「日の又」の引札

日の又商店引札 海の見える杜美術館蔵-4

旭日 金雲 金箔散らしを背景に、中央に鼓・扇・そして正月など特別な時に演じられる祝福をもたらす『翁』に使用する肉色尉の面が重なり、面と鼓の間には菊の花が添えられています。右上の重ね色紙には、新年を寿ぐ句が認められ、新春の家を飾るにふさわしい おめでたい引札となっています。

引札の文字情報を下に記します。

右上 重ね色紙:
御代之春 尾上の松を かざりけり 若葉

引札本文:
数百年前の創業にして製作の経験最多し
伏見は材料手間賃安く運搬最も便利
薄利多売
各國産漆器卸小賣
たんす 長持 嫁入道具 製作販賣
伏見大坂町御ひいきのたんすや
日の又

右下隅 引札 落款:
白文方印 弌舟

左端 印刷年月日と印刷所名:
明治四十二年七月十日印刷仝年八月卅日発行
印刷兼發行者
大阪市東区京橋壱丁目廿九番地
平民古島徳次郎

以上の絵の内容と文字情報から、この引札は、大阪伏見のタンス屋「日の又」が、明治42年の年末に、ひいきの顧客に配布したものとわかります。

「日の又」は、現在の 「株式会社 日の又商店 (家具ステージ日の又)」です。同社は室町時代末期の永禄年間(1558-70)に創業し、安土桃山時代には伏見城に漆器調度品を製造納入しお抱えとなって以来 伏見の地で営業をつづけ、現在は当主17代目となり、総合インテリア家具販売店として盛業です。

この引札が配られていたころの「日の又」です。

日の又店舗

明治の終わり13代目当主のころの店舗で、店先は床机を持ち上げると中に収納できるようになっています。店の奥に並んでいる鏡が見えます。

株式会社 日の又商店蔵

こちらは江戸時代初期から日の又に伝来する漆を調合する大きなお椀です。直径90㎝もあります。引札に書かれた「数百年前の創業にして製作の経験最多し」「各國産漆器卸小賣」といった文を裏付ける品です。椀の底には「野の虫も ちからくらぶる 浮世かな」の句に添えてカマキリとバッタと思しき虫が描かれています。

本稿を作成するにあたり、株式会社 日の又商店 代表取締役 日の又 第17代当主の辻貞好様には、本引札が株式会社 日の又商店の物であることをご確認いただくとともに、ここに掲示しました明治時代の店の写真や江戸時代から伝来する漆を調合する椀の写真など貴重な資料をご提供いただきました。謹んで感謝申し上げます。

 

追記
引札右下隅の印章の弌舟は、浅田一舟のことと思われますが、断定するにはもう少し検証が必要です。しかし浅田一舟については浮世絵関係の事典にも、近年の研究書でも生没年等を含めほとんど記述がない(※1)ので、検証するためにはまだ情報が不足しています。

ところで、管見の限り浅田一舟研究に下の参照が見あたらないため、抜粋してここに紹介いたします。

岩本一成「浅田一舟君」
「浅田一舟君は明治5年、大阪市南区大宝寺町に生まれ、師匠は鈴木雷斎と武内桂舟に学んで風俗画家として特技をもっておられた。(中略)私の知っているのは大阪の特産物として相当の生産高を持っていた引札、団扇の意匠図案に長じ、版下に麗妙なる筆致とその彩色に至っては第一人者であった。(中略)
日露戦争後(中略)世間より別途に取り扱われていた挿絵画家といわれし人々、尾竹国一、北野恒富、金森観陽および小生等発起人となり研究団体として春秋会を組織しまして(中略)研究方法の協議、展覧会開催等の目標に毎日(ママ)2・3回集合し、仮装写生会、古実研究、講演会等を催し破壊に建設に活動したものです。これが画壇覚醒の先鋒となり今日の大阪画壇の基礎となったもので、会員30余名を有し第1回展覧会を大阪書籍俱楽部事務所楼上で開きました。島成園君が当時わずか14歳で観山ばりの小野小町を出品したことを覚えております。
門下生に島一水(中略)、その他上田海舟(紫水と改む)等々あり(中略)
大正9年10月18日49歳で没し、墓所は天王寺区椎寺町天瑞寺にあります。」
(※2)

このほかこの絵を描いたのと同じ年の明治42年に出版された『日本書画評価表』(石塚猪男 1909)(※3) では一舟の一幅の掛け軸の価格が20円と評価されています。なお参考までに申しますと、明治40年の公務員の初任給は50円です(※4)。

 

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 山田奈々子 増補改訂『木版口絵総覧』(文生書院 2016)はメジャーではない画家が多数網羅された貴重な書籍なのでたびたび参考にさせていただいているのですが、浅田一舟については「生没年不詳 舟がつく画家は竹内桂舟の弟子と見てよいと思う。」という表記にとどまっている。

※2. 『上方』138号 上方郷土研究会 1942 253頁 (適宜現代仮名遣い、当用漢字に改めた。)

※3. 東京文化財研究所 HOME>明治大正期書画家番付データベース>日本書画評価表_807006 URL :https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807006.html
所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)

※4. 『続・値段の 明治 大正 昭和風俗史』朝日新聞社1981 159頁

青木隆幸

「高橋盛大堂」の引札

「高橋盛大堂」の引札を2点、海の見える杜美術館は所蔵しています。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館

①の引札の上部左右には松と梅が繁っています。松梅(ショウバイ)が盛んに繁る様子は、商売繁盛を表す吉祥性があります。その中央には「専用権特許 高橋盛大堂」と記された兎の商標、その商標の左右には、お得意様を祝賀する言葉「花客万歳」(※1)の文字、その下の赤いリボンには「本舗 大阪堂嶋しゞみ橋南詰 盛大堂高橋卯之輔」と記されています。中央の段、右には盛大堂主人肖像 中央には売り出し中の薬の名前、左には「盛大堂薬剤摸形」として、薬剤の包材と取次所一覧が描かれています。下段には店舗の繁栄の様子とそれを取り囲む花々が描かれています。

引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館

②の引札も①と同じくお客様を祝賀する言葉「華客祝万歳」が上部に大きく記され、中央には薬箱や包材、店の名前と住所が記され、背景に店の繁盛の様子が描かれています。

①・②、いずれも店の製造薬品と繁栄の様子にお客様を祝賀する言葉が添えられ、高橋盛大堂とお客様の互いのより一層の繁栄を祝しています。どうやら年の瀬に高橋盛大堂から顧客の薬店や小売店に配布した引札のようです。

ところで今現在、大阪市西淀川区で営業している盛大堂製薬に確認したところ、盛大堂製薬は高橋盛大堂の流れを汲んでいる会社で、引札に掲載されている商品もかつて製造していたものに間違いないとのことでした。ただ明治時代の詳しい資料は残っていないそうです。

盛大堂製薬の歴史はHPの記載によれば、安政5年(1858)、大阪堂島にて高橋安兵衛により創業。明治8年(1875)、高橋卯之輔に継承。明治16年(1883)、盛大堂の称号を定める。とされています。

これら引札の制作年代について、以下箇条書きで考えてみます。

・製作年代は引札に明記されていないので正確にはわかりません。
・HPのとおり盛大堂の称号が明治16年に定められたとすれば、盛大堂の名が記されたこれらの引札はそれ以降の制作ということになります。
・いずれの引札も高橋盛大堂本店の横には親柱に「しじみばし」と記された橋が描かれ、住所には「しじみ橋南詰」「蜆橋南詰」と表記されていることから、これらは蜆橋があったときの引札と思われます。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館 しじみはし引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館 しじみばし

・蜆橋は、明治42年(1909)のいわゆる「北の大火」のときに瓦礫の廃棄場所として曽根崎川(蜆川)の上流が埋められたときになくなったので、これらの引札が描かれたのは明治42年(1909)より前ということになります。(※2)
・②の引札には応需基春と落款があり、林基春(1858-1903)の作画とわかるので没年の明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・これら2つの引札に描かれた登録商標は兔ですが、明治36年(1903)には犬の顔で商標登録が行われ(※3)、以降の宣伝には犬の顔が登場するようになるので、このことからもいずれも明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・引札には電話番号を記すのが一般的なのですが①には電話番号が記されていません。①は電話加入以前の制作と考えることが妥当で、②は電話加入以降の制作になります。なお、大阪に初めて電話が開設されたのは明治26年(1893)(※4)です。

以上のことから、引札の制作年代について、①は明治16年(1883)に盛大堂の称号を定めた後、電話が引かれた可能性のある明治26年(1893)頃までの間、②は電話をひいた可能性のある明治26年(1893)頃以降、林基春の没する明治36年(1903)までの間としておこうと思います。高橋盛大堂が電話交換に加入した年が判明したら更新します。(※)

※『大阪神戸電話交換加入者名簿』(明治27年2月) 18頁に高橋盛大堂・高橋盛大堂分店の電話番号が記載されていることを確認しました。明治26年の名簿は未確認です。(20210720)

備考として
②には分店が描かれているので、分店の設立時期が分かればもう少し制作年を絞ることができます。②には「人不壮は国家不健」と書かれています。人が弱ければ国も弱くなるということでしょうか。このように国のことが引札に記されるのは戦時中が多いので、日中戦争の明治27年、あるいは 日露戦争への戦意の高まり始めた明治36年ごろに制作された可能性も高まります。また、両引札に描かれた人々のファッションや風俗が近いことから、制作年代が大きく離れない可能性があります。

店に掲げられた看板に記された薬の名前、描かれた都市風俗、そのほか興味は尽きませんが、いずれ詳しい方々の目に触れて引札や産業・社会・風俗の研究が進むことを願ってやみません。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

最後になりましたが、盛大堂製薬様にはご多用の折、本引札をご確認そして当時の資料の捜索などご協力いただき、HPへのリンクもご快諾いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1. 花客(かかく)(「華客」とも書く)お得意の客。顧客 (「日本国語大辞典」 第二版 小学館 2000~2002)

※2. 店主の高橋氏はこの蜆橋にはよほどの愛着があったのか、大正13年に曽根崎川の下流も埋められてしまった後、昭和2年に高橋盛大堂の壁面に蜆橋のレリーフを掲げました。そのレリーフは紆余曲折を経て、今は曽根崎川跡碑のすぐそばにあり、そこには「盛大堂主高橋氏」と名前が刻まれています。なお、その紆余曲折については高木伸夫「「しじみ橋」のレリーフ碑」『大阪春秋』36号(大阪春秋社 1983)100-101頁に詳しい。

※3. 登録商標第19095号 登録明治36年4月2日 ジャパンアーカイブズ 薬店のトレードマーク(高橋盛大堂、現・盛大堂製薬)

※4.  NTT西日本HP 企業情報 データブックNTT西日本 電信電話の歩み 1830~1964年

 

アート魚ッチング展クイズ!

アート魚ッチング展の展覧会場で流れているクイズ動画が、ユーチューブで公開されています。

アート魚ッチング 海の見える杜美術館 – YouTube

その動画の中では歌川広重の伊勢海老(イセエビ)や、大野麥風の鯛(タイ)が動いています。

クイズとあわせてお楽しみください。

うみひこ

うみもり香水瓶コレクション11 ランバン社《球形香水瓶》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回は、シャネルが、ファッションと香水を一体化させた第一人者であることをご紹介しましたが、1921年に彼女が起こした新たな潮流は、その後、一気に大きくなりました。4年後の1925年の通称アール・デコ展では、シャネルのように服飾メゾンから発表されたある香水瓶が称賛されます。それは、デザイナー、ジャンヌ・ランバンが創設したランバン社の《球形香水瓶》です。

こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社《球形香水瓶》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館 LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

シャネルの《No.5》は本体も栓もスクエア型、またルネ・ラリックのウビガン社の香水瓶もスクエア型でしたが、幾何学的な造形を特徴とするアール・デコのデザインでは、本作のような球形の香水瓶も多く作られました。

本作のデザインは、アルマン・ラトーという、フランスの室内装飾家が手がけました。彼の代表作の一つは、この香水瓶とほぼ同時期に完成した、ジャンヌ・ランバンの邸宅の装飾です。現在、その邸宅はパリの装飾美術館に一部が移築され、常設展示室の主要作品となっています。私は、装飾美術館の企画展に行く折には、その展示室にも必ず立ち寄りますが、全体はもとより細部に細かな趣向が凝らされているため、毎回新たな発見があります。ここにその様子がわかる画像をお見せできないのが残念ですが(ご興味のある方は、ぜひパリの装飾美術館ウェブサイトをご覧ください)、まさにフレンチ・アール・デコといった洗練された優雅な室内装飾です。新古典主義様式を再解釈し、漆等を用いた東洋的な要素も加味した高級家具製作を得意としたラトーならではの特徴が詰まった部屋なのです。

翻って私は、ランバン社の球形香水瓶、とりわけ金色に輝く豪華版の香水瓶を見ると、ラトーが室内空間すべてを使って実現した華やかな世界が、手のひらに収まるサイズにギュッと圧縮して提示されているように思えるのです。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社《球形香水瓶》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

しかも、つい両掌に収めたくなるような、ころんとした本体や、マツカサをかたどった栓、そして本体の中央に描かれた、手を取り合う母と子のシルエット(モデルはジャンヌ・ランバンとその娘です)には、単に洗練された豪華さだけではなく、遊び心や、どこか懐かしい、なんとも優しくやわらかな気持ちをも呼び起こされます。

シャネル《No.5》の徹底したミニマリズムと比較すると、同じアール・デコ・デザインながら、その個性の違いが明らかですね。ランバンの香水もまた、シャネル《No.5》同様、フランス国内外で成功をおさめ、その後長きにわたって、メゾンの顔として定番となりました。

ところで、シャネルやジャンヌ・ランバンの活躍は、この時代の社会における大きな変化も伝えてくれるのが面白いところです。彼女たちはファッションと香水を結び付けることに先駆的な役割を担いましたが、それ以前にも、ファッション界に進出した女性として第一人者たちでした。この分野は、彼女たちが登場するまで男性社会だったのです。

20世紀初頭の第一次世界大戦前、彼女たちは勇敢にもファッション界での成功を目指し、着心地の重視等、着る人間の側に立った女性ならではの視点をいかして、ファッション・デザインに新風を吹き込みました。前回、言及したような、ファッションと香水という二つの異分野の融合を思いついたのも、それを享受する女性としての視点がいかされたものではないでしょうか。つまり彼女たちは、ガラスの天井を自らの手で突き破ったのです。

また第一次世界大戦は、彼女たちへの周囲の理解を深める状況を生み出しました。戦時中は多くの男性が前線へと駆り出されたため、銃後の女性たちはその階級差を問わず、男性がしていた多くの仕事を担うようになりました。やがて多大の犠牲を払った大戦が終わると、フランスにおいては人口の男女比は女性が上回るようになります。そのことが結果的には女性が家庭のみではなく、社会でも働くことを後押しする一助となりました。

このように1910年代、20年代はあらゆる分野で女性の社会進出が加速した時代でもあったのです。女性参政権運動が各地で盛んになり、長年のたゆまぬ努力の末に獲得するようになるのもこの頃のことです。

香水瓶に描かれたジャンヌ・ランバンの肖像のように、たとえ子供を得ても仕事を辞めることなく、むしろ母としての細やかな愛情に溢れた視点をいかしてデザインを生み出してゆく――そのような新たな女性像が多くの共感を呼んだことを、ランバン社の《球形香水瓶》は、今に物語ってくれるのです。

 

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇蔵出し:アール・デコの球形香水瓶コレクション◇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

カレージュ社 ケース付き《球形香水瓶》 デザイン:ジュリアン・ヴィアール1929年、黒色ガラス、金、ベークライト、海の見える杜美術館, CAREGE BOULE FLACON WITH ITS CASE, Design by Julien ViardA -1929, Black glass, gold,bakelite, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「織尾堂」の引札

赤地に桜・菊・牡丹・水仙の花が散らされ、それらの花の間に色紙・扇紙が並んでいます。上の色紙には一行書「書画筆墨硯司」の掛け軸・緋毛氈に大福茶・飾り棚、中央の色紙には筆始の寿老人に長寿を寿ぐ句、下の扇紙には 丸に山形に一つ引き紋 の入った風呂敷を背負う人物・年始の挨拶・店の名前「織尾堂」とその住所が記されています。

20210627引札織尾堂

いずれにも正月にまつわる風景が描かれていて、そしてそれぞれの内容はこの引札を配った店に関係していると考えることが出来そうです。上の色紙の掛け軸「書画筆墨硯司」は営業内容、中の色紙では寿老人が店の商品の命毛といわれる筆の穂先を丁寧にさわりながら「命も長し筆始」と詠んで長寿を寿ぎ、下の色紙は年の初めにお得意様を廻り、挨拶を述べている店の主人と思しき男性、その前には一年の愛顧を願う口上文、そして最後にお店の住所・名前が認められています。
この引札は、書画筆墨硯司「織尾堂」(大阪南区難波新地4番丁1番地)が年の瀬に得意先に配布した引札のようです。

「織尾堂」の引札は、早稲田大学図書館にも1点所蔵が確認できます。同図書館のウェブのDBに公開されています(請求記号:文庫10 08020 0039 タイトル:和漢筆墨商)ので是非ご覧ください。その引札には大福茶・筆を担ぐ寿老人、それを見守る恵比寿天・大黒天・布袋尊・弁才天、そして群鶴と蓑亀が描かれていて、当館の引札同様に正月の芽出度さあふれる内容となっています。そして画面中央に寿老人が大書した字は「和漢筆墨商 大阪府南区難波新地四番町壹番地 安田織尾堂」。当館の引札と店の名前は少し違いますが、営業内容も住所も同じなので「織尾堂」=「安田織尾堂」と考えてよいでしょう。

現在「安田織尾堂」という名前で営業しておられる筆関係のお店が1軒ありました。住所は異なりますが、その大阪府堺市にある「株式会社 安田織尾堂」の御主人にお話をお伺いしたところ、「店に関する資料はまったく残っていないので詳しいことはわからないのですが、父の叔父が織尾太夫を名乗った義太夫で、このままでは食べていけないと考えて御堂筋の歌舞伎座の裏で書画筆などを売り始めたと聞いています。」とのことでした。「御堂筋にある歌舞伎座」とは2009年に閉館した新歌舞伎座(大阪市中央区難波四丁目3番25号)のことでしょうから、明治時代の地図の難波新地四番丁壱番地と照合しましたら、その場所はぴったり重なったので、現安田織尾堂の御主人の記憶と相違ないことがわかりました。また、「書画筆などを売り始めた」というご記憶と引札の「書画筆墨硯司」、そして現在の営業内容が同様ということを考え併せますと、引札の「織尾堂」「安田織尾堂」は、現「株式会社 安田織尾堂」の前身と考えてよいと思われます。

「織尾太夫を名乗った義太夫」については、「浄瑠璃大系図」(※1)に竹本綱太夫(6代目)の門弟として「竹本織尾太夫」の名前が記されていました。また、『近代歌舞伎年表京都篇1』(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室1995)には以下の記録があります。

明治5年10月吉日~ 道場芝居 仮名手本忠臣蔵 【太夫】鶴ヶ岡のだん 竹本織尾太夫
明治7年2月吉日~ 南側実伝演劇 八陣守護錠 【太夫】淀城のだん 竹本織尾太夫
明治7年9月中旬~ 和泉式部演劇 伊賀越乗掛合羽 靫負やしきノ段 竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 南側演劇 菅原伝授手習鑑 【太夫】伝授之だん 跡竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 本朝廿四孝 【太夫】義晴館の段 中竹本織尾太夫

以上のように「織尾太夫を名乗った義太夫」が明治8年まで関西で活動していたことが確認できたので、ご主人のお話の通り「織尾堂」は義太夫の「織尾太夫」が始めたお店と考えることは可能ということになります。

早稲田大学図書館の引札(以下早稲田版という)も海の見える杜美術館の引札(以下海杜版という)も制作年代が不明ですが、早稲田版は先に絵だけ大量に印刷し、その図柄を購入した商店が後から商店の名前を印刷する、いわゆる「所判」あるいは「名入れ判」と呼ばれる様式のように見受けられますので、その印刷技法が広まった明治27年以降のものと思われます。海杜版は、絵に明治中期以降の風俗が描かれていませんし、絵のスタイルも明治の前期ごろのものです。そして絵から店名まで一貫してデザインして木版で刷っているので、引札の印刷手法も明治前期頃として差し支えありません。また、口上文には店の繁栄はお得意様のおかげと記されているので、店にある程度のお客様が付き、店オリジナルの引札を配るほどに店が繁盛した後に制作した引札と考えるのが妥当と思われます。ですので、明治8年以降に織尾太夫が引退してのち、店を立ち上げてしばらくたったころから、明治27年頃に「所判」あるいは「名入れ判」が大流行し始めるまでの間、大雑把には明治15-25年頃に制作された引札と推定されます。

海杜版の引札は、太夫では食べていけないと考えた竹本織尾太夫が明治8年以降、南区難波新地4丁目1番地に「書画筆墨硯司」として「織尾堂」の店を構えてしばらくたった、明治15-25年頃の年の瀬に、「織尾堂」がお得意様に配った引札と考えることが出来そうです。

なお、明治45年1月16日に、南区難波新地(現中央区難波四丁目付近)が火元で、東西1.4km、南北400mに及ぶ大火事、いわゆる「南の大火」が発生しました。当時の写真を見てみると完全に焼け野原になっています(※2)。「織尾堂」移転の時期は不詳ですが、店が「南の大火」の火元近くにあって、店舗が完全に消失してしまったことは店舗移転の一つのきっかけになったかもしれません。

海の見える杜美術館では以下の通り「引札」の展覧会を開催しますので、ぜひお越しください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)
※1 音曲叢書 第1編 演芸珍書刊行会編 演芸珍書刊行会 1914-154
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948801

※2 大阪歴史博物館ホーム>展示・イベント>常設展示>常設展示更新>過去年度の展示更新>南の大火と千日前
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/120116.html 参照

青木隆幸

引札 梅の木の前で白扇に染筆する女性

引札 梅枝の前で白扇に染筆する女性 海の見える杜美術館

咲きそめの古梅の枝の前、緋毛氈を敷いた腰掛に座る一人の女性。手には白扇と小筆が1本。女性は顔をあげて少し左を振り向き、見る人の左横すぐに視線が注がれています。

筆文字で認められているのは「皆野 ますや (入り山形に本) 合名会社 矢尾支店 電話 二番 呉服部 三番 雑貨部」

「皆野」は地名。現在の埼玉県秩父郡皆野町あたりのことです。
「ますや」は屋号。
「(入り山形に本)の紋」は、矢尾商店皆野支店の紋
「合名会社 矢尾支店」は、合名会社 矢尾商店の皆野支店の通称と思われます。(※1)

「電話」について、電話番号1番は地域の最有力な公共機関が使用することがほとんどなので、民間の会社がその番号を使用することはほぼないはずです(※2)。開設と同時に2番・3番と最小の電話番号を続けて取得しているということは、これは矢尾支店ではなく矢尾商店の電話番号であり、そして矢尾商店は地域を代表する相当に信頼厚い大商店だったことをものがたっています。(※3)

現在、秩父で「矢尾」と名の付く100年以上の歴史を持つ代表的な商店といえば「矢尾百貨店」が思い浮かびます。はたしてこの引札を配布していた会社なのか念のため問い合わせたところ、懇切丁寧に以下のことを教えてくださいました。

・『ますや』は、矢尾百貨店の創業以来の屋号(現在はこの屋号を使用していない)。

・会社組織としての合名会社矢尾商店の設立は明治43年(1910)、皆野支店(皆野ますや)は明治13年(1880)に埼玉県秩父郡皆野町で開業している。

・山に本のマークが『ますや』の紋で、皆野支店は少しだけ違っていて、山が二つ重なっている。

・引き札に書かれている店名、会社名等から、たしかに皆野矢尾で発行したものかと思われる。

・株式会社皆野矢尾(旧来の矢尾支店)は、株式会社矢尾百貨店に吸収合併されてその後営業を終了したため、現在は存在していない。

・株式会社皆野矢尾の最高齢OBの話では、(この引札の)内容からすると大正時代の終わりくらいに発行した広告チラシではないか、とのこと。

・昔、社内の片付けをしているときに、こういうのを見たことがあるというOBもいた。

・電話番号は、あの当時1番は郵便局だった。

・袖の家紋・菱菊について。家紋が意味することは解らない。矢尾家とは関係ない。

・『矢尾250年史』(発行:矢尾百貨店 矢尾本店 メモリアル秩父 1998)(以下『矢尾250年史』とします)に矢尾百貨店の歴史が詳しく記されている。

・経営については末永國紀氏の著書に詳しい。(『近代近江商人経営試論』有斐閣1997ほか)

 

この引札は、現在の矢尾百貨店が、矢尾商店と名乗っていた大正時代の年の瀬に、感謝の気持ちと新年も変わらず御愛顧いただけるよう願いを込めて、なじみのお客様に向けて配られたもの、と考えることが出来そうです。

矢尾百貨店の歴史を知って見るのと知らないで見るのとでは、この引札の味わい方が変わってくると思いますので、簡単ですが『矢尾250年史』をもとにその歴史をたどってみます。(詳しくはぜひ『矢尾250年史』をご覧ください)

 

●矢尾商店の始まり
寛文3年(1663)、初代・矢尾喜兵衛は、39歳の時に秩父大宮郷の割役・松本宗太郎の祖父にあたる惣左衛門から酒株を借り受けて、酒造業を創業しました。屋号「升谷利兵衛」。「升屋」としたのは、酒造業に必需品の升を冠して事業の永続性を願ったものだそうです。(同書28頁)

これが引札に変体仮名で記されている屋号「満春也」(ますや)の始まりです。

創業初期の『永代帳』(売掛帳)からは、日用品雑貨荒物、綿・麻織物の太物、米塩などの生活必需品も商っていたことが推測されます。(同書41頁)

創業期からいろいろな商品を扱っていたようです。

●明治大正期、会社の礎を築いた5代・矢尾喜兵衛
5代喜兵衛は、嘉永2年(1849)、4代の長男として生まれ、8歳の時に両親を失いました。(同書89頁) 文久2年(1862)、13歳の時初出店し、以降、叔父・治兵衛の庇護のもとに経営に専念しますが、明治3年(1870)に叔父・治兵衛を失い、弱冠21歳で明治の動乱期に商いを継続することになりました。(同書91頁)

5代・喜兵衛の次男・利兵衛は、父親の人となりについて『矢尾家略歴』で次のように語っています。

「一、我が家父は祖父、曾祖父の遺徳により御性質至って倹素質朴にして毫も華美浮薄の状なく、自ら奉ずること至って薄く、家居、衣服等お構いなく、辺幅を飾らざる弊履のごとし。平素酒は嗜み給えども肴は有合せのものにて御不足なく殊に白豆腐は御好物にて常にこれにて一盞を傾け給う。何事も頓着なく闊達にして、一杯を過し給えば興に乗じ呵々大笑いす、これを聞いて思わず衆またこれに和す。心に何の嫌憚する事なくいわゆる玲瓏玉の如し。然りといえども若年の頃より一身に家政および秩父出店ご苦労下され御苦労下されしことは実に筆紙の尽す処にあらず。御一新より明治20年までのところ困難最も著し。一歩を過れば奈落に沈淪し破産の悲運に陥ることならん。然るを隠忍持久、苦心惨憺よくその境を脱し開運の途に赴かせ給うこと、その功績の広大なる、我ら兄弟深く感銘して忘るべからざるなり。」と記されています。(同書91-92頁)

5代喜兵衛は、贅沢せず飲食も質素で倹約に努め、振る舞いは明るく周囲の人たちを和ませました。明治20年頃までは一歩違えば奈落の底に落ちるような厳しい環境でしたが、苦心して会社を見事に軌道に乗せ、大正4年(1915)に引退しました。

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5代・喜兵衛と職人たち

●矢尾商店「皆野」店の始まり
この引札に記された「皆野」店は、5代・喜兵衛の時、明治13年(1880)6月に秩父郡皆野村で屋号「(入り山形に本)升屋喜兵衛」として開店(※4)しました。また5代・喜兵衛は明治20年代、10以上あった支店をこの皆野店のみ残してすべて整理し、その力を本店に結集しました。(同書98頁)

●矢尾商店の事業内容
明治12年9月20日付で大宮郷戸長役場に届け出た「営業商品御届」の記載によれば、取扱商品は以下のとおりです。

「一、絹毛 木綿 麻 織物商 洋物商 卸売 洋糸 金物 鋳物商兼
諸紙商 筆墨硯 諸薬 質屋商 古着屋商 古金物 農具商 諸油商 提灯具商 元結 合羽商 砥石 和糸商 香水 鰹節 乾物 茶商 索麺 諸海苔 諸麩商 粉類 刷毛 袋物 鼻緒 風紐 諸膏薬 肥物商 荒物商 紐類 小*(列の下に巾)商 莫大商 綿真綿 足袋 畳表 莞莚 笠傘 生麻 草履草鞋 線香 燈心 火口附木 硫黄 蝋燭 扇団 明礬 染草 砂糖 塩商 鉄物商 葬具 穀物商 杓子柄杓商 股引脚半商 馬具 石炭油 炭 繭 生糸」(同書102頁)

矢尾商店で取り扱っていない商品を探す方が大変そうです。

明治期の矢尾商店の売上高は次のようになっています。
明治10年 12,887円
明治20年 47,910円
明治30年 155,141円
明治40年 318,807円
明治45年 463,778円
売上高がすごい勢いで伸びています。(同書103-104頁)

●「合名会社」のはじまり
明治43年12月12日付で、合名会社矢尾商店の設立登記が行われています。
同書113頁の「合名会社矢尾商店設立登記申請書」の写真を見ると、以下のことが記されています。

登記事項
商号 合名会社矢尾商店
本店 埼玉県秩父郡大宮町大字大宮百番地
支店 仝県仝郡皆野村参百0五番地(番地の「五」は難読のため未確定)

引札に記された「矢尾支店」という名前は登記されていないので、この名前はおそらく支店の通称として使用していたのではないでしょうか。

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明治末期の在店者と合名会社披露

●矢尾商店の地域貢献
同書に記された大正年間の寄付(112頁)を見てみると、以下のとおりです。

大正7年   8月 上町窮民救済基金寄付として金500円
大正7年 11月 埼玉県救済基金寄付として金1,000円(但し3年分納)
大正10年   6月 秩父町水道建設の寄付として17,500円(但し10ヵ年年賦納入)
大正12年 9月 関東大震災関連 2,000円
同関連 上町割り当て220円のうち150円
同関連 支配人以下店員57名より127円と古着類など500余点

寄付は昔から常々行われてきたとも記されています。
このような活動も、地域の信頼につながっていたと思われます。

●秩父事件と矢尾商店
明治10年代のデフレ政策は産業界に深刻な影響をもたらし、養蚕業に依存していた秩父地方の農民の生活は困窮。人々は高利貸し業者に負債の延期を求めましたが聞き入れられず、明治17年11月1日、ついに秩父地方一帯に暴動がおこりました。
いわゆる秩父事件ですが、このとき矢尾商店は暴動に巻き込まれませんでした。

『秩父暴動事件概略』によれば

「11月2日(略)午前12時前、小鹿坂峠寺院の梵鐘を乱打し、鯨波の声をあげ凶徒潮のごとく市中に乱入す。(略)やがて大宮郷字近戸平民柴岡熊吉、横瀬村字苅米平民千島周作の両名太刀を佩き、自由党の資格をもって本店に来り、(略)高利貸のごとき不正の行をなす者の家にあらざれば破却或は焼棄などのことは決していたさず、又高利貸の家を焼たりともその隣家に対しいささかも損害を与えぬゆえ各々安堵されたし、(略)右の次第なれば当御店にても安心して平日のごとく見世を張り、商いを十分になされたし、と鄭重の詞をもって申し来る。」(同書126-128頁)

とあります。矢尾商店はには危害を加えないので安心して店を開けなさいと、事件の首謀者が丁重に申し入れたことが記録されています。

これは矢尾商店が自分の利益だけを追求せず、社会とともに発展を目指す理念による経営を怠らなかったからこその結果なのでしょう。

●大正時代、事業のさらなる拡大
大正8年12月16日より会計の正確を期す目的で、ナショナル金銭登録機の使用を開始しました。アメリカの貿易会社より1台1425円で購入したもので、売上高の伸長に応じた体制が整えられていきました。(同書134頁)
大正9年2月には資本金を倍額の52万円へと増資を図りました。(同書132頁)
大正12年、埼玉県で初めての三階建て鉄筋コンクリートの店舗と二階建て店舗の2棟を完成し、土蔵造りの旧店舗時代が終わりました。東京丸の内に丸ビルが完成した同じ年でした。(同書137頁)

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埼玉県下初の鉄筋コンクリート3階建て店舗完成 大正12年

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明治後期頃の土蔵の店舗

なお、皆野店は昭和3年にコンクリート造りの店舗となっています。(同書巻頭写真頁より)

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明治末期頃の土蔵の店舗と昭和3年鉄筋コンクリート造り店舗完成

●近江商人
矢尾の出自は近江です。近江商人の商法を支える理念に「三方よし」「正直・信用」「しまつ」などあげられますが、矢尾は「積善積徳」「陰徳善事」といった信念を代々守り、商いと同時に社会貢献にも取り組んできました。「近江商人の商法と理念」(AKINDO委員会発行)で次のように紹介されています。

「近江商人は遠く他国へ旅して商売をしましたが、その土地で排斥されずに受け入れられむしろ歓迎されました。明治17年の秩父事件の騒動のさなか、同地最大の商家に発展していた矢尾喜兵衛家出店は、焼き討ちをまぬがれ、逆に秩父国民党から開店をすすめられました。それは、『三方よし』の考え方に立って展開した商売が、地元の人々に理解され評価された結果にほかなりません」(同書283-284頁)

矢尾商店は、矢尾百貨店となった現在も「売り手よし・買い手よし・世間よし「三方よし」の精神で、お客様と共に繫栄を目指します。」と、昔から引き継がれる理念をホームページほか随所に掲げて商売を続けておられます。

 

長くなりましたが以上で矢尾商店の紹介を終わります。

さあもう一度引札を見て見ましょう。この凛とした美しい女性の姿から、矢尾商店の近江商人としての自負と品格、そして地域の皆さんと共に繁栄していくのだという覚悟が伝わってきそうではありませんか。この女性は白扇にどのような言葉を認めるのでしょうか。

引札 梅枝の前で白扇に染筆する女性 海の見える杜美術館

最後になりましたが、本引札調査にあたり、株式会社矢尾百貨店様そして関係の皆様に、懇切丁寧なご教示、また、資料のご提供、掲載許可をいただきました。厚く御礼申し上げます。

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海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※5)。

 

※1 合名会社矢尾商店設立登記申請書の登記事項には本店と支店が記されているが、商号は「合名会社矢尾商店」のみであり、「合名会社 矢尾支店」という名はない。(『矢尾二五〇年史』編纂委員会 『矢尾250年史』 発行:矢尾百貨店 矢尾本店 メモリアル秩父 1998 113頁 「合名会社矢尾商店設立登記申請書」の画像より)

※2 この矢尾支店の流れを汲む株式会社皆野矢尾の最高齢OBのお話では、電話番号は、あの当時は1番が郵便局だったとのこと。

※3 当時の電話番号簿を確認することができなかったので、断定はできない。

※4 本店の紋は(山形に本)

※5
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

 

青木隆幸

展覧会ブログ① 大野麥風の『大日本魚類画集』

海の見える杜美術館では、5月29日(土)から8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」展を開催しています(会期中展示替あり)。

 

この展覧会は、海の見える杜美術館が所蔵する、水の生き物を題材にした江戸時代から昭和時代までの絵画を展示し、美術の中で描かれてきた水の生き物を紹介する展覧会です。

 

今回の出品作品の中で目玉の一つは、展覧会の最後に紹介する『大日本魚類画集』です。

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」 第1輯第1回 昭和12年(1937)8月

海中を悠々と泳ぐ3匹の鯛が、色鮮やかに活き活きと表現されています。まるで筆で描かれたようなこの作品、実は版画です。

 

この『大日本魚類画集』は、昭和12年(1937)~昭和19年(1944)にかけて全6輯(しゅう)72点が制作・出版された魚の版画集です。原画を担当したのは、「魚の画家」といわれた大野麥風で、彫師・摺師も当時一級の腕を持った人物が携わりました。

大野麥風『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説

『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説表紙

 

また、魚の版画以外にも「近代魚類分類学の父」と言われた東京帝国大学教授・田中茂穂と著名な釣り研究家・上田尚による魚の解説が付属していました。

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」 第3輯第9回 昭和15年(1940)5月頃

 

この魚類画集は、「本邦初の魚類生態画」という謳い文句の通り、魚たちの泳ぐ姿やその生活環境までも丁寧に描写した作品です。麥風は、泳ぐ魚の姿を見るために、戦前はまだ珍しかった水族館に足を運びました。また、より正確な魚の色彩と生活環境を知るために潜水艦に乗り込み、実際に海の中を泳いでいる姿を観察したそうです。そのような熱意と努力のもとにうまれた本作は、まさしく「本邦初の魚類生態画」の名にふさわしいものとなっています。

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」 第3輯第5回 昭和15年(1940)1月

 

こちらは可愛らしい「フグ」。本展のため製作したブックレットの表紙にもなっている作品です。

 

色彩のグラデーションも細かく丁寧につけられています。また、色の濃淡によって手前にいるフグと奥にいるフグを区別しています。

本物の魚に近い色鮮やかさや緻密さを実現するために、何度も摺りを重ね、麥風本人も彫師や摺師に対する注文を摺り見本に細かく書いたそうです。

実際に会場で目にすると、その色鮮やかさや緻密さがより伝わってきます。

 

今回の展覧会では、全6輯72点の内、当館で所蔵する1~4輯までの47点(3輯の1点欠)を紹介しています。当館で本作をま とめて公開する機会は、今回が初めてです。魚類をテーマにした版画の傑作、『大日本魚類画集』の魅力を味わっていただければと思います。

 

大内直輝

 

引札 日の出と菊花を背景に立つ男女

2017-002-37 合名会社 清見屋商店

日の出と菊花を背景に一組の男女が肩を寄せ合って立っています。

日の出は、新年があかるく希望に満ちた年であることを示し、菊は延命長寿、無病息災を願う吉祥の花です。

右側の男性は宮内官(奏任官)の大礼服(※1)を着用しています。奏任官は「明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官」(※2)です。奏任官は官僚としての出世コースのひとつでもありました(※3)。この絵は出世を寿(ことほ)ぐものでもあるのでしょう。

引札  合名会社 清見屋商店 版元名 海の見える杜美術館

絵の左の余白に小さく「明治四十一年七月十日印刷仝年八月卅日発行印刷兼発行者大阪市東区備後町三丁目廿七番屋敷平民古島竹次郎」と書かれています。

これは引札の、印刷日・発行日・印刷兼発行者を表しています。古島竹次郎(古島印刷所)が明治41年7月10日に印刷し、同年8月30日に発行したものです(※4)。そして絵の左側に太々と「常州行方郡潮来町 合名会社 清見屋商店」と書かれているので、この引札は「清見屋商店」が明治41年の暮れに、お得意様に配って回った引札であることがわかります。「明治42年もまた清見屋商店をよろしくお願いします。」という挨拶の品でもあります。

引札には詳しい住所も事業内容が書かれていないので、「清見屋商店」がどこの何の店なのかわかりませんが、管見の限り明治時代から現在まで続く「清見屋」と呼ばれる老舗が潮来に2軒ありましたので、もしかしたら、こちらのお店の引札かもしれません。

1軒目は「清見屋洋品店」。明治時代から続くお店で、昔は呉服・自転車の部品・雑貨類を扱っていたようです。しかし当時の資料がないのでこの引札を配ったお店なのかはわかりません(※5)。
「自転車の部品」について少し補足しておきます。自転車は当初は輸入車が主流でした。高価な乗り物で、明治42年はイギリス製が120~200円、国産は50~150円で販売されていました(※6)。当時の巡査の初任給が約12円(※6)なので、1台の自転車の価格は巡査の年収にあたります。学費に例えるなら、早稲田大学・慶応大学の年間の学費が50円以下ですから、大学の学費およそ4年分(※7)に相当する価格です。自転車は今では考えられないほどの高級品でした。

もう1件は「株式会社セイミヤ」。明治20年創業。当初は半農半商で、商いは漬物商として冷蔵庫がない時代に保存のきく塩をしっかりした漬物を手広く販売していました。まだ盆暮れ集金の掛け売りが大勢の頃に、比較的早く現金掛け値なしの商売を始めた大店だったようです。スーパーマーケットとして事業拡大したのは戦後のこと。昔の資料がないのでこの引札が「株式会社セイミヤ」のものとは断定できませんでした(※9)。

この引札が、どこの店で配布されたものなのか、未だ見当つきませんが、少なくとも、清見屋洋品店様・株式会社セイミヤ様(順序不同)が100年以上もの昔から現在まで、地域を代表する企業としてご活躍しておられることがわかりました。

やはり引札は歴史に思いをはせることができる興味深いものです。

最後になりましたが、清見屋洋品店 元店主 須田素行様、株式会社セイミヤ 代表取締役社長 加藤勝正様(順序不同)には、ご多用のなか、会社の歴史について丁寧にご教示いただき、また、情報の掲載を快くご諒解いただきました。厚く御礼申し上げます。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※10)。

ところで余談ですが、住所と社名の読みについて。
常州(常陸国 ひたちのくに)
行方郡(なめかたぐん)
潮来町(いたこまち)
清見屋(せいみや)
どうしてこのような読み方なのでしょうか。筆者にとってはいずれも一筋縄ではいかない読みばかりでした。

※1男性の服装は、風俗博物館のHPで日本服飾史の資料として挙げられている奏任文官大礼服と同じデザインです。ただ、そこでは帽子の飾毛は黒となっているので、この引札の男性が左手に持つ帽子の白い飾毛と色が合いません。しかし、杉野学園衣装博物館所蔵の大礼帽の解説には「明治時代 宮内官(奏任)大礼服に付属する帽子。山形で、駝鳥の羽根がたっぷりと付けられている。」として、白い羽がついている帽子が紹介されています。

※2 「日本国語大辞典」(縮刷版)第6巻 小学館 1982第1版第10刷 「奏任官」の項

※3 「東京帝大を卒業して奏任官になった者の割合の年次変化を見ると、1893-97(明治26-明治30)年にはほぼ全員であった」 E.H.キンモス『立身出世の社会史: サムライからサラリーマンへ』玉川大学出版部 1995 206頁

※4 ただしこれらの情報は絵の印刷に関するものであって、商店名の文字の部分の印刷についてはわかりません。全国各地の引札販売業者は9-10月頃、引札見本帳(商店の名前が印刷されていない絵だけの状態の引札が綴じられたもの)をもってまわり、新年に配る引札の注文を各商店から取ってきます。そして商店が指定した図柄の必要数を元売りの大きな印刷所から仕入れて、商店名はあとから地元の印刷所で印刷することもあったからです。

※5 清見屋洋品店(茨城県潮来市潮来922-1)元店主 須田素行氏にご教示賜りました。

※6 『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 1981 「自転車」の項

※7 同「巡査の初任給」の項

※8 同「大学授業料」の項

※9 株式会社セイミヤ(茨城県潮来市潮来617)代表取締役社長 加藤勝正氏よりご教示賜りました。

※10
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

引札 門松の前をあるく母と子

引札は、江戸時代(1603-1868)から始まる、いわゆる広告のチラシです。

明治時代(1868-1912)から大正時代(1912-1926)のころは、新年を寿(ことほ)ぐ絵を描いた引札が、年末に大量に配られていました。

2016-010-21呉服店(縮小) 海の見える杜美術館

門松の前、晴れ着を着た親子連れが歩いています。そのにこやかな表情や子供たちの元気あふれるしぐさから、新年の高揚した気分が伝わってきます。

画面左上は、反物を巻くように画面が巻き下げられて、そこには繁盛している商店の様子が描かれています。

扇久呉服店 商店の繁栄 海の見える杜美術館

商店の看板には「勉強」の文字が見えるので、「お安うしまっせ」とか、「お、ねだん以上。」とか、いくつかの某有名店のキャッチフレーズが聞こえてきそうです。お得感満載の商店なのでしょう。すると手前を歩く女性が手にしているのはその商店で買った商品、そして子供が手にする風船は、そこでもらった景品なのかもしれません。

扇久呉服店 風船 海の見える杜美術館

この引札はいつごろ配られたものなのでしょうか。印刷の技法など勘案するに、おそらく明治末から大正初めの頃ではないかと、筆者は今のところ考えています。子供が持っている浮いた風船が時代に則しているか気になったのですが、岩手県立美術館所蔵の萬鐵五郎《風船をもつ女》1912~13(明治45~大正2)年に描かれた風船もしっかり浮いているので、とりあえず明治末から大正初めと考えても問題なしとして、この引札の正確な制作年代の特定は別の機会に譲りたいと思います。なおこの絵の作者は広瀬楓斎(春孝)。数多くの引札を手掛けている人気の作家です。

引札に書かれた文字は「呉服太物祝儀小袖商 並ニ 毛布洋傘るい 能登川 (山久印)扇久呉服店」。つまり、呉服ほかの織物から毛布・傘まで生活用品を手広く扱う、「扇久呉服店」の新年のあいさつのチラシということがわかります。

「能登川」というのは滋賀県にある店の所在をあらわしていますが、明治時代のはじめに伊庭村から分立した能登川村のことではありません。1889年(明治22年)に「能登川駅」が能登川村から約1km離れた五峰村と八幡村の境にできて後に、能登川村から離れていた駅周辺を指すようになった通称の「能登川」です(※1)。なお「扇久呉服店」の当時の行政区画上の住所は八幡村です。

「扇久呉服店」は5代目出路久右衛門が1897(明治30)年に「扇久呉服店」または「扇屋呉服店」として創業しました。昭和34年7代目の時に「有限会社 扇久」となり、平成26年に現当主、出路敏秀氏が8代目出路久右衛門を襲名され、今年創業124年を迎えています。(※2)

創業時の店の名前はまだ特定できていないのですが、明治45年の能登川列車時間表に記された名前は「(山久印) 扇屋呉服店」です(※3)。また、刊行年不明の双六には「(山久印) 扇屋呉服店 能登川 電話二番」と記されています。「扇屋呉服店」の時代に電話番号があったのなら、電話番号が記されていない「扇久呉服店」の引札は、「扇屋呉服店」の前の時代、つまり明治45年より前なのかなあ、と思ったりしますが、まだまだ詳細な検討が必要なので、年代特定はやはり別の機会にします。

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能登川駅前商店 商売繫栄双六

ところで、「能登川駅前商店 商売繫栄双六」の写真(※4)を見ると、「出し」が谷川新聞舗、そのあと1~34番までの各コマに料理屋・写真館・タクシー会社など店舗の紹介があり、そして中央に大きなコマで「上り」が扇屋呉服店になっています。能登川周辺の地は近江商人発祥の地のひとつであり、近代は紡績で栄えていたことが知られていますが、この双六からは、能登川駅前商店の繁栄ぶりがうかがえ、その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だのだろうと想像されます。その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だったのだろうと想像されます。また電話番号が2番というのもその推測を補強します。当時は電話番号1番は行政・電話局・郵便局など公的機関が優先的に使用しているようですからとることは困難です。電話番号2番ということは、民間の1番。この地域で特別な商店であったのではないでしょうか。

引札には歴史を読み解くヒントがちりばめられています。
当時の歴史に思いをはせていただけましたら幸いです。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※5)。

 

最後になりましたが、扇久社長 出路敏秀氏には、ご多用のなか「扇久呉服店」について丁寧にご教示いただき、また、資料の掲載を快くご諒解いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1 駅の名前がなぜ村の名前と一致しないのかなどの経緯は、東近江市能登川博物館からウェブで公開されている「ふるさと百科 能登川てんこもり」の「人とひと」の参照。

※2 「扇久呉服店」に関する資料の存在が確認できなかったため、8代目当主の出路敏秀氏がまとめてくださいました。貴重な資料なので記録として掲載いたします。

有限会社 扇久 〒521-1221 滋賀県東近江市垣見町1318

1897 明治30年     5代目出路久右衛門 襲名 現地にて呉服店創業 26歳
1936 昭和11年10月19日 6代目出路久右衛門 襲名
1959 昭和34年8月8日  7代目 出路 弘     有限会社 扇久 設立 社長就任
1987 昭和62年3月1日  8代目 出路 敏秀    有限会社 扇久 社長就任
2014 平成26年12月14日 8代目 出路久右衛門 襲名
2021 令和3年5月現在              社長 出路 敏秀 78歳

※3 東近江市文化スポーツ部 歴史文化振興課 『東近江市史 能登川の歴史』ダイジェスト版 88頁。

※4 出路敏秀氏提供。

※5
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸