや」とあります。「あらいや」では和服の洗張や湯のし、洋服の洗濯アイロンかけをしたようです。

6-23 尾竹 国一 小間物屋 店の様子 母子 "内外小間物商" 明治三十五年(一九〇二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-23
尾竹 国一
小間物屋 店の様子 母子 “内外小間物商”
明治三十五年(一九〇二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-23 小間物というジャンルの店がありました。日用品・化粧品などこまごましたものを売る店です。引札に描かれた品々、商店名に添えられた商品名「和洋小間物 洋傘類 化粧品 各種卸小売 各国時計 たばこ」のとおりです。

6-24 化粧品 手袋 女性 鏡 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24
化粧品 手袋 女性 鏡
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24 前の引札で紹介した小間物を、装う姿を紹介します。明治期は政府の西洋化推進の影響もあり、服装や化粧が洋風化し、香水も急速に普及したと言います。このように洋風の装いを描いた引札も洋装普及に貢献したかもしれません。

6-25 煙草店 店頭 看板 日の出 "天狗巻煙草…" 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-25
煙草店 店頭 看板 日の出 “天狗巻煙草…”
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-25 西洋化はタバコのような嗜好品にも及びました。看板にかかっているのは当時人気の銘柄です。右のカメヲはアメリカからの輸入品で、天狗巻煙草とヒーローは国産です。主な喫煙スタイルがキセルから西洋式の紙巻に変わりました。

6-26 茶店 店頭風景 桜 提灯 "祝繁栄 迎花客" 明治三十二年(一八九九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-26
茶店 店頭風景 桜 提灯 “祝繁栄 迎花客”
明治三十二年(一八九九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-26 茶店の机には酒と思しき瓶が並んでいます。店先の女性は花見客に向って手招きしています。店の行灯には「迎花客」の文字があります。花客とは、花見客のほかひいきの客、お得意様という意味もあります。茶店の引札も比較的珍しいものです。

第7章 不動の吉祥キャラクター

引札には七福神・福助・お多福を始めとした数々の福の神が描かれています。中でも恵比寿と大黒は圧倒的な人気を誇っていて、当館所蔵の引札のなかでは4枚に1枚は恵比寿か大黒がどこかに登場しています。気球に乗ったり、花見をしたり、時には帽子の上にチョンと乗っていたりと、まるで隠れキャラのような描かれ方まで。福の神はとにかく仲がよさそうに描かれていてほほえましく、明治時代も終わりごろになると、神様というより親しみやすいキャラクターとして描かれたようです。
人々に愛された福の神の姿をご覧ください。

第4展示室3

第4展示室3

7-01 「寳斎」款 恵比寿 大黒 盃 "春興福神□戯"  明治十四年(一八八一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 中村小兵衛 版

7-01
「寳斎」款
恵比寿 大黒 盃 “春興福神□戯”
明治十四年(一八八一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
中村小兵衛 版

7-01 まず恵比寿・大黒の見分け方を説明します。恵比寿は釣り竿・鯛・柏紋・頭に折烏帽子または手拭、大黒は大きな白い袋・打出の小槌・米俵・ネズミ・頭に頭巾。これらのいずれかの特徴を持っています。どうぞ見分けてみてください。

7-02 「寳斎」款 恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 "春遊三福神末広" 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

7-02
「寳斎」款
恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 “春遊三福神末広”
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

7-02 万歳は祝福芸のひとつで、正月に家々の座敷や玄関前で新年を寿ぐ祝言を述べ、小鼓を打ち舞を舞うものです。舞う福禄寿の後ろで恵比寿が傘をさしています。傘は下の方が開いているので末広がりで縁起が良いとされています。

7-03 太田 節次 恵比寿 大黒 お金 "宝福神 金 万 両"  明治二十四年(一八九一) 平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色 太田節次 版

7-03
太田 節次
恵比寿 大黒 お金 “宝福神 金 万 両”
明治二十四年(一八九一)
平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色
太田節次 版

7-03 釣竿を持ち鯛を抱える左の恵比寿は海の幸、米俵に座り打出の小槌振る大黒は山の幸を与えてくれる神様です。そのどちらにも恵まれ豊かになるようにと二人並んだ絵が喜ばれました。中央のネズミはお札の束を持っています。

7-04 恵比寿 大黒 三番叟 明治二十五年(一八九二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-04
恵比寿 大黒 三番叟
明治二十五年(一八九二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-04 三番叟は新年・新築・こけら落としなど事の初めに舞われます。諸説ありますが、鈴を振り大地を踏み鳴らすしぐさが、種をまき地を鎮めることに通じているとか。たしかにこの絵も鈴を振り地を踏み鎮めているのは地の神の大黒です。

7-05 恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-05
恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-05 明治二十年頃から、引札の印刷方法が凸版から平版に移行します。絵の表現も足元に影を描くなど西洋的な表現を取り入れたりしました。ただ、どんなに西洋の技術が導入されても恵比寿大黒はかわらず描き続けられました。

7-06 恵比寿 大黒 お金 金庫 明治二十九年(一八九六)頃 平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06
恵比寿 大黒 お金 金庫
明治二十九年(一八九六)頃
平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06 恵比寿 大黒などの福の神は、江戸時代と変わらず描き続けられるのですが、一緒に描かれる物は時代に合わせて変化していきます。この引札ではこれまで描かれていた蔵が金庫に、小判がお札に変化しています。

7-07 尾竹 国一 恵比寿 大黒 気球 日の出 富士 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-07
尾竹 国一
恵比寿 大黒 気球 日の出 富士
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-07 気球は明治十年代に日本に登場し、明治二十三年にスペンサーが各地で興行した時はそのことが歌舞伎になるほど評判になりました。明治三十年代は気球からビラをまいたり垂れ幕を垂らしたり、都会で目にする機会が増えました。

7-08 尾竹 国一 小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-08
尾竹 国一
小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-08 シルクハットをかぶった大黒が掲げた手の先に赤白帽子を手にした恵比寿がいます。どちらも広告屋の姿のひとつです。このお店の宣伝をしているのですね。小さな気づきですが、傘の柄が十二支の寅・卯・辰・戌になっています。

7-09 尾形 国一 恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-09
尾形 国一
恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-09 広告屋と思われる人物の手の上に、硯を捧げ持つ大黒と、店の名前を揮毫しようと筆を構える恵比寿がいます。ここに記される店は商品をリーズナブルに提供してくれると、袖口にいる福助の扇子に記されています。

7-10 恵比寿 大黒 汽車 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-10
恵比寿 大黒 汽車 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-10 左側に店の名前や営業品目が書かれて引札は完成します。もしこの引札に店名が書かれていれば、恵比寿は筆を休めているのでちょうど書き終わったという演出になっていたことでしょう。それにしてもなんと自由で奇抜な絵でしょうか。打出の小槌の中から汽車が走り出てきています。

7-11 恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ "福来" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-11
恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ “福来”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-11 恵比寿と大黒が裾をたくし上げた振り袖姿の少女と子捕ろ子捕ろをしています。その遊びは連なった先頭の人が親となって、後ろに続く子を鬼から守るというものです。日本スポーツ協会の公式ホームページなどで紹介されています。

7-12 恵比寿 大黒 日の出 猪目 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-12
恵比寿 大黒 日の出 猪目
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-12 日の出を象徴するかのような赤い色。この形は何なのでしょうか。日本には古来からハートの形をした猪目という吉祥模様があります。心臓を表すハート形は明治時代からありますが、恋や愛を象徴するのは大正時代からのようです。

7-13 大黒 お金 大福帳 算盤 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-13
大黒 お金 大福帳 算盤
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-13 左側に大福帳が描かれています。この表紙に太々と店の名前を書いて配ることになります。画面いっぱいに打出の小槌を持つ大黒と大福帳と算盤とお金を大きく描いて、すがすがしいまでに金儲けを願った引札です。

7-14 「如泉」款 恵比寿 福笹 日の出 "勉強の…繁栄" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-14
「如泉」款
恵比寿 福笹 日の出 “勉強の…繁栄”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-14 日の出を背景に恵比寿が福笹を担いでいます。この福笹は商人えびすともいわれる新春のえびす講(十日戎・廿日戎)で頒布された、縁起物を結び付けた竹の枝でしょう。色紙には「勉強の店に福来る」と記されています。

7-15 広瀬 春孝 七福神 お金 金採掘 "七福神 新機器ヲ以テ…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-15
広瀬 春孝
七福神 お金 金採掘 “七福神 新機器ヲ以テ…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-15 右上の文字は「七福神 新機器ヲ以テ 金礦採掘ス」七福神が最新鋭の機械を使って金を採掘しています。福禄寿は大きな機械を操作していて、弁財天は何やら火花を散らしています。恵比寿と大黒は利益の計算に大忙しです。

7-16 七福神 来迎 日の出 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-16
七福神 来迎 日の出
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-16 日の出を背に、七福神が金雲をたなびかせて天からやってきました。引札に七福神が描かれるときは、地上で働いていたり遊んでいたりと人間味豊かに描かれることが多いのですが、ここでは神聖が大切にされています。

7-17 見立七福神 観梅 "にこにこと…" 明治三十四年(一九〇一) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-17
見立七福神 観梅 “にこにこと…”
明治三十四年(一九〇一)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-17 右上の句は「にこ〳〵と 七福人の 梅見かな」。七福神に仮装して梅見を楽しんでいる人たちのようです。右側坊主頭で羽織に扇紋は布袋、その右の口ひげを蓄えた人は毘沙門天。一群の先頭の打出の小槌紋の人は大黒でしょう。

7-18 尾竹 国一 七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-18
尾竹 国一
七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-18 七福神はとにかく仲が良いようです。どの引札にも楽しく一緒に過ごす様子が描かれています。この引札には、恵比寿を驚かせようと屏風の隙間に隠れていたほかの六神が突然顔を出したところが描かれています。

7-19 列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-19
列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-19 恵比寿が列車のホームでタバコを売っています。帽子がちょっと折烏帽子っぽくなっています。お金を出そうとしているのは大黒、その後ろから毘沙門天が手を伸ばしています。網棚には布袋の扇や大黒の小槌が載っています。

7-20 七福神 観梅 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-20
七福神 観梅
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-20 洋装の七福神が歩いてきます。先頭のコート姿は柏紋が入っているので恵比寿です。その後ろの弁財天はファーマフラーを首に巻いて手はマフ。一番右の大黒天は英国から入った流行のチェック柄を身につけステッキを持っています。

7-21 広瀬 春孝 福助 モーニングコート "大勉強 広告" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-21
広瀬 春孝
福助 モーニングコート “大勉強 広告”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-21 髷を下ろして髪型を七三分けにし、和服を脱いでモーニングコートに身を包んだ五人の福助が並んでいます。最後尾には赤い旗が掲げられています。結構な迫力です。当時の人たちはこの絵をどのような感情で眺めたのでしょう。

7-22 小間物 象 福助 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-22
小間物 象 福助
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-22 幸運を招く福助が扇子を指し棒にして小間物を売り込んでいます。その後ろでは白象がスリッパをはいて帽子をかぶり懐中時計の首輪をつけて、長い鼻で上手に傘をさしてアコーディオンを弾いています。ものすごい迫力です。

7-23 お多福 枡 箕笊 "士農工商 み入よく…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23
お多福 枡 箕笊 “士農工商 み入よく…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23 右上に「士農工商 み入よく 福が入升」と書かれています。その文意の通り、竹で編んだ箕の中に、士農工商に関するいろいろな宝が沢山のお金と一緒によく入っています。升にはお多福が入っています。

7-24 広田 春盛 福助 お多福 扇 牡丹 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-24
広田 春盛
福助 お多福 扇 牡丹
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-24 福助とお多福の正体が誰なのか、はっきりとはわかりません。この絵はふくよかだったとされるお多福と、小柄だったと伝えられる福助をデフォルメして、楽しげな雰囲気で描いています。富貴と末広がりを象徴する牡丹と扇が添えられています。

7-25 三島 文顕 猩々 盃の船 甕 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-25
三島 文顕
猩々 盃の船 甕
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-25 猩々が登場する能は人気の演目です。素直な心を持ったお酒売が、猩々から酌めども尽きない酒の泉が湧く壷をもらって栄えるという祝言の趣きある話です。猩々はチャーミングな振る舞いも相まって愛されたキャラクターです。

展覧会出口

展覧会出口

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 4(引札の豆知識ほか)」に続きます。

青木隆幸

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2(第2・3展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 1」から続く

第3章 引札を描いた絵師たち

機械式の大量印刷が始まると、やがて全国の小さな個人商店までもが引札を購入するようになり、明治後期には1,000万枚以上が全国で配られたといいます。引札の流通が盛んになるにつれ、絵を手掛ける絵師たちの人数も増え、顔ぶれも多様化していきます。今回調べただけでも100名を超える絵師が引札に参画していることが分かり、長谷川派や歌川派の浮世絵の流れを汲む絵師たち、日本画家や洋画家として名前を知られる作家たちがいるほか、引札の中でしか名前を見ることのできない経歴等がいまだ不明な画家も多くいます。
この章では引札に関わった絵師たちをご紹介いたします。

第2展示室

第2展示室

引札主要絵師の生没年表

3-01 松川 半山 獅子 牡丹 明治前期 凸版(木版整版 多色摺) 寿栄堂 版

3-01
松川 半山
獅子 牡丹
明治前期
凸版(木版整版 多色摺)
寿栄堂 版

3-01 松川 半山は江戸後期~明治時代の画家。別号翠栄堂、霞居、直水など。大坂の狂歌師鬼粒亭力丸の子。名所図会などの画家菅松峯に師事しました。狂歌本の挿絵や絵口合の絵を手掛け、後年には戯作者の暁鐘成と連携して、名所図会や案内記・絵地図類にて傑作を多く世に出しました。文明開化に即応する啓蒙書の著者としても活躍。

3-02 歌川 芳春 七福神 財宝 荷車 気球 富士 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

3-02
歌川 芳春
七福神 財宝 荷車 気球 富士
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

3-02 別号一梅斎、朝香楼など。はじめは芳晴、その後芳春と号しました。二代柳川重信、のちに歌川国芳の門人となります。本格的な活動期は弘化年間から明治十年代頃。美人画、武者絵のほか、大曲馬・蒸気車などの開化絵、おもちゃ絵、読本挿絵などを手掛けました。武者絵の代表作に《水滸伝豪傑鏡》(安政三年頃)がある。

3-03 笹木 芳光 松竹梅 牡丹 菊 水仙 鶴亀 明治二十七年(一八九四)頃 凸版(木版整版 多色摺) 饗庭長兵衛 版

3-03
笹木 芳光
松竹梅 牡丹 菊 水仙 鶴亀
明治二十七年(一八九四)頃
凸版(木版整版 多色摺)
饗庭長兵衛 版

3-03 俗名嘉造。歌川国芳の流れを汲む大坂の浮世絵師・中井芳瀧の門人。『古今博識一覧』(一八九一)の現存日本画人名一覧流派早見一覧には大阪の歌川派としてただ一人掲載されている画師です。幕末の役者絵が多く残されているほか物語絵などもあります。引札には花鳥を主としたものがあります。

3-04 川﨑 巨泉 女性 襖 大福茶 松 梅 牡丹 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

3-04
川﨑 巨泉
女性 襖 大福茶 松 梅 牡丹
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

3-04 明治時代の浮世絵師・郷土玩具画家。別号人魚洞・芳斎・碧水居。中井芳滝に師事しました。芳滝の遺志であった新聞、雑誌の挿絵や連載物のほか、シリーズ物の印刷風俗画作品「大阪名所」の制作を引き継ぎました。明治三十六年頃から郷土玩具への関心を高め、郷土玩具の素朴な美しさを写生画に残す傍ら、玩具の研究を行いました。

3-05 長谷川 竹葉 恵比寿 大黒 宝船 日の出 "入宝" 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

3-05
長谷川 竹葉
恵比寿 大黒 宝船 日の出 “入宝”
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

3-05 別号は翠軒。作画期は明治八年頃から二十二年頃までと考えられます。名所や祭事を描いた錦絵のほか、本の制作や出版にも携わります。著書に日本各地の説話集である『新文図説』など。文部省編集の書籍への作画を行ったり、天皇はじめ公家、軍人ら婦人、画工に至るまで様々な人物の肖像画を描いたりと、幅広く活動しました。

3-06 長谷川 貞信(二代) 松 梅 牡丹 菊 大福茶 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-06
長谷川 貞信(二代)
松 梅 牡丹 菊 大福茶
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-06 初代長谷川小信で、初代長谷川貞信の長男。父に絵を学ぶが、父の勧めで歌川芳梅にも学びました。役者絵のほか、文明開化期の世相や事件、風俗を描き、当時新しいメディアだった錦絵新聞も手掛けました。木版画以外に銅版画の作品もあります。明治十七年からは、中判が主流だった上方役者絵の大判を復活させました。

3-07 長谷川 小信(三代) 恵比寿 大黒 鯛 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-07
長谷川 小信(三代)
恵比寿 大黒 鯛
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-07 三代長谷川貞信のこと。二代長谷川貞信の長男。道頓堀各座の番付や役者の似顔絵集、立川文庫の口絵などを手掛けました。小信は後年、引札やそれに関わる絵師の話を残しており、それらは引札研究の重要な資料となっています。

3-08 北野 恒富 騎馬の大将 陸軍兵士 色紙 桜 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-08
北野 恒富
騎馬の大将 陸軍兵士 色紙 桜 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-08 明治~昭和時代の日本画家。別号夜雨庵。月岡芳年に浮世絵を学んだ稲野年恒に師事。明治中期から末期頃、新小説の口絵を手掛けました。明治四十三年文展で「すだく虫」が初入選。大正三年らは院展に出品。同六年に日本美術院同人。また、大正美術会、大阪美術会を結成し、大阪を拠点に美人画を描きました。

3-09 鈴木 年基 広告屋 口上役 象 ラッパ 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-09
鈴木 年基
広告屋 口上役 象 ラッパ
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-09 明治時代の浮世絵師。通称は雷之助。別号雷斎、蕾斎。月岡芳年の門人。名所風景画や人物画を描きました。西南戦争の立役者達を大判の大首絵で描いた「文武高名伝」(明治十年)や、戦争の場面を大判三枚続で描いた錦絵などが知られます。同年に鈴木雷之助の名で絵草紙『薩摩大戦記』六編を刊行しています。

3-10 林 基春 広告屋 口上役 大黒 床の間 正月 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-10
林 基春
広告屋 口上役 大黒 床の間 正月
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-10 明治時代の浮世絵師。大坂の人。通称は捨蔵、別号は公斎。鈴木年基に学びますが、葛飾北斎らの画風にならいました。挿絵の作例が多いものの、団扇絵や石版画の風景画作品も残っています。

3-11 田口 年信 鼠 正月 書初 "御注文" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-11
田口 年信
鼠 正月 書初 “御注文”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-11 田口年信は明治期の浮世絵師。別号に修斎、鮮中舎、国梅。月岡芳年や川端玉章の門人です。本姓は白井で、田口家の養子となったことから田口姓を名乗る。俗称信次郎。明治二十三年には大阪で活動し、新聞挿絵や講談本の口絵を描きました。晩年は東京で玉章に学び、日本画の通信教授を務めました。

3-12 浅田 一舟 自動車 自動二輪車 飛行機 市街風景 富士 明治末~大正 平版(木版 石版転写 多色刷)

3-12
浅田 一舟
自動車 自動二輪車 飛行機 市街風景 富士
明治末~大正
平版(木版 石版転写 多色刷)

3-12 浅田一舟は明治期の絵師。鈴木年基、武内桂舟に学び、風俗画家として大成しました。引札や団扇の図案制作を得意とし、挿絵も手掛けました。

3-13 島 御風 女性 傘 桜 大正八年(一九一九)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-13
島 御風
女性 傘 桜
大正八年(一九一九)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-13 島御風は、大坂の美人画家で知られる島成園の兄にあたります。大正から昭和の時代にかけて、引札や団扇などに絵を描く画工を生業とする傍ら、浅田一舟に師事して日本画家としても活躍しました。

3-14 広瀬 春孝 扇 菊 龍 富士 風呂敷 明治後期 凸版(木版整版 多色摺)

3-14
広瀬 春孝
扇 菊 龍 富士 風呂敷
明治後期
凸版(木版整版 多色摺)

3-14 大坂の浮世絵師・林基春の門人。別名広瀬楓斎。名所絵を得意としました。代表作に《伊勢名所 伊勢土産名所図画》(全八枚、明治三十年)、《大阪名所》(明治三十一年)があります。ほかに『大正橋心中』(大正四年)の口絵・表紙を制作しました。

3-15 広田 春盛 式三番 三番叟の段 鈴之舞 日の出 若松 式三番 三番叟の段 鈴之舞 日の出 若松 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-15
広田 春盛
式三番 三番叟の段 鈴之舞 日の出 若松
式三番 三番叟の段 鈴之舞 日の出 若松
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-15 現段階では『大日本絵画著名大見立』(明治三十五)の番付 東前頭の最下段に名前と住所(大阪清水町三休橋)を見つけることができますが、それ以外の記録がありません。引札も日本画家 今尾景年の引札コレクションに見本十二点を見る以外になく、未詳の作家と言わざるを得ない画家です。

3-16 尾竹 国一 万歳 屏風 州浜台 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

3-16
尾竹 国一
万歳 屏風 州浜台
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

3-16 明治期の富山浮世絵の代表的な絵師であり、日本画家。別号の越堂の名でも知られます。当初は四代歌川国政を師としたとされます。富山で版画、新聞挿絵や絵馬を手がけました。大阪に出て引札制作に携わり、東京に移った後は肉筆画を多く描きました。文展で活躍した弟の竹坡、国観と共に中央画壇で活躍し、尾竹三兄弟と称されました。

3-17 尾竹 国観 龍 富士 扁額 薔薇 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

3-17
尾竹 国観
龍 富士 扁額 薔薇
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

3-17 尾竹三兄弟の末弟。江戸時代末から明治にかけて富山で、薬のおまけとして作られた売薬版画(富山浮世絵とも言われる)の最盛期に活躍した絵師の一人です。日本画家でもあり、文展でも活動しました。

3-18 金森 観陽 女性 点茶 屏風 竹 梅 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

3-18
金森 観陽
女性 点茶 屏風 竹 梅 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

3-18 明治~昭和前期の日本画家。尾竹国一に学び、関西で活躍しました。また「サンデー毎日」連載の白井喬二作の「新撰組」などの挿絵も描きました。

3-19 木下 廣信 恵比寿 福助 鏡餅 宝尽 明治二十四年(一八九一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 饗庭長兵衛 版

3-19
木下 廣信
恵比寿 福助 鏡餅 宝尽
明治二十四年(一八九一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
饗庭長兵衛 版

3-19 号は日峯、五葉亭、白水など。鈴木廣貞に学び、のちに幸野楳嶺を師としたと言われています。明治二十四年の『古今博識一覧』の「日本画人名一覧流派早見一覧」には歌川派京都の木下廣信とあり、また『浮世絵師伝』では、初代廣信の門人(すなわち二代)で、柳唐、芦水家などの号もあり、初名は廣国であるとされています。

3-20 五十嵐 豊岳 兎 日の出 波 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-20
五十嵐 豊岳
兎 日の出 波
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-20 円山四条派を学んだ絵師・小荒井豊山の門で学びました。師豊山の画風を受け継いで、花鳥や山水画のすぐれた作品を描きました。晩年は襖絵や絵馬を多く手掛けています。

3-21 三島 文顕 仁徳天皇 難波高津宮 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

3-21
三島 文顕
仁徳天皇 難波高津宮
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

3-21 三島文顕の名は、数多くの引札の中に見られ、日本画家・ 今尾景年の引札コレクション二一六点の中に三十一点が含まれています。しかし、その経歴に関して残された情報は、戸田忠恕が出版した葛飾北斎画『浄瑠璃図絵』(明治二十四年九月)の奥付に北斎の絵を文顕が模写して版下を作ったという記録があるのみとなっています。

3-22 中川 蘆月 恵比寿(お宝) 大黒(白鼠 小槌)  "戎包…福帳…" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-22
中川 蘆月
恵比寿(お宝) 大黒(白鼠 小槌) “戎包…福帳…”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-22 円山派の木下蘆州に学んだ画家として知られています。現在確認できる作品は非常に限られており、数少ない残存作品を見る限り、関西で引札を中心とした作画活動を行っていたと思われます。双六の作画もおこなっています。

3-23 湯川 松堂 日の出 船 鶴 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-23
湯川 松堂
日の出 船 鶴
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-23 明治~昭和の浮世絵師で日本画家。別号楽寿、昇竜館。通称は愛之助。掛軸作品や、皇室の御用杉戸絵、木版画の出版物など、多彩に創作活動を行いました。大阪にて浮世絵師で画家の三谷貞広に師事したのち、近代京都画壇の中心人物だった鈴木松年に師事しました。三十六年に第五回内国勧業博覧会で入選しています。

3-24 尾形 月耕 恵比寿 大黒 宝船 日の出 富士 "玉"  明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

3-24
尾形 月耕
恵比寿 大黒 宝船 日の出 富士 “玉” 
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

3-24 明治~大正の日本画家。錦絵の初筆は、明治十年の征韓論について描いた大判錦絵三枚続絵。活版印刷と洋装本普及期の中で、作画量随一の挿絵画家となります。明治二十年代は挿絵、錦絵の版下絵、日本画の制作と、彼の最も精力的な活動期です。著作に風俗を描いた錦絵『以呂波引 月耕漫画』があります。

3-25 「RS」款 汽車 船 松竹梅 雪 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

3-25
「RS」款
汽車 船 松竹梅 雪
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

3-25 画家の名は判明していませんが、このほかにもアルファベットでサインされた引札があります。いずれの作家も未詳。洋画家である可能性も考えられます。

 

第4章 引札に描かれた物語

新年に配布する引札には、新しい年の訪れを寿ぐ、長寿・富貴・商売繁盛・立身出世などの意味を持つおめでたい吉祥の図像が描かれていることがほとんどです。なかには鬼を退治して財宝を手に入れる桃太郎、正直者が富を得る舌切り雀の翁、努力によって村一番の農家となる種まき権兵衛などの、私たちもよく知る物語の一場面が描かれる引札も散見されます。これは、人々がそれら物語の中に勇敢さ・正直さ・勤勉さによって富を得るという、おめでたい面を見出したことによると思われます。
当時の人々に楽しまれた物語をご覧ください。

第3展示室

第3展示室

4-01 野村 信豊 桃太郎 猿鳥犬 財宝 桜 "日本一の大勉強" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

4-01
野村 信豊
桃太郎 猿鳥犬 財宝 桜 “日本一の大勉強”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

4-01 鬼を退治して財宝を手にする桃太郎の話は、明治時代の教科書に採用され、全国に知れ渡りました。幟の「日本一の大勉強」とは、日本一の大値引きという意味です。この桃太郎は品物をとても安く販売しているようです。

4-02 舌切り雀 翁 雀 稲穂 柴 鉄斧 財宝 明治二十八年(一八九五)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

4-02
舌切り雀 翁 雀 稲穂 柴 鉄斧 財宝
明治二十八年(一八九五)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

4-02 柴と斧の上に稲穂がたれて雀が集まってきています。画面右隅には財宝を手にしたお爺さんが描かれています。この組み合わせからは、舌切雀の話が思い出されます。親切心をもって毎日を送り、富を得るに至る話は、商売に携わる人々としても教訓であると同時に、めでたい物語でもあったのでしょう。

4-03 男女 松 鶴亀 見立高砂 金のなる木 "積善の…" 明治中期 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

4-03
男女 松 鶴亀 見立高砂 金のなる木 “積善の…”
明治中期
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

4-03 夫婦愛と長寿、人世を言祝ぐめでたい能「高砂」に見立てて若い男女が相生の松の下を掃いています。よく見ると、亀が種を蒔いて生えた「信用あつ木」「万しょうじ木」「万ほどよ木」から落ちる小金を集めているではありませんか。

4-04 「□権」款 天手力男神 天岩戸 巻子 明治後期 凸版(木版整版 多色摺)

4-04
「□権」款
天手力男神 天岩戸 巻子
明治後期
凸版(木版整版 多色摺)

4-04 太陽神の天照大御神が隠れた岩戸を天手力男神が引き開けて、暗闇の世界に光が差し込んだところです。光に重ねて名前を書いて、店が光で照らされているかのような演出になっています。

4-05 神功皇后 鮎釣 明治二十六年(一八九三) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

4-05
神功皇后 鮎釣
明治二十六年(一八九三)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

4-05 「戦に勝利するのであれば、魚が釣れる」という占いをして、見事アユを釣りあげてこの後の戦で勝利したという神功皇后の鮎釣り伝説が描かれています。この引札を使ったのはやはり生魚商、魚屋です。

4-06 五十嵐 豊岳 菅原道真 天拝山祈祷 稲妻 色紙 "祈商盛" 明治二十四年(一八九一)頃 凸版(木版整版 多色摺)

4-06
五十嵐 豊岳
菅原道真 天拝山祈祷 稲妻 色紙 “祈商盛”
明治二十四年(一八九一)頃
凸版(木版整版 多色摺)

4-06 讒言により大宰府に左遷された菅原道真が天拝山で己の無実を訴える場面です。浮世絵師 豊原国周も明治二十四年に似た図様の浮世絵を制作しています。よく見てみると、道真が掲げている紙には「祈商盛」と書いてあります。

4-07 尾竹 国一 常盤御前 雪行 雪除松 色紙 "色かへぬ…" 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

4-07
尾竹 国一
常盤御前 雪行 雪除松 色紙 “色かへぬ…”
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

4-07 源義経の母・常磐御前が、子ども達を連れて逃げる途中、松の下で雪をさける場面です。右上の色紙には「色かえぬ 常盤の松の千代かりて ひとえに願う 四方の御ひいき」の一句。常磐の松には冬の中でも色を変えない松の葉の意味があります。皆様の変わらないごひいきを願っていますというメッセージの引札です。

4-08 仮名手本忠臣蔵 七段目 力弥 由良助 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

4-08
仮名手本忠臣蔵 七段目 力弥 由良助
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

4-08 赤穂事件をもとにした主君のかたき討ちの物語、忠臣蔵の一場面です。かたき討ちの中心人物・由良助のもとへ、大星力弥が密書を届けたところ。忠臣蔵の中でも名場面とされています。由良之助は茶屋で酒を飲んでいるせいか赤ら顔に見えます。酒屋がこの引札を使う理由がそこにありそうです。

4-09 児島高徳 桜 "天莫空勾践… 桜木に…" 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

4-09
児島高徳 桜 “天莫空勾践… 桜木に…”
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

4-09 児島高徳は、元弘二年(一三三二)、後醍醐天皇が隠岐へ遠流となったとき、ただ一人が天皇救助を諦めずにその決意を桜の木に「天勾践を空しうすることなかれ、時に范蠡なきにしもあらず」と刻み、天皇を激励したといいます。勾践とは中国の春秋時代の越の王、范蠡は敗れた王・勾践を助けた忠臣。

4-10 五十嵐 豊岳 仁徳天皇 難波高津宮 煙 蔵 建築 "高きやに…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

4-10
五十嵐 豊岳
仁徳天皇 難波高津宮 煙 蔵 建築 “高きやに…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

4-10 仁徳天皇は民のかまどに煙が立っていないのを見て、民が貧しいことを知り、税金を取るのをやめ、自分も質素な生活をして宮殿が壊れても修理しませんでした。三年後、民は豊かになり、家々のかまどから煙が立つようになりました。添えられた句は「高きやにのぼりて見れば烟たつ 民のかまどは賑わいにけり」。

4-11 二宮尊徳 "ひこはえも…" 大正五年(一九一六)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 工藤亥三郎 版

4-11
二宮尊徳 “ひこはえも…”
大正五年(一九一六)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
工藤亥三郎 版

4-11 二宮尊徳(金次郎)は、年若い頃に薪を運ぶ間も惜しんで勉強して出世し、多くの村々を救ったことで知られる人物です。右の色紙の句の大意は、ひこばえ(孫生え 古株の根元から出る若芽)も花を咲かせるだろうから水を与えよう、というもの。

4-12 広瀬 春孝 種まき権兵衛 烏 "勉強で…" 明治中期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

4-12
広瀬 春孝
種まき権兵衛 烏 “勉強で…”
明治中期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

4-12 権兵衛は、まいた種を烏に食べられてしまう不器用な農民でしたが、努力を続けて村一番の農家になったと伝えられる人物です。添えられた句「勉強で種く おきゃくがはせくる 繁盛の…」の大意は、安売でお客が集まり大繁盛、というものと思われます。

4-13 川﨑 巨泉 浦島太郎 玉手箱 松竹梅 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

4-13
川﨑 巨泉
浦島太郎 玉手箱 松竹梅
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

4-13 竜宮城から帰った浦島太郎の玉手箱の上に、桃の形で囲った、松と梅が茂る蓬莱山が描かれています。茂る松と梅は松梅(ショウバイ)繁盛と読み取ることが出来、桃は中国から伝わる伝統的な長寿を意味するモチーフです。浦島太郎の話に富貴と長寿を得る吉祥性を見出した絵のようです。

4-14 養老の滝 翁 孝子 川 紅葉 "養老の滝の…" 明治三十四年(一九〇一) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

4-14
養老の滝 翁 孝子 川 紅葉 “養老の滝の…”
明治三十四年(一九〇一)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

4-14 現在の岐阜県の養老の滝には、そのそばで親孝行の青年が山で酒の泉を発見し、その酒で老父が若返った、青年が出世したなどの伝説があります。酒屋が使う引札にふさわしい題材と言えるでしょう。添えられた句は「養老の 瀧のほまれも 孝の徳」。

4-15 円山 応挙 竹取物語 竹 梅 翁 赤子 日の出 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

4-15
円山 応挙 款
竹取物語 竹 梅 翁 赤子 日の出
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

4-15 竹取物語、つまり竹取の翁によって竹の中から発見されたかぐや姫を巡る話です。今まさしく翁が赤子のかぐや姫を発見し、おくるみに包んで山を駆け下りているところが描かれています。後にかぐや姫は翁に富と不死の薬を授けることになります。富貴と長寿を得る物語と見ることもできるでしょう。

4-16 五十嵐 豊岳 綾服呉服 糸繰 機織 "日本織物祖先…" 明治後期 凸版(木版整版 多色摺)

4-16
五十嵐 豊岳
綾服呉服 糸繰 機織 “日本織物祖先…”
明治後期
凸版(木版整版 多色摺)

4-16 添えられた文章は「日本織物祖先 呉服 綾服。糸繰ノ元祖 綾服、織物ノ元祖 呉服。呉服ハ應神天皇の御代、始めて機を織り今に伝わる。依て織物を呉服と云ふ」。織物にまつわる数ある伝説の内のひとつです。

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)」に続きます。

青木隆幸

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 1(第1展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

上記の展覧会が終わりました。

このたびは展覧会図録を制作しなかったので、ブログにその記録を残すことにいたします。

どうぞご覧ください。

エントランス

エントランス

1Fギャラリー

1Fギャラリー

引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし展

ごあいさつ

 引札とは、江戸時代(1603-1868)から昭和時代(1926-1989)の初めにかけて、商店などの宣伝のために作られた広告ちらしのことです。江戸時代においては版木を使って一枚ずつ手で摺っていましたが、明治時代(1868-1912)には西洋からもたらされた銅版・石版・活版印刷の利用が始まり、それ によってこれまでの木版にはなかった表現が現れました。印刷革命たる機械印刷の時代を迎えると大量生産が可能になり、明治末期には当時の日本の世帯数を上回る年間1,000万枚以上が配布されるまでになりました。浮世絵師や日本画家・洋画家をはじめとした様々な絵師が参画し、描かれる図様も多様化していきます。
この度の展覧会では、海の見える杜美術館が収蔵する約2,200点の引札の中から、制作年代・印刷技法・絵師・図様・キャラクターなどテーマに沿って、明治時代の年末年始に配布された引札を中心に、選りすぐりの約150点を展示いたします。新年を寿ぐために描かれた、おなじみの鶴や亀などの伝統的な吉祥画題、さらには飛行機に乗って富を授けにやってくる恵比寿や大黒など、近代化に活気づく明治期ならではのおめでたさの表現などをご覧いただけます。また、紙に凸凹をつけて鳥の羽根や菊の花弁などを立体的に表現する、空押と呼ばれる印刷技術が使われた引札は、是非展示室で実物を見ていただければと存じます。画師たちの競演、それにこたえる印刷技術、明治期の印刷物の持つ華やかな色彩など、この時代に花開いた「引札文化」をお楽しみいただければ幸いです。
最後になりましたが、開催に ご協力いただきました関係者の皆様に心から感謝申し上げます。
主催者

第1展示室

第1展示室

第1章 明治16年頃までの引札
江戸時代中頃から作られるようになった引札は、明治時代にはいっても浮世絵版画と同じように色ごとに版木を摺り重ねて作る木版画が主流でした。商店は、年の瀬になると宝船などの吉祥の図像が描かれた引札を版元から購入し、それに店の名前を印刷してなじみのお客様に新年のあいさつとして配りました。略暦(カレンダー)付きの引札が人気でしたが、略暦の印刷には明治政府からの許可が必要であったため、この頃の引札の多くは暦問屋によって扱われていました。

1-01 河鍋暁斎 恵比寿 お多福 算盤 明治初期 凸版(木版整版 多色摺)・空摺

1-01
河鍋暁斎
恵比寿 お多福 算盤
明治初期
凸版(木版整版 多色摺)・空摺

1-01 明治初期の引札見本帳に綴じられた河鍋暁斎の引札です。暁斎は狩野派の絵師ですが、いろいろな流派の画法を取り入れて、なんでも貪欲に描いたので、自分のことを「画鬼」と呼んでいました。引札まで描いていたとは驚きです。

1-02 日の出 船 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-02
日の出 船
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-02 明治初期の引札には、新年を寿ぐ吉祥の画題として日の出が最も多く描かれました。この絵には力強くのぼる旭日を受けて、荷物を満載した船が荒波を超えていくさまが生き生きと描かれています。晴れ晴れとした光景です。

1-03 長谷川 竹葉 日の出 宝船 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-03
長谷川 竹葉
日の出 宝船
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-03 勢いよく昇る旭日を背に、宝船がこちらに向かって進んできます。船の積み荷は宝珠やサンゴ、打出の小槌に千両箱や米俵。夢のような宝物が満載です。現実の船ではなく神々の世界からやってくる宝船も数多く描かれました。

1-04 「寳斎」款 気球 宝船 日の出 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-04
「寳斎」款
気球 宝船 日の出
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-04 右下に描かれているのは、旭日を背にこちらに向かってやってくる宝船。江戸時代から繰り返し描かれてきたおなじみの吉祥の光景です。左に見えるのは空高くあがる気球です。新しい乗物も積極的に吉祥の画題に取り入れられました。

1-05 歌川 芳春 七福神 蓬莱山 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-05
歌川 芳春
七福神 蓬莱山
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-05 神々が住む世界のひとつ、蓬莱山が描かれています。金の生る木や宝珠の実がつくサンゴのような木が生えています。滝の下では打出の小槌の水車が回り、まさしく神々の住む楽園のような光景です。七福神があちらこちらでくつろいでいます。

1-06 歌川 芳春 七福神 日の出 鶴 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 松浦善右衛門 版

1-06
歌川 芳春
七福神 日の出 鶴
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
松浦善右衛門 版

1-06 これは見本ではなく、配布するために店名等を入れて摺られた引札です。これは左下に赤字で印刷された字を読むと、「くらかり峠」の「入口より二丁目北側」 にある宿屋、〇太マークが目印の「かわちや太郎兵衛」が配った引札だということがわかります。

1-07 「寳斎」款 浦島太郎 鶴亀 富士 竜宮 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-07
「寳斎」款
浦島太郎 鶴亀 富士 竜宮
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-07 画面の左上にうっすらと見えるのは竜宮城です。そこに向かうのは蓑亀の背に乗った浦島太郎。この絵には乙姫も玉手箱も描かれていません。浦島は竜宮城にあると言われている宝の蔵を目指しているのかもしれません。

1-08 正月 門松 注連縄 日章旗 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-08
正月 門松 注連縄 日章旗
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-08 明治六年十一月三日の天長節(天皇誕生日)から国旗を立てることが行われるようになり、やがて国民の祝日や正月にも掲揚することが習慣化したとされています。白地に書かれている「ヌ印壱円七十銭」は引札百枚の価格です。

1-09 正月 門松 注連縄 日章旗  明治十三年(一八八〇)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-09
正月 門松 注連縄 日章旗
明治十三年(一八八〇)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-09 出品番号1-08に記された価格によると、この引札は現在でいうと一枚およそ八十五~百七十円です。その引札を現米沢市の大坂屋清兵衛が購入して配りました。なおこのお店は現在も続いています。第六章のパネルで紹介しています。

1-10 長谷川 竹葉 七福神 呉服店 日の出 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-10
長谷川 竹葉
七福神 呉服店 日の出
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-10 恵比寿・大黒・福禄寿・寿老人が働く反物屋で、弁財天・毘沙門天・布袋が買い物をしています。暖簾に染め抜かれているのは福の字でしょう。旭日を背景に福尽くしの店が描かれた、一年の繁栄を予感させるおめでたい絵です。

1-11 長谷川 竹葉 七福神 呉服店 日の出 明治十六年(一八八三)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

1-11
長谷川 竹葉
七福神 呉服店 日の出
明治十六年(一八八三)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

1-11 少し痛んでいますが、出品番号1-10の明治十五年の暦を持つ引札と同じ版が使われています。この引札には明治十七年の暦がついているので、少なくとも足掛け三年は作り続けられたた人気の図柄だったことがわかります。

第2章 略暦刊行の自由化と印刷革命
明治16年に略暦の発行が自由化されると、多くの印刷所が引札制作に参入しました。そこには銅版や石版など、これまで引札を制作してきた暦問屋にはない技術がありました。彼らは競い合うように様々な技法を駆使し、時には既存の技法を組み合わせて新しい表現を編み出しました。明治25年頃から引札印刷の主流になったのは、まず絵を木版に彫り、その版を転写紙で石版に写しとって製版し機械で大量印刷するという手法でした。多色刷石版の一種、クロモ印刷など西洋から入ってきた最新技術も次々と取り入れられていきます。
ここでは印刷技法に注目して引札をご覧ください。

引札展 海の見える杜美術館202112 (25)

2-01 天使 巻子 明治十六年(一八八三)頃 凸版(木版整版 多色摺) 饗庭長兵衛 版

2-01
天使 巻子
明治十六年(一八八三)頃
凸版(木版整版 多色摺)
饗庭長兵衛 版

2-01 東京日日新聞が、明治七年(一九七四)から新聞タイトルのデザインに有翼の天使を描くようになると、引札にも同じような天使が登場しました。版元の饗庭長兵衛は、江戸時代、元禄二年(一六八九)創業の京都の老舗版元です。

2-02 日の出 船 港 明治十七年(一八八四)頃 凸版(木版整版 多色摺) 山﨑米吉 版

2-02
日の出 船 港
明治十七年(一八八四)頃
凸版(木版整版 多色摺)
山﨑米吉 版

2-02 真ん丸な太陽から放たれた光が、青い空を白く光らせその先に放射線状になって伸びています。赤いすやり霞がたなびき、海の手前はベロ藍のボカシ摺。見たことのない珍しい表現の組み合わせです。版元の山﨑米吉については不詳です。

2-03 木下 廣信 恵比寿 鯛 松竹梅 明治十八年(一八八五)頃 凸版(木版整版 多色摺) 松居市太郎 版

2-03
木下 廣信
恵比寿 鯛 松竹梅
明治十八年(一八八五)頃
凸版(木版整版 多色摺)
松居市太郎 版

2-03 赤地に白の松竹梅と鯛を抱える恵比寿が描かれた伝統的な吉祥図です。版元の平民 松居市太郎は不詳です。明治に華族 士族以外は平民という族称となり、明治八年三月の署名には族称を記す旨の布告に従い、略歴左側の署名には「平民」と記されています。

2-04 日の出 船 港 荷役 明治二十年(一八八七)頃 凸版(木版整版 多色摺) 和田 版

2-04
日の出 船 港 荷役
明治二十年(一八八七)頃
凸版(木版整版 多色摺)
和田 版

2-04 勢いよく昇る太陽を背に船から大量の荷を下ろす人々。活気ある港湾という題材は、商人にとって代表的な吉祥図のひとつです。版元名は絵の右側に「和田板」とだけ記されています。こちらも不詳の版元です。

2-05 長谷川 貞信(二代) 富士 藻狩船 日の出  額  明治二十二年(一八八九)頃 凸版(木版整版 多色摺) 佐野藤助 版

2-05
長谷川 貞信(二代)
富士 藻狩船 日の出 額
明治二十二年(一八八九)頃
凸版(木版整版 多色摺)
佐野藤助 版

2-05 生い茂った藻を刈る藻刈船は日本の伝統的な画題です。引札にも藻刈船が多く描かれています。「藻を刈る」の読みが「もおかる」→「儲かる」に通じているのです。商店は、縁起をかついで儲かる藻刈船が描かれた引札を配りました。

2-06 長谷川 貞信(二代) 恵比寿 大黒 金庫  〝福神帳合之図 大福恵…〟 明治二十二年(一八八九)頃 凸版(木版整版 多色摺) 梅村為助 版

2-06
長谷川 貞信(二代)
恵比寿 大黒 金庫
〝福神帳合之図 大福恵…〟
明治二十二年(一八八九)頃
凸版(木版整版 多色摺)
梅村為助 版

2-06 金庫の前に座ってお金を数える恵比寿と大黒という、典型的とも言える吉祥の図様です。よく見ると、恵比寿や大黒の顔には陰影がつけられ、立体感を帯びていることが分かります。

2-07 「栄松斎」款 酪農 牧場 店 明治二十二年(一八八九)頃 凸版(木版整版 多色摺) 瀬尾惣太郎 版

2-07
「栄松斎」款
酪農 牧場 店
明治二十二年(一八八九)頃
凸版(木版整版 多色摺)
瀬尾惣太郎 版

2-07 「うしのちゝ」の旗を掲揚した牧場が描かれています。暖簾に見える「聖パルナパ病院」は大阪市天王寺区にある日本聖公会最古の病院、聖バルナバ病院のこと。この引札にはそこに牛乳を納めた福島弥助の名前が記されています。

2-08 浦島太郎 恵比寿 大黒 寿老人 明治二十年(一八八七)頃 平版(銅版 石版転写 二色刷) 鳥居又七 版

2-08
浦島太郎 恵比寿 大黒 寿老人
明治二十年(一八八七)頃
平版(銅版 石版転写 二色刷)
鳥居又七 版

2-08 とても細い線を組み合わせて濃淡や陰影を表しています。これは、ここまで見てきた凸版(木版製版)にはない銅版ならではの表現です。明治十六年以降、様々な印刷業者が参加したことで、引札に新しい表現が加わりました。

2-09 日の出 宝船 船 鶴  明治十九年(一八八六) 平版(銅版 石版転写 多色刷) 山口市太郎 版

2-09
日の出 宝船 船 鶴
明治十九年(一八八六)
平版(銅版 石版転写 多色刷)
山口市太郎 版

2-09 先頭の船には略暦が、続く船には汽車の時刻表、最後尾の船には汽車と汽船の時刻表が掲げられています。引札は、配布した先で身近に飾ってもらえるよう、華やかさ、めでたさ、そして実用性も考えて作られました。

2-10 龍 富士 明治二十一年(一八八八) 平版(銅版 石版転写 二色刷) 竹内岩治郎 版

2-10
龍 富士
明治二十一年(一八八八)
平版(銅版 石版転写 二色刷)
竹内岩治郎 版

2-10 銅版で版を作っていますが、富士と龍は銅板特有の細かな線ではなく、木版を真似た太い線や面を主とした表現になっています。富士の裾野から黒雲をまとって昇天する龍の図は、葛飾北斎の《富士越龍》(北斎館蔵)を想起させます。

2-11 商店 港 繁昌の様子 〝大日本海陸繁栄之図〟 明治後期 平版(銅版 石版転写 二色刷)

2-11
商店 港 繁昌の様子 〝大日本海陸繁栄之図〟
明治後期
平版(銅版 石版転写 二色刷)

2-11 太陽から広がる薄明光線が丁寧に表現され、その下の遠方に見える船のマストのロープ一本まで繊細に描かれています。そして右下の近景は線遠近法を用いて奥行きを演出しており、画面の隅々まで行き届いた描画がされています。

2-12 恵比寿 大黒 福助 馬  見立桜井の別れ 明治中期 平版(木版 銅版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

2-12
恵比寿 大黒 福助 馬
見立桜井の別れ
明治中期
平版(木版 銅版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

2-12 地紋フィルムとは今で言うスクリーントーンのような技術だと考えられ、ここでは背景に使用されています。楠木正成の家紋「菊水の紋」、そして武将が物を授ける様子が描かれていることから『太平記』の名場面のひとつ「桜井の別れ」に見立てていることがわかります。ただし、授けているのは物語で語られる短刀ではなく大金のようです。

2-13 五円札柄 〝…互円…日本商行…〟 明治二十三年(一八九〇)頃 平版(木版(板目 木口) 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

2-13
五円札柄 〝…互円…日本商行…〟
明治二十三年(一八九〇)頃
平版(木版(板目 木口) 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

2-13 五円札を模した「互圓」の字の下に、この引札を糊で貼りつけるように、と書いてあります。どうやらこのお札は縁起をかついでいるようです。例えばお札の番号は「二九八内」(福は内)、日本商工の印は「商売盛大」になっています。

2-14 「長英」款 高橋盛大堂 店頭の様子 薬店 製造薬 主人肖像 明治十六~二十六(一八八三~一八九三) 平版(木版(板目 木口) 石版転写 多色刷)

2-14
「長英」款
高橋盛大堂 店頭の様子 薬店 製造薬 主人肖像
明治十六~二十六(一八八三~一八九三)
平版(木版(板目 木口) 石版転写 多色刷)

2-14 店の左側に続く橋の親柱に「しじみはし」と書かれており、この川は明治四十二年に埋め立てられる前の蜆川(曾根崎川)とわかります。店主の顔は木口木版でリアルに描かれています。盛大堂薬局は現在も大阪で営業しています。

2-15 龍 虎 明治中期 平版(木版 砂目 石版転写 多色刷)

2-15
龍 虎
明治中期
平版(木版 砂目 石版転写 多色刷)

2-15 もくもくとした黒雲や柔らかな鉛筆で描いたかのような岩肌の陰影には、砂目という石版の手法の一種が使われています。細かな点で繊細に陰影を表現しています。

2-16 高橋友七 大友支店 店頭の様子      明治中期 平版(木版 砂目 石版転写 多色刷)

2-16
高橋友七 大友支店 店頭の様子     
明治中期
平版(木版 砂目 石版転写 多色刷)

2-16 明治二十年代頃は、砂目の石版を使って、素朴な鉛筆画のような少しリアルに描いた印刷物が流行り、それは引札にもすぐに取り入れられました。この引札では、繁盛する店の様子を描いています。当時の店頭風景がよくわかります。

2-17 恵比寿 大黒 お金 蔵 明治二十四年(一八九一)頃 平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色 田代石版部 版

2-17
恵比寿 大黒 お金 蔵
明治二十四年(一八九一)頃
平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色
田代石版部 版

2-17 黒色の部分は砂目の石版を使って印刷しています。赤などの色の部分は合羽摺と言われる浮世絵版画の彩色法のひとつが使われています。ステンシルのように着色したい部分を切抜いた型紙を引札にのせて、その上から彩色します。

2-18 平家物語 明治三十八年(一九〇五) 平版(木版 写真製版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

2-18
平家物語
明治三十八年(一九〇五)
平版(木版 写真製版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

2-18 横笛を吹く人物は、絵を写真撮影して製版しています。そのほかは木版で版を作っています。それらの版を転写紙で石版に移して機械印刷しているようです。このころの印刷はとにかく自由で数々の実験的な試みが行われました。

2-19 万歳 日の出 松竹梅 明治末~大正 平版(クロモ石版 地紋フィルム 石版転写)

2-19
万歳 日の出 松竹梅
明治末~大正
平版(クロモ石版 地紋フィルム 石版転写)

2-19 この引札に使われているクロモ石版は、いわゆる「ポスター黄金時代」のアルフォンス・ミュシャやトゥルーズ・ロートレックらの活躍を支えた十九世紀後半の代表的な印刷技術です。色の点を掛け合わせてリアルな色彩を再現します。

2-20 女性 扇 梅 竹 牡丹 明治末~大正 平版(クロモ石版 石版転写)

2-20
女性 扇 梅 竹 牡丹
明治末~大正
平版(クロモ石版 石版転写)

2-20 こちらもクロモ石版が使われています。サイズや用途は引札ですが、明治末から大正時代に流行した美人画のポスターに劣らない美しいものです。「矢尾支店」(矢尾商店)は、「矢尾百貨店」(埼玉県秩父地域)として今も営業中です。

2-21 女性 飾付 鏡餅 明治三十六~四十五年(一九〇三~一九一二) 平版(アルミ板 アルモ印刷) アルモ印刷所 版

2-21
女性 飾付 鏡餅
明治三十六~四十五年(一九〇三~一九一二)
平版(アルミ板 アルモ印刷)
アルモ印刷所 版

2-21 この引札には、石版ではなくアルミ板を使ったアルモ印刷という技術が使われています。旅館が配る引札は、このような新年の挨拶を添えたものが多く、顧客が遠方にいることもあり、まさしく今で言う年賀状のように郵送した可能性もあります。

2-2 「桜邨」款 猿 竹 梅 日の出 明治四十年(一九〇七)頃 平版(クロモ石版 地紋フィルム 石版転写) 古島竹次郎 版

2-22
「桜邨」款
猿 竹 梅 日の出
明治四十年(一九〇七)頃
平版(クロモ石版 地紋フィルム 石版転写)
古島竹次郎 版

2-22 明治時代は各印刷所がそれぞれ工夫して印刷しているので、今となってははっきりとわからない技術がたくさんあります。この引札もその一つです。クロモ石版や模様の入った転写紙(地紋フィルム)を組み合わせて印刷したようです。

引札展 海の見える杜美術館202112 (27)

2-23  三島 文顕  日の出 鶴  明治中期  凸版(木版整版 多色摺)・空摺

2-23
三島 文顕
日の出 鶴
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)・空摺

引札展 海の見える杜美術館202112 (28)

2-23 引札には紙に凹凸をつけて線を描いたものが多くあります。キャプションに空摺あるいは空押と記しているので注意してみてみてください。

2-24 長谷川 貞信(二代) 日の出 船 港 荷役 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)・空摺

2-24
長谷川 貞信(二代)
日の出 船 港 荷役
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)・空摺

引札展 海の見える杜美術館202112 (29)

2-24 中央に記されているのは広島の宮島 岩国から山口の三田尻を経由して福岡の中津 宇野島に至る各地の港の名前です。その間の航海の安全を願うかのように、背景には穏やかな海を表す青海波文様が空摺で描かれています。

2-25 日の出 鷹 波 岩 菊 富士 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

2-25
日の出 鷹 波 岩 菊 富士
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

引札展 海の見える杜美術館202112 (30)

2-25 手で摺って凹凸をつけるときは空摺、機械で押し付けて凹凸をつけるときは空押と呼びます。この作品は空押でレリーフのような立体感を引札に与えています。白鷹の羽の重なり、岩肌、波のうねりが陰影だけで表現されています

引札展 海の見える杜美術館202112 (31)

2-26 皇太子妃節子 迪宮殿下 金太郎 鷲 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

2-26
皇太子妃節子 迪宮殿下 金太郎 鷲
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

2-26-2皇太子妃節子 迪宮殿下 金太郎 鷲

2-26 多くの空押の引札の中でも、ひときわ繊細な彫刻が施されている引札です。羽の模様をそれぞれの場所で工夫していて、特にくちばしから下の毛並みは深さや流れまで考えて一本一本丁寧に彫り分けています

 

2-27 明治天皇皇后 軍艦 日英旗 薔薇飾 明治三十八年(一九〇五)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

2-27
明治天皇皇后 軍艦 日英旗 薔薇飾
明治三十八年(一九〇五)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押

引札展 海の見える杜美術館202112 (33)

 

2-27 バラの花びら一枚まで空押が施されています。一見しただけでは気づくことができないほど繊細な表現です。言ってしまえばただのチラシに過ぎない引札ですが、高い技術が注ぎ込まれて作られています。

2-28 「Ko」款 皇太子妃節子 花束 日章旗 旭日旗 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

2-28
「Ko」款
皇太子妃節子 花束 日章旗 旭日旗
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

引札展 海の見える杜美術館202112 (34)

 

2-28 この引札では、輝くネックレスを表現するために、印刷の上からキラキラ光る小片をちりばめています。このような独創的な表現は、絵師だけでなく、彫師や印刷職人たちとの共同作業によって生み出されたものと思われます。

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2 第2・3展示室」に続きます。

青木隆幸

 

 

うみもり香水瓶コレクション15 ランバン社《モリス広告塔》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の、明治・大正・昭和時代のちらしを紹介する「引札-新年を寿ぐ吉祥のちらし―」展に合わせて、フランスの広告塔をかたどったランバン社《モリス広告塔》を展示しています。

「モリス広告塔」という名だけでは、いかなるものか想像しづらいものですが、画像を見れば一目瞭然、パリの街角でおなじみの、あの広告塔のことです!

こちらです👇

画像1

ランバン社、香水瓶《モリス広告塔》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年頃(?)、陶器、紙、 海の見える杜美術館LANVIN, COLONNE MORRIS FLACON Design by Guillaume Gillet -C.1950? Earthenware,Paper, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

この「モリス広告塔」は、1868年に登場して以来、パリのあちらこちらの街頭に普及した、ポスターを掲示するための特別な円柱です。コンサートや演劇等の催しを道行く人に知らせるこの広告塔は、今日に至るまでパリジャンに愛され、この都市を象徴するオブジェのひとつとなっています。また異国から訪問する私のような者でも、パリの空港から市内に入り目的地へと着くまでのあいだ、車の窓からいくつもの広告塔を見るとはなしに見ていると、活気ある愛しのパリに再びやってきたのだという実感が次第にこみ上げてくるものです。モリス広告塔は、文化イベントの最新情報を提供する以上に、唯一無二のパリのエッセンスそのものを見る者に伝えてくれるのかもしれません。

ただ、あまりに町のあちこちにありすぎて、ついありがたみが薄れてしまい(モリス広告塔よ、ごめんなさい!)広告塔だけを撮影したことはないのですが、この度、実際の様子をお伝えしようと、過去の画像データから写真を探していると、偶然小さく写り込んだものを見つけました!こちらです👇

画像2岡村嘉子撮影、2009年

見つけるのは名作絵本『ウォーリーをさがせ!』並みに難易度が高いですが、おわかりになりましたか? 地下鉄入り口の美しい欄干とモザイクを撮影していたので、右奥にモリス広告塔があったとは我ながら気付かなかったのですが、奥へと延びる狭い通りの入り口右側に、しっかりとあるではないですか! 広告塔の拡大写真と、ランバン社の香水瓶を並べてみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その類似がよくわかりますね!

ランバン社の本作品は、終戦後まもなくファッションデザイナー、ジャンヌ・ランバンによって発表されました。柱の表面には、「アルページュ」や「マイ・シン(私の罪)」など、2021年7月のブログでも取り上げた、戦前の明るい時代を彩った、ランバン社歴代の香水のポスターが貼られています。ジャンヌ・ランバン母子が描かれたランバン社のマークのポスターも中央にありますね。

ポスターの雨除けの役目を果たす上部のはりだし部分には、香水瓶に収められた男性用香水「オー・ド・ランバン」の文字が刻まれています。この香水もまた、1933年からあるものですが、香水瓶のデザインをパリの街角の象徴に一新することで、ユーモアに満ち活気あふれる戦後のパリを広く印象づけることとなったのです。

さて、この大胆なデザインの改変を行ったのは、後年、フランスの近代建築を代表する建築家として名を馳せたギョーム・ジレです。

私は、香水瓶をデザインするまでのジレの人生を思うと、この香水瓶が放つ、平穏で明るいパリの雰囲気にことのほか圧倒されます。というのも、そこにはパリからも親しい人々からも、そしてそれらが放つ香りからも遠く離れた地で、捕虜として過ごした暗い年月のなか、再会を強く夢見たものが投影されているように思えるからです。

ジレは、パリ近郊、フォンテーヌ=シャアリのジャックマール=アンドレ美術館の学芸員の父と、アカデミー・フランセーズ会員を代々輩出した家系出身の母のもと、常に芸術が身近にある家庭環境のなかで育ちました。そのため、長じた彼が芸術の道へ進んだのは当然のことであったでしょう。彼は国立エコール・デ・ボザールで絵画を学び、その一方で1937年、国家試験合格の建築家となると、同年に開催されたパリ万国博覧会でブラジルとウルグアイをはじめとするパヴィリオンの建設に参加します。このように若き芸術家として順風満帆に歩み始めるのですが、時代は刻一刻と避けがたい戦争の影が色濃くなっていく頃のこと。活躍の矢先の1939年に彼は動員され、翌1940年にはナンシーで捕らえられて、ドイツ軍の捕虜となってしまうのです。こうして1945年に解放されるまでの約5年間、彼はドイツで捕虜生活を送りました。

ジレは収容所での日々の中、画家・装飾家として自分の出来得る限りのことをしています。例えば、現在も収容所のあった地に残る、学生時代からの友人ルネ・クーロンとともに手掛けた、いわゆる「フランス人の礼拝堂」です。それは、収容所の質素な屋根裏の壁に「キリストの受難」や「ピエタ」等のキリスト教主題のフレスコ画を描いたものでした。同礼拝堂の壁には、クーロンによるフランスの聖人たちが描かれたフランスの地図もありました。明るい色合いで描かれた天使や聖人が見守るこのささやかな祈りの空間が、どれほど多くの捕虜たちの心を慰め、また故郷への思いを募らせたことでしょう。

そのような苦難の日々を経て、ようやく戻ったパリおよび、次いで滞在したローマにて、ジレはかつての日常を取り戻し、解放後の自由を謳歌します。

そのなかで、彼はジャンヌ・ランバンの娘であるポリニャック伯爵夫人と親しくなり、戦後のランバン社の香水の広告をいくつも手掛けています。そのいずれもがこの香水瓶同様、明るく楽しい雰囲気に満ちているのです。例えばこちらです👇

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ランバン社 広告《ランバンの香水》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年、印刷、 海の見える杜美術館 LANVIN, ADVERTISEMENT Design by Guillaume Gillet -C.1950 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社の戦前のアール・デコ・デザインを知る者としては、香水名すら正面に明記されていない、1925年を代表する黒と金のシンプルかつ優美な球形香水瓶からの、サーカスの愉快な面々が体現する香水へのデザインの変化に驚きつつも、その大胆なユーモアについ笑みが浮かんでしまいます。なんといっても、名香「アルページュ」の名は、陽気なお猿さんが手にする日傘の柄として描かれていますし、これまた一時代を築いた「マイ・シン(私の罪)」は、なんとヒョウ柄パンツ姿にスキンヘッドのいかついレスラーの胸板に直接記されているのです!

左:ランバン社《球形香水瓶、マイ・シン(私の罪)》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ランバン社 広告《ランバンの香水》部分、 LANVIN, ADVERTISEMENT  ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

戦争の苦難の年月の反動のように、そこかしこで笑みが生まれるこの雰囲気こそ、ジレに限らず彼と同時代の多くの人々の様々な思いや願いを代弁するものではないでしょうか。1950年前後のランバン社の香水瓶と広告は、心身に多くの傷を負いながらも、平穏な世界を目指して前へ進もうとする無数の人々の存在を克明に伝えてくれるものであると私には思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

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©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「アルページュ」の日傘を持つお猿さんの顔にも笑みが!

 

「大坂屋清兵衛(大清)」の引札

羽前米沢粡町の大坂屋清兵衛の引札があります。
商っている商品は小間物と書籍のようです。

2021-003-16「萬小間物書肆舗(丸に太)羽前米澤粡町 大坂屋清兵衛」

明治時代の羽前米澤粡町(あらまち)は、現在の山形県米沢市中央3・4・5丁目の間の粡町通りを中心とした地域です。

中村清治編『粡町史』(粡町協和会 1942)には、粡町には1000年を超える歴史があり、米沢のなかで最も繁栄した商家町であったことが記されています。また、その町史には大坂屋清兵衛についての記述もあり、まず文化8年(1811)の地図の粡町上通り西側の清兵衛の表記、そして弘化3年(1847)、明治12年(1879)、昭和16年 (1931)の地図において、小間物屋の大坂屋清兵衛(中村清兵衛)から始まり、金物商 大清 中村清兵衛として同地で発展しながら敷地を拡大していることがわかります。また、明治11年(1878)に洋灯(ランプ)を始めて米沢に移入して販売した人物としても紹介されています。そのランプを一目見ようと近隣からたくさんの人たちが大坂屋清兵衛の店に集まったそうです。(同書114頁)

ここまでこの引札に記された「大坂屋清兵衛」のことを追ってまいりましたが、調べて見ましたら、山形県米沢市でNo1の配管資材、建設資材のプロショップとして現在も同地で株式会社 大清として営業されていることがわかりました。元禄元年(1688)創業以来、今年で実に333年になる老舗中の老舗です。

この引札は、今からおよそ140年前、小間物屋から次第に事業を拡大し、洋灯(ランプ)の販売を誰よりも先駆けて米沢で販売を始めたころ、年の瀬に配布して店の宣伝に努めたものです。その後も事業を伸張させ、現代まで続いていることに思いをいたすと、とても感慨深いものがあります。

恐れながら14代目当主 中村友彦氏にご連絡差し上げ、この引札が間違いなく同社配布のものであることをご確認いただき、また諸事ご教示いただきますとともに、諸資料のご提供と使用許可をいただきました。

現在は同地に大きなビルが建ち、中には資料室も設けられています。現社屋 資料室1 資料室2 資料室店舗復元1 明治史料1明治史料2

この引札は、今日から開催する以下の展覧会に出品いたします。
株式会社 大清の140年前のチラシをぜひ直接ご覧ください。

【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

 

 

ちなみに、この引札の1年違いの見本が残されています 。明治15年の略暦と見本番号と代金「ヌ印 壱円七十銭」が添えられているので、少し考えてみますと、明治15年の貨幣価値は、白米10キロ82銭 、日雇い労働者の日当22銭 ですから、仮に1円を現在の貨幣価値5,000~10,000円ぐらいとするなら、ここに記された価格は100枚当たりの金額なので1枚当たりおよそ85~170円ということになります。大阪屋清兵衛はこの引札の見本を見て、購入を決め、空欄に自分の店の名前を印刷してなじみのお客様に配布したのです。

引札明治15年

 

青木隆幸

うみもり香水瓶コレクション14 キャロン社《プール・ユンヌ・ファム》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。ご好評を頂いている秋季の企画展「美人画ラプソディ・アンコール――妖しく・愛しく・美しく」も、まもなく会期終了を迎えようとしています。前回のブログ「うみもり香水瓶コレクション」では、企画展のテーマのひとつ「女の装い プラス・マイナス」(女性が身繕いをしている姿やそれを解いた姿をとらえた作品群)にちなみまして、「番外編 フランス」と題し、スキャパレリ社《ショッキング》を取り上げました。今回はその続きで、この機会にぜひお目にかけたいキャロン社の香水瓶をご紹介いたします!

こちらの香水瓶です。👇

プール・ユンヌ・ファム

キャロン社 、香水瓶《プール・ユンヌ・ファム》デザイン:フレデリコ・レストレポ、2001年、透明クリスタル、リボン、製造:バカラ社 海の見える杜美術館CARON, POUR UNE FEMME WITH ITS CASE Design by Frederico RESTOREPO -2001, Transparent crystal, ribbon, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

今回も女性のボディをかたどった香水瓶です。前回の《ショッキング》と並べてみると、その相違がわかりますね!

左:スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館RENE LALIQUE, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

スキャパレリ社《ショッキング》は、巻き尺が首にかけられた仕立て用ボディが表現されており、鮮やかな色合いと花々の装飾も相まって、華やいだ雰囲気に満ちています。この香水瓶からは「これからどんな素敵なドレスに仕上がるかしら?」と目を輝かせる女性の顔が浮かんでまいります。

一方、キャロン社《プール・ユンヌ・ファム》では、体型にぴったりと合ったドレスを纏い、三面鏡の前に立つ全身像が表現されています。ここでは、「今夜はどんな楽しいことがあるかしら?」という期待に胸をはずませつつも、決してそれだけではないように思えます。鏡の前では、パーティの装いの最終チェックを欠かさない女性の真剣かつ冷静なまなざしをも浮かんでくるのです。三面鏡を配した2001年の限定エディション用の専用ケースが、香水瓶単体では紡ぎ得なかった物語を語っているかのようです。

ところで、私はこの香水瓶を初めて目にした時に、思わずうなり、感嘆してしまいました。それはひとえに、香水瓶の構造に起因しています。香水瓶のキャップが、思いがけないところにあったのです。

皆様は、どちらにキャップがあるかおわかりになりますでしょうか? スキャパレリ社《ショッキング》とは反対に、ドレスの足元、つまり瓶の底に配されているのです。これは香水瓶の歴史において、大変珍しい形です。ここにはどのような意味が込められているのでしょうか?

プール・ユンヌ・ファム3

👆この部分です!©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

一般的に、レディの装いは常に何かを付け加えていくこととで完成します。ドレスを一枚纏えば、それに合う手袋やジュエリーを着け、場合によっては帽子やティアラ、髪飾りを頭部に頂きます。そして香水は装いの仕上げとして用いられてまいりました。こうして近代以降、ドレスと香水は切っても切り離せない関係にあったのですが、《プール・ユンヌ・ファム》ではそう単純な話ではないようです。なにしろ、香水を使えば使うほど、ドレスに見立てられた香水は減っていってしまうのですから! 大事なドレスは静かに足元の方へと次第に下がっていき、最終的にはすっかり脱げてしまうのです。

しかしそれは決して悲しいことではないでしょう。なぜならドレスを脱いで、生来の姿となった先にあるのは、ドレスが体現していた社会的役割や経歴――あるいはときに虚飾の混じる世界――から解き放たれて、ただ一個の、今を生きる裸の人間になることです。そのありのままの姿となった女性は、なんと気高く美しいのでしょう。

話を冒頭に戻しますと、前回と今回のテーマは「女性の装い プラス・マイナス」です。ドレスを纏い、鏡の中の自分を真剣に見つめていた女性は、装いを解いた自らの姿をも、勇気をもって冷静に直視し、受け入れることでしょう。マイナスがもたらす美が表現されたこの香水瓶に、私は21世紀の知性ある美しき女性像を見る思いがするのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

うみもり香水瓶コレクション13 スキャパレリ社《ショッキング》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。金木犀が香り、すっかり秋らしくなってまいりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

現在、海の見える杜美術館では企画展「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」が行われています。明治以降の日本の画家たちが表現した様々な女性美を紹介する展覧会です。会場の出品作品は4つのテーマに分けられていますが、そのうちの一つ「第3章 女の装い プラス・マイナス」では、下の画像のような女性が身繕いをしている姿やそれを解いた姿をとらえた作品が展示されています。岡本神草が描いた女性のこの表情は全体の優しい色合いと黒髪に引き立てられて、はっとする美しさですね。

岡本神草《梳髪の女》後期

岡本神草《梳髪の女》大正15年(1926年)頃、©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※『美人画ラプソディ・アンコール』展の展示期間後期(10月5日~)出品作品

そこで今回は、「女の装い プラス・マイナス番外編 フランス」として、ヨーロッパの香水瓶において同テーマに該当する作品をご紹介したいと思います。

まず一つ目は、服飾デザイナーのエルザ・スキャパレリが1937年に発表した《ショッキング》です。こちらです👇

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スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

美人画展に合わせたと申しながら、いきなり顔のない人体を登場させて驚かせてしまいますが、どうかお許しください! 目の覚めるように鮮やかなピンク「ショッキング・ピンク」の生みの親であり、「モード界のシュルレアリスト」「奇想天外志願者」とも称されたスキャパレリの香水瓶ですので、一筋縄ではいかないことをご諒承くださいませ。

しかし、顔のない人体とはいえ、肩にはなにやら可愛らしいお花もたくさんついていますし、決して不気味な印象は受けませんよね!? よく見ると、首には巻き尺が掛けられ、首の上には金色のヘッドキャップがついています。そう、こちらは洋装の仕立て用ボディ(トルソー、裁縫用マネキンともいいます)をかたどった香水瓶なのです。肩のお花は、お遊びのように添えられた装飾ですね。言葉通り、エレガントに華を添えています。

この香水瓶は、瓶本体だけでは完結しません。瓶に加えて、あたかも貴重品のように、ガラスのドームで覆う仕様になっています。ドームの縁には、花嫁が頂く伝統的な冠のレース模様が施されています。

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それらを収めるケースも、まるでダイヤのブレスレットあたりが入っていそうなジュエリー・ケースを思わせるデザインです。もちろんこちらにも繊細なレース模様が転写されています。

この香水瓶のデザインを完成させたのは、シュルレアリスムの影響を受けた女性画家レオノール・フィニとガラス工芸作家のピエール・カマンです。夜の闇の中に浮かぶような、フィニの幻想的な絵画に比べると意外なほど、明るく華やいで開放的な印象を受けますが、それはデザインの注文主であるスキャパレリ自身の最初の構想を尊重したものであるからでしょう。

ジュエリーのような高級感とユーモアに満ちたこの香水瓶に入れられたのは、常識を打ち破る香水を誕生させたいというスキャパレリの希望通りに調合された、奇抜かつセンシュアルな独特な香り。当然のことながら、発表当時から、多くの人々をあっと驚かせ、斬新な香りに魅せられる人々が続出し、大成功をおさめました。

さて、ときには顧客を奪いあうほどに、同時代に活躍したシャネルとは長年のライバル関係にあったエルザ・スキャパレリですが、前者が男性的で直線的なシルエットによってミニマリズムを追求したことに対し、後者のスキャパレリは女性的な曲線を多用し、装飾を積極的に用いたという大きな違いがあります。

また、スキャパレリの特徴として特筆すべきなのは、同時代の芸術家たち、とりわけダダイストやシュルレアリストといった前衛芸術家たちと親しく交わり、しばしば彼らとコラボレーションをしながら、ドレスや靴や帽子が、そのまま芸術作品となるようなファッションを提案したことです。つまり、彼女はファッションに芸術を持ち込んだのです。

それは、リンチェイ・アカデミー図書館長を務める東洋学者の父を筆頭に、著名な天文学者やエジプト学者を輩出した学者一族と、ルネサンスの大パトロンであるメディチ家の末裔を母にして、現在はローマの国立古典絵画館となっているコルシーニ宮で生を受けたときから既に運命づけられていたのかもしれません。彼女の家庭環境は、第一級の学問と芸術が常に身近なところにあり、日々の装いとはそれらと分かちがたく結ばれていたのでしょう。

しかも1890年生まれの彼女が青年時代を迎える1900年代から1920年代にかけては、欧米各地で、前衛芸術が生まれた時期に当たります。スキャパレリは、イタリアを出て、結婚、出産、離婚を経験しながら、イギリス、ニューヨーク、パリで暮らすなかで、各地の最新のファッションと芸術家たちと知り合っていきました。なかでもサルヴァドール・ダリとは、その型破りな独創性を持つ個性同士で、気が合ったのでしょう。1935年にパリのヴァンドーム広場に新たなブティックに開店させた年に、同広場に面したホテル・ムーリスに住むダリと知り合うと、彼の絵画やデッサンを基にしたドレスや帽子を次々と作り、長きにわたって協力関係を築きました。例えば、逆さまにしたハイヒールの形の帽子や、前身ごろに引き出し型のポケットを多数つけて、チェストに見立てたジャケットなど、現在も語り草となるような、かつて誰も見たことのなかったデザインを生み出しています。

ところで、マドンナが監督をした映画『ウォリスとエドワード』においても、エドワード8世と結婚しウィンザー公爵夫人となるウォリス・シンプソンが、会食にてスキャパレリのドレスを話題にする場面がありましたが、スキャパレリのドレスは、洗練された上流階級の女性たちの間で人気を博し、とりわけ社交の折には欠かせないものとなっていました。それらに加えてマレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、アルレッティといった名だたる女優たちも、スクリーンの中だけでなく日常着として、スキャパレリの服を纏ったため、映画が全盛の時代において、無数の女性たちの憧れとなっていったのです。

実は、香水瓶《ショッキング》の仕立て用ボディも、スキャパレリの顧客であったアメリカの女優、メイ・ウェストの体型を再現したものと言われています。なんでも、ドレスの寸法のために来店する時間を惜しんだメイ・ウェストが、正確な寸法のボディを送ってよこしたものを模したとのこと。道理で、香水瓶のシルエットがグラマラスなはずですね!

それにしても、この仕立て用ボディからは、これから一体どのようなドレスが生まれるのでしょう? 本作品を見ていると、女性が新たな一着に出合うときの、期待に胸を膨らませた華やいだ気持ちまでも伝わってきます。

女性の美を最も輝かせるのは、ひょっとしたら流行のファッションそのものではなく、このような、一歩先の未来を夢見る、無邪気で明るい心なのかもしれませんね。スキャパレリの遊び心に満ちた香水瓶がもたらす心の作用をひしひしと感じつつ、今一度「美人画ラプソディ・アンコール」の展示作品とじっくりと見比べたいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―、好評開催中です

現在海の見える杜美術館では現在、「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」展を開催しております。

本展は、2020年春に開催した「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」のアンコール展です。昨年は、他館の所蔵品もお借りしての充実した展示だったのですが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため会期のほとんどが休館となりました。今回は、昨年お借りした作品がない代わりに、当館の所蔵品を新たに加えての展示になっています。

 

その新たに加わった作品のひとつが、北野以悦(きたの・いえつ)の作品《舞妓》。

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北野以悦《舞妓》(前期展示)

乱れなく結い上げた髪と白いうなじのコントラストが美しい舞妓の姿です。第四章「少女と美人画」でご紹介しております。

 

描いたのは北野以悦(1902-1971)。北野、という苗字でピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、大阪の美人画の名手・北野恒富の息子にあたる画家です。

幼い頃は北野恒富に絵画の基礎を習い、恒富の塾展・白耀社展にも出品。京都市立絵画専門学校別科を卒業したのち、竹内栖鳳の弟子で京都の画家である西山翠嶂に師事、帝展や新文展を舞台に活躍しました。当館の2018年の西山翠嶂展でも、門人の一人としてこの作品も展示したので、その時にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

こうしたプロフィールから、大阪や京都を中心に活動していた画家だと思っていたのですが、実は、晩年は広島・尾道に住んでいたとのことです。1952年頃、同じ翠嶂門下の画家で親友の川上拙以の紹介で尾道に転居、生口島の耕三寺の仏像などの彩色、寺の門の修復、襖絵や扉絵などを手掛けました。尾道に住居兼アトリエを借り、そこが終の棲家となりました。耕三寺博物館は今でも、《琉歌》(第11回帝展)などをはじめ、以悦の作品や画稿をご所蔵とのことです(「特別展北野以悦・北野恒富・島成園―一族が描く美しき日本画―」展覧会図録、朝日町立ふるさと美術館発行、2017年)。

 

以悦が描いた作品の一点、《舞妓》は前期10月3日(日)までの展示となります。

 

10月5日からはそのほかにも展示の一部が入れ替えとなります。

後期の作品も、後日ご紹介させていただきます。

 

 

森下麻衣子